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この10年間を振り返って〜人というフシギ〜

 緘黙になったのが2008年くらいだったので、来年で10年になる。今年の10月くらいに喋れるようになったので、まぁだいたい9年かそのくらいはほとんどまともに人と喋っていなかったことになる。そんなわけで、この10年を振り返ろうかな、と思ったけれど、そんなことよりも、ここからの10年について文章にしておこうかな、と思う。少々長くなるかもしれない。  人はいつだって楽しくありたいと思うはず。いつ命が尽きるともしれず、そして人は必ずいつか死ぬ。いつかのために今を苦しむという考えもあるのかもしれないし、そうしないと、いつかの楽しみを得ることができないということもあるのかもしれない。黙って耐える時間というのも必要なのかもしれない。  でも、そんな耐える日々の中にも、なにか楽しみがあった方がいいと、私は思う。私はこの9年間いろんな気持ちになったけれど、それが楽しい日々への布石だと思ったことは一度もないし、できたら苦しい気持ちにはならないほうがいいと思ってる。ずーっと楽しい気持ちでいたほうが健やかだし、そっちを目指すべきなんじゃないか。苦しい思いをするべきじゃない、って言いたいんじゃなくて、そういう中にもちょっとした楽しみを見出せたほうが、人生は豊かだってこと。歯を食いしばってるだけが人生ではない。何かに楽しみを少しでも見出せていないと人生はとてもつまらないものになってしまう。  それは苦しみだけではなくて、怒りに身を任せたり、怒りに囚われてしまうこともそう。そういう時間は、なるべく少ないほうがいいと思う。ふっと息を漏らす時間、楽しみに興じることができないのは、本当につまらない。  楽しい時間を過ごすためにも分かち合う仲間とか友達とか、そういう人が人生にいるってことは、かけがえのないことだ。そういう人がいないってのは、本当に貧相な人生だと思う。  ここ数ヶ月で、「笑う」ってことが、どんなに大事なのか、本当に見に染み入るようになった。この9年間の間に、笑うことができなかったこともあったけれど、それでも、なんとか生きてこれたのは、笑っている自分を想像できたからだと思う。  ラジオを聴いたり、いろんなことして笑おうしてきたけど、本当に笑っているのは喋れるようになってからのこの数ヶ月だったと思う。人と会って喋るってことが、どれだけ自分を和ませたか、どれだけ自分に誇りを持たせるこ

一人

一人で生きていても楽しくはないだろう。 誰も信じることができないなんて、つらすぎる。 よすがにする人がないなんて、悲しすぎる。 誰にも相談することなく、正しさに到着することはない。 自分が正しいと思った瞬間に、何かが瓦解する。 人の担保なしに、正しさは保たれ得ない。 独りよがりでは、思考は停滞する。 自分の考えの癖を超えることはできない。 人がいるから、その言葉や行動を正すことができる。 人は一人で生きていくことはできない。少なくとも健やかにはいられない。

改・トラウマについての一考察

 トラウマが次の行動に影響を与えるだろうということ。未来の行動を躊躇させるということ。そうやって制限されているであろう人をたくさん見てきた。それがなにによるのかも、なんとなく察しがつくこともあった。そういうことをなるべくなら乗り越えられたらいいのにと思ってた。障害なく暮らせた方がいいって思う。  人はなにかしら背負ってる。生まれたばかりの赤子だって背負ってる。大人になればなおのこと。成長していくに従って周りとの関係によってその人は作られていく。それがどういうものになるのかは、誰にもコントロールできない。  トラウマが瓦解するとき「腑に落ちる」という表現が一番ピンとくる気がする。私に危害を加えてきた人はこういう感情や理屈を持っていたから、こういう行動をしてきたのだと思える。そのこと自体は許せなくても、なんでそうしたのかを知ることができたなら、自分を納得させることができるかもしれない。諦めもつくかもしれない。そこになんらかの感情や筋の通った理屈があれば、だけど。そんなものなく、心的外傷をもたらされることだって時には、ある。  縁は不思議。それがそこにあることに何か意味があるのかもしれないし、ないのかもしれない。わからない。  なにかを受け取ったときに、どう振る舞うのか。幸も不幸も、必然も偶然も。僕はことによっては取り乱すだろうし、うろたえるだろうし、憔悴してしまうかもしれない。あるいは受け入れるのだろう。もしかしたら何かを失ったまま、人生を過ごすのかもしれない。  なるべく自分の近しい人が自分の人生を生きることができたらいいって思う。未来の行動に影響を及ぼす全てのことをコントロールすることはできない。でも、ちょっとだけ良くすることはできるかもしれない。自分をどう思うのかってこと。自分を憐れみすぎるのもよくない。かといって過剰な自尊心も毒である。  自分を自分で縛ってる。自分への憐れみも自尊心も。制御することで自分を守ろうとする。自縛を解くことができれば、少しは自由になる。許せなくてもいい、納得できたなら。  そのために、想像力を働かせることだ。状況と感情を把握することだ。その時なにが起きていたのだろう。すべては想像力による。今すぐじゃなくていい。時がきたら想いを馳せてほしい。腑に落ちる時がくるかもしれない。  どうか、いい人生を。

トラウマについての一考察

 無理なことは無理である。どんな人にも多かれ少なかれ、トラウマってあるんじゃないか。それが人生を左右するほどのこともあれば、大したことでもなく自分でも気がついていないということもあるかもしれない。心の傷は、外からは見えず他人からはほとんどわからない。普通にしている人にだってなにかしらあるものだ。そういうものがあって傷ついているから人は魅力的に見えるのかもしれない。少なくとも無傷を装っている人には僕は心を開かないと思う。  僕だって傷つくことはあったし、失敗だってたくさんあった。それがどう心理に影響しているかなんて、わからない。でもきっと小さな影響はあるだろうし、ひょっとしたら目に見える形で現れているのかもしれない。その因果関係がわかることもあれば──つまり人生を左右するほどのこと、と言えるかもしれない──目にほとんど見えないこともあるのだろう。  僕は精神科医でもないし、詳しいわけでもない。心的外傷について僕はほとんどなにも知らない。  ただそれが次の行動に影響を与えるだろうということはわかる。未来の行動を躊躇させるということは、わかる。そうやって制限されているであろう人をたくさん見てきた。それがなにによるのかも、なんとなく察しがつくこともあった。そういうことをなるべくなら乗り越えられたらいいのにと思ってた。平気で暮らせた方がいいと思う。  人はなにかしら背負ってる。生まれたばかりの赤子だって背負っている。大人になればなおのこと。成長していくに従って、周りとの関係によってその人は作られていく。それがどういうものになるのかは、誰にもコントロールできないと思う。臭いものに蓋をすることでさえも、コントロールなのだ。そういうトラウマだってあるのだろう。  トラウマを乗り越えるとき、そのことがへっちゃらになっている。たぶん、大丈夫だろうと、恐るおそるそれを超えていく。時がそれを解決するかもしれないし、理屈なのかもしれない。いろんなトラウマがあるから、一概には言えない。何か、腑に落ちる瞬間があるのだろう。人の行動を見て変わることもあれば、勇気付けられたり、ある日なんでもないや、と思うのかもしれない。大げさに考えすぎていた、とか、けっこう自分の気の持ちようによっても大きく変わるのではないか。考え方次第で、自分を縛っている鎖は外れたりする。  何度も書くが私は専門家では

言葉の扱い

 自分が間違っていること「だけ」わかっている。なにが間違っているのかはわからない。知ろうと足掻いてもいない。知りたくないのかもしれない。やはり自分の弱さみたいなものを直視するのが怖いのだろう。できないという自分を受け入れられないのだろう。間違っていると知りながら、間違った道を間違ったやり方で行こうとしている。  今まで、うまくいったこともあれば、そうでないこともある。ということはどういう時にうまくいって、あるいはうまくいかないか、わかっていないということだ。運にまかせているだけだし、ほとんど当てずっぽうと言っていい。なるようになるさと思っていて、一歩先になにがあるかなんて、考えていないのだ。  きっと、うまく行く方法があってそれを学んでいけるはずなのに、そうはしていない。自分の思考の癖みたいなものがあるはずなのに、それをコントロールできないというか、折伏できていない。  「間違っている」というのはいまの状況ではなくて、考え方や振る舞いのことだ。つまり、根源的なことである。  自分に対して考えているフリをしてしまっている。実際にしていることは言葉をこねくり回しているだけだ。考えたのならそれをもとに有効に行動しなければならないが、そうしようという素振りはない。言葉を並べただけでは考えたことにはならない。(自分なりに)考える(フリをする)ことに快感をすら覚えてしまってる。何かしている気になっているのだろう。でも実際にしている行動は大したことではない。  考える出発点の着想から始まって、一度も予想を外れない。どこかの誰かが言いそうな経路をたどって、誰もが思いつくような結論に達する。オリジナリティのことを言いたいのではないし、ほかの人も言っているから正しいとも限らない。  言葉を運用するのに最低限まもらなければならないことを守っていないように思う。その言葉はどこから来て、どこへ行くのか。自分が考えるということはそこにどう活かされているのか。自分がそれを発する意義はなんなのか。  私が間違っているところの一つはそういった言葉の運用に関する掟なのではないか。考えるということは、言葉を使う。その言葉の扱いを誤れば、思考も誤る。よって行動も誤る。  言葉に対する言葉が見つからない。どう考えたらいいのかもわからない。どう行動したらいいのかもわからない。自分がどこまでどう

惑い人

 年末年始の浮かれた雰囲気が苦手だ。このいまの日本の世界中からの観光バブルも苦手だ。この浮き足立っている感じ、いつまで続くんだろう。ペースを乱されるような足並みなんてないのだけど、何かが乱されているように感じてしまう。自分のことくらいは地に足をつけて自分自身を見失わないようにしたい。というかとっくにわたしは自分を見失っているわけだけど、自分を固定するのを邪魔しないで欲しい、という感じ。この地に足のついていない感じ、いつも惑わされている。こういうときにはいつだってわたしは外に出ないし、家でじっとしている。パーっとお金使おうという感じ、セックスするという感じ、そういう浮かれ具合が嫌なんだ。使うなら、使うべく使いたいし、するならするべくしたい。何かに流されて使ったり、することについて僕は違和感を感じてる。 ***  本物になりたい。とつぶやいたところで、そうなれるわけではない。たぶん僕は偽物で、どうしようもなく偽物で、本物にはなりそうもない。コピーですらなく、ただ紛い物である。いつだって誰にでもできそうなことをしているというだけで、読んだ人は自分に立って書けそうだ、という文章しか書いていない。だから、人の心をつかむことはない。そうするつもりはないというのはただの逃げで、本当はそうしたいはずなのにそうするように鍛錬していない。逃げてるんだ。そうしているうちは本物になんてなれないだろう。考え方からして間違っている。本物とはなんなのか、って言葉にならない。でも自分が偽物であるという予感はある。それは自分が頑張れないからで、ただしたいことしてるだけだからで、努力できないからだ。何もかもが間違っているし、正しいことを目指していない、というスタンスをとっている間は、どこにも行けないのだろう。行く気もない、と嘯いている。それじゃあダメなんだ。  そのために何を捨てるか、っていうのがたぶん大事で。そのために何を懸けられるのか、っていうのが大事で。人の限られた時間を何に使うんだよってこと。くだらない亡霊の相手をしている暇があるのなら、文章のことを考えていた方がいいよって思う。目の前のことに集中し続けていくことでしかなく、そして、そうもできないでいる。連続した何かを自分に用意することができず、ただ受け身にやるべきことをこなしているだけだ。 ***  何かに流されて使ったり、したり、

不条理の亡霊

 思うごとに亡霊はやってくる。そのたびに蹴散らしている。思うことはただ一つ、過去の出来事と今につながること。そのことを思い出すたびに私は焦燥し、脳のキャパの一部を使い、いたたまれない気持ちになっている。そのことを考えることすら野暮で、考えたくもないこと。  起きたことを許すこともできず、納得することもできない。人生とは不条理なことが起きるものだ。人間関係にはわからないことが多すぎる。  今思う。人は思ったよりも人に優しいし、親切だ。ただ、そうではない人もいるというだけで。  一生、納得することのないことを抱えて、生きている。  救うのは、想像力。その人に何があったのかの情報さえあれば、なぜそんな行動をしたのか、納得はできなくても、許すことはできるかもしれない。弱い人なのだと、情けない人なのだと、自分に起こった不条理を受け入れることができるかもしれない。

あと何年、生きるつもりで生きてるだろう。

 あと何年、生きるつもりで生きてるだろう。あと何年、働くつもりで働いてるだろう。明日には死んでるかもしれないし、100歳まで生きるのかもしれない。いつ頃仕事を辞めて、いつまで快活に生きられて、死ぬときにどう思うんだろう。若いうちにしかできないことは山ほどあっても、そうすることは叶わないこともある。したいことをできないのに、無理してやりたくないことを続けているのはなんだかなぁと思う。でも、したいことをするためにどのくらい頑張れているかって、微妙で。それが本当にしたいことことをするためなのか、ただ、しなければならないからしているのか、生きるためにしているのか。  自分のしたいことは本当に今していることなのか。本当にしたいことはなんなのか。そのために毎日を過ごしているか。したくないことで疲れきっていないか。そういう日が続くと、自分を変えるようになるだろう。こうするのが自分のしたいことだったのだ、と。自分を言いくるめることほど簡単なことはない。人生の分かれ道はたくさんあるだろ。もうできないことは山のようにあって、でもできることだってたくさんあって。自分を封じ込めて生きることほど、自分を焼くことはない。どうしようもないこともあれど、そのために何かをしているのかというとそんなことはなくて。本当にしたいことなのなら、いくらでもできるということ。腹を括っているのなら。頭を使って、日々行動し続けていたらいい。それだけでもだいぶ違う。時間ない。眠い。ダラダラしたい。そんなことも言っていられないほど、何もかもを犠牲にして、そこに向かって突っ走ることだって人にはできる。言い訳は無限に湧き、でもそこに行く道はたぶん一つしかなく。それは意志の強さではなく、ただ本当にしたいことを知っていて、ただそれをしたいというだけに過ぎない。悪魔に魂を売ってでも、したいことをする人がいる。そうしなければそれは手に入らないからだ。どんな言い訳も効かず、ひたすらに。どんな忙しさの中でも自分を見失わず遂行する。いつも知恵を持ち、いつも人から学び、いつも成長している。効率よく物事を進め、自分のしたいことに邁進する。そんな人になりたい。  あと何年、生きられるだろう。その間、私は何をするだろう。どんな風に死の瞬間を思うだろう。あらゆる言い訳を捨て、生きたい、逝きたい。

人間音痴

 不安に思う根拠なんて何もないのに、ただ不安になっている。そういうものかもしれないけれど、それでは困る。もっと攻めていきたいのに臆病なまま。人というものをわかっていない。このままでは駆け引きも交渉もできないだろう。機微の出し入れなんてできやしない。私は素直に感じ、素直に行動することしかできないのだろうか。本音と建前を使いこなせていない。ずっと本音でしか行動していない、発言していない。もっと戦略的になりたいのに。思惑を持って口説いていきたいのに。思い通りにしたいのに。目の前にあるのは根拠のない不安ばかり。病気なのではないかと疑う。たぶん、そうなのだろう。  まず不安に思うことが先立って、それは根拠のないものだ、と自分に言い聞かせている。そこは理屈である。筋道を通っていけば、それが根拠のないものであるとわかる。しかし、心はおどらされている。沸き立っている。おどおどしている。うまくいくだろうか。気を悪くしていないか。失敗したんじゃないか。怒っているんじゃないか。そういう気持ちを一つひとつ消していく。思い立つことすべてについてそうしている。大抵の不安はそうして消える。なぜなら大抵は根拠がないからである。  この先自分がどうなるかなんてわからない。でもそんなことは不安には思わない。ただただ目の前のくだらないことがうまくいくだろうかと不安になるばかりである。なんてちっぽけな人間なのだろうか。不安を抱えて生きている。いろんなことがうまくいかないのが人間だ。いろんなことに不安を抱えるのが人間だ。たくさんの当たり前を経験して、そういうものを払拭していくのが人間だ。そういうことに根本的に慣れていない。人間音痴である。  人間を思い通りにしようなんて、甘いし大仰である。ほとんどうまくいかないだろう。自分のことだってうまくいかないのに。人には人の事情があり、それぞれに何かを抱え、何かを思って生きている。それぞれにこうしたいという何かがあり、その間に私がいてどうにもならないと呻いている。呻いているだけで、何かをしようとはしない。したためしがない。いろんなことが面倒くさくて仕方ない。そうも言っていられない事情もあり、慣れないことも多い。本当は誰とも会わず一日、本を読んで暮らしていたい。

ジャズという愉しみ

 あくまでジャズに関しての私見を書きます。ただの戯言です。  ジャズという言葉が出てきたときに、まず「大人な」とか「ムーディーな」とか、そういうことだけを連想した人は、間違ってはいないけれど、それだけがジャズではないのです。全体のほんの一部分を拡大解釈しているというか、そういう情報しか持っていないのだと思う。ジャズという音楽はそれだけではない。激しいもの(ハードバップ)から、心地よいもの、現代音楽に至る地平まで、いろんな音楽を内包しているのです。  ジャズは即興で演奏する音楽です。つまりその場で発する音を決め、実際に演奏していく。多人数で演奏することが多いですから、それぞれの演奏者の音の関わりによって、影響を受けて音楽は進んでいく。基本的な決まりごとはありますが、そこからの逸脱を楽しむ、という楽しみもある。というかそういう風にジャズは発展してきました。だから、基本となるメロディ、ハーモニー、リズムを知ることが第一です。常にそこからの逸脱です。テーマ一つとっても、演奏される曲に対する基本的なメロディ、ハーモニー、リズムを逸脱しています。アドリブとなれば尚更です。その逸脱が、楽しく、一番おいしいところなんです。  音楽といえば歌う唄である、と思っている人にはインストは聴きにくいかもしれません。どこを聴いたらいいのかわからないとか、聴いてると眠くなってしまう、とか。ジャズでは(言葉は用いないものの)演奏者全員が歌うということが大事です。ドラムもベースもピアノも楽器を通して歌います。つまり伴奏の最低限のことをしつつ、その範囲を超えるということです。ジャズにおいてドラムはリズムガイドとしてはほとんど機能していないと言っていいかもしれない。特にスネアに関しては不整合に聴こえるかもしれないです。大抵の演奏者のタイム感は良いので、ドラムでさえも歌うことができる、というかそういうことを要求されます。  言うまでもなく、音楽の中心は歌です。その強弱、その音量、いろんな要素によって歌はできている。それは打ち込みや機械にはできない微妙な出し入れです。息の量の微妙さ、喉や舌や口の形の微妙さ、筋肉の動きの複雑さを機械が再現できないのと同じです。どんなに楽器を演奏するのがうまい機械を作ったとしても、人間の演奏する微妙さには追いつけない。それは機械がその動きや感覚や反応を人間のようにはコン

惑い人

 いろんなものを、人から受け取ったり、渡したりしてるんだ。そういうことを、ずっと、拒んできたのかもしれない。そうやって生きてきてしまった。誰から何を受け取るか、誰に何を渡すのか、渡せるのか。  渡すものは、モノだけでなくて、気持ちだったり、情熱だったり。  あいつがやるから、俺も頑張る、ということでもあったり。  拒んできたなりに、いろんなことを受け取っていたはずだけど、これからは、ずっともっと、いろんなことを受け取ることになるのだろう。  その時の、基本的な気持ちとして、私は何かを勘違いしているような気がしてならない。人と人が関わるということ。一瞬だとしても、すれ違うこと。そこで心を交わすこと。そういうことの、なにがしかをわかっていないような気がしてる。軽んじているのではないか。  なにを人が重んじていて、あるいは真剣で、なにを軽んじているのか、それさえも個性であるけれど、それを知ろうということは人と人が接する上で、大事なことであるはず。譲れないもの。  人というものが、なにによってできているのか、私は、知らない。  自分がなにによってできているのかも。なにがなければならないのかも、なにを失ったら、自分でなくなるのかも。  譲れないものは、仕事であったり、娯楽であったり、考え方そのものであったりするのだろう。  自分が一番大事だ、という人もあれば、人に依存しなければ生きられない人もあるだろう。  なにが正しい、なにが幸せだ、ということでもないんじゃないか。ただ自分のあるようにあれば良いんじゃないか。そこに居られなくなったなら、衣を変えて去る。幸せを求めなくなることが、私は怖い。麻痺してしまうことが怖い。思考停止してしまうことが、怖いのだ。  人と、関わらずには、生きられない。どう、人と関わっていくのか。どう、自分の幸せを追求するのか。どうするのが良いのか、わからない。こうするとうまくいくという、攻略法にはない、難しさがある。そういう欠点をみんな僕らの世代は抱えてるんじゃないか。そういう価値観を持っていると、人生はとことんうまくいかない気がしてる。  わからないことだらけだ、人生は。惑うしかない。

ブックデザイン勉強会 2017/12/17

 今回は2回目の参加。勉強会自体は全3回のうちの3回目。2回目と3回目に出席しました。今回は課題を提出して、寸評をしていただけたので個人的には濃い勉強会でした。  前回参加した時に先生がおっしゃっていたことを踏まえて作ったつもりだったのだけど、足りない部分もかなりあったかなと思う。抑えているところは抑えていたけど、ダメなところはダメだった、というか冷静になって自分の作ったものを見てみるとアラが目立ってしまって出したのが恥ずかしかったな、と。まだそんなレベルではなかったかもしれない。  デザイン的に意味のあるように置く、というのが難しい。それがデザインする、ということなのだと思うけど、私は要素を並べていくというだけで、うまくいっていないように感じる。そこに置くという根拠に乏しいのだと思う。そして美しくない。字詰めもまだまだ。英文のやりようももっとあったと思う。というかわからなくて、放棄してしまった部分はあったかなと思う。もっとできたはず。要素を空いているところに埋めていくという感覚で作ってしまって、それも考え方としてとてもよくなかった。つまりそれはデザインの根拠としては最悪なのかなと思う。確かにネガティブな態度だし、意匠として美しくはないし、デザイン的に考えられたものにはなっていない。もっと粘って課題を製作したかったけど、まぁ、しょうがないな。次の機会があったら、ぜひまた参加したい。救いは自分の装幀を写真に撮っても良いですか、と言ってくれた人がいたこと。ダメな見本としてかもしれないけど。自分としてはダメだったなぁと思っていたので、写真に残るのは微妙な気持ちだけれど、反面教師になれば良いや、くらいに思ってる。良いと思ってくれてたならうれしいけれど。  顔写真を楕円で囲むというのがダサいというか古いというのが、ピンとこなかったけれど、それは私がデザインされたものを注意深く見てきていない証拠だと思う。自分としては違和感なかったし、必然と思っていたけど、間を埋めるためでしょ、と見抜かれてしまったので、浅はかだったと思う。顔写真に楕円という組み合わせが古くてありえないということらしいのだけど、古さやダサさを狙うとしても、そういう根拠や理屈や思わせがなければ、それだけでダメなデザイナーと見られても仕方ないことかもしれない。そういう常識みたいなことが全然わからないので、困る、

