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この10年間を振り返って〜人というフシギ〜

 緘黙になったのが2008年くらいだったので、来年で10年になる。今年の10月くらいに喋れるようになったので、まぁだいたい9年かそのくらいはほとんどまともに人と喋っていなかったことになる。そんなわけで、この10年を振り返ろうかな、と思ったけれど、そんなことよりも、ここからの10年について文章にしておこうかな、と思う。少々長くなるかもしれない。  人はいつだって楽しくありたいと思うはず。いつ命が尽きるともしれず、そして人は必ずいつか死ぬ。いつかのために今を苦しむという考えもあるのかもしれないし、そうしないと、いつかの楽しみを得ることができないということもあるのかもしれない。黙って耐える時間というのも必要なのかもしれない。  でも、そんな耐える日々の中にも、なにか楽しみがあった方がいいと、私は思う。私はこの9年間いろんな気持ちになったけれど、それが楽しい日々への布石だと思ったことは一度もないし、できたら苦しい気持ちにはならないほうがいいと思ってる。ずーっと楽しい気持ちでいたほうが健やかだし、そっちを目指すべきなんじゃないか。苦しい思いをするべきじゃない、って言いたいんじゃなくて、そういう中にもちょっとした楽しみを見出せたほうが、人生は豊かだってこと。歯を食いしばってるだけが人生ではない。何かに楽しみを少しでも見出せていないと人生はとてもつまらないものになってしまう。  それは苦しみだけではなくて、怒りに身を任せたり、怒りに囚われてしまうこともそう。そういう時間は、なるべく少ないほうがいいと思う。ふっと息を漏らす時間、楽しみに興じることができないのは、本当につまらない。  楽しい時間を過ごすためにも分かち合う仲間とか友達とか、そういう人が人生にいるってことは、かけがえのないことだ。そういう人がいないってのは、本当に貧相な人生だと思う。  ここ数ヶ月で、「笑う」ってことが、どんなに大事なのか、本当に見に染み入るようになった。この9年間の間に、笑うことができなかったこともあったけれど、それでも、なんとか生きてこれたのは、笑っている自分を想像できたからだと思う。  ラジオを聴いたり、いろんなことして笑おうしてきたけど、本当に笑っているのは喋れるようになってからのこの数ヶ月だったと思う。人と会って喋るってことが、どれだけ自分を和ませたか、どれだけ自分に誇りを持たせるこ

一人

一人で生きていても楽しくはないだろう。 誰も信じることができないなんて、つらすぎる。 よすがにする人がないなんて、悲しすぎる。 誰にも相談することなく、正しさに到着することはない。 自分が正しいと思った瞬間に、何かが瓦解する。 人の担保なしに、正しさは保たれ得ない。 独りよがりでは、思考は停滞する。 自分の考えの癖を超えることはできない。 人がいるから、その言葉や行動を正すことができる。 人は一人で生きていくことはできない。少なくとも健やかにはいられない。

改・トラウマについての一考察

 トラウマが次の行動に影響を与えるだろうということ。未来の行動を躊躇させるということ。そうやって制限されているであろう人をたくさん見てきた。それがなにによるのかも、なんとなく察しがつくこともあった。そういうことをなるべくなら乗り越えられたらいいのにと思ってた。障害なく暮らせた方がいいって思う。  人はなにかしら背負ってる。生まれたばかりの赤子だって背負ってる。大人になればなおのこと。成長していくに従って周りとの関係によってその人は作られていく。それがどういうものになるのかは、誰にもコントロールできない。  トラウマが瓦解するとき「腑に落ちる」という表現が一番ピンとくる気がする。私に危害を加えてきた人はこういう感情や理屈を持っていたから、こういう行動をしてきたのだと思える。そのこと自体は許せなくても、なんでそうしたのかを知ることができたなら、自分を納得させることができるかもしれない。諦めもつくかもしれない。そこになんらかの感情や筋の通った理屈があれば、だけど。そんなものなく、心的外傷をもたらされることだって時には、ある。  縁は不思議。それがそこにあることに何か意味があるのかもしれないし、ないのかもしれない。わからない。  なにかを受け取ったときに、どう振る舞うのか。幸も不幸も、必然も偶然も。僕はことによっては取り乱すだろうし、うろたえるだろうし、憔悴してしまうかもしれない。あるいは受け入れるのだろう。もしかしたら何かを失ったまま、人生を過ごすのかもしれない。  なるべく自分の近しい人が自分の人生を生きることができたらいいって思う。未来の行動に影響を及ぼす全てのことをコントロールすることはできない。でも、ちょっとだけ良くすることはできるかもしれない。自分をどう思うのかってこと。自分を憐れみすぎるのもよくない。かといって過剰な自尊心も毒である。  自分を自分で縛ってる。自分への憐れみも自尊心も。制御することで自分を守ろうとする。自縛を解くことができれば、少しは自由になる。許せなくてもいい、納得できたなら。  そのために、想像力を働かせることだ。状況と感情を把握することだ。その時なにが起きていたのだろう。すべては想像力による。今すぐじゃなくていい。時がきたら想いを馳せてほしい。腑に落ちる時がくるかもしれない。  どうか、いい人生を。

トラウマについての一考察

 無理なことは無理である。どんな人にも多かれ少なかれ、トラウマってあるんじゃないか。それが人生を左右するほどのこともあれば、大したことでもなく自分でも気がついていないということもあるかもしれない。心の傷は、外からは見えず他人からはほとんどわからない。普通にしている人にだってなにかしらあるものだ。そういうものがあって傷ついているから人は魅力的に見えるのかもしれない。少なくとも無傷を装っている人には僕は心を開かないと思う。  僕だって傷つくことはあったし、失敗だってたくさんあった。それがどう心理に影響しているかなんて、わからない。でもきっと小さな影響はあるだろうし、ひょっとしたら目に見える形で現れているのかもしれない。その因果関係がわかることもあれば──つまり人生を左右するほどのこと、と言えるかもしれない──目にほとんど見えないこともあるのだろう。  僕は精神科医でもないし、詳しいわけでもない。心的外傷について僕はほとんどなにも知らない。  ただそれが次の行動に影響を与えるだろうということはわかる。未来の行動を躊躇させるということは、わかる。そうやって制限されているであろう人をたくさん見てきた。それがなにによるのかも、なんとなく察しがつくこともあった。そういうことをなるべくなら乗り越えられたらいいのにと思ってた。平気で暮らせた方がいいと思う。  人はなにかしら背負ってる。生まれたばかりの赤子だって背負っている。大人になればなおのこと。成長していくに従って、周りとの関係によってその人は作られていく。それがどういうものになるのかは、誰にもコントロールできないと思う。臭いものに蓋をすることでさえも、コントロールなのだ。そういうトラウマだってあるのだろう。  トラウマを乗り越えるとき、そのことがへっちゃらになっている。たぶん、大丈夫だろうと、恐るおそるそれを超えていく。時がそれを解決するかもしれないし、理屈なのかもしれない。いろんなトラウマがあるから、一概には言えない。何か、腑に落ちる瞬間があるのだろう。人の行動を見て変わることもあれば、勇気付けられたり、ある日なんでもないや、と思うのかもしれない。大げさに考えすぎていた、とか、けっこう自分の気の持ちようによっても大きく変わるのではないか。考え方次第で、自分を縛っている鎖は外れたりする。  何度も書くが私は専門家では

