罰と褒められること。そして悔いについて

 なんというか、自分の周りで起こったことみんな自分が悪いから起こったんじゃないか、みたいな発想になってしまってつらい。冷静にその根拠を探れば、自分のせいであるはずがないことなのだけれど、第一感でまず自分の罪を感じてしまう。小さなことも大きなことも、様々なことが自分のせいなのではないかと思ってしまう。
 それは、自分が何もできない人間だという強迫観念からくるんじゃないか。過剰に卑屈になっているのだと思う。自分は非をしでかしてしまう人間なんじゃないかと思い込んでいる。とにかく自分のことを出来ない人間、不充分な人間、と思い込んでいる。そしてそれはおそらく図星なのだけど、それすらも自分が悪いのではないかという発想の一部なのかもしれない。
 存在が罪深いとまでは言わないけれど、自分がなんの役に立っているのだろうという自己嫌悪は拭えない。なんともなしに救われたいと思ってしまってる。楽になりたい。このままこの強迫観念が強くなっていったなら、私に待ち受けている道は一つしかないのだろう。この罪の意識──しかしそれはなんの根拠もない──をどうしたらいいのか私にはわからない。
 この強迫観念を払拭するために、私は何かができると自覚したいのだと思う。ある会話で、僕は褒められたいのかもしれないと呟いたのだけど、おそらくそれだって自分が何かをできる人間であると承認されたいのだと思う。そうしなければ、自己罰に押しつぶされてしまう。
 自分で自分を認めることは「一応」できているはず。でもどこかで認めきれていない部分があるのだと思う。自信がないわけではないのだけど、社会がそれを許さないかもしれないと、どこかで思っている。というかそれをまず許さないのは自分なのだと思う。何もできない人間だとか、恥ずかしいとか、目立ちたくないとか、人と関わりたくないとか、思っているのだ。私にとって世間という言葉は往々にして自分のことである。
 自分を信じている部分もあるし、それはたぶん過去の自分によって、だ。今の自分をどう思っているかというと、あやふやなまま。評価されたらうれしいけれど、そうでなくても何も感じない。努力をしているかもしれないし、そうでもないかもしれない。それが報われるべき努力か、あるいは他の誰も真似のできないような努力かというと、そんなことはない。ただやっているだけとも言える。そんなこと、努力と言えるだろうか。
 そんなんで何かができる、だなんて虫が良すぎるだろう。私と対面する人は震えるだろう。こんな人間に褒めるべきところなんて一つもないのだから。
 おそらく、自分を支えるためにするべきことは人に評価を委ねることではなくて、これ以上やりようがないという何かだろう。それだけが私を充たすだろう。その結果がどうであれ、悔いがないところまでできたのなら、それでいいのかもしれない。
 今の私が一番恐れるべきことは、悔いが残ってしまうことだ。考えを尽くしたいし、できる限りの具体を実行したい。そうして時間を埋め尽くすことでしか、私を充たすことはできない。
 後悔する時間も、罪を感じる時間も与えないこと。やること、やり続けること。そうすることでしか、私は充たされ得ない。

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