好きという広がり

 どうやって人は物やヒトを好きになるのか、僕にはわからない。でも、なんとなく好きだとかウマが合うということあるし、相手が自分のことを好きだから自分もなんとなく好きになってしまうということもあるかもしれない。それが本当の自分の気持ちなのかどうかは置いておいてさ。好きという言葉ってけっこう曖昧なのかな、と思う。「好き」という気持ちで人と繋がることについて考えたい。  興味を持っているという事と、好きというのはちょっと違うのかな。好意を持っていなくても、興味があるということはあるのだろう。なんとなく気になってしまうとか、無意識に好きということもあるかもしれない。興味・関心がなければ始まらないけど、つまり、興味のない好きというのはちょっと考えにくい。そして、興味があるけど嫌いということもありそう。興味という言葉にはプラスもマイナスもあるのではないか。どっちに振れるかで、好きと嫌いに別れるのかもしれない。好きの反対の言葉は嫌いではなくて、無関心だ。  無関心のものは目にも映らないし、その人にとっては存在すらしていない。嫌いなものは好きに反転する可能性があるかもしれないし、好きなものを嫌いになるということだってあるだろう。興味のないものに興味を持つメカニズムは僕にはわからない。きっと何かのきっかけでそうなるんだろう。  自分を拡げてくことの楽しさってある。ずっと同じものに興味を持ったままの人もあれば、常に何かが変化することを求める人もある。でも個人的には、何にも興味を持たない人、何も好きならない人がいるとして、なにが楽しいんだろうと思う。  「好き」について、何かの答えとか結論に達するのはなんだか危ういな、と思う。でも何かを好きになることは心地が良いことだし、人が何かを好きであるということを知るのだって、それだけで興味が湧くことかもしれないと個人的には思う。  興味のあり方こそがその人の個性だと言えるかもしれない。視点をどう持つかということ。どう面白がるか、ということ。負の感情で人と繋がりたいとは普通は思わないと思う、というか私は御免だ。好きで繋がっていたい。だからいろんな人の好きな気持ちを知りたい。  ただ好きなのだ、というだけじゃなくて、どう好きなのかを言葉にすることは、私にとって難しいことだ。それだけで私のお底が知れてしまう気がする。言語能力の乏しい私にとって

天馬と老人

 馬が空を駆ける。雷が鳴っている。雲が退いていく。宙が割れる。馬に羽はなく、その足は空を蹴っていく。老人が乗っている。ずんずん進む。私にはそれがスローモーションのように感じられる。雷の音が時間を示す。ゆっくりと、天馬になっていく。  空は紅く、海は緑。老人が立ったまま浮いていて、こっちを見ている。雲がびゅんびゅん過ぎ去る。時が加速していく。  オリオンはあっという間に地に沈み、月は廻る。流星を見逃すまいと目を凝らすが、そこには何も見えず。空は割れ、風が強く吹いている。  老人が何かを怒鳴りながら、スーッと近づいてくる。途端に不安になる。50m手前で老人は消え、次の瞬間に目の前に居る。何か喋っている。  そこで目が覚めた。

傷つきたくない。からの脱却

 私の今ある悩みというのは、きっと、「傷つきたくない」ということに収斂されるのではないか。それを乗り越えたら、次のステップに移れるのではないか。  「傷つきたくない」ことで弱気にもなるし、踏み出すことも億劫になる。傷つかない範囲でしか行動しない。積極的にもならないし、おっかなびっくり物事をすることになる。人に叱られるのも嫌だし、人が怒鳴っているのを見るのも嫌。悲しい気持ちになることも嫌だし、脅やかされるのも回避したいし、影響されるのも嫌なのかもしれない。そして何より、できない自分を認識することが嫌なのだと思う。「傷つきたくない」というワードだけで、これだけのネガティブな言葉が連なって出てくる。ここに全てが現れている。  「傷つくこと」を平気でできるようになったら、人生変わるだろうな、と。マゾになれということではなくて、打たれ強くなりたいのかもしれない。不屈の、というと使い古された言葉だけど、やってもやっても這い上がれるのなら、それほど強いことはないのではないか。どうしたら、そういった精神を手に入れることができるのだろう。  気持ちの強さ、思いの強さなのだろうか。  否定されることの認知について考えたい。あるいは失敗からのリカバリーについて。私はいろんなことがわかっていないのだと思う。どうしたら、失敗を、過ちを、正せるのか、あるいは、人に許してもらえるだろう。失ってしまったことを復帰されることができると知れば、否定されることが怖くないかもしれない。つまり、どこまで人はやり直すことができるのか、ということだ。それは人生だけでなく、無くしたもの、やり過ごしたこと、できなかったこと、嘘や、自分を大きく見せたい心などのことだ。  どんなに否定されたっていいんだ、と経験として知れば、いろんなことが進むのではないか。  私は人生経験として、どのくらいやり直せるものなのか、識らない。やり直せるものなのかもしれないし、もうどうにもならないこともあるだろう。やり直せるか、どうにもならないことなのか、判断する前から、勝手に傷ついて、諦めているのだ。そういう弱さを私は持っている。  「傷つく」という悲しさに比べたら、「挑戦しない」という悔しさなんてなんでもないのが、私なのだ。自暴自棄になっているのかもしれないし、ある意味やけっぱちなのかもしれない。挑戦しない、予想しない、試し

人生で印象的な食事

 これを読んでいるあなたは、今までにとった食事の中で一番印象に残っているものは何か、という質問に答えることができるだろうか。  多くの人が一日に何回か食事をする。それが当たり前になっていて、それを特別なものにするということは多くはないかもしれない。印象に残った食事には何か特別なことを特別な人としているものかもしれない。  私の印象的な食事はいつもとそんなに変わらなかった。食べる相手も、食べるものも、いつもと同じ。特別という感じではない。ただ一つ違うことは、その時に話していた内容なのだと思う。その内容だって特別というわけではない。なんでもない、ありきたりなことかもしれなかった。それでも、私の人生はその瞬間から変わってしまった。私はその食事での会話によって、あることに気がついたのだ。私の人生にとって大事な、とても大事な、あることに。  それはどのように生きていくべきだろうか、ということが腑に落ちた瞬間だった。会話の内容は明日の天気だったと思う。そしてその日の夜に降る流星群の話題だった。明日は雨だから、流星群は見れないかもねー、という相方の言葉にハッとする。明日が雨だとしても、今日流星群は見られるかもしれず、いやそれだけでなく、明日が雨であるかどうかさえも未確認のことだ。明日が雨だからといって、今日の夜が晴れないと、誰が決めたろう。  先行きを決めるのは、他人ではなく、自分なのである。あるいはそうならずを得ず、抗えないこともある。決められないことは受け入れるしかないが、流星群が降らないだろう、と今晩窓の外さえも見ないのは他ならぬ私である。そう決めるのは私である。流星群が起こるかもしれないのに! 人にどんなことを言われようが、自分で決めてそうするべきだ。流され、有耶無耶のうちにそうするべきでない。そのことは大きな違いである。予想は予想である。そして、それは人の言ったことだ。ちらっとでも自分で外を見ればそれでわかること。それをしないことが流星群を起こしていないということなのだ。そこにあったとしても。それでは私にとって流星群が存在していないことになってしまう。  人任せにしてしまっていることのなんと多いことか。なんだって一人でできるわけではない。そんなことはわかっている。だから人に依存し、頼りにしたりする。その対価としてお金を支払ったりする。だけど。どのくらいそれが確

平気で失敗できる人

 どんなに考えたって、行動しようとしたって、今なりにしかできないし、自分なりにしかできない。その中でなんとかやっていくしかないし、できることは限られている。時間はあるようでないし、機会もあるわけじゃない。その気になることだって少ない。  困難に立ち向かっていくために、強くありたいと願ったけれど、それはなんだか違くて、どっちかというと麻痺させたい、という感じなのだと思う。うまくこなしたいというかさ。その方法論を知りたいと思っているような気がする。何においてもね。  いろんなことを考えても、その一本で解決する方法なんてたぶんなくて、その場で臨機応変に解決していくしかない。その場数を踏んでいくってことなんじゃないか。強くあるというわけでも、麻痺させるというわけでもなく、失敗を恐れないということなんじゃないか。平気で失敗できて、それを次に活かせるという人があったら、それこそが麻痺せずに一番強いということと言えるかもしれない。いささか逆説的だけど。  まず平気で失敗して、それを元に冷静に物を考えられる人というのは本当に強いと思う。例えば平気で人を怒らせて、あーこの人はこういう時に起こるんだな、と冷静に情報収集するとかさ。人と人が対面して、わからないことだらけの時に、おっかなびっくりで接せられるよりも、ガツガツいってやり過ぎなくらいで引き算してく方が手っ取り早いだろう、みたいな。対する人次第の例えではあるけど。  ガツンと怒られるのが平気って人もいるし、そうじゃない人もいる。逆からみれば、起こりやすい人と、丁寧に扱いわなければならない人といて、断然指摘されやすい人の方が、得るものは大きそうだよなぁと昔から思ってた。  平気で失敗できる人ってのはいいよなぁと思う。怖いもの知らずってことなのかもしれない。根拠のない自信ということなのかもしれない。そういうことって若さと親和性が強そうに見えるけど、というかある程度年取ってそれをするのはちょっと恥ずかしいことなのかな、と思えてしまうけど、私はそうできたらなと思ってる。良い意味で無知でありたい。鈍感でありたい。それでもその失敗を分析して次につなげていくしたたかさを持ち合わせていれば、それで良い。つまり同じ失敗をしないということなのだ。  強い弱い麻痺してる、という文脈で考えてみたけどどうだろう。字数が足りないので今日はここまで

夕立

 今日は外に出るのが億劫だ。低気圧で頭も痛いし、傘さして歩いてもどこかしら濡れるだろう。空から水が降ってくるなんて、とてもシュールだと思うんだが、みんな普通に受け入れている。小さい頃からこんな日に外を歩くのが厭だった。世界は異様になっているというのにみんな平然として出かけたり、人によっては天の恵みだという。私にとっては不運な日でしかなかった。ザーザー音が鳴っている。降り始めに例の匂いがした。この匂いは好きだ。だけど天気そのものは好きじゃない。濡れることがとにかく厭だ。その後拭いをすることが嫌なのかもしれない。この天気を楽しみになるように工夫したこともあった。見栄えの良い長靴を買ったり、傘をビニールなんてやめてちょっと良いものを買ったり。そうやって出費しても、すぐに飽きてしまう。そんなことでは免れないほど、水の脅威はすごいのだ。こんな天気は化粧だって変わる。濡れることを前提として化粧する。この天気に関するなにもかもが、面倒臭い。  天気なんて憎んだって仕方ないのだが。ただただ、過ぎ去るのを待つだけ。今日は何もできないし、するべきこともない。庭の草木に水をやらなくて済むくらいだ。天の恵みなんて私にはいらない。天に右往左往しない身体が欲しい。  水が貯まれば助かる人もあるだろう。だけど、私の個人的な意見を言わせていただければ、誠に勝手なのだが、それなしになんとかならないのだろうか。やはり不都合がありそうだ。降らない日が好きかというとそんなことはなくて、つまり天気に好みなんてなくて、ただただ、天から降ってくるこの水が鬱陶しい。ぽつぽつと降り注ぐ。私の元に。そんなことしたって、いいことなんてそんなないのに。いや、私にはないのに。本当に自然は理不尽だ。でもそういうものなんだ。なんだか愚痴ばかりになってしまった。  こんな天気だって楽しくできない自分が憎い。それは私が悪いのだ。解決しない問題を抱えすぎている。余裕をなくしている自分が、そんな気分にさせているのだろう。そうやって天気を媒介にして自分を知ることができる。私はダメなのだ。天気を愚痴るようでは。そういうことを一個ずつ乗り越えて、きっとこの先があるだろう。  天気なんて御構い無しだ。構うもんか。濡れてやれ。行ってやれ。ずぶ濡れで行くがいい。この夏空だ、気持ちが良いだろう。行くがいい。そんくらいの方がいいのだろう、私に

人と生きる、人として生きる

 あるところに住んでる、ある人。その人は誰とも関わることもなく過ごしてる。そうやって生きることを常としている。そうすることが当たり前で、その人はそうしていたいのだ。人と関わることは、人にどう思われるか、を気にしなければ成り立たない。そうすることを、その人は拒んでいるのかもしれない。本当のところはわからない。  人と関わることなしに暮らすということは、誰の手助けも受けず、頼りにもせず、一人の力で暮らすということだ。自分の力で住むところをこしらえ、食べるものを用意し、生きて死ぬまでの責任を持つということだ。  人は一人でいるようにできているのだろうか。社会的な動物であると、誰が決めたろう。一人で暮らすことが不可能であると、誰が決めたろう。人と暮らした方が楽というだけで、一人で暮らすことは苦でもないかもしれないし、してはいけないことでもないはずだ。その人の土地に、その人が家を建て、食料を調達し、暮らす。  誰にも迷惑をかけないのなら、それでいいのだろうか。何かを得るということを自分一人の責任に於いてやるのであれば、それでいいのだろうか。  一人で暮らす。その人は自分がどんな生活をし、どんな格好をしているかに注意を払わない。しかし、それは生きていくための必要条件を満たしている。理にかなってさえいれば、それで良い。暮らしやすければ、それで良いのだ。  この人は何のために生きているのだろう。ただ生きるために生きているのだろうか。人と暮らすということはどういうことなのだろう。人に支えられ、人の役に立つということはどういうことなのだろう。自分のためだけに生きる人、自分の責任においてしか生きない人を、人間と呼称していいのだろうか。  どんなに人に絶望しようとも、一人になったとしたら、人とは呼べないような気がする。動物とほとんど変わらない。知恵を持ってはいるけれど、人と関わることを拒むのならば、人ではない気がする。  人と一緒に過ごしている人間のような人がたくさんいる。人と触れ合うことで人は人になるのかもしれない。社会の中で生きるから、人は人と呼べるのではないか。そこで生きるから、人の中で生きるから、人として生きられるのではないか。  愛があるから、人生は愉しい。比較するから成長するのだろう。人との関わりの中で人は生きている。一人で生きることなんて、多分わたしには、でき

しっかりしてることを示す必要なんてないはず

 何事も考えすぎなのではないか。かと言って、それで疲れていると言うわけでもない。隙がないかもしれない。余裕がないかもしれない。なんでも完璧にしようとしてしまう。両親と同居しているが、彼らの手の抜き方には時々考えさせられる。良い感じで締めて、良い感じで抜いている。抜きどころを分かっているという感じ。わたしはいろんなことを頑張りすぎて、余裕をなくしがちである。しなくてもいいことをしてしまっているし、しなければいけないことにリソースを集中できずにいる。  正しく考えたいと常々思っている気がする。そして、しっかりしていなくてはならないとも思っていると思う。しかし、しっかり考えなくてはいけない場面、正しく考えなくてはいけない場面でそうはできていないのだ。それが実情である。冷静になれ、と呟くけれど、そう言っている時点ではもう遅くて、じっくり考えるべき場面でそうできていない。  正しい判断をするべきだ。そのために時には手を抜くことだって必要だろう。いざという時のために力を蓄えておくことだって必要だろう。抜きどころが分かっていない。どうでも良いことに注力してしまっている。  まともであろうとしすぎる。それはまともでないことの反動、というわけでもなく、こういう性格なのだ。わたしと一緒にいる人は窮屈かもしれない。わたしは完璧主義者になろうとしているのかも。手の抜き方を知らない。やってきたものに対して順番に力を込めることしか知らない。後に重要なものがある場合、息切れして正しく考えることができていない。正しい判断というのは、いつ力を入れて、いつ入れないか、ということも含む。個別を正しく判断することはもちろん、何をいま判断するべきか、ということなのだと思う。うまくサボることも必要。手を抜くことも覚えなくてはならない。  自分がうまくやれることを示す必要なんてないのだと思う。しっかりしてることを示す必要も。必然的にそうなってしまうというだけで良いのだ。わかる人にはわかる、伝わる。性格としてしっかりしていたい、というのはなんらかの洗脳に依るのではないか。良い感じで手を抜くことを覚えたい。ホントに考えなくても良いことを考えすぎなのだと思う。そういう意味でしっかりしたい。

諦観と奮起

 諦めることもあるし、奮起することもある。毎日淡々と生きているけど、だからと言って、諦めているとも、奮起しているとも言えない。やることやるだけで一日は過ぎていく。楽しみも、悔しみも、いろんな感情を日々感じているけれど、これが、人生というものなのか、甘んじて受けなくてはならないのかと、ときどき絶望する。絶望しているだけマシなのかもしれない。それについての、諦観であり、奮起なのだと思う。  自分がどうなりたいのか、なにも描けないということもあるだろう。描く余地がないとも言えるし、そういう能力がないのかもしれない。つまり、自分のしたいことを達する能力である。それはエナジーとも言えるし、鍛錬でもある。  なにが動かせて変えられて、なにがそうではないのか。自分の負っているもの外せないことやめられないこと、そして能力を持ってできること、運や縁が必要なこと、お金があれば解決すること、そういうことの線引きをできていない。整理されていない。  なにができて、なにができないか、これを判断することは大事なことだ。どうにもならないことはあるし、どうにかなることだってあるかもしれない。  日々がそれなりに楽しければいい、という考えもある。先を見つめる生き方もある。もっと先を想像する人もある。それらをどう受け入れるかなのだと思う。運を天に任せることはあまりに簡単で安易で、諦めることさえすれば楽になるのだろう。しかし鍛錬なくして明日はない。  『生きている』ということの定義をし直す。ただ息ているのではなく、誇り高く生きるのだ。

あなたがある日突然、喋ることができなくなったとしたら、どうだろう。

 あなたがある日突然、喋ることができなくなったとしたら、どうだろう。そんなこと起こり得ないだろうということが、人生には起こるものだ。あなたは仕事をやめるだろうか。人付き合いもやめてしまうだろうか。喋るという行為の負っていることはあまりに多すぎる。そしてそれは、失われてみないとわからないことだ。ちょっと今晩は想像してみてほしい。喋れないということのハンデをあなたが負うとしたら。  あなたはあらゆる伝達を、口ではなく、筆記によってすることになる。いちいち書く。そして、いちいち読んでもらう。書く時間によって伝える内容のハードルは上がってしまう。わざわざ書いてそんなことか感は強くなる。書くのにも、読むのにも時間は使われる。いちいち間が生まれる。喋ることで埋めることのできない間である。  あなたが喋れないと知ると、相手は耳も聞こえないと思うだろう。それは自然なことである。しかし、あなたの耳は普通に機能する。それを伝える手段はやはり書くことだけである。  喋れないというだけで、人はあなたに哀れみを感じるだろう。可哀想、障害者だ、という目を向けられることになる。そしてその哀れみはあなたに直裁に伝わる。  初対面の人には説明がつきづらいものだ。「そういう人」として接せられる。深いコミュニケーションの取りようがない。必然的にうわべだけの関係になる。うわべだけと言っても筆談で天気の話をする人はおそらくいないだろう。書くことは、わざわざ感が強すぎるのだ。わざわざ書いて雑談かい! という空気になる。必要な情報の交換に終始する。  どうしても仲良くなりたい人がもしいたなら、僕だって気を惹くようなことをしていたかもしれない。しかし、私が緘黙であった9年間、そんな人はけっきょく一人も現れなかった。  無意識に人と接することをセーブしてしまう。仲良くならないようにしてしまう。たぶんきっとおそらく、自分は理解されないであろうという圧倒的予感。私”なんか”と仲良くする人は現れないであろうという感覚。そうして必然的に閉じていくだろう。やりどころのない何らかの感情が湧いてくる。なぜ自分なのか。落ち込んだりもするかもしれない。  緘黙は病気である。そして、誰にでもではないけれど、起こる可能性はあるかもしれない。当たり前にあることが、当たり前でなくなる日。そんなことが、あるかもしれない。思えば、

話をするという焦燥を。

 喋れるようになって、話をするという焦燥を感じてる。それまではなかった。わたしは喋ることができなかった。だから、そんな焦燥はない世界に生きてた。ただ伝えたいことを伝え、伝わり、伝わったことがわかり、去る。それだけだった。  そして、今は。話をするということが、情報を伝えること以上の意味のあることだと感じてる。この人は今どんな気持ちなのだろうか。これを言ったらこの人はどんな顔するだろうか。どんな気持ちになるだろうか。なんでこんなつまんなそうな顔してるのだろう。これを言ったら楽しませられるだろうか。  そういうことを感じてる。話すことで、それは往々にしてわかる。話さなければ、ほとんどわからない。話すというコミュニケーションがあるから、初めてわかることがある。察知する。痛みとして、分かる。その焦燥を。  わたしは自分の都合を押し付けてるだけだった。筆談ホワイトボードに書いたことを見てもらって、そのリアクションを見る、それだけ。そこにはほとんど感情はないし、機微もない。ただの情報の交換というだけ。  日常の、とりとめもないことを、日々楽しんでいる。なんの弊害もなく喋れるようになった。その変化は、大変なものだった。喋れなかった時間に失ったものはあまりに多く、得たものは少ない。わたしは明瞭な滑舌と就職の機会を失い、ちょっとした自由とちょっとした収入を得た。どういう生活が正しいとか、どういう生活が良いとか、わたしにはわからない。ただこうしてしか、生きることはできなかった。  だけど、これからは違う。生きてる限り、可能性を、自分の力で追い求めることができる。生きている限り、自分の投じた何かと引き換えに、何かを受け取ることができるだろう。その、歓びを。  話すことができない、という不安感はいろんなところに立ち現れる。仲良くなっても、会話ができなければ、楽しくもない。何事にも先がないように感じてしまってた。そうやって、人を制限し、人生を制限していた。  人はいつ死ぬかもわからない。明日死ぬかもしれない。これを書き終わった瞬間に、死期が迫ってくるかもしれない。明日を迎えることができないかもしれない。今日を、幸せに。少しでも、幸せに。苦労はいつだって少ない方がいい。いつだって、幸せがいい。それを描くことができないのなら、それは全員、不幸せであると思う。ちょっとしたことでいい。

