つっかえたものを取ること

 俺、敗北を受け入れられていない人だ。宙ぶらりんのまま、いろんなことを病気のせいにしている。そして納得してないんだと思う。だからグズグズするんだ。病気になったことは仕方ないことだけど、この病は自分が望んだものかもしれない、と思ってる限り、ぼくは前に進まないのだろう。
 あの頃はそれなりに情熱もあったはず。わたしは本気だった。でもダメかもしれないとも思ってた。自信がなかった。でもやろうと思ってた。その矢先に病気になった。わたしにとっては好都合だったかもしれない。やらないうちに諦める理由ができたのだから。そうしてわたしは病気になったことを受け入れたのだと思う。そこがわたしの弱いところ。
 宙に浮いてしまったあの頃のあれを葬り去らなければいけない。諦めたわけでもないのに、諦めたことになってしまっている、いろんなことを。チャレンジする前に病によって退場させられてしまった、あれらを。
 つまりうまく消化してないのだと思う。人生を。それでいろんなことを見失ってしまった。失われたさまざまな感覚を取り戻すことは容易ではない。
 この病はきっとわたしが望んだものなのだ。この病さえなければわたしは自分のしたいことに挑戦できたのに(、でも退場してしまった)。『無念』という気持ちを病気の所為にしている。それってすごく情けなくて、かっこ悪いことなんじゃないか。しゃべれないうちは、しゃべれないことをいろんなことの盾にできる。何をするにも熱心になることを回避できる防波堤になる。障害があるから、わたしはやらなくていい。できることをすればいい。仕方なくすればいい。人生を楽しめなくて当たり前。友達少なくて当たり前。人との交流の感覚を失うのも当たり前。そう言ってるうちは先に進むことはない。一生ない。
 納得がいってないと同時に、助かったと思っている自分を粉砕しないことには、わたしに未来はない。複雑な気持ちを抱えている。難しい。挑戦することが、怖くなっている。また倒れるというんじゃなくて、またなにかを言い訳にして逃げるんじゃないか、と。情けなく逃げる自分が嫌なんだ。
 諦めることを、きちんと諦めること。それをしない限り、次にいけない。ぼくはずっと宙ぶらりんのまま。諦めるために、熱心に言い訳せずにやりきることでしかない。そうでないと、報われない。
 報われるために生きてるわけではないけど、自分の納得できるように生きたい。今のままでは悔やんでも悔やみきれない。諦めるのなら、やって諦めて次に行く。そうでなければ進めないのだ。つっかえた物を取るのだ。

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