言葉の扱い

 自分が間違っていること「だけ」わかっている。なにが間違っているのかはわからない。知ろうと足掻いてもいない。知りたくないのかもしれない。やはり自分の弱さみたいなものを直視するのが怖いのだろう。できないという自分を受け入れられないのだろう。間違っていると知りながら、間違った道を間違ったやり方で行こうとしている。  今まで、うまくいったこともあれば、そうでないこともある。ということはどういう時にうまくいって、あるいはうまくいかないか、わかっていないということだ。運にまかせているだけだし、ほとんど当てずっぽうと言っていい。なるようになるさと思っていて、一歩先になにがあるかなんて、考えていないのだ。  きっと、うまく行く方法があってそれを学んでいけるはずなのに、そうはしていない。自分の思考の癖みたいなものがあるはずなのに、それをコントロールできないというか、折伏できていない。  「間違っている」というのはいまの状況ではなくて、考え方や振る舞いのことだ。つまり、根源的なことである。  自分に対して考えているフリをしてしまっている。実際にしていることは言葉をこねくり回しているだけだ。考えたのならそれをもとに有効に行動しなければならないが、そうしようという素振りはない。言葉を並べただけでは考えたことにはならない。(自分なりに)考える(フリをする)ことに快感をすら覚えてしまってる。何かしている気になっているのだろう。でも実際にしている行動は大したことではない。  考える出発点の着想から始まって、一度も予想を外れない。どこかの誰かが言いそうな経路をたどって、誰もが思いつくような結論に達する。オリジナリティのことを言いたいのではないし、ほかの人も言っているから正しいとも限らない。  言葉を運用するのに最低限まもらなければならないことを守っていないように思う。その言葉はどこから来て、どこへ行くのか。自分が考えるということはそこにどう活かされているのか。自分がそれを発する意義はなんなのか。  私が間違っているところの一つはそういった言葉の運用に関する掟なのではないか。考えるということは、言葉を使う。その言葉の扱いを誤れば、思考も誤る。よって行動も誤る。  言葉に対する言葉が見つからない。どう考えたらいいのかもわからない。どう行動したらいいのかもわからない。自分がどこまでどう

惑い人

 年末年始の浮かれた雰囲気が苦手だ。このいまの日本の世界中からの観光バブルも苦手だ。この浮き足立っている感じ、いつまで続くんだろう。ペースを乱されるような足並みなんてないのだけど、何かが乱されているように感じてしまう。自分のことくらいは地に足をつけて自分自身を見失わないようにしたい。というかとっくにわたしは自分を見失っているわけだけど、自分を固定するのを邪魔しないで欲しい、という感じ。この地に足のついていない感じ、いつも惑わされている。こういうときにはいつだってわたしは外に出ないし、家でじっとしている。パーっとお金使おうという感じ、セックスするという感じ、そういう浮かれ具合が嫌なんだ。使うなら、使うべく使いたいし、するならするべくしたい。何かに流されて使ったり、することについて僕は違和感を感じてる。 ***  本物になりたい。とつぶやいたところで、そうなれるわけではない。たぶん僕は偽物で、どうしようもなく偽物で、本物にはなりそうもない。コピーですらなく、ただ紛い物である。いつだって誰にでもできそうなことをしているというだけで、読んだ人は自分に立って書けそうだ、という文章しか書いていない。だから、人の心をつかむことはない。そうするつもりはないというのはただの逃げで、本当はそうしたいはずなのにそうするように鍛錬していない。逃げてるんだ。そうしているうちは本物になんてなれないだろう。考え方からして間違っている。本物とはなんなのか、って言葉にならない。でも自分が偽物であるという予感はある。それは自分が頑張れないからで、ただしたいことしてるだけだからで、努力できないからだ。何もかもが間違っているし、正しいことを目指していない、というスタンスをとっている間は、どこにも行けないのだろう。行く気もない、と嘯いている。それじゃあダメなんだ。  そのために何を捨てるか、っていうのがたぶん大事で。そのために何を懸けられるのか、っていうのが大事で。人の限られた時間を何に使うんだよってこと。くだらない亡霊の相手をしている暇があるのなら、文章のことを考えていた方がいいよって思う。目の前のことに集中し続けていくことでしかなく、そして、そうもできないでいる。連続した何かを自分に用意することができず、ただ受け身にやるべきことをこなしているだけだ。 ***  何かに流されて使ったり、したり、

不条理の亡霊

 思うごとに亡霊はやってくる。そのたびに蹴散らしている。思うことはただ一つ、過去の出来事と今につながること。そのことを思い出すたびに私は焦燥し、脳のキャパの一部を使い、いたたまれない気持ちになっている。そのことを考えることすら野暮で、考えたくもないこと。  起きたことを許すこともできず、納得することもできない。人生とは不条理なことが起きるものだ。人間関係にはわからないことが多すぎる。  今思う。人は思ったよりも人に優しいし、親切だ。ただ、そうではない人もいるというだけで。  一生、納得することのないことを抱えて、生きている。  救うのは、想像力。その人に何があったのかの情報さえあれば、なぜそんな行動をしたのか、納得はできなくても、許すことはできるかもしれない。弱い人なのだと、情けない人なのだと、自分に起こった不条理を受け入れることができるかもしれない。