男と女

 ちょうど昼過ぎ。バスに乗っていると、男が駆けて行くのが見えた。その先には女がいた。男は必死の形相で、女に何か伝えているように見えた。しかし、何を言っているのかここからではわからない。バスはそれまでと同じように過ぎ去る。わたしは振り向いて、男と女の行方を追ったが、男が女に向かって頭を下げているところまでしか見えなかった。その後のことは、わからない。  男は何かを詫びていたのかもしれないし、何かを頼んでいたのかもしれない。結婚を申し込んでいたのかもしれない。とにかく、遠目から見てもわかる形相だった。駆けて行く感じ、頭の下げ方、何かあったに違いない。もしかしたら、男と女の運命を変えるやもしれない、何かが。  あるいは、考えられること。すでに付き合っている二人が、男の方から別れ話を切り出したのかもしれない。男が浮気をしていたのかもしれない。ひょっとすると、女には命が宿っていて堕胎を迫っていたのかもしれない。  そんな大げさでなく、ただバイトの連れ同士が明日のバイト変わってくんねぇか、と頼んでいただけかも。ゴミ捨ててきてくれ、と言っただけだったかもしれない。  この間はありがとう、と何かのお礼を言ったのかもしれない。  頭を下げたように見えたのは、足元にゴミがあったのを見つけたからで、それを拾おうとしたに過ぎないかもしれない。男と女は何の関係もないアカの他人だったかもしれない。男はコンタクトレンズを探していたのかもしれないし、女はそれに協力する心優しい他人だったかもしれない。そして、その出会いによって二人の何かが始まったかもしれない。  男と女のドラマツルギーにはいろんな可能性がある。そのどれをとっても、面白いかもしれない、そうでもないかもしれない。些細なことを面白がる人間の方が幸せだ、とぼくは思うわけです。

ここに立っている。

 夢にまでみたことをしようとしているのに、なんの興奮もない。ただ淡々とそれをしているに過ぎない。それがきちんと成立するように、恥ずかしいことをしないように、精緻にやっていく。ここに立っていることを誇らしく思う気持ちもあるけれど、それだけのことをしてきたという自負だってある。つまりそうなって当然だと。ここまで来るのに、それなりの努力と戦略を積み重ね、運と縁に身を任せてきた。そして今ここに立っている。  感慨を感じている暇などなく、ただやるべきことをやっていく。それがここに立っているものの務めであると、本能的にわかっている。ここに来るためにどれほどのことをしてきたのか、きっと人にはわからないだろう。いろんなことを犠牲にしてここまできた。そんなこと、したいことをしたいのだから当然と思うかもしれないが、それができない人は大勢いる。したいことをわからない人だってたくさんいるし、わかっていても誰にでも自分のしたいことをできるというわけでもない。  できる、できないというところに今の私は立っていない。やるのだ。それだけなのだ。自分の力を振り絞って、やり尽くすというだけだ。そのために生きている。そのために犠牲にすることは当然だ。  なぜこんなに頑張れてしまうのか、自分にもよくわからない。人に期待されるからかもしれない。そうでなければ、こんなこと、できないだろう。  というか、できなかった。自分で自分にする期待なんてちっぽけな期待だった。できるはずだ、とは思っていたけれど、実際にやってみると難しかった。向いていないとも思った。でも。ひとり期待してくれる人があったから。  だから私はなんとかやっているのだと思う。身を粉にしても、人生を棒に振っても、だとしても、私は幸せであると思う。自分の能力を活かすことができる。自分の居場所が社会の中にあるということ。その上、人に期待されるということ。そして、それに応えることもできるだろう。  こうして、私は生きていく。死ぬまで生きるのだ。

やきもき

 そうしようと思いもしなければ、そうできないことのやきもきを味わうことなんてない。このやきもきが、今の自分を支えているし、生きているって心地を味あわせてくれる。このやきもきが、私を前に押し進めてくれる。  喋ろうとしなかった頃、コミュニケーションに於けるやきもきを感じることはなかった。ただ自分の言いたいことを筆談して、それが伝わったらそれでおしまい。最初から言いたいことを言うことを諦めていた。そして、人に言われることについても、そんなに深く考えていなかったように思う。ただ言われたことを受け取る。言われたことに対して思うことも、対して深く受け止めていなかったように思う。だから人に何言われても、そんなに傷つかなかったし、くよくよ考えることもなかった。あぁすればよかったとかそういうこともなかった。コミュニケーションそのものを諦めている節があったから、伝わればいいや、伝わらなければ仕方ないと考えていた。コミュニケーションすることで湧いてくる感情でさえも否定していたように思う。  何かをしようというとき、人は逡巡する。できるだろうか。どうしたらできるだろうか。どのようにするのが良いだろうか。他の方法はないだろうか。そして、自分は何をしたいのだろうか、と。そういう逡巡──やきもき──を最近はつとに感じるようになった。焦燥といってもいいかもしれない。  そういう焚き付けが自分の中に湧いてくる。やらなくては、気が済まない。時間がないと思っている。人よりも何周も遅れてしまった、と思っているし、もうどうしようもないのかもしれない。  自分にとっての幸せをいかに追求していくか、ということなのだ、人生は、と思い詰めれば、少しは楽になるのだけど、社会的に、人間的に、といろんなことを考えると、いろんなことが難しい。でも、それでも幸せになるだろうともどっかで思っているし、今、幸せかもしれないとも思っている。そして、もっと幸せはあるだろうとも。  逡巡、やきもき、焦燥、なんでもいいけど、自分を焚きつける何かをいつもそばに置いておきたい。それでこそ私は成長することができるだろう。生きていると思えるのだろう。それは、喋れるようになってから獲得したもの。この焦燥に駆られて、私は、歩き出す。ときどき、休みながらでも、一歩一歩進んでいける。

喋れるようになって思うこと

 ここ数年、病気でほとんど喋らずにいたわけだけど、この一ヶ月くらいで喋ることができるようになった。それはもちろん嬉しいこと。やっと人並みになれるかもしれないところまできた。その入り口に立てるかもしれないというところにいる。  喋れるってことは、それだけで、人との関わりの深さが全然違うと感じてる。家にいる親ともそうだし、出会う人、その場でしか触れ合わない人とだって、その濃さが全然違うと実感してる。それは、自分のような人にしかわからないことだと思う。  人とコミュニケーション取ることで、イライラすることなんて全然なかった。伝わらない歯がゆさみたいなものはあったかもしれないけれど、それは初めから諦めているし、無理に伝えようともしていなかったと思う。伝わればいいし、思い浮かんだことも、伝えないことの方が多かった。こういう風に言えたらもっとうまく伝わるのになぁとか考えることはあったけれど、そうできないのだから筆談で最小限のことを伝えておしまいということの方が多かった。筆談は書くのも読むのも面倒くさいことなのだ。それでも、けっこういろんなことを筆談してきたし、できる限りの事をしていたとも思っているけど。  でも、喋ることは人との関わりの深さが全然違う。コミュニケーション取ることでイライラしたりもするんだけど、概ね楽しい。こんなイライラはずっと味わっていなかった。小さなことも、大まかにも。口で伝えるということのありがたみを日々感じている。喋れるようになってもう一ヶ月くらい経っているけど、何不自由なく喋るところまで来ている。滑舌が多少悪いという程度だと思う。  喋ることによって、自分の思っていることが明確になる。そして、相手の思っていることも明確になる。わかりにくいことは言い方を変えて言い直したり、わからないことは言い換えて欲しいと促したりできるのだから。  それから、相手の気遣いがとてもよくわかるようになった。それは自分の発言に対してのリアクションがあるからで、こんなこと考えてこういういい方をしたのだろうな、ということが透けて見えるような気がする。以前だったら、筆談することに気を使わせてしまって、それどころではなかった。大抵の人は筆談になると耳も聞こえないと思うもので、それを説明するための紙をいつも持ち歩いていたくらい。  つまり、喋れなくなる前よりも思慮深くなってい

できない理由を探し続けるひと

「やりたくない人はできない理由を探すよ。やる人は、そんなこと探さないし目にも入らない」 「私、何がやりたいのかわからない」 「やりたいこと、見つかるといいのにね。そんなの、生きていくのに基本的なことじゃない」 「なんていうか、今、生きているだけで精一杯なの。どうしたいこうしたいなんて、言ってられないわ」 「それでも、何か持つべきだ。今日は仕事が終わったらあれをやろうとか、年末は旅行するぞとかさ」 「そうだけど、本当に忙しいのよ。でも、仕事をしたいってわけでもないの」 「何の為に生きてるのかってことなんじゃないの。生きていく為に仕事以外できないならそうするしかないじゃない。でも、それは幸せなのか、ってこと」 「幸せよ、たぶん」 「たぶん? 自分のことなのに? やりたいことにも気が付かずに今を仕方なく生きている人が幸せだとは思えないな」 「人生、ある程度までいくともう一直線なのよ。もう私の人生はほとんど決まってるのよ。このまま誰かと結婚して子供作って老いていくのよ」 「やりたいことがわかっていても、やろうとしない人はいる。人生のある時期にしか、それを叶えられないと思い込んでいることもあるし」 「そういうこと多いわよね。もうエネルギー湧かないし」 「だけど、自分の本当にしたいことするためなら、それをしなければならないなら、何とかなるんじゃないの。本当にやりたいことだったらさ。それ以外をしている暇なんてないんだよ、人の生には」 「わかるけど。私にはどうしたらいいのかわからない。やりたいこともないわ」 「どのくらい、なにかをやろうとしてそう言っているの? 四方八方やり尽くしてそう言っているのか、ただ面倒くさくてそう言って自分を誤魔化しているだけなのか」 「だから、忙しいんだってば」 「そうやって言い訳していればいいさ。君には一生自分のしたいことなんて見つからないし、適当な男とくっついて、男に奉仕して一生を終えるんだろう。それもいいんじゃないの」 「……。」 「時間は取ろうと思わなければ、取れないよ。どんなに暇だとしても、忙しいとしても、そうしたいと思わなければ、時間なんて生まれない。やらない理由を探しているうちはそこには一生たどり着けない。そのことに今すぐ気がつくべきだ。そして行動するべきだ」 「やりたいこと、ないわけじゃないのよ。でも無

どうして僕から離れていくときはそんなに可愛いの

 寝ぼけた君は、こんなことを言ってきた。 「どうして僕から離れていくときはそんなに可愛いの」  恋人を自分のものにしていたい人にとって、少しでもその人から離れることはたぶん、苦痛なんだろう。それも、こんな、かわいくおめかしなんかして自分の元を離れてく、ってことは。出かけた先で何かあるのかもしれない、と不安なのかもしれない。  家を出るときには化粧をするというような当たり前のことだって、寝ぼけた人には通用しない。ただ、めかし込んだ恋人が自分の元を離れていってしまう、という事実だけが、寝ぼけ眼を刺激しているというに過ぎない。 「あら? あなたといるときは可愛くないのかしらん?」 イジワルして言う私。 「そんなことないけど。でも、今の方がステキ」 「あらそう。ありがとう」  いつもステキであって欲しいという気持ちが現れている言葉に、私はなんだか嬉しくなった。なんだか自分を認められたような気がして。一緒に暮らす彼とはもう長い。だから、いろんな面を見せている。それでも私のことを魅力的だと思ってくれているのだ、という感触。そして、私を失うことを恐れてくれているのかもしれない。そんなに深く考えていないかもしれないけれど、というか全然見当違いのことを私は考えているのかもしれない。そんなことを考えてるうちに時間になった。  ただ、離れていくときに可愛くしていく人を不思議に思っているというだけに過ぎないのかもしれない。そこに僕はいないのに、なんでそんなにめかしこむの、と駄々をコネていたのかも。  いや、もっと、素朴な疑問だったのかもしれない。彼の中から化粧をするという社会的行為の概念がすっぽり抜け落ちてしまっている。寝ぼけた人間は厄介で、かわいい。そんなことを言ったことだって、きっと明日には覚えていないだろう。  まぁいいや。いろんな優越感を抱えたまま、私はアパートを出たのだった。

最近のこと

 今日は趣向を変えて掌編ではなくて、近頃のことを書こうと思う。  私が普通に喋れるようになった途端に父が糖尿で入院してしまって、大変忙しい日々を送りつつ、直近のこと、ちょっと将来のこと、さらに将来のことを具体的に考えつつある。とにかく今のことをやっていくことでしかないけど、まぁ展望もなんとなく見据えつつ。近眼的になりがちなので大局観を持ちたい。とにかく視野の狭くなる恐怖は持ち続けないと。集中すると周りが途端に見えなくなってしまうのだ。それは良いことともなりうるし、そうでもなくなることもある。  なんで喋れなかったのかわからないくらいに普通に喋れるようになった。滑舌は少し悪いけど、喋れないよりはぜんぜんまし。喋れないということを思うと、いろんなことが不思議になる。恥ずかしいとか遠慮しているとか引っ込み思案とか、そんなことではなくて、本当に喋れなかったのだ。こうしている今だって、なんで喋れなかったのか、わからない。ただ病気だったということなのだろう。  病気のことをどう捉えたらいいのかわからなかったけど、言い訳に使うのは止そうと思ってる。でも、今の自分をどう人に説明したらいいのかわからない。病気だったのだ、というのが一番手っ取り早いし、嘘がない。何もしてこなかったことの担保にもなる。そう言ったら同情だって買いやすいだろう。心配もされるだろう。そして見放されるのだろう。  言い訳にはしないけど、うまく自分を説明する言葉をまだ獲得していない。折り合いもついていない。なんとかやっていくのだろう。たぶん、心配には及ばない。自分の責任は自分で取る。  文章に納得いかないことが増えたけど、自分を絞り込んで考えていくことでしかない。どれだけのめりこめるか、深く考えられるかだ。全ては。そこを怠った瞬間に、地獄を見る。粘り強くやっていく。  もし期待があるのなら応えたい。私は人を楽しませることが好きだ。できたら文章でそれができたらいいと思ってる。文章でならできるだろうと思っている。  先はまだ見えない。なんとかなるかもしれないし、なんともならないかもしれない。知るべきこと、学ぶべきことは山のようにある。一つひとつだ。一歩いっぽだ。先は永い。

好機を感じるということ

ラジオで偶然かかった曲。 図書館でたまたま見つけた本。 ぶつかった子どもら。 朝日が綺麗だったこと。 ***  いろんなことが日々僕の身に起こるけれど、なにがきっかけでどうなるかなんてわからない。それらのすべてが偶然とは言い切れず、しかしなにかを感じるには信心深すぎる。そういうことを虫の知らせと昔の人は言った。そういうことってあるのかもしれない。なにかが私にメッセージを送ってる、なんて妄想を誦える病気があるけれど、僕はそんなんじゃない、と言っておこう。この世界にはどう考えても目に映るすべてのことがなにかの思し召しとしか思えないことが起こったりするのだ。流れがある。昨日から今日にかけて、そんな日だった。  ラジオにかかった曲を漠然と聞いてた。90sの特集らしい。そこから流れてくる音のなにもかもが懐かしい。過去をあまり振り返る方でもないのだけど、こんな曲が流れたら考えてしまう。曲に張り付いた思い出が鮮やかによみがえる。ふと思い出すことが、今に通じてると気がついた。あの時のことがあったから、今があるんだと。この曲を聴かなかったら、そんな発想にはならなかったろう。あの時の失敗があったから今があるのだ。あの時には間違ったと思っていたけど、そんなこともなかったのかもしれない。  図書館に行くと、いつもは予約した本を受け取ってすぐに帰る。のだけど、今日はなんとなく本棚を眺めていた。そこで見つけた本。なんとなく惹かれた本。手に取ってしまった本。こういうことがあるから、時たま、本棚を眺めたくなる。必要な時に必要なものに目が止まる。半自動にそこにある。求めているものはいつだってそこにあるのに、気がつかないのはこっちなのだ。セレンディピティを鍛える方法があるのなら、知りたいものだ。  道を歩いていると、公園から飛び出してきた子どもらとぶつかってしまった。私もぼーっとしていたし、子どもらも必死に走っていたようだ。「おぉ!」と思う間も無く私が行くはずだった交差点で車が暴走してきた。子どもらと出会わなかったら、私はどうなっていたか、わかりゃあしない。ぼーっとしていても幸運が降ってくることがあるのだ。  朝起きて、大抵は散歩に行く。旭日の出るタイミングを見計らって。季節ごとにタイミングを計って外に出る。今朝はそれがとても綺麗だった。いつになく。こんな日は一年に一度だってお目にか

ちいさい頃

「じいじもご本を読むの?」 「ん? うん、そうだね」 「かめんらいだー?」 「いや、俺は仮面ライダーは読まないな」 「じゃあなにをよんだの」 「俺も小さい頃には本を読んだよ」 「じいじもちいさいころがあったの」 「そうだよ」 「なによんでたの」 「うんと昔のことだから忘れちゃったよ」 「ふーん。ボクがうまれるまえ?」 「そうだね、うんと前。君のパパとママが生まれるより前だよ」 「パパとママにもちいさいころがあったの」 「そうだよ。みんな小さい頃があったんだよ」 「イイモノにも? ワルモノにも?」 「そうだよ」 「かめんらいだーにも?」 「そうだよ」 「じいじはちいさいころなんさいだった?」 「んー、、君は今いくつだ」 「4さいだよ」 「じいじも四歳の頃があったよ」 「かめんらいだー?」 「仮面ライダーはなかったなぁ」 「じゃあなにがあったの」 「ん、いろんなのがあったぞ。なんでもあったぞ」 「みんなちいさいころがあったの? ぜったい?」 「そうだな。小さい頃がない人間はいないんだよ」 「ちいさいころはみんなおなじなの?」 「いや、みんな違うよ。俺の時は俺の時。パパの時はパパの時。君の時は君の時」 「じゃあ、いつがいちばんいいの」 「うーん、それぞれにそれぞれがいいんだよ。どっちがいいってことはないんだよ」 「ふーん。ちいさいころ、たのしかった?」 「そうだなぁ。楽しかったな。でも大人の方が楽しいぞ」 「ふーん。」

ブックデザイン勉強会に行ってきた

 装幀というものにずっと関心があって、いわゆるブックデザインなのだけど、学生の頃からできたらやってみたいと思ってた。その勉強会があるとのことで、今日はそこに行ってきた。  学生の時には、書店バイトで見つけた変な本を収集していた。装幀家さんの名前にも明るかった。そのバイト先は美大系の人が多かったのだけど、そういう人の会話に加われるくらいには。  今日は、参加者の人があらかじめ造ってきた表紙の講評から。先生の装幀した本を見たら一目瞭然だけれど、文字にすごくこだわりがある先生の講評なので、文字についての指摘が大部分だった。違う書体を使わないこと(明朝なら明朝一種類だけ)とか、文字を要素ごとにブロックとしてデザインするとか。基本的なことを学べてよかった。そういうことがわかっていなければ、そこからの逸脱も不自然なものになってしまうのだと思う。  最後に講評を受けた方の装幀が特に素晴らしかった。かっこいい本。こういうのが自在に造れたら楽しいだろうな、と思う。  文字詰めから始まって、文字のデザインは奥が深いなぁと思う。ちょっとしたことで読む印象を深く操作できる。パッと手に取りたくなるデザインというのがあるのだと思う。なんでいま俺はこれを手に取ったのだろうって。なんとかなく惹かれるというか。ベタ組みではつまらないし、実際読みにくいし、印象には残らない。そこの機微を知りたかったけど、むつかしいなと思う。経験というか、その場その場の状況で臨機応変にやっていくものなのかもしれない。基本的なことは学べたので、自分でも今晩少しやってみる。  これまでにも自分で自分のものをデザインのようなことをする時には詰めたりしていたのだけど、やっぱり、プロは違うな、と。まだまだ全然甘かったのだけど、やってやれないことでもないはず、とも思ってるし、挑戦したい気持ちもある。というかやる。  懇親会で、装幀家として食っていくのはこれからはきついだろうと。今までもきつかったけど、より一層だと。装幀一本で食っていくのは難しい。何か他にもできることがあれば目はあるかもしれない。考える。というか、やっぱり、本に関わる仕事がしたいんだなぁと思う。装幀に限らずね。  現状、将来について路頭に迷っている。いろんなことが遅すぎた。でも、まだやれない訳じゃないと思う。活路を見出せるとしたら、自分がしたことにだけ。

月に住むひと

「そろそろ月に帰ろうかしら」 「へ? 君は月から来たのか」 「そうよ? 知らなかったの」 「初耳。もう帰るのか。置いてかないで」 「あなたも来る? けっこう良いところよ」 「じゃあお言葉に甘えて」  その日、初めて彼女の家に行ったのだった。そらには月が輝いてた。そのことには二人とも触れずに、家までの路を黙って歩いた。彼女の家は月みたいだった。宙の月より月であった。 「ここよ」 「月ですね」 「そうよ? 良いでしょ」 「ふーん」 「中入ってくでしょ?」 「じゃあお言葉に甘えて」  今日はデートだった。3回目の。まさか家に行くとは思ってなくて、気の抜いた靴下を履いて来てしまったのが悔やまれる。月の主はお茶を淹れてくれている。あまりじろじろ部屋を見ないようにしようとするも、つい見てしまう。こんな部屋に住んでるんだ。 「素敵なところだね」 「そうでしょ。月っていうだけあるでしょ?」 「うーん、これは紛うことなく月だ」 「ところで。キッスしていいかしら」 「月だもの。いいよ。こっちに来て」  ……。いつの間にか、朝になっていた。月の輝きは失せていた。朝に見える月が青白く薄く見えるように、この家はなんだか違って見えた。夜の輝きをうしなって、でもなおその存在は、確かに在る。この家もひと月に一度くらい隠れてしまうのだろうか。  月に住むのは、ウサギでも蟹でもなく、愛おしいケダモノだった。  彼女とデートすると、彼女は「月に帰るわ」という。その度に僕はついて行って、セックスした。彼女はケダモノになり、僕は獣になった。  月での日々を、ときどき思い出す。この人とずっと一緒にいられたらと思っても、そううまくはいかないものだ。今も『月』はあそこにあるんだろうか。あの眩しい輝きを、ときどき思い出す。あれは、良いものだった。

