わたしには励ましたい人がいる。

 わたしには励ましたい人がいる。正確には励ましたい人たちだ。友人だってあるし、自分自身だって励ましたい。励ましたい人がいるということが今のわたしには誇らしい。本当に孤独だったときを通過しているからそう思うのだと思う。わたしには人を信じることができなかった。それは、そういう病気だったから。
 どうやったらエールを贈れるのだろう。たぶんいろんな方法がある。降っても晴れてもいつも変わらずにその人たちにわたしの存在を感じさせることが大事なのではないか。いつでも味方だと思ってもらい続けること。
 なにも特別なことをするんじゃなくて、ただ居るだけ。わたしはつまらない存在だし、なにもできないのだけど、できるのは存在を感じさせることくらいなのではないか。この人はいつもそばに居てくれる人だ、どんな自分も受け入れてくれる人だという感触を、与え続けたい。
 くだらない話も、何気ない話も、ノープレッシャーでできる関係というのは貴重だとわたしは思う。笑いたい時に笑えばいいし、泣きたい時には泣けばいい。つらい時もあるだろうし、楽しい時だってあるだろう。あって欲しい。
 ここに書いてあることは、わたしがわたし自身にも思っていることだと思う。つまり、わたし自身がいつだって自分の味方であるべきだ。わたしはそうできなかった。だから人を信じることができなかったのだと思う。問題はあくまで自分の裡にあったのだ。
 誰かの敵に回ること、それは自分自身さえも引き裂くこと。自分の気持ちをどこか裏切ることになる。敵意や信頼しない気持ちは、あまり良いものを生まないとわたしは思う。なにかするだけの根拠がきっと人にはある。そのことを忘れないで欲しい。その根拠を知ることができなくても、何かあるはずなのだと察すること。許すことができれば、たぶん、人は完成する。
 励ましたい人がある。とても大切な人たち。人の応援をする前に自分が頑張れよと思うかもしれない。だけど、大切な人を励ますことは自分への激励にもなる。励ました手前、自分だって頑張れるはず。そばにいる人は自分の鏡なんだ。鏡は磨かなければ、用を足さない。ただ居るだけの人になってはいけない。その存在こそがありがたいと思う人格を持っていたい。

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