あと何年、生きるつもりで生きてるだろう。

 あと何年、生きるつもりで生きてるだろう。あと何年、働くつもりで働いてるだろう。明日には死んでるかもしれないし、100歳まで生きるのかもしれない。いつ頃仕事を辞めて、いつまで快活に生きられて、死ぬときにどう思うんだろう。若いうちにしかできないことは山ほどあっても、そうすることは叶わないこともある。したいことをできないのに、無理してやりたくないことを続けているのはなんだかなぁと思う。でも、したいことをするためにどのくらい頑張れているかって、微妙で。それが本当にしたいことことをするためなのか、ただ、しなければならないからしているのか、生きるためにしているのか。  自分のしたいことは本当に今していることなのか。本当にしたいことはなんなのか。そのために毎日を過ごしているか。したくないことで疲れきっていないか。そういう日が続くと、自分を変えるようになるだろう。こうするのが自分のしたいことだったのだ、と。自分を言いくるめることほど簡単なことはない。人生の分かれ道はたくさんあるだろ。もうできないことは山のようにあって、でもできることだってたくさんあって。自分を封じ込めて生きることほど、自分を焼くことはない。どうしようもないこともあれど、そのために何かをしているのかというとそんなことはなくて。本当にしたいことなのなら、いくらでもできるということ。腹を括っているのなら。頭を使って、日々行動し続けていたらいい。それだけでもだいぶ違う。時間ない。眠い。ダラダラしたい。そんなことも言っていられないほど、何もかもを犠牲にして、そこに向かって突っ走ることだって人にはできる。言い訳は無限に湧き、でもそこに行く道はたぶん一つしかなく。それは意志の強さではなく、ただ本当にしたいことを知っていて、ただそれをしたいというだけに過ぎない。悪魔に魂を売ってでも、したいことをする人がいる。そうしなければそれは手に入らないからだ。どんな言い訳も効かず、ひたすらに。どんな忙しさの中でも自分を見失わず遂行する。いつも知恵を持ち、いつも人から学び、いつも成長している。効率よく物事を進め、自分のしたいことに邁進する。そんな人になりたい。  あと何年、生きられるだろう。その間、私は何をするだろう。どんな風に死の瞬間を思うだろう。あらゆる言い訳を捨て、生きたい、逝きたい。

人間音痴

 不安に思う根拠なんて何もないのに、ただ不安になっている。そういうものかもしれないけれど、それでは困る。もっと攻めていきたいのに臆病なまま。人というものをわかっていない。このままでは駆け引きも交渉もできないだろう。機微の出し入れなんてできやしない。私は素直に感じ、素直に行動することしかできないのだろうか。本音と建前を使いこなせていない。ずっと本音でしか行動していない、発言していない。もっと戦略的になりたいのに。思惑を持って口説いていきたいのに。思い通りにしたいのに。目の前にあるのは根拠のない不安ばかり。病気なのではないかと疑う。たぶん、そうなのだろう。  まず不安に思うことが先立って、それは根拠のないものだ、と自分に言い聞かせている。そこは理屈である。筋道を通っていけば、それが根拠のないものであるとわかる。しかし、心はおどらされている。沸き立っている。おどおどしている。うまくいくだろうか。気を悪くしていないか。失敗したんじゃないか。怒っているんじゃないか。そういう気持ちを一つひとつ消していく。思い立つことすべてについてそうしている。大抵の不安はそうして消える。なぜなら大抵は根拠がないからである。  この先自分がどうなるかなんてわからない。でもそんなことは不安には思わない。ただただ目の前のくだらないことがうまくいくだろうかと不安になるばかりである。なんてちっぽけな人間なのだろうか。不安を抱えて生きている。いろんなことがうまくいかないのが人間だ。いろんなことに不安を抱えるのが人間だ。たくさんの当たり前を経験して、そういうものを払拭していくのが人間だ。そういうことに根本的に慣れていない。人間音痴である。  人間を思い通りにしようなんて、甘いし大仰である。ほとんどうまくいかないだろう。自分のことだってうまくいかないのに。人には人の事情があり、それぞれに何かを抱え、何かを思って生きている。それぞれにこうしたいという何かがあり、その間に私がいてどうにもならないと呻いている。呻いているだけで、何かをしようとはしない。したためしがない。いろんなことが面倒くさくて仕方ない。そうも言っていられない事情もあり、慣れないことも多い。本当は誰とも会わず一日、本を読んで暮らしていたい。

ジャズという愉しみ

 あくまでジャズに関しての私見を書きます。ただの戯言です。  ジャズという言葉が出てきたときに、まず「大人な」とか「ムーディーな」とか、そういうことだけを連想した人は、間違ってはいないけれど、それだけがジャズではないのです。全体のほんの一部分を拡大解釈しているというか、そういう情報しか持っていないのだと思う。ジャズという音楽はそれだけではない。激しいもの(ハードバップ)から、心地よいもの、現代音楽に至る地平まで、いろんな音楽を内包しているのです。  ジャズは即興で演奏する音楽です。つまりその場で発する音を決め、実際に演奏していく。多人数で演奏することが多いですから、それぞれの演奏者の音の関わりによって、影響を受けて音楽は進んでいく。基本的な決まりごとはありますが、そこからの逸脱を楽しむ、という楽しみもある。というかそういう風にジャズは発展してきました。だから、基本となるメロディ、ハーモニー、リズムを知ることが第一です。常にそこからの逸脱です。テーマ一つとっても、演奏される曲に対する基本的なメロディ、ハーモニー、リズムを逸脱しています。アドリブとなれば尚更です。その逸脱が、楽しく、一番おいしいところなんです。  音楽といえば歌う唄である、と思っている人にはインストは聴きにくいかもしれません。どこを聴いたらいいのかわからないとか、聴いてると眠くなってしまう、とか。ジャズでは(言葉は用いないものの)演奏者全員が歌うということが大事です。ドラムもベースもピアノも楽器を通して歌います。つまり伴奏の最低限のことをしつつ、その範囲を超えるということです。ジャズにおいてドラムはリズムガイドとしてはほとんど機能していないと言っていいかもしれない。特にスネアに関しては不整合に聴こえるかもしれないです。大抵の演奏者のタイム感は良いので、ドラムでさえも歌うことができる、というかそういうことを要求されます。  言うまでもなく、音楽の中心は歌です。その強弱、その音量、いろんな要素によって歌はできている。それは打ち込みや機械にはできない微妙な出し入れです。息の量の微妙さ、喉や舌や口の形の微妙さ、筋肉の動きの複雑さを機械が再現できないのと同じです。どんなに楽器を演奏するのがうまい機械を作ったとしても、人間の演奏する微妙さには追いつけない。それは機械がその動きや感覚や反応を人間のようにはコン