友への手紙

 君が頑張ってきたことを、僕はほとんど知らないけれど。  君が頑張ってきたことを、君は絶対知っているはず。  君がなにかを賭していたことを、僕はなんとなく知っているけど、うまく君を励ませそうにない。きっとこれからも君にも僕にも困難はあるだろうし、うまくいかないこともあるだろう。自分の思い通りにならないことも、運命に翻弄されることもあるだろう。だけど、自分にできることをできる限りすることでしかないのだと、僕は思うよ。人をコントロールしようったって、大抵はうまくいかないものだし、当てにもならない。とにかく準備を十分にして、自分を追い込んでいくことでしかない。  君のしたいことを、していくがいい。  僕は自分のしたいことをようやくできそうなところまできたさ。これから、自分がどんなもんなのか、やっていくうちにわかるだろう。努力は惜しまないし、僕が気を抜いたら、言ってほしい。僕はすぐに手を抜くから。これまでにない努力ができると、自分を信じている。  拓けるかどうかもわからない。人に認められるかどうかもわからない。食っていけないかもしれない。でも、なんとか生きていかなくてはならない。どんな形だとしても。  いつまでも這いつくばっているわけにもいかないし、いつまでも自由にできるとも限らない。でも、いつまでもそうしていたいと思ってる。それがいつまで適うかはわからないけど、いつか叶うといい。  俺にはなんの野心もないし、野望もないけれど、でも、なんとなく生きているってわけでもない。どこかには向かっているはずで、それは君だって同じだろう。生きている限り、どこかへ向かっているだろう。  自分の望みを叶えた人にも叶えられなかった人にも、お金持ちにも貧乏人にも、友達が多くても少なくても、死は必ず訪れる。必ず。  死ぬ瞬間に、生き切った、と呟いて死ねたらいい。それが一年後か五十年後かはわからないけれど、そういう日は来るのだ。その日までをどう迎えるか、悔いなく迎えられたら本望だ。あー、幸せだった、と死にたいものだ。  君がしてきたことを、君の全てを、僕は知っているわけじゃないけれど。  僕は君のことを、少しは知っているはず。  君も僕のことを、少しは知っているはず。  だから。  僕が生きる依り代の一部であってほしい。君がいるから、僕はやっていける。君を裏切らないため

やるということ

 「君はそうしたいって言ってたけど、実際には何もしていないじゃない。なんで?」「……準備できてないから」「ふーん、それはいつできるの?」「そのうちに」「今そうしてるうちにできたんじゃないの、本当にそれをやる気あるのか疑問だよ」「やる気はあるよ。ただ今じゃないだけ」「その今はいつ来るのさ」  そう私が言うと彼は走って行ってしまった。大見得を切ってもやらない人間のことなど私にはどうでもいいことだ。それが息子だとしても。それが彼の人生である。できないとただ嘆いているだけなのか、実際にそれに向かって足掻いているのかは、見たらわかることだ。彼の生活には足掻いてるという素振りなどなかった。ただそうしたいと言っているだけで、それができるほどこの世は甘くない。そう言うことが見栄であるということもわかる。そして、彼にはおそらく無理だろう。ここで逃げている彼には、自分のやりたいことをやりきる胆力もないのだ。それが彼の人生である。  彼は明らかに私を避けるようになった。しかし、そこで避けているのは私ではなく、ただ自分のやりたいことなのだ。ふっかけてくる私から逃げるということは、自分のしたいことから逃げるということなのだ。「俺から逃げてもできないことができるようになるわけじゃないぜ」「……。」「やりたくない人間はやれない理由を探すものだよ。煽ってくる人間を遠ざけるし、どこまでも逃げるものだ」「……。」「君がやりたいなら、協力できるだろう。やらないならこのまま、自分のしたいことをできないまま人生を過ごしていたらいい。お前の人生は、俺の人生ではない」「やりたくないわけじゃないよ。ただ今じゃないだけ。今は忙しいし、準備ができていないから」「だから、その準備はいつできるの? 忙しくないときはいつ来るのさ。疲れていない時などないのだよ、人生には。いつだってお前は疲れているし、忙しい。黙っていて準備が整うわけでもない」「今すぐにやれってこと?」「やる気になっているときにしか人はやろうと思わないものだ。今この話題になって、ソファにふんぞり返っている人になら、できるんじゃないかと思うんだけど」「でも、疲れてるし……」「好機を待っていても、そんなものは一生訪れやしないよ。思ったなら、やるべきだ。やり続けるべきだ。そこに到達するまで。そうしない限り、できないことはできるようにはならないし、準備が整うことも

 僕たちは『箱』を介在させている。それでつながっているフリをしてる。日々。そこにはいろんなことがあるようで、何もないのかもしれない。会ったこともない人と、何かがつながっているような気になっている。日々。『箱』がなければそれは成り立たず、それを失った瞬間に、僕はいろんなものを失うわけだけど、それが人生の全てってわけでもない。でも、僕の一部であることは確かだ。  今夜も、あの人はそこにいるようで、いないようで。ときどき現れてはまた消えて。言葉や写真を表しては、いるようないないような。ときどき言葉を交わす。そうやって人とつながっているフリをしている、僕たちは。日々。  そこにはなんの繋がりもないはずなのに、なんだか親和しているような錯覚を覚えてる。その人たちは僕が危うくても不安でもたぶん力にはなってくれない。日々。そうとわかってるのに、僕はあの人たちに依存している。それはよくないことなのかもしれない。  ここに生きているという感覚を失っている。楽しければいいのだろうか。時間が埋まりさえすればいいのだろうか。気をふっと抜けたらそれでいいのだろうか。そういうことに人を使ってしまっているように思ったりする。  ただ僕は人とコミュニケーションを取りたいというだけで。そうやって寂しさを紛らわせてるだけで。人が呟いているのを見るだけで、言葉を見るだけで、写真を見るだけで、僕の中の何かが紛れている、ような気になってくる。そこに人がいるかもしれないというそれだけなのだ。その人が僕を思ってくれるわけでも、気にかけてくれるわけでも、ない。日々。なんでもない、日々。  身のあることをしなくてはならないのはわかってる、つもり。でも、実感としていま、そういう感触は全然ない。実体がない。  『箱』を介在させて、僕は独りをごまかしている。そこにはごまかしきれない何かがきっと在って、僕を苛む。どうしようもない淀みが溜まってる。鬱屈は晴れず、生は日々短くなってゆく。  人生をどうしたいのか、親身にならないと。このままで良いのだろうか。圧倒的に足りないことがある。できないこともある。やるべきことをやっているだろうか。やる前から諦めていやしないか。  少しずつ、一歩いっぽだ。日々だ。

ある恋のはなし

 出会ってすぐに想いを告げられたけれど、ボクにはそんな気は全然なかった。よく知りもしない人と付き合う癖はボクにはなかったのだ。昔から、付き合うまでにとても時間がかかる。相手のことをよく知りたいし、知ってからでないと、お話にならない。  その後、彼女を意識しなかったと言ったら嘘になる。想いを知ってる人と、一緒にいるのはなんとなく気まずかったし、なんとなく、自分が強い立場になってしまうのが嫌だった。でも距離を取るでもなく、普通に接するようにしていた。  出会って3年後にその娘と付き合った。ボクの方から、そう申し込んだ。あなたにまだその気持ちがあるのなら、ボクのそばにいて欲しいと。あなたが必要だと。  ふたりとも一人っ子だったことを意識しなかったわけじゃない。ボクはまだ若かったけれど、彼女はボクより11歳も年上だったから。彼女だって意識していたはず。二十歳過ぎたら年なんて関係ないのよ、と言ってた。お互い一人っ子とだとわかったのは、よく話すようになってからだ。そうなってくると、考えることを考えてしまう。  年上だから敬遠してたわけでもないし、顔の好みもボクにはどうでもよかった。ただ『よく知らない』ということだけだった。縁あって出会ったボクらだったけれど、それが繋がるのには、何年もかかったのだ。それでも関係が壊れなくてよかった。  出会って3年後に付き合ったきっかけ? 彼女とは職場で出会ったんだけど、彼女が辞めることになったから。そうなったら、なんだか突然に寂しくなったんだ。彼女でなければならなかった。そばにいて欲しかったから。彼女でなければダメだったんだ、とその時に気がついた。  その後、結局は別れることになるわけだけど、歳の差も、一人っ子であることも、関係なかった。なんか、ダメになってしまった。そういうことって、あるでしょう? 歯車が一つずれると、全部が狂ってしまう。関係なかったと思ってるのはボクだけで、彼女はやっぱり、意識していたのかもしれないけど。  それ以来、恋愛ってボクはしていない。出会いがないこともあるけれど、なんとなく簡単には恋愛できない年齢になってしまった。また恋愛するのには、時間がかかるだろう。恋愛で動くものが、自分の中にはある。そう知っているから、また動けるだろうと思ってる。

煩悶

──あの人、あの時、こんなこと言ってたわ。君のことを本当に愛してるのか、今の僕には解らない、って。これどういう意味? 愛してるかどうか解らないことなんてあるの?  ──僕にはあるよ、この人を本当に愛してるんだろうか、って。愛されてるから、愛さなくてはならないんじゃないかって、強迫観念みたいに思ってしまうことが。好かれると、自分も好きにならないといけない、みたいに思ってしまう。 ──そうなのかしら。私は真っ当に愛の表明をしてただけなんだけど、それってマズいことだったのかしらね ──そんなこともないけど、とにかく、好かれると好きになりやすいものだよ。振り向かなくても良いからずっと好きでいて良いですか? とか言われると男はコロッといっちゃうもんだよ。気にしないようにしても、気にしてしまうものだよ。どんなにその人が自分のことを知らないとわかっていても、自分がその人のことを知らなくても ──あー、それをナチュラルにやっちゃうのが、オンナってもんよね。態度でわかるもの、この娘あの人のこと好きなのね、って。目の輝きが違うわ ──態度だけで自分のこと好きだろうって感づく男はそうはいないと思うけど、そういう噂が周りまわって自分のところまで来た時にはもう落ちてるよ、大抵は ──ふーん。あの人も、そうだったのかしらね。私はストレートだったから。迷惑かけたのね ──迷惑ってことはないと思うけど。でも、愛してるかどうか解らないなんて、素敵ですね。その煩悶うらやましいな。 ──それが最後だったのよ、あの人とは。それきりよ。結局、愛してないことにしたのよね、きっと。 ──そう、かもしれません。でもそうじゃない理由で身を引いたのかも。自分の病気のこと知ってたとか。そういうこと、ないですか。 ──……。わかんないわ、もう、今となってはね。お別れよ。何もかも。

赦してほしい

 どうすれば、赦してくれる。何をしたら、何をしても、僕のことを君は赦してくれないだろ。欲しいものがあるってわけじゃないだろ。わがままじゃないってこともわかる。意固地になった君を溶かすものはなんなの。君の気に入りそうなこと探しても、どれも適わないって気がする。そういうことじゃないのだろ。  愛してるさ。  でも、それだけでもないのだろ。身体で示す。心で示す。それでも足りないのだろ。君はきっと赦さない。そんな気がしてる。  君はこのことの復讐を、君が幸せになることだ、と思ってるだろ。それでいいよ。君が幸せなら。僕はそれでうれしいさ。赦されなくてもいいのかもしれない。それはこっちの問題だから。ただ僕がすっきりしないってだけだろ。君が幸せならそれでいい。  振り向いて欲しいわけでもないし、君を奪いたい夜でもない。ただ君を幸せに『したかった』。でもそうはできず、僕はなんだか恨まれているような気になってる。  僕を赦して。君を愛せなかった僕を。  僕は自分だって愛せなかった。君はもう今は僕を愛してはいない。それはわかってた。そんな気がしてた。ただ恋に恋してる君に振り回されて。僕たちはもうメチャクチャで。自分を愛してない自分を基に、人に愛されるなんてできなかった。だから。  だから、僕は自分と同じように、君を愛さなかった。愛せなかった。そのことを詫びたい。かといってもう何ができるというわけでもないけれど。赦してくれるなら、きっと、何かが僕の中で晴れるだろう。天晴(あっぱれ)さ。  君と僕はもう関係なく生きていて、君はきっと幸せで、僕はたぶん不幸せで。これで君の復讐は成っている。だから。  だから、僕をもう赦して。僕を解放して。僕の中の君にそう言いたい。止まった時は、きっとこのまま動き出さない。そうさせているのはたぶん僕自身で。僕の中の君で。  きっと、君の海の中にずっといたいのだろう。君を想っていれば、幸せな気がするから。だから。  だから、僕は一人でいたんだ。そんな呪い。君はもう今の僕のことなんて知りはしないだろ。僕の中の君がそうしてる。もういいだろ。だから。

誠実であること

 ありがたいことに、意見をくれる人というのがときどきいてくださる。自分から意見をして欲しいと頼むこともあるし、相手の方から意見をくれることもある。意見かどうかもわからないこともあるし、感想だったり、愚痴だったり、あるいは悪口かもしれない。自分に対して言っているのかどうかも不明なこともあるし、そうではなくても、自分に対して言っていることとして受け止めるということもある。そういうことの方が多いかもしれない。変に被害妄想的にとかではなくてね。  そういう意見にもさまざまあって、その人自身の身を砕いて話してくれるという人もあれば、なんの責任も持たずただ言ってるだけということもある。自分を賭けて、あるいは自分を負って話してくれる人というのはすぐにわかる。私のために身を砕いてくれる人は、本当に有り難い。  実際に知っている友達に相談することと、ネットの知り合いに相談すること、そしてネットで知らない人にぶつけられた言葉には、どれも大きな隔たりがある。どのくらい話者の人格を賭けて、負って喋っているか、という違いでもあるし、どのくらい被話者(わたし)のことを知っているかという違いでもあるのかもしれない。  そこにはたぶん、人間関係の距離感というのがある。負っている人の距離感は近いし、そうでない人は遠い。私のことをそんなに知らない人はとても遠い。それなのに親密であるかのように振舞われると違和感を感じてしまう。中途半端な時が一番難しい。長年知った友達でも、しばらく交流がないと距離感を図るのが難しかったりする。  アドバイスは相手をどれだけ知っているか、そしてどれだけ自分を砕いて、負って話すか、によるのかもしれない。どんなに考えを尽くしたとしても、知らない相手に安易にアドバイスすることはできないし、責任を持たないアドバイスには何の意味もないと私は思う。それが、けしかけるようなものであれば尚更。無責任にけしかけることほど迷惑なものはない。  自分自身に対して何か言葉を内声的に発することも実は同じだと思う。自分に対しての言葉に責任を負わないというと変だけど、砕いていないということがままあるのだ、私には。適当に考えてると、たいてい失敗する。自分に対して無責任なのだ。その無責任さの負債は自分で負うわけだけど、そういう人間は何をやってもダメなのだと思う。まず自分がどういう人間であるのかを知

向き合うこと

 そこに行くとあなたは感じるだろう。死の匂いを。病室に入った瞬間に、彼の体調が芳しくないとわかる。陰気な雰囲気がある。  あなたは病室に入りたがらない。僕だけが入る。話しかけると彼は目を閉じたままうなずく。とりあえず意識はある。しかし、意欲はない。ここ数日なにも食べることは許されず、ただ病室で横たわっているだけの彼。こんな夜をどう過ごしているのだろう。死の影を感じたりしているのだろうか。  あなたはため息をつく。これからどうなるのかわからないでいるのかもしれない。転院を繰り返し疲弊しきっている。少し思い詰め過ぎているのだ。気を抜かなくてはならない。  あなたは病院にはなるべく行きたくないのだ。弱々しい彼を見たくないから。元気な彼であったなら、足取りも軽い。しかし、今はあなたの足に碇がついてしまってる。  立ち込める匂いに、あなたはたじろぐ。もうここに居たくないと思う。せめて僕はしっかりしなくてはならない。へっちゃらでことを進め、彼に話しかける。彼はうっすらとうなずく。あなたは入り口に立ち尽くしている。目を閉じた彼にあなたの存在を知らせようと僕は気を使う。  そこでようやくあなたは部屋に入り、彼に話しかける。彼は意思を蕾んだまま、そこにいる。応答はそれほどしない。あなたは怯えた声を出している。今にも消え入りそうなか細い声。これが彼に届いているのかもわからない。ただ私には聞こえた。  励ましもせず、慰めもせず、体に触れもせず。ただ「今日は無理だよ……」というあなた。「帰ろうか」。  今日は彼の体調が悪かったのだ。  いま目の前にあることから目を背けたくなる気持ち。向かい合うことは苦しいことだ。そして、逃げることはどこまでも簡単なことだ。  あなたといえども逃げ出してしまうほどに、死は尊い。そこには誰も立ち入れない。そこは、彼だけの聖域。向かって行くその場所を、いまきっと見定めている。  見つめてる。立ち込める匂いを。自尊心を。尊厳を。

僕が空を見上げるわけ

 どんな生活をしていようとも、きっとみんな毎日を同じように送ってる。病院でぼーっとするような日々でも、誰かのため精を出しても。人は日がなほとんどを習慣で過ごしてる。毎日を新しい場、新しい人、新しい言葉、新しい仕草、で過ごす人ってのは滅多にいない。それに対して飽きるとか嫌気がさしてしまうとかはまた別の話だけど。でも、多くの人が毎日を同じようにして過ごしてる。たまにあるはずの例外をみんな求めているのかもしれない。  でも、僕はなんとなく空を見上げてしまう。この宇宙の広さからしたら、僕がいま持っているこの気持ちなんてどうでもいいことかもしれない。それでも僕は『そうやって』生きていく。だって、そうでしか生きることができないのだから。  でもね。ときどきにでも宙を見上げると、心がスッとする。全てを投げ出したっていいんじゃないかと思える。有り金叩いて、仕事も全部キャンセルして、どっかに旅立ったっていいんじゃないか。そうすることが、自分にはできるんじゃないか、と。  そんなことを思わないわけじゃない。ただ僕は空を見上げてる。空には雲が在って、風が吹いている。その雲の向こうには宙があって、途方もない空間が広がっている。そこでは僕にはなんの肩書きもなく、仕事だって関係ない。ただ一人の地球人でしかない。いや地球人ですらないかもしれない。ただ動物。ただ生命体。いろいろなしがらみなんて、そこには関係ないのだ。ただ在るだけ。それは、雲と風と同じ。  そんなことをぜんぜん思わないわけじゃない。ただ在ることを確認したら、それでおしまい。虚空をちょっとだけ眺めて、僕はまた元に戻る。いえには家族がいて僕の帰りを待っている。元の生活。元の社会。  ときどきそういうものを意識の上で飛び越えて、僕は成り立っているのかもしれない。つまり、それさえも習慣のひとつなのである。そうやって、ときどき行ったり来たりしながら、また日常に戻っていく。  そうすることが当たり前だから。そうすることが正しいことだから。そうすることが、誰も悲しまないことだから。  今日も独り空を見上げる。ありふれた毎日を飛び越えて。僕は空に飛び立つ。空を想う。

罰と褒められること。そして悔いについて

 なんというか、自分の周りで起こったことみんな自分が悪いから起こったんじゃないか、みたいな発想になってしまってつらい。冷静にその根拠を探れば、自分のせいであるはずがないことなのだけれど、第一感でまず自分の罪を感じてしまう。小さなことも大きなことも、様々なことが自分のせいなのではないかと思ってしまう。  それは、自分が何もできない人間だという強迫観念からくるんじゃないか。過剰に卑屈になっているのだと思う。自分は非をしでかしてしまう人間なんじゃないかと思い込んでいる。とにかく自分のことを出来ない人間、不充分な人間、と思い込んでいる。そしてそれはおそらく図星なのだけど、それすらも自分が悪いのではないかという発想の一部なのかもしれない。  存在が罪深いとまでは言わないけれど、自分がなんの役に立っているのだろうという自己嫌悪は拭えない。なんともなしに救われたいと思ってしまってる。楽になりたい。このままこの強迫観念が強くなっていったなら、私に待ち受けている道は一つしかないのだろう。この罪の意識──しかしそれはなんの根拠もない──をどうしたらいいのか私にはわからない。  この強迫観念を払拭するために、私は何かができると自覚したいのだと思う。ある会話で、僕は褒められたいのかもしれないと呟いたのだけど、おそらくそれだって自分が何かをできる人間であると承認されたいのだと思う。そうしなければ、自己罰に押しつぶされてしまう。  自分で自分を認めることは「一応」できているはず。でもどこかで認めきれていない部分があるのだと思う。自信がないわけではないのだけど、社会がそれを許さないかもしれないと、どこかで思っている。というかそれをまず許さないのは自分なのだと思う。何もできない人間だとか、恥ずかしいとか、目立ちたくないとか、人と関わりたくないとか、思っているのだ。私にとって世間という言葉は往々にして自分のことである。  自分を信じている部分もあるし、それはたぶん過去の自分によって、だ。今の自分をどう思っているかというと、あやふやなまま。評価されたらうれしいけれど、そうでなくても何も感じない。努力をしているかもしれないし、そうでもないかもしれない。それが報われるべき努力か、あるいは他の誰も真似のできないような努力かというと、そんなことはない。ただやっているだけとも言える。そんなこと、努力と

きょうの神様

 外に出ると木枯らし。強い風が吹くと、いつも誰かが通ったかのように感じてる。そこにはきっといるのだろう、「きょうの神様」が。  父は入院してからというもの、冗談を言うことが多くなった。それがこの閉鎖空間でうまくやっていくための秘訣なのかもしれない。あるいは本当に気が触れてしまったか。はたまたあるいは寂しいのかもしれない。看護師さんを笑わせている父を見ると和む。家では滅多に冗談なんていう人間ではない。それが人が変わったように冗談を連発してくる。本人が笑うことも多い。一見明るくように見えて良いように思えるけれど、やはり、病院生活はつらいだろう。昨晩、血圧がとても高かったんだ、と言う父は、とても不安そうだった。でも彼は命を落としたわけじゃない。「きょうの神様」がそうはしなかったのだ。明日はどうなっているかはわからない。今日より良くなっているかもしれないし、明後日はもっと悪くなっているかもしれない。いい日になるといい。  家に父がいない日が続く。家はとても静かで、物音がするたびにそれが母が起こしたものだと見当がつく。父がいる時と変わらない生活をしているようで、そこかしこに違いがあるはずなのだ。父のいなくなった居間の机の上を整理し、父の和室を二人で片付ける。父がいないからといって変わったことは何もないとはとても言えない。いつも居た人間が一人いないというだけで、こんなにも心情が変わるものかと驚いている。それは、それが父だからだ。父のしていたことを一つひとつ思い出しながら、いろんなことに不便が出ないように気を使っている。もちろん、入院している父自身に対しても。いろんなことに気を配ることは、楽しいことでもあり、苦しいことでもある。気を詰めないようやっているけれど、不便を被るのは自分であり、家族であり、父であり母である。気を配り損ねて、今日は少し大変な思いをした。でも、大事には至らなかった。「きょうの神様」がここにもいた。いい日になるといい。  歩いていると、幼稚園児が母親と共にこちらに歩いてきた。正確には子どもは走っていて、母親は歩いている。目の端で眺めつつ歩いていると、子どもが転んだ。でも、子どもは泣かなかった。母親も特に騒がず、膝をはらって、そのまますたすた行ってしまった。子どもはまた元気に走って行った。「きょうの神様」が癇癪を閉じたのかもしれない。あの児は幼稚園で元気に

求められている自分こそ

 何かをすることは、生きている限り、するのだろう。ただ無目的に生きることもできるのだろうが、今は人のために生きることができたらいいのにと思っている。そうすることが自分の力を一番発揮できるはずだと思うからだ。ひいては自分の能力を一番伸ばす方法だからだ。  私は自分のためにずっと生きてきたし、そう生きることを選ばざるを得なかった。人のために生きるって、カッコつけてる感じになってしまうけど、自分の力を出すためには、そうすることが一番だと本当に思ってる。自分のために自分の力を発揮し尽くすことは難しい。どこかで手を抜いているのだと思う。  文章を書くのも、いつも自分のために書いてきたのだけど、それを外に向けて書いていたら、自分でも少しはましかもしれないと思えるようになった。少し世界が開けたのだ。ずっと閉じた系で書いてきたから、とりあえずそのことは新鮮だった。どういう文章を書くことが自分にとっても特定の誰かにとっても良いものなのだろうか、って考えると、少しは普遍性を持てるかもしれないと思う。  普遍性を持った文章をずっと書きたいと思っていたけれど、うまくいかなかった。自分にしか当てはまらないことは、誰にでも当てはまることじゃない。読む人の顔が思い浮かぶってわけでもないけど、今はそれよりは少しは開いているのかなと思う。それは実社会での自分の開き方とも呼応しているように思う。  人を認めることができるようになったら、文章にも少しは変化があるだろうと。自分の人の見方が文章に反映されるということは容易に想像できる。自分が卑屈であれば、文章も卑屈だろう。自分が開いていれば、文章も開くのではないか。  人に求められる自分が本当の自分なのだとしたら、僕は求められているように生きるのが良いだろう。だけど、今は、誰からも、何も、求められていない。家族にほんの少し認められているという程度。この範囲が広がっていったら良いのになぁと思うし、そうする努力をこれからも続けていくつもり。  その範囲はきっと仕事によって拡がるし、努力次第だろうって感じはする。自分が何をできる人間なのかをきちんと明確にする必要があるし、それを情熱を持って伝えられるようにならないといけない。  今自分の前に立ちはだかっている壁はとても厚い。負けたくない。負ってきたものが重すぎる。一歩いっぽだ。進んでいれば、どこかへ

自分への陶酔と努力の質

 自分なりに努力していたというだけで、それにはなんの担保もなかった。褒められたことだってそう大したことではなかった。頑張ってるね、とかそういう程度だった。それで良い気になっていたし、自分はできるんだと思い込んでいた。でも、そうではなかった。  というか、何もできないところに立っている。今、現実に。自分を成り立たせることができないでいる。それが現実だ。学歴があってもなんの意味もないところに立っている。それはなぜかって、全部自分の所為なのだ。ここに立っていることにはなんの矛盾もないし、立つべくして立っている。そういう人生を生きてきたからだ。確実にそう言える。自分の人生の総体としてここに立っている。  いろんな努力をしてきてものになったことは一つもない。そこにはきっと自分の中の何か甘い部分があるのだろう。努力とか、込めるということのなにがしかを私は勘違いしているのかもしれない。うまく自分を磨くことができていない。そのままでは何をやってもダメだろう。ここにある文章群がダメであるのと同じように。  努力しているということに酔いがちなのかもしれない。自分は努力している、だから認めて欲しいという風になりがちなのだ。でもそれだけではダメで、努力しようがしまいが、結果さえついてくればそれでいいのだ。結果を出すことができないなら、努力していないのも同じなのに、ただ闇雲にやり込んでいるだけで、私はなんの結果も出せないでいた。結果を出すことに尽力せず、ただ脇目も振らずやりこむことに熱中していただけだった。自分に酔っていたというのはそういうこと。努力の質が低ければ、何をどんなに努力を重ねても、なんの役にも立たない。  たぶん、自分にはやりたいことがあるのだろう。まだそれは言語化されていないし、表現もされていない。だけど、そこに向かうなら、自分の陶酔に関しては、きちんと考えなくてはならない。変に努力してうまくいってしまったから、それで調子に乗っているだけなのだ。人に導かれてうまくいったことが自分一人でできるわけじゃないし、たまたまうまくいっていたに過ぎない。その結果は自分の宝物ではあるけれど、たまたまうまくいったことをいつまでも抱いていても、不幸な人生しか待っていない。  『いまの』自分が『現実に』どうであるのか、どんなことができて、それはどう役に立つことなのか。どう自分を成り立たせ

けしかける人

「できないんだー?」 「できないよ」 「ふーん」 「なんだよ?」 「いやー、別にぃ?」 「……。」 「ふーん。そこで黙るんだ?」 「できないものはできないの! 俺じゃ無理」 「そうかなぁ? あたしはできると思うけど」 「いや、無理だよ」 「やってみなよぉ。やってみたことあるの?」 「ないけど。無理だよ、どうせ」 「んじゃ、やってみなよ! できるかもしんないじゃん!」 「そうかなぁ? できないと思うけど」 「いいからいいからほら。今すぐでなくても、きっといつかできるようになるよ」 「うーん。できたらいいとは思うけど……」 「ねっ? やってみたらできるかもよ? やろうとしなくちゃ、一生できないままだよ」 「そうだけどぉ」 「どうせ自分には、とか考えてる暇あったら、どんどんやろ! やんなきゃできないでしょ!」 「できないのが怖いんだよね」 「大丈夫だよ。今できなくても、いつかできるよ。きっと。そのための一歩目だよ、今日は」 「初めからできる人なんていないのかなぁ」 「そうだよ、ほら! やったやった!」

嗾(けしか)ける人

 私はあなたを嗾(けしか)ける。あなたは私を嗾ける。そうやってDNAのらせん構造のように上ってく。互いがいなくてもたぶん僕たちはうまくやるだろう。でも、あなたがいた方がきっとより速く上がれるだろう。気づけることもあるだろう。  互いに欠けた部分を補いあって僕たちはのぼってく。二人でいるから正しくなれる。  一人でも生きられるが、誰かと生きるならあなたがいい。その方がより正しく生きられる。できないことを補完しあって、僕たちは生きていく。  信じることは、誰が相手でもできるわけじゃない。あなただから、できるのだ。あなたでなければならないのだ。 *** 「できないんだー?」  その一言でいい。それだけで私の心に火をつけるのに充分で。それだけで私がやる理由として充分で。心が動けば動くほど、私は躍起になるだろう。自分の実力以上の力を発揮できるだろう。そうやって僕は上って行きたい。できなかったことができるようになる時、私はあなたのことを感じてる。  ──君に請われることの、うれしさよ。  望みを叶えることを、惜しみたくない人。どんなことでも叶えたくなる。すべて口惜しいことは君の望みを叶えられないこと。できうる限りをしたいと思う人。 ***  無言の要望でもいい。私がしないときに、(できないんだ)と思う、それだけで私は躍起になる。ただあなたがここに存在していることが、私の成長につながっている。限界突端の発端なのだ。やる気になるのだ。なんだってできるのだ。  ──だからやるのだ。  ただいるだけで、それだけで。あなたを感じることが、私を躍起にさせる。 ***  嗾けること。私だけの到達点は、二人でなら簡単に超えるだろう。二人三脚の方が速く、遠くへ行ける。一人ではいけないところへ行ける。二人だからできること。二人だから行ける場所。  僕はそうしたい。そうしなければならない。そうしなければ気が済まない。そうでない時間なんてありえない。  ただ、君を想う。

訥々I Love You

 私に気づかせて。私の知らないことを。見えていないものを。感じていないものを。  私に気づかせて。見失っていたものを。これから大事なことを。  私に気づかせて。すでに出会ってたことを。 ***  感化すること。啓発すること。嗾(けしか)けること。  あたしの思い通りに生きれば良いと、その不遜さはいらない。ただ自分の正しさを相手にも正しいと納得させること。時に話し合い、時に議論し、激昂し。何が正しいのか、その到達点を共有したい。  私の正しさとあなたの正しさが合わされば、きっとより正しいだろう。  私の見えている世界と、あなたの見えている世界が合わされば、きっとステキだろう。 ***  私を嗾ける人が好きだ。そのためなら、見くびられたってかまいやしない。  あなたはいつも私を感化して。嗾けて。  それによってわたくしは、生きることができる。  あなたのいうことなら、納得できる。なんだかそんな気がする。そう思えることが、私にとっての愛の証明なのだ。無条件降伏するつもりはないけれど、今までのあなたはとりあえず、私にとって大まかに正しかった。  だから上手くやれるはず。  あなたが嗾けるなら、私はやるだろう。嗾けなくてもやるだろう。だけれど、その要望が、私にはうれしいのだ。喜びなのだ。やるのなら、あなたを想ってやった方が上手くいく。必ず。  あなたの影を感じながら、あなたを追いかけていたい、追われていたい。  そうすることが、人生に於ける、私のこの上ない喜びなのです。 ***  私の正しさとあなたの正しさと合わせたら、きっと上手くいくだろう。僕たちは、互いを補完しあって生きていく。そうでなければ生きていけないと思えるほどにその正しさは精巧である。私はあなたがいなければ、あなたは私がいたら、その正しさに到達できる。互いが互いを必要とし、絡まり合って生きて行く。絡まり合って死んで行く。どうあってもうまくいく。どうあっても納得できる。どうあっても生きていける。この二人なら。 ***  だから私はあなたを嗾けるし、あなたは私を嗾ける。そうすることで僕たちは螺旋状に登ってく。やがて高みに到達するだろう。  互いを感化しあっていく。知らないことを知らせ、見えていないものを見せ、感じていないことを感じさせるのだ。

持つ者、持たざる者

「何も考えずにそれをしているってのが、まるわかりだよ君は。考えてないでしょう」 「そんなことないって? 誰だってそういうよ。きちんとコメないと、伝わらないよ。そういうことは、相手にはわかるものだよ。こいつ手を抜いてるなぁって」 「やる気ないなら、さっさと諦めて次に行ったほうがいいんじゃないの。あなたがどのくらい他のことができるのか知らないけど。やればできるんじゃないの」 「たまたまこれはダメだったというだけでさ、そんな大したことじゃないよ。きっと何かがあるはず。打ち込めるだけの何かが。それをできるだけ早く見つけることだよ」 「やる気がないように見えるのは、損だと思うけどね。あるんだかないんだか知らないけど。気持ちは大事だと思うよ。どうやってそれに取り組むのか、っていうさ」 「何も考えていないのは簡単に人にわかるよ。こいつ路頭に迷ってるな、やる気ないな、って」 「気持ちさえあれば、叱ったり、諭したりできるけど、何も考えていない人には何もいうことはないよ。どっか他へ行けば、って感じ」 「やる気がないなら去れとは言わないけど、志もなくやってても仕方ないんじゃないの」 「自分のやる気になることなんていくらでもあるはずだと思うけど。なんとなくやっているんだったら、誰の為にもならないんだよ」 「どうこれに取り組むかってこと。何を目標にしているかってこと。どう思ってやっているのかってこと」 「自分で疑問に思って、課題を立ててくことでしか成長なんてないだよ」 「人の言うこと聞いてるだけじゃ、自分のやりたいことなんて一生できないよ。こき使われるだけの人間になる」 「やりたいことなんて一切なくて、ただ人の言うこと聞いてるだけでいいってのならいいけど、そんな人と一緒に居たくないよね、普通は」 「やる気を出せって言うのは簡単だけど、それ言われて出た人なんて見たことないからね」 「一生、人のいいなりになって生きるのも、人生でしょ」 「志って言葉も曖昧だけど、それがなければ、たぶんやっていけない」 「生きる覚悟はあるか、ってこと」 「つまんない人生を生きるのもいいさ、他人の人生だもの」 「自分で切り拓いてくことでしか、見えないところもあるさ」 「変化したらいいってものでもないけど、そのままなら、そのままだ」 「どうしたいのかって、もっとよくいろんなことを

すべての逸脱した人たちへ

 私は自分のルールを持ち出しすぎなのかも知れない。それが過剰になると、きっと良くないことが起きるのだろう。そのことは社会に認められるということと関連している。自分だけの世界で生きている時間が私には長すぎた。過ぎてしまった時間を悔いても仕方ないし、これからそういうものを身につけていけばいいはずなのだけど、どうするべきなのかわからないでいる。  自分だけのルールが社会に適応しているかといったら、たぶんその多くはそんなことはなくて、逸脱していると思った方がいいのだろう。自分だけのルールが素晴らしいものである可能性はたぶん低くて、なぜなら何も考えていないから。社会のルールを鑑みてそう決めたというわけでもなく、ただ自分の都合の良いように決めただけのルールなんて、何の役にも立たない。ただ自分が自分にとってのみ、まともであるというだけなのだ。それは社会とってのまともさに適っているというわけではない。  いかに社会と自分について考えるか、なのだと思う。どれだけ自分を貫こうとも、社会の中に収まっているのならそれでいいのだということ。見た目の問題だけでなくて、精神とか志のことを私は言っている。  いかにまともであるか、という昨日の話は、ルールの適用にかかっているのだということに気がついたというわけ。どんなルールを持ち出して、それに応えるか、ということである。社会の端にいたとしても、社会のルールと自分のルールが適応していれば何の問題もない。自分のやりたいようにやるのは結構だけど、社会のルールを度外視していたのでは、社会の一員とは言えない。  『志を持たないものが、志を持つものの言い成りになるのは当たり前』と某アニメスタジオのPは言っているみたいだけど、最近は志について考えてる。このことは自分なりにやる、ということと関係があると思う。志をいかに持つのか、ということ。自分なりに無意味にそれを持ったところで、空回りすることは目に見えている。そうやって増長し続けて、私はずっと失敗してきたのだ。問題は『志』というルールをどう設定するか、ということだ。どうそれを考えるか、ということ。闇雲に持っても仕方ないということ。今回は戦略的に行くぞ、と思ってる。ただ頑張るだけではダメなのだ。  エナジーをいかに燃やすかということ。どのように、何に対して燃やすかということ。これをきちんと戦略できたら、き

まともであること

 まともであることについて今日はうっすら考えていた。何を持ってまともというかっていうのは難しいことだけど、まともな人なんているんだろうか、とか、その度合いがあるのかもしれない、とか、まぁ、いろいろある。  まともでなくてはいけないということもないと思うけれど、度が過ぎるのは困りもの。その度をどういう風に解釈するのか、あるいは具体的にどういう点でまともでないかというのが問題になると思う。それをどう自分で感知して、どう暮らしてくか、ということでもある。  社会の中で暮らしていくことについて、まともであるということはどういうことなんだろうって考えても、たぶん答えは出ない。自分は、自分だけはまともであると思いたいのが人間だ。でも、どこかで気がつくのだ。きっと。自分はまともではないかもしれないと。その時に見て見ぬ振りをするのか、しっかりと受け止めるのか、というだけなのではないか。まともでないというエピソードが大仰なものであったら受け止めやすいし、簡単なものだったら流されてしまうのかもしれない。多くの場合、一人では気がつきにくいことなんじゃないか。一人でいるということの怖さはそういうところにあると思う。つまり独りよがりになりがちだということだ。  みんな自分はまともであると思いたいものだ。一歩も道を外していないと思いたいものだ。まともでない自分なんて存在していないかのように振る舞ってしまう。まともでないことを受け入れるのは人によっては難しい。  私はまともでありたい。きっと特をしたいし、いい目にあいたいのだろう。少しでもまともでありたいと思っていたし、まともであるとも思っていた。御多分に洩れず、私は少しもまともではなかった。小さい頃からのエピソードを思い返しても、難しかったな、と思う。それでもそれなりに人に好かれたり、好いたりできたのだから、まぁ良かったのかもしれない。  まともであろうとはしていると思う。それは自分の思うまともである。社会の思うまともとは違うのかもしれない。そこにきっとズレがある。生きていけるからといってまともとは言えないだろう。半身不随でも一応生きている。でも、まともではないかもしれない。まともに生きることの難しさ。まともを考える難しさ。認知する難しさ。たぶんこの考えはどこまでも尽きない。完璧な人間なんていないからだ。  まともな人間なんていない

片麻痺(へんまひ)

 父が倒れた。救急車を呼んで、入院することになった。診察によると糖尿病による脳梗塞らしい。半身麻痺が出ていて、リハビリ次第だが障害が残るかもしれない。今は左手足に力が入らない状態。一人でトイレに行くのにも不自由している。  私も障害者であった。ほんの1ヶ月前まで。入れ替わるように父が障害者となりつつある。私はずっとサポートしてもらってきた立場であるので、これからできる限りの事をしたい。  今はなんでこんなに甲斐性を持てるのだろうと不思議に思うくらいに、父のことを考えてしまう。「父」はこの世に一人しかいない人間である。こんなに自分の親父のことについて考えていることがあったろうか。不自由してないだろうか。何か欲しいものはないだろうか、考えてしまう。できる限り快適に過ごして欲しい。こうして夜に何もできることもなく、時間を過ごすこともできずにいると思うと、居ても立ってもいられない。  今日は3回病院に通った。着替えを持って行ったり、スマホを持って行ったり。家から5分のところに病院はあるので通いやすい。思い立ったらすぐに行ける。一日に何回でも行ける。  父は今、少々鬱っぽくて会っても笑顔をほとんど見せない。うなだれて、寝ているでもなく、起きているでもなく。ぼーっとしている。何を考えているのだろうか。病室のカーテンはどれも閉ざされていて、一つひとつの空間は仕切られている。  2回目に行った時、スマホを操作できずに「指が動かせねぇや」と笑っていた。私は緊張していた。午前中に面会に行った時、ちょっと悪い空気になったからだ。父も自分の不甲斐なさにイライラしているし、母はできることをしようとしているのだけど、それがうまく噛み合わなかった。午後は私だけで行った。笑った父を見たら、少しだけ安心した。なんでか食事を摂っていないので、時間とともに元気が無くなっていく。1度目に行った時に見せていた回復への意欲も、2回目には失せていた。3回目はもっとであった。明らかに落ち込んでいるな、とわかる。何をするでもなく、考え事をしているのだろうか。この、今の時間も、何をしているのだろう。  3回目の面会で部屋がナースステーションに近いところに移っていた。それだけ看護師さんにご厄介をかけているということかもしれない。今すぐに何かあるってわけじゃあない。歩けないのでナースコールを押す回数も多いのか

気持ちを尽くすこと

 自分が寛解して1ヶ月もしないうちに父が倒れてしまって、こんなこともあるんだなぁという感じでいる。寛解と前後してたら、今日の自分は役立たずであったろうと思う。今日はいろんなことを考えた。父と喋ることは本当に良いことだと思う。  2ヶ月くらい前にも父は体調を崩してて、ヘルペスやら結膜炎やらやってたのだけど、今回は歩けなくなっての入院。大変だろうと思う。サポートしたい。介護が必要になるかもしれないし、今後はどうなるかわからない。お金もかかるだろう。  10年くらい前、自分がヘルニアで入院した時に父と喧嘩になってしまって、父はそれから病院には一切来なかった。自分がそういう年頃だったと言ってしまえばそれまでだけど、そういうこともあった。まぁ、親子だからね。男親と息子にはいろいろあるものだ。最近はうまくいっていると思ってるけれど、お互いイライラしたりしたら、どうなるかはわからない。うまく関係を持っていたいと思ってる。できることなら自分で世話をしたいと思っているということ。できるはずだし、私にしかできないこともあると思う。父が嫌がったらそれまでだけど。母と私の二人体制で介護できるのだから、まずはそれで様子を見ることになるだろう。よくなるといいけど。  丁寧に親切に。親だからといって、気を抜かないこと。父がどう思っているか、きちんと察すること。考えること。慮ること。いろいろ言葉を並べたけど、自分にはできるはずだと思っている。ここまで生きてきた中で、そうできないわけがないと思っている。時間も作ればある。まだ死ぬってわけじゃあない。互いに楽しく暮らしてくことだってできるだろう。父のことを思うことを諦めなければ、できるだろう。関係が壊れなければ。自分としては諦める気はないけれど、父が嫌だといったら本当にそれまでだ。こんなこと書いてるとそれを呼び込んでるとか、望んでいると思われるかもしれないけど、割とプライドはある人だと思うから。息子に情けないところを見せたくないと思っているかもしれない。まだそんなそぶりは見せないけど。母に任せたほうがいいのかもしれない。時間を持て余して、しゃしゃり出るのは良くないのかもしれない。少しずつ、様子を見ようと思う。  リハビリでどこまで回復するかにもよるのだし。歩けないと書いたけど、歩けないこともあるという程度で、微妙なところ。力が入らないらしい。薬