惑い人

 いろんなものを、人から受け取ったり、渡したりしてるんだ。そういうことを、ずっと、拒んできたのかもしれない。そうやって生きてきてしまった。誰から何を受け取るか、誰に何を渡すのか、渡せるのか。  渡すものは、モノだけでなくて、気持ちだったり、情熱だったり。  あいつがやるから、俺も頑張る、ということでもあったり。  拒んできたなりに、いろんなことを受け取っていたはずだけど、これからは、ずっともっと、いろんなことを受け取ることになるのだろう。  その時の、基本的な気持ちとして、私は何かを勘違いしているような気がしてならない。人と人が関わるということ。一瞬だとしても、すれ違うこと。そこで心を交わすこと。そういうことの、なにがしかをわかっていないような気がしてる。軽んじているのではないか。  なにを人が重んじていて、あるいは真剣で、なにを軽んじているのか、それさえも個性であるけれど、それを知ろうということは人と人が接する上で、大事なことであるはず。譲れないもの。  人というものが、なにによってできているのか、私は、知らない。  自分がなにによってできているのかも。なにがなければならないのかも、なにを失ったら、自分でなくなるのかも。  譲れないものは、仕事であったり、娯楽であったり、考え方そのものであったりするのだろう。  自分が一番大事だ、という人もあれば、人に依存しなければ生きられない人もあるだろう。  なにが正しい、なにが幸せだ、ということでもないんじゃないか。ただ自分のあるようにあれば良いんじゃないか。そこに居られなくなったなら、衣を変えて去る。幸せを求めなくなることが、私は怖い。麻痺してしまうことが怖い。思考停止してしまうことが、怖いのだ。  人と、関わらずには、生きられない。どう、人と関わっていくのか。どう、自分の幸せを追求するのか。どうするのが良いのか、わからない。こうするとうまくいくという、攻略法にはない、難しさがある。そういう欠点をみんな僕らの世代は抱えてるんじゃないか。そういう価値観を持っていると、人生はとことんうまくいかない気がしてる。  わからないことだらけだ、人生は。惑うしかない。

ブックデザイン勉強会 2017/12/17

 今回は2回目の参加。勉強会自体は全3回のうちの3回目。2回目と3回目に出席しました。今回は課題を提出して、寸評をしていただけたので個人的には濃い勉強会でした。  前回参加した時に先生がおっしゃっていたことを踏まえて作ったつもりだったのだけど、足りない部分もかなりあったかなと思う。抑えているところは抑えていたけど、ダメなところはダメだった、というか冷静になって自分の作ったものを見てみるとアラが目立ってしまって出したのが恥ずかしかったな、と。まだそんなレベルではなかったかもしれない。  デザイン的に意味のあるように置く、というのが難しい。それがデザインする、ということなのだと思うけど、私は要素を並べていくというだけで、うまくいっていないように感じる。そこに置くという根拠に乏しいのだと思う。そして美しくない。字詰めもまだまだ。英文のやりようももっとあったと思う。というかわからなくて、放棄してしまった部分はあったかなと思う。もっとできたはず。要素を空いているところに埋めていくという感覚で作ってしまって、それも考え方としてとてもよくなかった。つまりそれはデザインの根拠としては最悪なのかなと思う。確かにネガティブな態度だし、意匠として美しくはないし、デザイン的に考えられたものにはなっていない。もっと粘って課題を製作したかったけど、まぁ、しょうがないな。次の機会があったら、ぜひまた参加したい。救いは自分の装幀を写真に撮っても良いですか、と言ってくれた人がいたこと。ダメな見本としてかもしれないけど。自分としてはダメだったなぁと思っていたので、写真に残るのは微妙な気持ちだけれど、反面教師になれば良いや、くらいに思ってる。良いと思ってくれてたならうれしいけれど。  顔写真を楕円で囲むというのがダサいというか古いというのが、ピンとこなかったけれど、それは私がデザインされたものを注意深く見てきていない証拠だと思う。自分としては違和感なかったし、必然と思っていたけど、間を埋めるためでしょ、と見抜かれてしまったので、浅はかだったと思う。顔写真に楕円という組み合わせが古くてありえないということらしいのだけど、古さやダサさを狙うとしても、そういう根拠や理屈や思わせがなければ、それだけでダメなデザイナーと見られても仕方ないことかもしれない。そういう常識みたいなことが全然わからないので、困る、

好きという広がり

 どうやって人は物やヒトを好きになるのか、僕にはわからない。でも、なんとなく好きだとかウマが合うということあるし、相手が自分のことを好きだから自分もなんとなく好きになってしまうということもあるかもしれない。それが本当の自分の気持ちなのかどうかは置いておいてさ。好きという言葉ってけっこう曖昧なのかな、と思う。「好き」という気持ちで人と繋がることについて考えたい。  興味を持っているという事と、好きというのはちょっと違うのかな。好意を持っていなくても、興味があるということはあるのだろう。なんとなく気になってしまうとか、無意識に好きということもあるかもしれない。興味・関心がなければ始まらないけど、つまり、興味のない好きというのはちょっと考えにくい。そして、興味があるけど嫌いということもありそう。興味という言葉にはプラスもマイナスもあるのではないか。どっちに振れるかで、好きと嫌いに別れるのかもしれない。好きの反対の言葉は嫌いではなくて、無関心だ。  無関心のものは目にも映らないし、その人にとっては存在すらしていない。嫌いなものは好きに反転する可能性があるかもしれないし、好きなものを嫌いになるということだってあるだろう。興味のないものに興味を持つメカニズムは僕にはわからない。きっと何かのきっかけでそうなるんだろう。  自分を拡げてくことの楽しさってある。ずっと同じものに興味を持ったままの人もあれば、常に何かが変化することを求める人もある。でも個人的には、何にも興味を持たない人、何も好きならない人がいるとして、なにが楽しいんだろうと思う。  「好き」について、何かの答えとか結論に達するのはなんだか危ういな、と思う。でも何かを好きになることは心地が良いことだし、人が何かを好きであるということを知るのだって、それだけで興味が湧くことかもしれないと個人的には思う。  興味のあり方こそがその人の個性だと言えるかもしれない。視点をどう持つかということ。どう面白がるか、ということ。負の感情で人と繋がりたいとは普通は思わないと思う、というか私は御免だ。好きで繋がっていたい。だからいろんな人の好きな気持ちを知りたい。  ただ好きなのだ、というだけじゃなくて、どう好きなのかを言葉にすることは、私にとって難しいことだ。それだけで私のお底が知れてしまう気がする。言語能力の乏しい私にとって

天馬と老人

 馬が空を駆ける。雷が鳴っている。雲が退いていく。宙が割れる。馬に羽はなく、その足は空を蹴っていく。老人が乗っている。ずんずん進む。私にはそれがスローモーションのように感じられる。雷の音が時間を示す。ゆっくりと、天馬になっていく。  空は紅く、海は緑。老人が立ったまま浮いていて、こっちを見ている。雲がびゅんびゅん過ぎ去る。時が加速していく。  オリオンはあっという間に地に沈み、月は廻る。流星を見逃すまいと目を凝らすが、そこには何も見えず。空は割れ、風が強く吹いている。  老人が何かを怒鳴りながら、スーッと近づいてくる。途端に不安になる。50m手前で老人は消え、次の瞬間に目の前に居る。何か喋っている。  そこで目が覚めた。