世の中にいる人たち:眠れない夜に母が話してくれたこと

 眠れない夜に母が話してくれたことには。 「あなたが思ってるよりも、世の中は良い人に溢れているのよ」 「そうねぇ。知り合った人に良い気分でいてほしいと思うような人。人に良いことをするのは自分も良い気持ちになるものよ」 「出会った人がたまたま、嫌な人だったからといって、すべての人がそうというわけではないの。あなたを嫌いな人もいるし、そうでない人もいる。あなたに関心のない人だっている」 「あなたを嫌いな人と無理して付き合うことないのよ。離れられるのならそうした方がいいこともあるわ」 「それにね、今まではあなたを好いていたのに、ある瞬間から全く逆の気持ちを持ってしまうこともあるのよ」 「そうなったら、身を引くことよ」 「大きくなると着られなくなる服があるように、人も合わなくなったりするものなのよ」 「それは、誰が悪いってわけじゃないわ」 「人は誰だって愛されたいものなのよ。それに、愛したいものなの。そうすること、されることを求めているものなの」 「そうするために、いろんなことをするし、そうされないから、いろんなことをしてしまうのよ」 「あなたに危害を加えた人にも、きっと理由があったのよ。それをどうしても知らなくてはいけないということはないけれど、世の中にはそんなに理不尽なことなんてないのよ。たまたまあなただったということはあるけれど」 「人はみんな同じ方を向いているわ。愛されたいし、愛したい。それを叶えるためにいろんなことをするの。してしまうの。このことを忘れないで」 「あなたも、愛せば、きっと、愛されるわ。きっとね」 「どうにもならないこともあるけれど、それを知っているだけで楽になるということだってあるのよ。覚えておいて」

認められるために

 認められるということは、自分のしたことを人に見てもらって頷いてもらえるということだ。私たちはきっと、いろんな人に認めてもらうことができて初めて生きることができるのだろう。最初は両親から、その後生きていくうちに出会う人たちから認められることでなんとか自分を保っていくことができるのだ。それなしには人は生き場を失うだろう。今うまく人に認められないとしても、自分のやりようによっては、また他の人に頷いてもらえるかもしれない。そうなる可能性を閉ざしてはならない。いつも開いていることが肝要なのではないか。  彼は、無意識に人に認められたいと思って生きてきた。しかし、認められるべき行動をとっていなかった。つまり何もしてこなかったということだ。なぜ自分が誰にも相手にされないのか思い悩むということもなく、淡々と生きてきた。でも、どこかで認められたいと思っていたのだ。そういう欲求を人は隠し持っているものだ。その気持ちが満たされたらいいのにとどこかで思いつつ、歳を重ねていく。こうしたいということもなく、やらなければ気が済まない何かもなく、月日は経っていく。誰からも認められることもなく、ただ生きている。そうやって生きることだって、人にはできるものだ。恵まれてさえいれば。しかし、それは生きていると言えるのだろうか。どこの誰からもその存在を認められていないという人間。戸籍には登録され住む家もあるという形式上の認可は得ていても、誰も彼を知る人はない。ただ独りの人。  何かするということの意味を。人と関わるということの意味を。人に頷いてもらえるということの意味を。  何かするから認められる芽があるわけで、そうでなければ、人に頷いてもらえることなんてない。何もしない人間が認められるなんてことは、たぶんない。そして、何かした人間が必ず認められるというわけでもない。しかし、何かしなければならない。それは人の中に生きるためである。生き場を見つけるためである。  彼が認められるためには、自分を開かなくてはならない。出て行かなくてはならない。自分のすることの一挙手一投足を精査しなくてはならない。できることをし尽くさなくてはならない。人の心を射抜かなくてはならない。  そうしようと思わなければ、それはできないことだ。認められたいという自意識をまず自分が認めること。それから、すること。大抵でないことを。

掴む

 例えば、の話をまず書くので読んでほしい。  用を足しにいってなかったら私は死んでいただろう。『そこにいた人』はみんな爆風と爆音に巻き込まれて居なくなっていた。私はカフェでコーヒーを注文していただけだ。コーヒーが出来上がるまでの数分をトイレで過ごすことにした。それで私の運命は変わってしまった。というよりも、無くなったはずの生がそうではなくなったのだと思う。 ***  とりとめのないことで人生は変わるものだ。その生死を分かつデッドラインは見えることはない。どこに存在しているのか、その一歩だって命取りになるということはありうるのだ。  命を分けなくても、何かを分けることはある。あの日、本屋に行ったからこの本と出会えた、だとか。たまたま散歩していたら旧友とばったりあって、運命が変わった、だとか。そういうほんの些細なことの中に、何かがあるのだとしたら。それを掴むのは、どういう人間なのだろう。限られた出発点から誰だって始まっていく。誰だって一つのきっかけから、何かが始まっているに過ぎない。たまたま、トイレに行った。たまたま、外を歩いた。たまたま何かを得た。幸運というにはそれは野暮である。何かがある。その人は掴んでいる。  それは生かもしれないし、はたまた死なのかもしれない。そんなに大げさでなくても、それは一生を左右する出会いかもしれない。極限状態──つまりは戦争であるとか──では生死を分かつことなんて簡単で、そういう感覚はどんな時にでも役に立つはずだ。この瞬間、逃してはならないという嗅覚。それは場数を踏んでいるから得られるのだろうか。  この出会いを、この場を、この瞬間を、逃さないということ。  それは本当にたまたまなのか。トイレに立つことが生死を分ける瞬間があるのだとしたら、人の生という儚さを私は恨む。それは私でなければならなかったのか。なぜ他の人間ではなく、私なのか。誰がそれを選んだのか。  それは紛れもなく私である。掴んでいるのである。  人は皆、選んでいる。トイレに行く間を。外に出るということを。人と会うということを。本を読むということを。知らず知らずのうちに選択している。そうやって時を超えて、人生は成る。成るも成らないも、本当には自分次第であるはずなのに、そうはしない。言い訳することはあまりに簡単で、運命を人に託してしまうことほど安易なことはない。

怒鳴り声についての一考察

 「恫喝」という言葉がある。怒鳴ることはその言葉とつながっているように見える。だけれど、ただ怒鳴るという人もいるのかもしれない。自分の気持ちの表現としての怒鳴り。そうしなくては伝えられない何か。しかし、どんな時でも人は怒鳴られるのは嫌なものだ。怒鳴り散らされるのはもっと嫌だろう。恫喝はできたら一生お目にかかりたくないものである。  怒鳴ることのおびやかされている感じというのが私はとても苦手だ。得意という人はいないかもしれない。平気だという人は何かが麻痺しているか、自分も怒鳴り合いの当事者になっているに過ぎないのではないか。自分も怒鳴っていれば、人の怒鳴りは気にならないことが多い。自分をそうやって無意識に正当化するのだ。だから、人が怒鳴っている時、自分も怒鳴ってはならない。馬鹿にするのは馬鹿のすることというのと同じ。相手と同じ土俵に立ってはならない。  感情が昂ぶるとつい大声になる、という人がいる。そうすることでうまくいってきた経験があるからなのか、単に昂ぶってしまっているだけなのか。感情の発露とともに声がでかくなるのである。そこは自動的なのだろう。そうすることでフラストレーションを発散しているのかもしれない。そういうことは一人でやってもらいたいと私は願う。何かを伝えるのに怒鳴る必要なんてほとんどの場合必要ないはずなのだ。  別に私はこの文章で怒鳴り散らす人間が愚かであると言いたいわけではない。ただ怒鳴ることについて考えてみたいと思っただけだ。  人を自分の思う通りに動かしたいとき、恫喝する人がいる。相手を怯えさせて言うことを効かせようという人だ。そこには感情の発露もあるだろうし、その方法がうまくいくというある種の無意識の計算もあるのかもしれない。怒鳴る人はそれがうまくいったからそうするのだろう。怒鳴ることが死刑に値するのなら、誰も怒鳴らない。怒鳴ることが効果的だと暗に思っているからそうするのだ。  怒鳴ってしまう、ということは自分に自信がないことの現れなのではないか。怒鳴らなくても伝わることを、怒鳴ってしまう、あるいはあえて怒鳴るということは、そうしなければ受け入れてもらえないという気持ちの現れなのではないか。何もなくても伝わって説得することができるのであれば、あるいはそういう自信があるのであれば、普通は怒鳴る必要はない。恫喝する必要などないのだ。彼らは本

ゆらめかせる

それは、雲のながれ それは、台風の残りび それは、映える朝陽のスクリーン それは、心のざわめき それは、歩みを進めるきっかけ それは、出逢い それは、けしかけてくるおんな そして、それが風であることを知った *** 風は、暴れながら人を叩く 風は、炎をけしかける 風は、別れさせる 風は。ゆらめかせる、戦旗を。

壁を越える厳しさ

 最近思ってることを今日は書く。どう表現したらいいのかわからないので試行錯誤して書くけれど、うまく伝わるとうれしいです。とにかく書いてみます。  社会の厳しさというか、入りにくさ、みたいなのを感じてる。甘ちゃんの自分が悪いんだけど、でも、感じてるものは感じてる。ちゃんとしてなくてはいけない感じというのが本当にひさびさで面食らったというか、ちょっとショックだったんだよね、やっぱり。あぁ、こういう感じ、あったわ、って。ずっと忘れていた。  大学に入りたての時のような若い頃には、世間知らずでもなんでもとにかく若いんだから許されていたことがたくさんあったんだと思う。今はそれが許されないというか、相手にもされない年齢になっているのだな、ということを、最近になって実感した。  しっかりしていればいいのだし、社会性というか、そういうある種の厳しさを受け入れることはできる、はず。でも、ずっと一人でいて、そういうアマい生活の楽さに慣れてしまっている自分もいる。温室はやっぱり心地いいし、出るのが困難だっていうのもわかる。  私はいま、誰にも認められていない人間だ。それはある種の厳しさを通っていないからだ。誰の担保もない。この人はこういうことができる人だ、と誰からも認められていない。それはきっと厳しさとひとつながりにたぶんなっていて、その壁を超えたクオリティを持っていないと、社会には認められないんじゃないかな、と思ってる。  それは、自分の作るものもそうだし、自分自身のことも言っている。  自分に厳しく、ってよくいうけど、私にはそういう風にはできそうにない。自分に厳しいのかもしれないし、甘いのかもしれない。自分ではよくわからない。やるべきことをやっているつもりだったけど、それが社会性を持っているかというと、全然そんなことはなくて、ただ自分なりにやっているというだけだった。走ることも睡眠時間も食事も、書いたものも、もう、何もかもが。  自分という人間が、自分のしてること、作ったものを見ている。だから、自分がもとだし、そこから全ては始まってる。自分がダメだったら、自分の作ったものも、たぶんダメだろう、って普通に考えて、まぁ、そうだろうと。まず自分ありきだし、自分がダメだったら、何やってもダメなんじゃないか。  私は自分のことを社会性がある方だと漠然と思っていた。だけど、全然そ

違反

「なんであのおっさん、スキンヘッドを黒く塗ってるの……」 「しーっ! あの人、高校教師で、生徒指導の一環でああしてんだってさ」 「どういうこと?」 「だ、か、ら! 生徒指導係りなんだって。それで生徒が染色するのを理不尽に注意してたら、ある日生徒に言われたんだって」 「なんて?」 「先生は白髪染めなくていいんですか? って。示しがつかないから染めたら、頭皮が痛んでハゲちゃったんだって」 「それで?」 「それでも生徒に突っかかられて、ああしてんだってさ」 「むごいわー。笑っちゃ悪いかな。帽子かぶればいいのに」 「ねー。あれは校則違反じゃないのかな(笑)」 「マッキーで塗ってるのかな? かぶればいいのに」 「最初はかぶってたんだけど、髪型はうるさくいうのにズラはいいのかって詰め寄られたんだって」 「かわいそー(笑)」 「マジックで塗るのはいろいろ違反だよね。もうどうしようもないじゃん? 育毛しないのかな」 「頭皮が死んでるんじゃない? あっ!」 「睨まれたね(笑)説得力皆無(笑)」 「どうやってあれで威厳を保ってるんだろう。ネタじゃん?」 「あっ、こっち来た(笑)」 「なんで帽子被らないの?」 「知らない。被るとムレるんじゃない? インクが落ちるとかさ(笑)」 「すげぇ。遠くからだとパッと見、わかんないもんだな」 「近くで見ると異様だよね」 「ちょっとね。何が正しいことなんだかわかんないね」 「黒けりゃいいのかよ(笑)」

いなくなった君

 道で人とすれ違う時、この人は君なんじゃないかと思う時があるよ。電車の中に座ってる人、本屋で本を眺めてる人、みんな君なんじゃないかと。ちょっとドキドキしたりして。でもそんなわけがない。どの人も、わたしとは無縁の人ばかりで。いや、すれ違う人と仲良くなりたいとか気を持ちたいとか、そんなことではないのよ。ただ、あれは君なんじゃないかと思ったりする。  君はたぶん、どこにでもいて、なんでもしてて、ある時は通ってる病院の看護師さん、ある時はスーパーのレジ打ち。魅力的な人だからそう感じるとかじゃなくて、君と同じ性の人を見ると、なんとなく君を感じてしまう。もしかしたら誰だっていいのかもしれない。都合よく自分の中の君と、その場にいる人をダブらせているだけなのだけど。  本当に誰でもいいのかもしれないと思って、そういう自分の浅ましさに凹んだりしてる。誰でもいいわけはないのに、どんなところにもいる君を思うと、わたしは誰でもいいのではないかと思ってしまう。君を想像するから、その像さえあれば誰でもいいのだ。これって不思議な感覚じゃないか。いろんなところにいる君に、君が宿っているように感じてる。たぶんその君に話しかけても、決して君ではなくてただその人なのだ。わたしの知らない赤の他人なのだ。でも君はそこにいるような気になってくる。  夢でもないし幻でもなくて、ただ幻想として君を欲してる。そこに君がいるような気になってくる。そうであればいいと思ってる。でも、そうじゃない。君は一人しかいなくて、それは決して代替不可能で、つまり君でなくては駄目で。でも君はいなくて。  どこにいても何をしてても寝ても覚めても、君を求めてる。だから、人を見ると君だ、と思ってしまうんだろう。こういうこと、『愛してる』っていうのかもしれない。愛してる。そう言う前に、君はいなくなってしまった。だからこそ、求めてしまうのだ。君を。どうしても逢いたい。愛してる。  今日も、『君』とすれ違う。そうかもしれないと思いつつ、でも違う人だと知っている。紛うことなく違うのだ。しかし脳は身体は全身が君を求めてる。そのことを止めることができない。どうしたって街の人に君を見出してしまう。  君よ。  いなくなった君よ。  いま、どうしてるのだろう

「若々しい」という言葉は、必ずしも褒め言葉ではない

 歳相応の経験を一切せずにこの歳になってしまった。たぶんこの歳の普通の人が経験する何事も、私は経験していない。どんな業種だとしても、うまく渡っていけない気がしてる。転職はみんなそうだよというかもしれないけれど、私にはなんの経験もない。こんなこと、堂々と言ったって仕方がないのだが。ないものはないし、そのことは今後の不安材料となるだろう。  学生の時から大人っぽいとかしっかりしてるとか言われて大学生らしく扱ってもらえなかったりしていたけど、そういうアドバンテージはもうないだろうなと思う。しっかりしている人間が通るべき道を何も通らずにこの歳を迎えてしまったのだから。それは実際にはしっかりしていない人間なのだ。それが病気によってだったにせよ。  年齢とか、経験みたいな曖昧な言葉を語るのは危険かもしれない。うまく立ち回ったらいい経験ができる可能性はあるし、まだ人に認められる可能性だってあるのかもしれない。問題は自分の持っている能力をどうやって人に示すのか、ということだ。その示し方としての「資格」だったりするのだろう。資格をずっと甘く見ていたけど、とったほうがいいのではないかと思い始めてる。というか、自分がこの先生きのこるためには資格をとるという選択肢しかないのだ。それでしか能力を示す方法がない。この先の道にもよるけれど。  何をしたらどうなるか、なんて、誰にもわからない。欠けていると思っているところが長所になることだってある。自分の非常識さが役に立つ何かが、ある……かもしれない。たぶんないけど。  歳相応の経験や振る舞いというのが、どういうものなのか、自分にはよくわからない。たぶん、自分は一端のサラリーマンにはなれないだろう。というかここまで来たら踏み外せるだけ踏み外したらいい。そういう道だって自分にはあるはず。その為には、優れた才能が必要で、それを示す必要があるのだろう。  自分には目立った才能なんて無さそうだな、というのが此処まで生きてきての所感である。人生に人を魅入らせることができる何かを持った試しがない。そうしようとも思ってこなかった。魅力的な人間というところからは本当に遠いところにいる。おべっかも使えないし、人によく見られたいということもない。ただ生きているだけに近いのだから。  自分にできることを探ってるここ数年だった気がするけれど、結局、見つからなか

すべてをあきらめている自分へ

 一生懸命になれない自分にコンプレックスがある。それは以前は一生懸命だった時があったということの裏返しでもあるのだけど、それでダメだったってこともあって、自信を失っているのかもしれない。根を詰める媒介がないことがそもそもの問題で、そういうものを見つけようとしていないかもしれない。見つけようと思わなければ、一生見つからないだろう。  我武者羅に何かをするということから遠ざかって幾年も経つ。その間は病気もあったし、いろんなことがあったけど、一生懸命にならない言い訳をふんだんに盛り込んで私はこれまで生活してきた。できないことを病気その他の所為にしてきたし、それは真実かもしれないけど、真実ではないかもしれないとも思う。できることは、あったはず。それをし尽くしていたかというとそんなことはない。  だから、悔いが残ってる。できることはいくらでもあったはずであったのに、私はそうはしていなかった。いつもギリギリで、いっぱいイッパイで。でも余裕を作ろうとはしなくて。1日にするべきことを決めて、それをこなしてるだけだった。一歩も前には進んでいなかった。  この世は、実力がすべて。人情とかに頼ってられない。確固とした何かしらの実力を示すことができなければ、何もできない、役立たずな人間として扱われて当然。自分を如何に制御してくか、どう振る舞ってくか、何を鍛えるのか、どうプロデュースしてくか、ってのが、たぶん肝で、そういう視点をずっと自分は持ってなかったと思う。ただやりたいことをやりたいように、やたらめったらやっていただけだった。計画性も思惑も、何もなかった。  ただ文章さえ書いてたら、それで満足だった。満足だったのに、実際に文章で人に認められてるかといったら、全然そんなことはなくて、ただ自分のことを書いているに過ぎない。誰の役にも立たないことを書いているだけの人間。  私には、衝動がない。これをしなければ気が済まない、ということがない。  瞬発力を持って書くことはあっても、それが人にどう影響するのかっていうと、なんの影響もしないのが現状だ。だって、自分のことしか書かないから。そこには思惑なんてないし、人をこういう気持ちにさせたいとか、何かをコントロールしようとか、そういうことなんて皆無なのだ。だからダメだっていうんじゃなくて、それでは、この世に存在する意味がない。人に語られて初

自分が情けない人間なのだということを呑み込んでから、すべてが始まる

 自分なんて大した人間ではないのだということを呑み込んでから、すべてが始まる。別に大した人間だと思ってたってわけでもないけど、なんか可能性があるとか、地力があると思ってたと思う。それだけの自尊心を抱えるだけの経歴だってそれなりにあったのだから。でも、そんな経歴だって今の自分を省みたらなんの役に立たないってことは、とてもわかる。だから、ぼくはしっかりしないといけない。これはどうやってこの先生きのこるかって話だ。  自尊心というか、やっぱり、自分のことを過大評価していた部分はあったのかもしれない。ある時期まではうまくいってたけど、ある時からはうまくいってない。社会的ないわゆるレールの上には、もう乗ることは難しいのかもしれない。どうしてもレールに乗るというのであれば、それ相応の努力と根性とやる気と、必要だろう。今の自分にそれがあるのかっていうと、よくわからない。どう生きるのか、って難しい問題。やるなら資格取るとか、いろんなことが必要だ。  レールが何の為にあるのかって、何も考えずに生きるとか、好きなものがないとか、才能がないとか、いろんなことの為にあるのかもしれない。別に自分が、考えて生きてるとか好きなものがあるとか才能があるとは言ってない。だけど、レールに乗らなくても何とか生きていけるだろうと、タカをくくっていたと思う。何となく、生きていけると思ってた。  今だってどうやったって生きていけるとは思ってるけど、それが幸せなのか、っていうのはわからない。どう生きるのが幸せなのかって、わからない。具体的には家族をどう持つかとか、どう死んでいくかとか、そういう人生設計のことだ。そういう設計を考える前に病気になってしまって、何も考えずに生きてきて、どうしようもなくなってしまったのが、今の自分であると思う。病気のことを言い訳にするのは嫌なんだけど。事実は事実だから。病気だとしても誇り高く生きてる人は実際にいて、自分はそうではなかった、情けない人生だったって思ってる。  いま、これからを、どう生きるかってことをきちんと考えたい。きちんと考えるのがどういうことなのかってのも知らないままにこう書いてるけど、何とかにじり寄っていけたら。考えることに食らいついていけたら。  どう生きることが、人として正しいのだろう。「誇り高い」って言葉を、安易に思いつきに使ったけど、今の気持ちとし

成長

「たね、うえたよ」 「そうだねぇ」 「あした、きはえる?」 「明日には無理だなぁ。まだ数年は掛かるよ。君が大きくなる頃には実が生るんじゃないかな」 「おいしい?」 「たぶんねー」 「うふふ、いいねー。おいしいの!」 「君と背ぇ比べだね」 「ぼくのほうがおっきいよ!」 「ふふ。今はね」 「ビワのほうがおっきくなる?」 「なるねー」 「ぼくのほうがおっきいもん」 「だねー」 「あしたには、はっぱでる?」 「うーんどうだろね。まださきかな?」 「おみずあげる?」 「そうだねー。あげすぎないでね」 「ぼくもごはんもたべるよ」 「君も大きくなるね。競争だね」 「トトロみたいにたいそうしたらはえてくるかな?」 「かもね。やってみたら?」 「うん! おとーさんもやって。ほら」 「とーさんも? いいよ。ほーら」 「でるかな?」 「今すぐには出ないよ。芽は簡単には出ないんだよ」 「ぼくもおっきくなるのにじかんかかる?」 「そうだねー」 「どのくらい? あした?」 「明日には少しは大きくなってるかもね。子供の成長は早いから。芽も出るかもね」 「いつたべれる?」 「うーん、実はまだ先だなぁ。君が大きくなる頃には食べられるよ」 「はーやーく、おおきくなるといーなー」 「待ち遠しいね。君もビワも」