傷つきたくない。からの脱却

 私の今ある悩みというのは、きっと、「傷つきたくない」ということに収斂されるのではないか。それを乗り越えたら、次のステップに移れるのではないか。  「傷つきたくない」ことで弱気にもなるし、踏み出すことも億劫になる。傷つかない範囲でしか行動しない。積極的にもならないし、おっかなびっくり物事をすることになる。人に叱られるのも嫌だし、人が怒鳴っているのを見るのも嫌。悲しい気持ちになることも嫌だし、脅やかされるのも回避したいし、影響されるのも嫌なのかもしれない。そして何より、できない自分を認識することが嫌なのだと思う。「傷つきたくない」というワードだけで、これだけのネガティブな言葉が連なって出てくる。ここに全てが現れている。  「傷つくこと」を平気でできるようになったら、人生変わるだろうな、と。マゾになれということではなくて、打たれ強くなりたいのかもしれない。不屈の、というと使い古された言葉だけど、やってもやっても這い上がれるのなら、それほど強いことはないのではないか。どうしたら、そういった精神を手に入れることができるのだろう。  気持ちの強さ、思いの強さなのだろうか。  否定されることの認知について考えたい。あるいは失敗からのリカバリーについて。私はいろんなことがわかっていないのだと思う。どうしたら、失敗を、過ちを、正せるのか、あるいは、人に許してもらえるだろう。失ってしまったことを復帰されることができると知れば、否定されることが怖くないかもしれない。つまり、どこまで人はやり直すことができるのか、ということだ。それは人生だけでなく、無くしたもの、やり過ごしたこと、できなかったこと、嘘や、自分を大きく見せたい心などのことだ。  どんなに否定されたっていいんだ、と経験として知れば、いろんなことが進むのではないか。  私は人生経験として、どのくらいやり直せるものなのか、識らない。やり直せるものなのかもしれないし、もうどうにもならないこともあるだろう。やり直せるか、どうにもならないことなのか、判断する前から、勝手に傷ついて、諦めているのだ。そういう弱さを私は持っている。  「傷つく」という悲しさに比べたら、「挑戦しない」という悔しさなんてなんでもないのが、私なのだ。自暴自棄になっているのかもしれないし、ある意味やけっぱちなのかもしれない。挑戦しない、予想しない、試し

人生で印象的な食事

 これを読んでいるあなたは、今までにとった食事の中で一番印象に残っているものは何か、という質問に答えることができるだろうか。  多くの人が一日に何回か食事をする。それが当たり前になっていて、それを特別なものにするということは多くはないかもしれない。印象に残った食事には何か特別なことを特別な人としているものかもしれない。  私の印象的な食事はいつもとそんなに変わらなかった。食べる相手も、食べるものも、いつもと同じ。特別という感じではない。ただ一つ違うことは、その時に話していた内容なのだと思う。その内容だって特別というわけではない。なんでもない、ありきたりなことかもしれなかった。それでも、私の人生はその瞬間から変わってしまった。私はその食事での会話によって、あることに気がついたのだ。私の人生にとって大事な、とても大事な、あることに。  それはどのように生きていくべきだろうか、ということが腑に落ちた瞬間だった。会話の内容は明日の天気だったと思う。そしてその日の夜に降る流星群の話題だった。明日は雨だから、流星群は見れないかもねー、という相方の言葉にハッとする。明日が雨だとしても、今日流星群は見られるかもしれず、いやそれだけでなく、明日が雨であるかどうかさえも未確認のことだ。明日が雨だからといって、今日の夜が晴れないと、誰が決めたろう。  先行きを決めるのは、他人ではなく、自分なのである。あるいはそうならずを得ず、抗えないこともある。決められないことは受け入れるしかないが、流星群が降らないだろう、と今晩窓の外さえも見ないのは他ならぬ私である。そう決めるのは私である。流星群が起こるかもしれないのに! 人にどんなことを言われようが、自分で決めてそうするべきだ。流され、有耶無耶のうちにそうするべきでない。そのことは大きな違いである。予想は予想である。そして、それは人の言ったことだ。ちらっとでも自分で外を見ればそれでわかること。それをしないことが流星群を起こしていないということなのだ。そこにあったとしても。それでは私にとって流星群が存在していないことになってしまう。  人任せにしてしまっていることのなんと多いことか。なんだって一人でできるわけではない。そんなことはわかっている。だから人に依存し、頼りにしたりする。その対価としてお金を支払ったりする。だけど。どのくらいそれが確

平気で失敗できる人

 どんなに考えたって、行動しようとしたって、今なりにしかできないし、自分なりにしかできない。その中でなんとかやっていくしかないし、できることは限られている。時間はあるようでないし、機会もあるわけじゃない。その気になることだって少ない。  困難に立ち向かっていくために、強くありたいと願ったけれど、それはなんだか違くて、どっちかというと麻痺させたい、という感じなのだと思う。うまくこなしたいというかさ。その方法論を知りたいと思っているような気がする。何においてもね。  いろんなことを考えても、その一本で解決する方法なんてたぶんなくて、その場で臨機応変に解決していくしかない。その場数を踏んでいくってことなんじゃないか。強くあるというわけでも、麻痺させるというわけでもなく、失敗を恐れないということなんじゃないか。平気で失敗できて、それを次に活かせるという人があったら、それこそが麻痺せずに一番強いということと言えるかもしれない。いささか逆説的だけど。  まず平気で失敗して、それを元に冷静に物を考えられる人というのは本当に強いと思う。例えば平気で人を怒らせて、あーこの人はこういう時に起こるんだな、と冷静に情報収集するとかさ。人と人が対面して、わからないことだらけの時に、おっかなびっくりで接せられるよりも、ガツガツいってやり過ぎなくらいで引き算してく方が手っ取り早いだろう、みたいな。対する人次第の例えではあるけど。  ガツンと怒られるのが平気って人もいるし、そうじゃない人もいる。逆からみれば、起こりやすい人と、丁寧に扱いわなければならない人といて、断然指摘されやすい人の方が、得るものは大きそうだよなぁと昔から思ってた。  平気で失敗できる人ってのはいいよなぁと思う。怖いもの知らずってことなのかもしれない。根拠のない自信ということなのかもしれない。そういうことって若さと親和性が強そうに見えるけど、というかある程度年取ってそれをするのはちょっと恥ずかしいことなのかな、と思えてしまうけど、私はそうできたらなと思ってる。良い意味で無知でありたい。鈍感でありたい。それでもその失敗を分析して次につなげていくしたたかさを持ち合わせていれば、それで良い。つまり同じ失敗をしないということなのだ。  強い弱い麻痺してる、という文脈で考えてみたけどどうだろう。字数が足りないので今日はここまで

夕立

 今日は外に出るのが億劫だ。低気圧で頭も痛いし、傘さして歩いてもどこかしら濡れるだろう。空から水が降ってくるなんて、とてもシュールだと思うんだが、みんな普通に受け入れている。小さい頃からこんな日に外を歩くのが厭だった。世界は異様になっているというのにみんな平然として出かけたり、人によっては天の恵みだという。私にとっては不運な日でしかなかった。ザーザー音が鳴っている。降り始めに例の匂いがした。この匂いは好きだ。だけど天気そのものは好きじゃない。濡れることがとにかく厭だ。その後拭いをすることが嫌なのかもしれない。この天気を楽しみになるように工夫したこともあった。見栄えの良い長靴を買ったり、傘をビニールなんてやめてちょっと良いものを買ったり。そうやって出費しても、すぐに飽きてしまう。そんなことでは免れないほど、水の脅威はすごいのだ。こんな天気は化粧だって変わる。濡れることを前提として化粧する。この天気に関するなにもかもが、面倒臭い。  天気なんて憎んだって仕方ないのだが。ただただ、過ぎ去るのを待つだけ。今日は何もできないし、するべきこともない。庭の草木に水をやらなくて済むくらいだ。天の恵みなんて私にはいらない。天に右往左往しない身体が欲しい。  水が貯まれば助かる人もあるだろう。だけど、私の個人的な意見を言わせていただければ、誠に勝手なのだが、それなしになんとかならないのだろうか。やはり不都合がありそうだ。降らない日が好きかというとそんなことはなくて、つまり天気に好みなんてなくて、ただただ、天から降ってくるこの水が鬱陶しい。ぽつぽつと降り注ぐ。私の元に。そんなことしたって、いいことなんてそんなないのに。いや、私にはないのに。本当に自然は理不尽だ。でもそういうものなんだ。なんだか愚痴ばかりになってしまった。  こんな天気だって楽しくできない自分が憎い。それは私が悪いのだ。解決しない問題を抱えすぎている。余裕をなくしている自分が、そんな気分にさせているのだろう。そうやって天気を媒介にして自分を知ることができる。私はダメなのだ。天気を愚痴るようでは。そういうことを一個ずつ乗り越えて、きっとこの先があるだろう。  天気なんて御構い無しだ。構うもんか。濡れてやれ。行ってやれ。ずぶ濡れで行くがいい。この夏空だ、気持ちが良いだろう。行くがいい。そんくらいの方がいいのだろう、私に

人と生きる、人として生きる

 あるところに住んでる、ある人。その人は誰とも関わることもなく過ごしてる。そうやって生きることを常としている。そうすることが当たり前で、その人はそうしていたいのだ。人と関わることは、人にどう思われるか、を気にしなければ成り立たない。そうすることを、その人は拒んでいるのかもしれない。本当のところはわからない。  人と関わることなしに暮らすということは、誰の手助けも受けず、頼りにもせず、一人の力で暮らすということだ。自分の力で住むところをこしらえ、食べるものを用意し、生きて死ぬまでの責任を持つということだ。  人は一人でいるようにできているのだろうか。社会的な動物であると、誰が決めたろう。一人で暮らすことが不可能であると、誰が決めたろう。人と暮らした方が楽というだけで、一人で暮らすことは苦でもないかもしれないし、してはいけないことでもないはずだ。その人の土地に、その人が家を建て、食料を調達し、暮らす。  誰にも迷惑をかけないのなら、それでいいのだろうか。何かを得るということを自分一人の責任に於いてやるのであれば、それでいいのだろうか。  一人で暮らす。その人は自分がどんな生活をし、どんな格好をしているかに注意を払わない。しかし、それは生きていくための必要条件を満たしている。理にかなってさえいれば、それで良い。暮らしやすければ、それで良いのだ。  この人は何のために生きているのだろう。ただ生きるために生きているのだろうか。人と暮らすということはどういうことなのだろう。人に支えられ、人の役に立つということはどういうことなのだろう。自分のためだけに生きる人、自分の責任においてしか生きない人を、人間と呼称していいのだろうか。  どんなに人に絶望しようとも、一人になったとしたら、人とは呼べないような気がする。動物とほとんど変わらない。知恵を持ってはいるけれど、人と関わることを拒むのならば、人ではない気がする。  人と一緒に過ごしている人間のような人がたくさんいる。人と触れ合うことで人は人になるのかもしれない。社会の中で生きるから、人は人と呼べるのではないか。そこで生きるから、人の中で生きるから、人として生きられるのではないか。  愛があるから、人生は愉しい。比較するから成長するのだろう。人との関わりの中で人は生きている。一人で生きることなんて、多分わたしには、でき

しっかりしてることを示す必要なんてないはず

 何事も考えすぎなのではないか。かと言って、それで疲れていると言うわけでもない。隙がないかもしれない。余裕がないかもしれない。なんでも完璧にしようとしてしまう。両親と同居しているが、彼らの手の抜き方には時々考えさせられる。良い感じで締めて、良い感じで抜いている。抜きどころを分かっているという感じ。わたしはいろんなことを頑張りすぎて、余裕をなくしがちである。しなくてもいいことをしてしまっているし、しなければいけないことにリソースを集中できずにいる。  正しく考えたいと常々思っている気がする。そして、しっかりしていなくてはならないとも思っていると思う。しかし、しっかり考えなくてはいけない場面、正しく考えなくてはいけない場面でそうはできていないのだ。それが実情である。冷静になれ、と呟くけれど、そう言っている時点ではもう遅くて、じっくり考えるべき場面でそうできていない。  正しい判断をするべきだ。そのために時には手を抜くことだって必要だろう。いざという時のために力を蓄えておくことだって必要だろう。抜きどころが分かっていない。どうでも良いことに注力してしまっている。  まともであろうとしすぎる。それはまともでないことの反動、というわけでもなく、こういう性格なのだ。わたしと一緒にいる人は窮屈かもしれない。わたしは完璧主義者になろうとしているのかも。手の抜き方を知らない。やってきたものに対して順番に力を込めることしか知らない。後に重要なものがある場合、息切れして正しく考えることができていない。正しい判断というのは、いつ力を入れて、いつ入れないか、ということも含む。個別を正しく判断することはもちろん、何をいま判断するべきか、ということなのだと思う。うまくサボることも必要。手を抜くことも覚えなくてはならない。  自分がうまくやれることを示す必要なんてないのだと思う。しっかりしてることを示す必要も。必然的にそうなってしまうというだけで良いのだ。わかる人にはわかる、伝わる。性格としてしっかりしていたい、というのはなんらかの洗脳に依るのではないか。良い感じで手を抜くことを覚えたい。ホントに考えなくても良いことを考えすぎなのだと思う。そういう意味でしっかりしたい。