自分の浅はかさを思い知ってる

 自分の浅はかさを思い知ってる。今更そんなこと思ってるの、と思う人もあるかもしれないけど、実際にそうなってみてはじめてわかることがある。それまで障害者だったのにある日からそうではなくなった。そのことにたじろぐ。というか、水をぶっかけられたような感触。  社会に於いての厳しさというか、しっかりしてる感じって、懐かしさもあったけど、悠々自適に生きていた自分にはやっぱりショックだったんだと思う。自分は甘かったと本当に思ってる。今になって、いろんな言い訳を思い出す。いろんなことを書いてきたけど、そのどれも、私にとって言い訳以外の何物でもなかった。この先、どうやって生きていったらいいのかわからないでいる。どうしようもないかもしれない。  喋れなかったんだから仕方ない、って言い方は、今の自分には正直きつい。だとしても、生きるべきだった。上昇志向でいるべきだった。私はただ自分の好きなように文章を書いていただけだった。そういう上を見ていない感はここにきて、アイタッて感じ。たぶん同い年の人の何十倍も低い位置に私はいる。超低空飛行だ。誰もこんな人間に手を差し伸べようとか、仲良くしようとは思わないだろう。簡単にそういうことは想像がつく。何より私には人にアピールする何かが何もない。いつの間にかそういう人間になってしまっていた。  親からでさえも、大丈夫だよと言われても、何がわかって言ってるんだという気持ちになるだろう。気休めだとしても。自分のことだって自分でよくわかっていないのに人に自分のことがわかってるとは思えない。自分を救うのは誰か。たぶん自分以外にいない。自分でなんとかするしかない。  冒頭に書いた「社会」という感じに恐れをなそうとしてる。遠慮がちになってる。こういう時に逃げ出さずになんとか立ち向かわないと、たぶん、一生このままだって気がする。いまが肝心で、なんとかしなくてはいけないのに、こんな文章を書いていていいのかって思う。  せめて、何か取り柄のある人になりたかった。人に誇れるものが何かある人はいいな。自分には何もない。熱心になることもない。エンジンを積んでない。努力もできない。ただ悠々自適に生きてくことしか今の自分にできないのかもしれない。のんびり生きてたって仕方ないのに。熱心になるのなら、その方がいい。でもその媒体は何もない。私には何もない。書くことしかやってこな

悲観的な自己観

 自信を著しく失っているのであえて書く。不安を煽るように、自分を叱咤するように。私は、強くなる。  何が不安なのかって、まだ言語化できていないけど、人間として自分はどうなのかってこと。今までずっと障害者として暮らしてきて、そうでなくなった瞬間に何もできない人、何もアピールするものがない人として社会に放り出されてしまった。出されてしまったというか、自分がそうして生きてきて、そうして飛び出ただけなんだけど。  それでも何かあると思って生きないことには何も先には進まないし、本当に何もない。自分にはそれを見出してくれるような人もないし、自分で見つけないと。何をアピールするかっていうか、そもそもどういう風に生きてくかってことからして、もう分かんないんだけど。でももうすでに閉じられた道は多いし、なんだってできるわけでもない。ただ、できることはまだある。  若いという特権を行使しないままにこの歳になってしまって、──そういう特権があるとしてだけど──これからできなくなっていくこととのせめぎ合いだって気がしてる。日に日にできなくなることは増えていって、あっという間におじいさんだ。おじいさんになれたらまだ良くて、そうなる前にどうにかなってしまうかもしれない。冗談じゃなく。だから焦ってる。若いうちにできることをしているだろうかって、そういう視点はずっとなかったから。もっと失敗したらいいし、情けない目にもあったほうがいい。若いうちにしかできないことをしておかないと、たぶん、私はダメな人間になる。  それに私はあまりにも人間を知らなすぎる。そのことを危惧してる。どんな人がこの社会にいて、その人たちはどういう風に自分の気持ちを持って、どういう風に気持ちを表現して、裏と表、本音と建前をどう扱ってるのか、そういうことに無頓着すぎる。親しい人にさえそういうことがわからない。  私は正直に生きてきたつもりだけど、そのことがいつもいいとは限らない。馬鹿正直とも言える。ちょうどいい嘘とか、人をいい感じにあしらうとか、そういうことが一切できない。  それに、私は、とてもつまらない人間かもしれないとも思う。自分でそう思うのだ。  確固たるものがあったらいいのにと思うけど、この歳になってそういうものが何もないというのは、やはり不安の種だし、何かにすがりたくなる。とにかく今の自分の生活の中で、自信

喋ることのなにかしら

 人通りの少ない道に、人が倒れている。 (大丈夫ですか? 誰か呼ばないと……人が通らないだろうか)  あいにく誰も通らない。こうなる日をずっと恐れていたのだ。誰も助けを呼ぶことができない。声をかけることもできない。家まで走って助けを呼ぶか? 筆談道具はあるが、チャイムを押しても、人は出てこないだろう。誰も喋らなければ、ただのピンポンダッシュになってしまう。 (大丈夫ですか?)  そう言っているつもりで倒れている人の身体に軽く触れてみる。……起きそうにない。携帯は持っているけれど、私は、喋ることができない。どうしようもないかもしれない。とにかくチャイムを連打するか? 緊迫に押せば誰か出てくるかもしれない。依然意識を失ったままで、人が倒れている。どうすればいい? という問いばかりが浮かんで、答えが出てこない。このまま見捨てるわけにもいかない。こんな人通りの少ない道では次にいつ人が通るかなんてわからない。  緊急事態なんだ。なんとも言ってられない。私は一番近くの家のチャイムを連打した。誰か居ろ! 居てくれ! しかし出ない。誰も居ないのか。とにかく人が出るところまでチャイムを連打しまくるしかない。  しかし、近所にはどの家にも人は居ないみたいだった。どの家のチャイムを押しても、反応がない。こんなに必死にピンポンを連打したら怖がられるのかもしれない。どうすればいいのか。  だんだんと自分の裡に不甲斐ない気持ちが芽生えてくる。  喋れないことは、ずっと、自分の問題だと思っていた。でも、そうではなかった。人に迷惑をかけることだってある。それが今なんだ。私はこの人を救えないかもしれない。もしも、喋れたら、全く違う結果になっていたかもしれない。せめて、救急車は呼べるだろう。声を掛けたら起きるかもしれない。誰かを呼ぶことができたかもしれない。そのどれをも私はすることができない。  自分を憎む暇もなく、焦る気持ちばかり先行してくる。  喋ることができないことがこんなに悔しいことだったなんて。今までずっとそれを押し隠して生きてきたのだ、私は。そのことを悔いている。  どうしたらいい?!  どこかの家の玄関の前で立ち尽くしていると、他の家から人が出てきて、倒れている人を介抱し始めたのだった。  助かった。 「チャイムを鳴らしてたのは、あなたかしら? 今、救急車を呼

Re:Write; 愛することの問答

 山頂にある巨石の前で、人が虚空に向かって喋っているのを、カップルは片隅で聞いていたのだった。 「愛とはなんなのでしょう。神さま」 「私は誰だって愛せる気がするし、誰も愛せないという気もするのです」 「私は優柔なのかもしれません」 「誰だってよい気がします。なんだってよいのです……。愛するに足るならば」 「神さま。愛するということを引き出させてくれる相手であるならば、私はそうできるでしょう」 「たまたま知り合った、たまたま気の合った人ときっと結ばれるのでしょう」 「私は真に愛されたいのです。そして真に愛したい」 「このいたたまれない気持ちのやりどころを、私は知らないのです」 「わからないことだらけなのです。どのように人と人は愛し合うのか。惹かれ合うのか」 「本当に愛するとはどういうことなのでしょうか」 「真の愛とはなんなのだ」 「神よ」  その人はそこまで言うと下山していった。  カップルは考えさせられたのだった。本当に私たちは愛し合っていると言えるのだろうか、と。それを考えさせるために、何者かがカップルの前にかの人を遣わしたのかもしれない。  その日の次の夜、正式にカップルは結婚を決めたのだった。山の上の問答を聞いたことが切っ掛けとなったのかもしれない。煮え切らない関係は、山上の問いによって、一気に進んだのだった。  ただこの人だと思い、互いの未来を受け入れることができる、その一点だったのだ。そういう人と出逢うということがそもそもの人生の不可思議で、宇宙の謎である。わからない。なぜこの人であったのか。でも、この人でなければならなかったのだ。なぜだかそう確信できるのである。  かの人はカップルにこそ幸せを授けてくれたのだ。愛とはなんなのか。それが解らないまま、愛し合っている。それは本能といえるかもしれない。人間にそもそも備えられた能力なのだ。  愛するということの本来は、神さえも知らないのかもしれない……。ただ愛し合う人だけが知っているのだ。

愛することの問答

 山頂にある巨石の前で、人が虚空に向かって喋っているのを、私たちは片隅で聞いていたのだった。 「本当に愛したら、本当に愛されるって、本当ですか、神さま」 「私は真に愛されたいのです。そして真に愛したい」 「愛するとは愛する気持ちを相手から引き出すことなのでしょう? わかっています」 「互いに引き出し合えば、愛し合うことができるのでしょう」 「そしてそのためには、自分にも愛されるに足る魅力がなければならないはず」 「それが私にあるのかはわからない」 「人が私の何に魅力を感じるのか、見当もつきません。そんなもの、あるだろうか」 「神さま。私は人に愛されるに足る人間でしょうか。とても不安なのです」 「このいたたまれない気持ちのやりどころを、私は知らないのです」 「わからないことだらけなのです。どのように人と人は愛し合うのか。惹かれ合うのか」 「本当に愛するとはどういうことなのでしょうか」 「愛するとは、許すということなのでしょうか、受け入れるということなのでしょうか」 「愛とはなんなのでしょう」 「私は誰だって愛せる気がするし、誰も愛せないという気もするのです」 「どんな音楽も、どんな演劇も、どんな文章をも、私は愛せるのです」 「私は優柔なのかもしれません」 「なんだって良い気がします。なんだって良いのです……。愛するに足るならば」 「人も同じなのです。愛することを引き出させてくれる相手であるならば、私はそうできるでしょう」 「そうであれば、誰だって良いのです。たまたま知り合った、たまたま気の合った人と結ばれるのでしょうか」 「真の愛とはなんなのだ」 「神よ」  その人はそこまで言うと下山していった。  私たちカップルは考えさせられた。なぜこの相手と結ばれたのだろう。私たちは本当に愛し合っていると言えるのだろうか。不穏な空気がそこに生まれた。私たちにそれを考えさせるために、何者かが私たちの前にこの人を遣わしたのかもしれないと訝しがってしまう。  その次の夜、正式に私たちは結婚を決めたのだった。山の上の問答を聞いたことが切っ掛けとなったのかもしれない。ただこの人だと思い、互いの未来を受け入れることができる、その一点だったのだと思う。そういう人と出逢うということがそもそもの人生の不可思議で、宇宙の謎である。私にもわからない。なぜ

喋れるようになって、忘れないこと

 ある頃から、この世界の多くの人にとって当たり前にできていたことができなくなった。それからというもの、不自由な生活を強いられてしまった。私は障害者、だった。今は違うのだが。  普通の人と違うのは筆談をしなければ、意思の疎通を取れないということだ。身振り手振りでもできるが、それは曖昧な言語である。詳しく喋らなくてはならない時には、否応にも筆談となる。  もちろん家族とも筆談である。何をするにも。どこへ行くにも。この口は、食事をするためのものでしかなくなっていた。とにかく不自由にこの9年間を過ごした。  家族はだんだんと私が何を言いたいのか、そのジェスチャだけでわかるようになってくる。しかし、パソコンやスマホなどの説明は専門用語を擁する具体的な話題のため、筆談でするより他なかった。  少なくとも週に2,3度は母にエクセルやワードの操作ついて訊かれる。その度に筆談していた。私と母の間のコミュニケーションの多くはその話題だった。パソコンが必要になった母にマックを勧めたのも私だし、なのならば、その説明・解説も必然的に私だった。  筆談には限度がある。伝わらないことも多い。なんとか言いたいことをまとめてメールしたり、教科書を作ろうかと思ったほどだ。母は今、なんとなくパソコンを使えているようだ。  とにかく、パソコンが私と母をつなぐ懸け橋であった。週に2,3度母は私の部屋を訪ねてくる。来たら、あ、マックだな、と大体わかる。それを私は心待ちにしていたようにも思う。母の方でもわざわざ訊くことを作るでもないが、何度も同じことを訊いてくることもあった。そこが、実世界での私の社会とのほとんどすべての繋がりだったのだ。そういうことがなかったなら、私は今こうしていないかもしれない。  ある日から、筆談を必要としなくなった。きっかけは様々なのだが、ここには書かない。普通に喋るようになり、家族もそれを普通に受け入れていった。何もなかったかのように。以前からずっと喋っていたかのように。  先日、母がいつものように私の部屋にパソコンを持って来た。私はその時初めて母に口頭でマックの説明をした。「ここをこうして、こうすると早い」何も返事がないので振り返ると、母は泣いていた。目を真っ赤にして。  こういうことで、実感するのだと思う。何事もなかったように振る舞っても、顕著になることはこうして

続けられるという勇ましさ

 それをやり続けるということは、人によっては困難なことである。しかし、また別の人によっては特別な配慮をしなくても簡単にやり続けることもある。まるでそうなることが神の思し召しであったかのように。それが不思議な力なのか、あるいはそう形容したくなるような不思議なことであるかは、その人にとっての困難さによるのかもしれない。ある時期にできたことが、またある時期にはできなくなっているということもあるのだろう。心の余裕とも密接に関係があるし、あるいは執着とも言えるかもしれない。  私の家では毎年夏にトマトを栽培する。それは食べるためではなく、隣の家との境の壁に叩きつけるためだ。その模様はとても絵画的で、近所の人の関心を集めている。今日はいい出来やなぁ、とか今年のトマトはイマイチ良い模様が付きにくい、とか寸評が毎日のように行われる。これをするために私の母は毎年畑を耕し、種を買ってきて、トマトを育てる。実が生る朝、叩きつける大きさに育ったトマトを収穫し、そのまま壁に叩きつけるのだ。別に隣人に恨みがあるわけでもない。ただ叩きつけるのに良い壁であるからそうするだけなのだ。白壁は夏の間じゅう、紅に染まる。  そうすることをもう50年、母は続けている。  続けることを求められるからであるし、彼女もそうしたいのだ。続けるということがどんな意味を持つのか、全くわからない。どうでも良いとさえ思う。誰からも評価されなくてもそうするだろう。ただそうすることが楽しいのだ。そうしなくてはいられないのだ。だからそうするのだ。続けることに意味があるというよりも、その心意気に意味がある。毎年、それだけのトマトを育てる心と経済的な余裕もそれに加担しているのかもしれない。  続けることの勇ましさを、私は幼い頃から感じている。  トマトは食べるものではなく、叩きつけて壁を装飾するものだとばかり思っていた。たまに食卓に出るものや、小さいそれを、私たち家族は訝しげに見ていた。  母はそれを死ぬまで続けるのだろう。彼女がやらなくては、意味がない。思し召しとして、それをするのだ。そうすることが彼女の命であり、銘である。  これからも血のように紅いトマトが、庭に実り続けるだろう。

これからの事

 退場する人。登場する人。──何もしない人。  退化する人。進歩する人。──何も変わらない人。  うつうつな人。わくわくな人。──平常心な人。  怒ってる人。楽しんでる人。──無感情な人。 ***  渦巻く気持ちは、さまざま。いくらでもできることはあって、でもそれを制限しているのは、たぶん自分自身に過ぎない。  私はずっと「退場」してる人だったけれど、これからは「登場」できる。そのことの喜びを噛みしめてる。社会の中で生きるということを、思い出しつつある。そのことの恍惚と不安が再び。でも、きっと、不安以上に楽しいことはたくさんあって、なんとなく幸せに、なんとなく不幸せに、生きていくんだろう。それが良いって思う。  私はこの数年で退化したとも進歩したとも何も変わってないとも言えると思う。社会に役に立つ能力は何一つ伸びていないが、自分にとって役に立つ能力は十二分に伸びたのだろう。そして、それは人によっては、何もしていないとも言えることだ。自分のしてきたことを活かしたいと思う。そのためにはどうしたら良いのか考える。きっとそうしたら、良い未来が待っているだろう。  未来にずっと怯えてた。思考停止していたと思う。自分が作ってく未来を放棄していた。このままでいいんだと自分に言い聞かせていた。そしてその通りに過ごしてた。だけど、良いことも悪いことも自分で背負ってくんだと覚悟したら、悪いことを避け、良いことを選ぶという道を往くことができるのだ。それすらも放棄して、今のままでいることを選んだなら、私たちはみんな、どんどん悪い方へと進んでく。それは目に見えている。私はそう思う。  良い気分はきっと良い行いの後に。好きなことの彼方にはきっと良い気分が。私はどんな気分でも生きることができる。でも、生きるのなら、良い気分でいたい。  怒りを顕にしている人は自分の不安に怒っている。楽しんでいる人はその心の余裕が現れてる。自分の不安に目ざとい人でありたいし、いつも心に余裕を持っていたい。 ***  この世界は、悪いもんじゃないと思う。良いこともあるし、そうでもないこともあるってだけ。それは自分で選べるし、改善もできる。私は、良いほうに進んで行くことができる。自分の意思を持って、意識して、進んでいける。私はとても運が良かった。喜んでくれる人があって良かった。  まだ、道はつ

自分でもびっくりするくらい、わくわくしてる

 これから出会う人が、たぶんたくさんいる。そのことがとても楽しみ。うまくいくかもしれないし、いかないかもしれないけど、どっちでもいいやっていう感じになれている。うまくいかないことも楽しめるだろうって。だから、どう転んでもいいし、人にどう思われてもいい。それは投げやりな気持ちじゃなくて、自分の気持ちをどういう風にも持っていけるだろうって、思ってる。ある時期の自分よりも、ずっとしなやかな気持ちになれている。  これから向かってくことが、自分にとってどんな意味があるのかはわからないけれど、たぶん良いことだろう。どんな経験が積めるのか、今から楽しみにしてるけど、とりあえず、人と接する楽しさみたいなことを、じっくり味わいたいと思う。  自分という人間がどういう人間なのか、それで、わかるだろう。きっと大したものでもないし、ただ、自分の経験を活かせるってのは、うれしいものだ。素敵なことだと思ってるし、わくわくもしてる。やるぞ! って感じ。今、脳が焼き切れるくらいドキドキしてるけど、やばいとか、切羽詰まった感じではなくて、なんというか、新しく会う人たちへの不安とか、わくわくなのだと思う。簡単に言ったら緊張してるということだけど。でも、良い緊張だ。  人は簡単に退場するし、そしてまた現れる。自分のこの9年間を肯定も否定もしない。なんとかなっていたはずだとも全然思わない。なるべくしてなったし、あるべくしてあった。その間に得た経験がどのくらい自分にとって意味があったのかは今はわからないけど、でも、何かを得、あるいは失っていたことは確かだ。良い方に向かうと良いけど、こればっかりは、運だと思う。悔いてもしかたない。そうでしかなかったんだから。  運を天に任せる覚悟ができたのだ、と思う。この間の通院の時に、喋るのに覚悟がいります、と先生に言ったのだけど、喋ることそのものの覚悟というよりも、喋ることで起こることへの覚悟だったのだと思う。そして、それはもう通り越している。たぶん、僕は大丈夫。  これから忙しくなるなぁと思う。これまでに得た習慣を、どのくらい続けて、どのくらいそうでなくすか、ってのが目下の課題で、瞑想とか筋トレとかジョギングとか文章を書くだとか、まぁいろいろあるけど、全部これからもやっていたいと思ってる。やるべきだとも思うしね。  とりあえず、お金を貯めて、やりたいことを

聞いてない

「あの、この本はどこにあるんでしょうか?」 「えっとですね、あ、こちらです。ご案内します」 お客様を棚までご案内する。 「この棚ですね、えぇと、よろしいですか」 「×××です」 「あ、これですね」 「あー、あったわ。ありがとう。ずっと探してたのよ。主人が読みたいって言」 「それでは」 *** 「このダンボールは、ここに」 「はい、重いっすね」 「そうね、頑張って」 「これは?」 「それはそこ」 「あ、はい」 「あの、ダンボールは」 「ダンボールはここって、言ったばっかじゃん、聞いてないの?」 「すみません、ぼーっとしてました」 「もう、しっかりしてよ?」 「あまりに重くて忘れちゃいました」 *** 「これは、どこに入れる?」 「もう、さっきゆったじゃん!」 「聞いてない」 「なんで、」 「夢中だったから、」 「なにに?」 「君に。」

服についてのエトセトラ(春)

「おじさん、軍人なの?」  買い物していたら、子供に話しかけられた。 「違うよー」 「だって、軍隊の服着てるじゃん!」 「こういうファッションなんだよ」 「うそだー」 「ほんとだよ」 「あれやってよ、ホフク前進」 「だから、違うってー」 「いいから、ほら!」 「ここでするわけにはいかないから! ね?」 「えー、じゃあ、鉄砲撃ったことある? 悪い人やっつけるの?」 「撃ったことないよ。柔道はやってたけど」 「柔道ってなに? 強いの? やっつける?」 「そうだなー、そういうことにも役に立つかもねぇ」 「へー! かっこいいね!」 「坊や、強くなりたいの?」 「うんっ!」 「じゃあ、体鍛えろよー。格闘技もいいかもなぁ」 「かくとうぎってなに? うちのお父さん筋肉もりもりなんだぜ!」 「ふ、ふーん。格闘技って、戦うスポーツだよ」 「そうなんだ! やっつける?」 「そうだねぇ。やっつけるねぇ」 「ヒロくーん! なにしてるのー?」 「あっ! ママ! 今、軍隊のおじさんにかくとうぎ習ってたの!」 「あら、どうも? 軍人さん……ではないですよね?」 「はいー……」 「やっつけるんだって!」 「ハハハ」 「こら、ヒロ! なにしてるんだ!」 「あっ! パパ!」  見るからに軍人のパパがこっちを見下ろしていたので、私はいそいそとその場を去ったのだった。

服についてのエトセトラ(冬)

「まちがえたー!」  散歩していると、水をぶっかけられた。冬空の下である。 「す、すみません」 「……。」  バケツに入った水を草木に撒いていたようだけど、何を間違えることがあるのかと。下半身びしょ濡れである。 「すみません、今タオル持って来ますんで。ほんとにすんません!」 「……。」  家にいったん入ったオヤジがいそいそとタオルを持って出てくる。そんなに大したスーツでもないけど、濡れていることは濡れている。寒い……。 「家近所ですか? いやー! はっはっは」 「近所ですし、もう帰るんで大丈夫ですよ。ありがとう」 「ちょっと待っててください」 「……?」  またオヤジが家の中に入ってく。すぐに出て来たが何か持っている。 「これ、クリーニング代……本当にすみません」 「いや、大丈夫ですよ。ちょっと濡れただけですし」 「やー、気持ちが済みませんわ。こんなに寒いのに。風邪ひいたらあれだし。受け取ってください」  けっこう押しの強い人である。無理やり銀行の封筒を渡される。 「いや、でも……」 「これも何かの縁、なんかうまいもんでも食ってください、ね?」 「はぁ、そうですか、」  お言葉に甘えて、受け取る。クリーニングするほどでもないし、どうしたものか。 「立派なお庭ですよね。よくこの前通るんですよ」 「いや、うちは野菜専門なもんで。よかったら何か持って行きますか?」 「いや! 大丈夫です。これ以上甘えるわけには!」 「そうですか。じゃあまた」  家に帰って封筒の中をふっと見ると枯葉が入っていた。これ、タヌキが使うやつじゃん。

服についてのエトセトラ(夏)

 道の向こうからガラの悪いお兄さんが歩いてくる。なんだか見慣れた格好。 「おい、コラ。真似してんじゃねぇぞ」 「服いっしょっすねー。わはは」 「今すぐ脱げコラ」 「なんでですかヤですよ」  夏真っ盛りだけど、サスガに裸になるのはまずい。Tシャツもパンツも同じ。靴も同じ。ちょっと気まずい。 「あ? それどこで買った?」 「いや、覚えてないですよ。一緒かもしんないすねー」 「俺のはな、全部嫁が買ってるからよ、知らねぇんだ。どこで買ってんだ、あいつ?」 「これは、どこだったかなぁ? でも全部お揃いすね。わはー」 「ガラにもねぇ服着るもんじゃねぇな。こんなガキと同じかよ」 「写真撮りません? あっ、エスエヌエスとかまずいっすか?」 「良いがよ、ナメてんのか? あ?」 「じゃあ、顔見えないようにしますんで……はい」 知らないガラの悪いお兄さんと写真を撮る。なんだか仲良くなれたような気がする。 「それにしてもこんなに雰囲気違うのに同じ服って面白いすね」 「まぁ、俺は適当に着てっから」 「僕は真面目に着てたんすけどね。うーん」 「どうした? 光栄だろうが、俺といっしょなんやぞ!」 「お兄さん誰すか?」 「いや、名乗るほどのもんじゃねぇけどよ」 「あー! もしかしてビビってる?」 「あ?」 「いや、すみません」  不思議な縁があるものだ。たぶん同じ服を着ていなかったら、一生話すこともなかったろう二人。夏の盛りに、すれ違った二人。 「暑いすね」 「嫁がアイス待ってるからよ、行くわ」 「はい〜。僕も、アイス買おうかしら」

「引きこもり」であることを自覚するということ

 まず、自分では自分に対して引きこもりという言葉は適さないのではないか、と漠然と思ってた。病人であって、せざるを得なくて家にいるのだから、引きこもりとは違うのだと。だけど、まぁ他人から見たらそれは紛うことなき「引きこもり」なのである。別にそう見られることが嫌だとかそういうことでなくて、自覚の問題なのだと思う。  「引きこもり」として見られているのなら、そういう振る舞いをするべきだし、つまりそこから脱するだとかそういうアクションを起こすべきだと思う。開き直るとかさ。  だけど「引きこもり」としての自覚がない人にはそういうアクションを起こすことは難しい。だって「引きこもり」だと思っていないのだから。「引きこもり」だという自覚がないことにはそこから脱するとか開き直るとか、何もすることはできずにただ病人であるだけなのだ。何の変化も兆しもそこにない。  「引きこもり」としての自覚はずっとなかった。だってオレ外にも出てるし、出たくないわけでもないし。ただ人と喋るのが苦手(最近になって苦手というくらいまでに恢復した)というだけで、都会に出ることも結構平気でしてたし、毎日散歩して、ジョギングして、って活動してるから。人と会うのが苦手なのを「引きこもり」の定義とするなら当てはまるけど、例えば1ヶ月とか家から出ない人のことをそういうのなら、今の自分には当てはまらない。かつての自分は半年とか外に出なかった時期もあるけど、ほとんどその頃の記憶はない。というか病気が重すぎて死んでたので(苦笑)。  「引きこもり」としての自覚って、けっこう大事だと思う。あぁ、そういう風に見られてるんだ、ってのはかなり新鮮で、人に何かのレッテルを貼られるということがほとんどなかったので、なんとなく存在を認められた気になって、少しうれしかったりした。確認されたというか、理解されたというか。「引きこもり」だってことがうれしいわけじゃないけど。  たぶん人と人の関係って、互いに互いを理解し合っていく、ということが大きいのだと思う。ネットですれ違う人も、道ですれ違う人も、どのくらいの深度で理解するか、ってのは、人と人の関係に於いてかなり重要なファクターだ思う。もちろん、この人のことは別に理解したくないということも含めてね。  何に依ってそれが左右されるのか、ってのはよくわからないけど、面と向かってならハンサ

服についてのエトセトラ(秋)

 ジャズメンは着飾らない。それを見に来る客もその多くは着飾らない。着飾るとしたら、場違いな感じがするのではないか。それは言い過ぎかもしれないが、おしゃれな雰囲気を想定してジャズクラブに行くと、肩透かしを食らうことになるだろう。  ジャズミュージシャンが服に気を使わないのにはきっと訳がある。音楽によってのみその人が評価されるからとか、ポップミュージシャンのようにPVを撮らないからとか。つまり彼らは服装に気を使う必要がない。誰もそんなところ見ていないし、何よりライブに来る人もみんなそんな格好である。見た目によって音楽の評価が変わるということはたぶんない。人気のある人は間違いなくその奏でる音楽によって人気がある。ジャズミュージシャンにとっては奏でる音楽こそが全てなのだ。  夏が終わって秋になる。服を一枚羽織る人が増える。ジャズメンにとって服は寒さを凌ぐための何かでしかない。風を紛らわせるための何かでしかない。演奏中を快適に過ごすための何かでしかない。  古くは演奏のスタイルはスーツが普通だった。いつしかそんな伝統はほとんどなくなりつつあるように見え、普段着でステージに上がる人が多くなったように思える。少なくとも私の知る範囲では。テレビに映ろうがDVDになろうがネット配信されようが、着飾らずに彼らは演奏する。スーツを着るというのも一つの型であって、おしゃれだとかそういうことではなかったのかもしれない。  即興で演奏することと、服装に関係があるのではと勘ぐったが、だとしたらおしゃれになるはずだと思う。あるいはその即興性が服装にも現れているのかもしれない。  アドリブ中に音楽に合わせて着替えるミュージシャンがいたら面白いと思うが、彼らはそんな面倒なことはしないのだろう。落語のように自分の番が回って来るたびに服を脱いだりしたら楽しいかもしれない。  しかし、彼らにとって服とは気温を調節するための何かでしかない。表現の一部となっているようには見受けられない。そうする必要がないからだ。彼らには、音楽が全てであり、そうしなければ、その音楽を奏でることはできないのだ。ある種の執拗さが必要なのだ。  夏が終わって秋になる。温かいものが恋しくなる季節がやってくる。風が心地よい季節になってくる。音楽が輝く季節がやってくる。おしゃれの秋という言葉は彼らには関係がない。ただ音楽を奏で

いつも最善を尽くしてるかと問われると、自信がない。

 いつも最善を尽くしてるかと問われると、自信がない。なんとなくやってしまってることもあるかもしれない。悔い尽くせない自分が情けない。何かを諦めるほどそれをしていないのに、諦めようとしている。  私は卑屈かもしれない。弱い自分について、開き直っている。強くあろうとしていない。弱くても構わないと思っている。だから、ずっと弱いままだ。その開き直りが、私をさらに弱くする。相乗に弱くなっていく。まずは弱い自分を認めて、そこから足掻くことだ。  できることをしているかというと、怪しい。できることが何なのかすらも把握できていない。できることとできないこと、向いてることと向いてないことの線引きができていない。だから何をやっても駄目なような気がするし、何もできないような気になっている。本当はできることだってあるはずなのに。そんな片鱗は見えるのに。しようとしない。挑戦もしない。そして、できることはどんどん限られていく。結果、できなくなっていく。   今が肝心だ、とわかってる。でも、そうしようとしない。どんどん喋っていかなくてはならないのに、そうはしない。無理にでも人と喋る機会を作ればいいのに、そうはしない。勇気がない自分を肯定しようとしている。これは仕方がないことだと開き直ってる。やはり、卑屈である。  その根本のところで、私は曲がってる。だから先に進まない。いつまでもこのまま。生活が変わることを過度に恐れている。喋ることを恐れてる。喋れてしまう、と思ってる。喋れないことは困ることではない、などと思いつつある。喋れたほうがいいに決まってるのに。そのほうが楽しいのはわかりきっているのに。そうはしない。  最善を尽くしているか。何か今日、昨日と違うことをしたか。新しい何かをしたか。きのう駄目だったことを改良したか。私は良くなっているのだろうか。  した努力はすべて報われた、と言えるほど、私は頭をひねっているだろうか。徒労に終わっていないか。そもそも努力をしているのか。報われるべき努力をしているか。  いろんな疑問を出したけど、もっとシンプルに。  したいことをしているだろうか。これが本当にしたいことなんだっけ? したいことをしたいようにしているか。そのことだけが心配。悔いのないように。悔い尽くせるように。

人と人の関係、あるいは恋ついて

 男と女にはこれがある。男と女の組み合わせだけに限らないが、特にこの組み合わせにはこれは不可避かもしれない。  恋なんてしなければいいのに  そんなものないことにすればいいのに  あるいは初めから恋していればいいのに  半端に恋い焦がれて、離れていく人  そうであることの表明は、二人の関係の命を削る  そうならないと信じているのなら、そうならない手筈を踏まなければならない。それは人間の掟である  私たちは恋について何もわかっていない。誰も恋についてわかってはいない *** ただ男と女として仲がいいだけ。そこに恋が混じると──有り体に言ってしまえば性交とそれに対する欲求なのだが、──それだけでダメになってしまう関係というのがある。そんなものなしに男と女が、あるいは男と男が、女と女が、関係できたらどんなに良いだろう。 ***  男と女は、あるいは男と男、女と女は常に結ばれなければならないのだろうか。ウンメイという言葉で片付けるには陳腐すぎる。そうならなければいいのに、そうなってしまう。それまでのなにかは失われ、また新たな関係に成っていく。それが良いことなのか、そうでもないのか、誰にもわからない。  愛し合う人々は、互いがそうでないかのようには振る舞わない。愛してるという観念を言葉にし、行動し、表現しなければならない。そうし続けなければならない。その関係にとって、そうすることが適切でないとしても。  人と人の関係が、愛、あるいは性交だけではないと、私は知っている。人と人がセックスできる回数には上限がある。そう何回も、とはいかない。それは人間の掟。  愛、あるいは性交の魔性に人は魅入られてしまっている。それは確かに良いものだ。気持ち良いものだ。しかし、そうするべきでない相手もいるのだろう。そうすることによって壊れてしまう関係というのがある。その道は、イッたら戻れない。  男と女、あるいは男と男、女と女の適切な関係について。私は憂慮する。誰も彼もが繋がる必要はないし、そうしない方が良いこともあるということ。その方が幸せだということもあるということ。  そうしたから、私はあなたと今、こうして会えるのだ、ということ。あの時にあなたが私に好意を持っていたことを私は知っている。だけど、それを表明してくれなくてよかった。だからこうして逢えるのだから。

愛する

 あの日出逢ってから、今日まで、ずっと君のことを思い続けてきた。君のことを思わなかった日はない。僕はいろんなことを考えることができるし、いろんなことをすることができるはず。  だけど、君を愛するということが、ずっとできなかった。なんだか、許されないような気がしてて。  こんな自分情けない。僕は自分が卑屈だと思う。不甲斐ないと思う。楽しいことも、そうじゃないことも、考えたいし、したい。君と一緒に。  君と一緒にいるときの、僕は、ちょっとはマシになれるような気がしてる。そうでもないのかな? 自分ではよくわからないんだけど、でも、君のことを考えただけで、心がピリッとして、引き締まる。目の前のことをなんとかしないと、という気持ちが、とても強い気持ちが、湧いてくる。これは、君じゃないとダメなんだ。  君がきみだから、僕はぼくでいられる。そう思う。僕がぼくだから、君がきみでいられるのだとしたら、こんなにうれしいことはない。  自分のことを卑屈に思うのは、なんだかしのびない。一人で勝手に悩んで落ちてるだけだ。自己満足に悲しんでるだけ。自分を下にみたいだけ。卑下することで、自分をなんとか保とうとしてる。失敗したときの言い訳になるように。大した人間じゃないとわかった時にがっかりしないために。それは、自分に対しても、君に対しても。  つまり保険を打ってるってこと。安パイに生きようとしてるということ。  そして、それは卑怯だってこと。  たぶん、僕はまだ成長できる。君となら、成長できる。君なしの人生なんて、考えられない。いつしか僕たちはこうなった。愛し合うようになった。僕は卑屈だけど、とても卑屈だけど、君はそれを解こうとしてくれた。それが僕にはうれしいことだった。  でも、まだ、きちんと、愛せてないって思う。  愛そう、君を。勇気をもって。 ※この掌編はフィクションです。

おともだち

 幼稚園から帰ってくる途中、子供に訊かれたこと。 「おともだちっていたほうがいいの?」 「うーん、そだねー。いたほうが、寂しくないかもね。でも、いたからどうってことでもないんだよ。一人でも楽しめて、お友達とも楽しめるのが一番いいんだよ」 「あたしおともだちいるよ!」 「そうだねぇ。楽しいねぇ」 「ひとりでも遊べるよ」 「そ、だねぇ。寂しくない?」 「さみしくないよ! ひとりも楽しいし、おともだちと遊ぶのも楽しいの」 「一人が怖くないってのは、良いことだ」 「おともだちはね、みんなあたしとは違うの。でも楽しいんだよ」 「ふーん、どう違うの?」 「あたしは黄色が好きなんだけど、おともだちはピンクが好きなの」 「他には?」 「あたしはりんごが好きだけど、おともだちはイチゴが好きなの」 「そう。違うの、いや?」 「そんなことないよ。あたしのにできるからいいよ」 「取り合いにならないよね。一人で遊ぶときは何してるの?」 「うーんとね、あたしのしたいことするの! おともだちにはみせないんだよ」 「そう。お父さんにも見せてくれないの?」 「お父さんはいいよ!」 「なんでお友達には見せないの?」 「じぶんだけでつくりたいから!」 「そう。完成したら、見せてあげてね」 「うんっ」 「きっと、喜んでくれるよ」

しゃーわせ

「いま、しゃーわせになるためになにかしてる?」 「しゃーわせ? うーん。朝起きて、ご飯食べて、働いて、寝ての繰り返しかな」 「そうじゃなくて。しゃーわせでい続けるためにしてること。なんでもいいから!」 「うーん? 本読んだりとか、そういうこと?」 「健康でいるために運動するとか、彼氏げっとするためになにかしてるとか、給料あっぷのためにしてることとか。夜ぐっすり寝るためにしてることとか、日中ご機嫌に過ごすためにしてることとか」 「うーん、特にないかな。ほんと仕事してばたんきゅーよ」 「いまが幸せなのかもね。でも、きちんとしゃーわせについて考えないとダメよ。いつまでも今のままなんて、ぜったい有り得ないんだから」 「うーん、映画観にいくのは好きかな。音楽聞くとか。そうすりゃ一週間はご機嫌よ」 「なにかして、し続けないとダメよ。臨機応変にね。いざという時、働かない頭じゃ仕方ないのよ。何か起きて慌てたって何も出てこないのよ。普段から考え続けることよ」 「うーん、よくわかんないよ」 「あんたにとって、幸せってなんなのか! ってことよ。それに敏感になり続けて、向かう方向に進み続けないと、幸せなんて維持できないのよ。もしそうしてないのに幸せなのなら、たまたまなのよ」 「うーん。まぁずっと今のままじゃいられないってのはわかるけど」 「やった努力はすべて報われた、ってほどに考え尽くして、いろんなやり方でやり続けないと、幸せにはなれないんだよ、きっと」 「しゃーわせねぇ」

幸せの感度

「幸せと不幸せ、どっちがいい?」 「どっちも嫌。そのどちらかを選ぶという可能性がイヤ」 「そうよねぇ。そのリスク背負うの面倒よねぇ」 「だったら無難に幸せでも不幸せでもない道を選びたいなー」 「幸せは不幸せだし、不幸せは不幸せよね」 「うーん。お金があるのはうれしいし、生活に困るのはヤだけど、無くてもそこそこ幸せに生きられるのなら、そのほうがいいよね。あるに越したことはないけど」 「なんていうか、お金があるのが幸せだって、言えないよねぇ。あるに越したことはないけど、あってもつまんない仕事して死ぬほど働いて、何もできないんじゃ楽しくはない」 「それは仕方ないけどさ。どっかで楽しみを見つけるしかないのよ。それは無い物ねだりよ。生きるためよ」 「みんなが仕事できる人ならいいし、みんなが自分のしたいことが見つかるならいいのにね」 「でも、みんなそういうこと見つけようともしてないように見える」 「お金なくても、幸せに生きる方法はないのかなぁ。価値観の問題だよねぇ、たぶん。幸福の感度っていうかさ」 「ただ散歩するんでも、楽しみを見つけられる人ってのはいるのよ。何してても、幸せな人はちゃんと幸せなのよ」 「そうだよねぇ。えっちらおっちらお金稼ぐよりも、そっちの方がずっときちんと幸せだし、真っ当だよねぇ」 「お金は絶対必要だけど、それだけが全てってのは変だよ絶対」 「そうだねー。幸せと不幸せと両方同時に迫ってくるよねー、何かしようとすると。絶対どっちかなわけじゃん。それだったら、『何もしない』を選択したくなる気持ちもわかるかな」 「うーん。なにもしなかったら、一生、誰かに認められることも、好かれることも、慕われることも、愛されることもないんだよ。それこそが究極の不幸せだと思うけど」 「そうかもなぁー。」 「幸せの感度を上げ続けて、不幸せを遠ざけ続けるってことでしかないのかな」 「何が幸せで、何が不幸せかって自覚するのも大事よねぇ。なにか人生に楽しみがあるといいのにね」

嘆きの壁

 たくさんの人がその場所を訪れて、心を表していく。それは信仰であり、信条であり、そして、人生についての「嘆き」である。訪れる人々は皆、ここに心を置いていく。壁の人の背丈の高さには、色が変わっている部分がある。人々がそこに触り、嘆くからだ。  その壁は様々な嘆きを聞いてきた。それはきっと、人々の人生の嘆きである。そういうものがこの世界に在って良かったと思う。この世で一番澄んだ場所は、嘆きの壁であるかもしれない。  人々は其処に行き、嘆く。それだけなのだけど、それは大事なことだ。人種も性別も宗教も年齢も、生まれたところや信条をも超えて、人々は其処に集まり、嘆くのだ。  発することで人の心が救われる。ただそれだけなのに、人の心は浄化する。それによって直接なにかが解決するわけではないのだけど、発声することによって、気持ちの整理がつくのだろう。その場に来て、何を発言するのか、人は何かを考えるであろう。それによって自分を知ることになるだろう。  壁は壁である。だが、壁である。壁を反射して聞こえてくる人々の声は、きっと、嘆きを嘆きでないものに変えているだろう。それはよもや救いの声となっているのかもしれない。  みんなどこかで話したいことがあるだろう。それを聞いてくれる相手を求めているものだ。自分の声が反射して聞こえてくるこの壁に、人が集まってくる理由がなんとなくわかる気がする。  壁に嘆くことで、何かがその人の中で変わるのだ。発声することで変わるのだ。哭くがいい。叫ぶがいい。ここではそれが日常なのだ。そうしてまた元の生活に戻っていくがいい。この世界の片隅に、この壁が在ってよかった。

興味を持つということ

「これなに? なんていうの?」 「君は何にでも興味を持つねえ」 「そうかしら? 興味あるものにしか興味ないけど」 「いや、知らないということを躊躇しないのは良いことだ」 「ふーん、知りたいだけなのよ。今の世なら名前さえ知ることができれば、ネットがあるじゃない」 「そうだけど、」 「知らないで後で恥かくのは自分でしょう? それになんていうのかな、知りたいってのは小さい頃からずっとあるのよね。自分の好きなことに対しては」 「うーん、誰もがそうできるわけじゃないんだよ」 「そう? そんなの当たり前でしょう」 「いやー、結構みんな面倒くさがったり、後回しにしたり、躊躇したりするものだよ」 「よくわからない。自分の知りたいことを知ろうとするのなんて、当たり前だと思うけどなー」 「まぁそういう人にはそうかもね」 「興味を持つってなんなんでしょうね。何にでも興味湧くわけじゃないし、何にでも関心があるわけじゃないのよ」 「うーん。なんか惹かれるものがあるんだろうね。嗜好っていうかさ」 「そういうの、どうやって決まるんだろうね? 好きな人の好きなものを好きになったことある?」 「あるよ、ぜんぜん」 「あの感じもなんか変なものが混じってそうで、なんか自分で嫌になったりするのよね。醒めるっていうか。純粋に自分の嗜好で好きなものを好きでいたいのに」 「うーん、大抵の人は人に合わせたりするんだよ。仲良くなるためとか、愛を示すために」 「それが愛なの? よくわからないわ。でもまぁそれで仲良くなるってのはわかるかな」 「相手を受け入れてるっていうかさぁ。あなたを認めてますよ、ってことに、ならないのかなぁ、君にとっては?」 「それで仲良くなっても見せかけよね、それは。と思うけど」 「別に恋人同士で同じ趣味を持つ必要もないけど、理解は必要じゃない?」 「うーんまぁ。でもそれってその人のこと好きなのかしらね」 「どんな趣味を持ってようとも構わず、相手のことを受け入れることができる、ってのはある意味最強だよなー」 「でしょう? そっちのが、愛なんじゃないの」