諦観と奮起

 諦めることもあるし、奮起することもある。毎日淡々と生きているけど、だからと言って、諦めているとも、奮起しているとも言えない。やることやるだけで一日は過ぎていく。楽しみも、悔しみも、いろんな感情を日々感じているけれど、これが、人生というものなのか、甘んじて受けなくてはならないのかと、ときどき絶望する。絶望しているだけマシなのかもしれない。それについての、諦観であり、奮起なのだと思う。  自分がどうなりたいのか、なにも描けないということもあるだろう。描く余地がないとも言えるし、そういう能力がないのかもしれない。つまり、自分のしたいことを達する能力である。それはエナジーとも言えるし、鍛錬でもある。  なにが動かせて変えられて、なにがそうではないのか。自分の負っているもの外せないことやめられないこと、そして能力を持ってできること、運や縁が必要なこと、お金があれば解決すること、そういうことの線引きをできていない。整理されていない。  なにができて、なにができないか、これを判断することは大事なことだ。どうにもならないことはあるし、どうにかなることだってあるかもしれない。  日々がそれなりに楽しければいい、という考えもある。先を見つめる生き方もある。もっと先を想像する人もある。それらをどう受け入れるかなのだと思う。運を天に任せることはあまりに簡単で安易で、諦めることさえすれば楽になるのだろう。しかし鍛錬なくして明日はない。  『生きている』ということの定義をし直す。ただ息ているのではなく、誇り高く生きるのだ。

あなたがある日突然、喋ることができなくなったとしたら、どうだろう。

 あなたがある日突然、喋ることができなくなったとしたら、どうだろう。そんなこと起こり得ないだろうということが、人生には起こるものだ。あなたは仕事をやめるだろうか。人付き合いもやめてしまうだろうか。喋るという行為の負っていることはあまりに多すぎる。そしてそれは、失われてみないとわからないことだ。ちょっと今晩は想像してみてほしい。喋れないということのハンデをあなたが負うとしたら。  あなたはあらゆる伝達を、口ではなく、筆記によってすることになる。いちいち書く。そして、いちいち読んでもらう。書く時間によって伝える内容のハードルは上がってしまう。わざわざ書いてそんなことか感は強くなる。書くのにも、読むのにも時間は使われる。いちいち間が生まれる。喋ることで埋めることのできない間である。  あなたが喋れないと知ると、相手は耳も聞こえないと思うだろう。それは自然なことである。しかし、あなたの耳は普通に機能する。それを伝える手段はやはり書くことだけである。  喋れないというだけで、人はあなたに哀れみを感じるだろう。可哀想、障害者だ、という目を向けられることになる。そしてその哀れみはあなたに直裁に伝わる。  初対面の人には説明がつきづらいものだ。「そういう人」として接せられる。深いコミュニケーションの取りようがない。必然的にうわべだけの関係になる。うわべだけと言っても筆談で天気の話をする人はおそらくいないだろう。書くことは、わざわざ感が強すぎるのだ。わざわざ書いて雑談かい! という空気になる。必要な情報の交換に終始する。  どうしても仲良くなりたい人がもしいたなら、僕だって気を惹くようなことをしていたかもしれない。しかし、私が緘黙であった9年間、そんな人はけっきょく一人も現れなかった。  無意識に人と接することをセーブしてしまう。仲良くならないようにしてしまう。たぶんきっとおそらく、自分は理解されないであろうという圧倒的予感。私”なんか”と仲良くする人は現れないであろうという感覚。そうして必然的に閉じていくだろう。やりどころのない何らかの感情が湧いてくる。なぜ自分なのか。落ち込んだりもするかもしれない。  緘黙は病気である。そして、誰にでもではないけれど、起こる可能性はあるかもしれない。当たり前にあることが、当たり前でなくなる日。そんなことが、あるかもしれない。思えば、

話をするという焦燥を。

 喋れるようになって、話をするという焦燥を感じてる。それまではなかった。わたしは喋ることができなかった。だから、そんな焦燥はない世界に生きてた。ただ伝えたいことを伝え、伝わり、伝わったことがわかり、去る。それだけだった。  そして、今は。話をするということが、情報を伝えること以上の意味のあることだと感じてる。この人は今どんな気持ちなのだろうか。これを言ったらこの人はどんな顔するだろうか。どんな気持ちになるだろうか。なんでこんなつまんなそうな顔してるのだろう。これを言ったら楽しませられるだろうか。  そういうことを感じてる。話すことで、それは往々にしてわかる。話さなければ、ほとんどわからない。話すというコミュニケーションがあるから、初めてわかることがある。察知する。痛みとして、分かる。その焦燥を。  わたしは自分の都合を押し付けてるだけだった。筆談ホワイトボードに書いたことを見てもらって、そのリアクションを見る、それだけ。そこにはほとんど感情はないし、機微もない。ただの情報の交換というだけ。  日常の、とりとめもないことを、日々楽しんでいる。なんの弊害もなく喋れるようになった。その変化は、大変なものだった。喋れなかった時間に失ったものはあまりに多く、得たものは少ない。わたしは明瞭な滑舌と就職の機会を失い、ちょっとした自由とちょっとした収入を得た。どういう生活が正しいとか、どういう生活が良いとか、わたしにはわからない。ただこうしてしか、生きることはできなかった。  だけど、これからは違う。生きてる限り、可能性を、自分の力で追い求めることができる。生きている限り、自分の投じた何かと引き換えに、何かを受け取ることができるだろう。その、歓びを。  話すことができない、という不安感はいろんなところに立ち現れる。仲良くなっても、会話ができなければ、楽しくもない。何事にも先がないように感じてしまってた。そうやって、人を制限し、人生を制限していた。  人はいつ死ぬかもわからない。明日死ぬかもしれない。これを書き終わった瞬間に、死期が迫ってくるかもしれない。明日を迎えることができないかもしれない。今日を、幸せに。少しでも、幸せに。苦労はいつだって少ない方がいい。いつだって、幸せがいい。それを描くことができないのなら、それは全員、不幸せであると思う。ちょっとしたことでいい。

男と女

 ちょうど昼過ぎ。バスに乗っていると、男が駆けて行くのが見えた。その先には女がいた。男は必死の形相で、女に何か伝えているように見えた。しかし、何を言っているのかここからではわからない。バスはそれまでと同じように過ぎ去る。わたしは振り向いて、男と女の行方を追ったが、男が女に向かって頭を下げているところまでしか見えなかった。その後のことは、わからない。  男は何かを詫びていたのかもしれないし、何かを頼んでいたのかもしれない。結婚を申し込んでいたのかもしれない。とにかく、遠目から見てもわかる形相だった。駆けて行く感じ、頭の下げ方、何かあったに違いない。もしかしたら、男と女の運命を変えるやもしれない、何かが。  あるいは、考えられること。すでに付き合っている二人が、男の方から別れ話を切り出したのかもしれない。男が浮気をしていたのかもしれない。ひょっとすると、女には命が宿っていて堕胎を迫っていたのかもしれない。  そんな大げさでなく、ただバイトの連れ同士が明日のバイト変わってくんねぇか、と頼んでいただけかも。ゴミ捨ててきてくれ、と言っただけだったかもしれない。  この間はありがとう、と何かのお礼を言ったのかもしれない。  頭を下げたように見えたのは、足元にゴミがあったのを見つけたからで、それを拾おうとしたに過ぎないかもしれない。男と女は何の関係もないアカの他人だったかもしれない。男はコンタクトレンズを探していたのかもしれないし、女はそれに協力する心優しい他人だったかもしれない。そして、その出会いによって二人の何かが始まったかもしれない。  男と女のドラマツルギーにはいろんな可能性がある。そのどれをとっても、面白いかもしれない、そうでもないかもしれない。些細なことを面白がる人間の方が幸せだ、とぼくは思うわけです。

ここに立っている。

 夢にまでみたことをしようとしているのに、なんの興奮もない。ただ淡々とそれをしているに過ぎない。それがきちんと成立するように、恥ずかしいことをしないように、精緻にやっていく。ここに立っていることを誇らしく思う気持ちもあるけれど、それだけのことをしてきたという自負だってある。つまりそうなって当然だと。ここまで来るのに、それなりの努力と戦略を積み重ね、運と縁に身を任せてきた。そして今ここに立っている。  感慨を感じている暇などなく、ただやるべきことをやっていく。それがここに立っているものの務めであると、本能的にわかっている。ここに来るためにどれほどのことをしてきたのか、きっと人にはわからないだろう。いろんなことを犠牲にしてここまできた。そんなこと、したいことをしたいのだから当然と思うかもしれないが、それができない人は大勢いる。したいことをわからない人だってたくさんいるし、わかっていても誰にでも自分のしたいことをできるというわけでもない。  できる、できないというところに今の私は立っていない。やるのだ。それだけなのだ。自分の力を振り絞って、やり尽くすというだけだ。そのために生きている。そのために犠牲にすることは当然だ。  なぜこんなに頑張れてしまうのか、自分にもよくわからない。人に期待されるからかもしれない。そうでなければ、こんなこと、できないだろう。  というか、できなかった。自分で自分にする期待なんてちっぽけな期待だった。できるはずだ、とは思っていたけれど、実際にやってみると難しかった。向いていないとも思った。でも。ひとり期待してくれる人があったから。  だから私はなんとかやっているのだと思う。身を粉にしても、人生を棒に振っても、だとしても、私は幸せであると思う。自分の能力を活かすことができる。自分の居場所が社会の中にあるということ。その上、人に期待されるということ。そして、それに応えることもできるだろう。  こうして、私は生きていく。死ぬまで生きるのだ。

やきもき

 そうしようと思いもしなければ、そうできないことのやきもきを味わうことなんてない。このやきもきが、今の自分を支えているし、生きているって心地を味あわせてくれる。このやきもきが、私を前に押し進めてくれる。  喋ろうとしなかった頃、コミュニケーションに於けるやきもきを感じることはなかった。ただ自分の言いたいことを筆談して、それが伝わったらそれでおしまい。最初から言いたいことを言うことを諦めていた。そして、人に言われることについても、そんなに深く考えていなかったように思う。ただ言われたことを受け取る。言われたことに対して思うことも、対して深く受け止めていなかったように思う。だから人に何言われても、そんなに傷つかなかったし、くよくよ考えることもなかった。あぁすればよかったとかそういうこともなかった。コミュニケーションそのものを諦めている節があったから、伝わればいいや、伝わらなければ仕方ないと考えていた。コミュニケーションすることで湧いてくる感情でさえも否定していたように思う。  何かをしようというとき、人は逡巡する。できるだろうか。どうしたらできるだろうか。どのようにするのが良いだろうか。他の方法はないだろうか。そして、自分は何をしたいのだろうか、と。そういう逡巡──やきもき──を最近はつとに感じるようになった。焦燥といってもいいかもしれない。  そういう焚き付けが自分の中に湧いてくる。やらなくては、気が済まない。時間がないと思っている。人よりも何周も遅れてしまった、と思っているし、もうどうしようもないのかもしれない。  自分にとっての幸せをいかに追求していくか、ということなのだ、人生は、と思い詰めれば、少しは楽になるのだけど、社会的に、人間的に、といろんなことを考えると、いろんなことが難しい。でも、それでも幸せになるだろうともどっかで思っているし、今、幸せかもしれないとも思っている。そして、もっと幸せはあるだろうとも。  逡巡、やきもき、焦燥、なんでもいいけど、自分を焚きつける何かをいつもそばに置いておきたい。それでこそ私は成長することができるだろう。生きていると思えるのだろう。それは、喋れるようになってから獲得したもの。この焦燥に駆られて、私は、歩き出す。ときどき、休みながらでも、一歩一歩進んでいける。

喋れるようになって思うこと

 ここ数年、病気でほとんど喋らずにいたわけだけど、この一ヶ月くらいで喋ることができるようになった。それはもちろん嬉しいこと。やっと人並みになれるかもしれないところまできた。その入り口に立てるかもしれないというところにいる。  喋れるってことは、それだけで、人との関わりの深さが全然違うと感じてる。家にいる親ともそうだし、出会う人、その場でしか触れ合わない人とだって、その濃さが全然違うと実感してる。それは、自分のような人にしかわからないことだと思う。  人とコミュニケーション取ることで、イライラすることなんて全然なかった。伝わらない歯がゆさみたいなものはあったかもしれないけれど、それは初めから諦めているし、無理に伝えようともしていなかったと思う。伝わればいいし、思い浮かんだことも、伝えないことの方が多かった。こういう風に言えたらもっとうまく伝わるのになぁとか考えることはあったけれど、そうできないのだから筆談で最小限のことを伝えておしまいということの方が多かった。筆談は書くのも読むのも面倒くさいことなのだ。それでも、けっこういろんなことを筆談してきたし、できる限りの事をしていたとも思っているけど。  でも、喋ることは人との関わりの深さが全然違う。コミュニケーション取ることでイライラしたりもするんだけど、概ね楽しい。こんなイライラはずっと味わっていなかった。小さなことも、大まかにも。口で伝えるということのありがたみを日々感じている。喋れるようになってもう一ヶ月くらい経っているけど、何不自由なく喋るところまで来ている。滑舌が多少悪いという程度だと思う。  喋ることによって、自分の思っていることが明確になる。そして、相手の思っていることも明確になる。わかりにくいことは言い方を変えて言い直したり、わからないことは言い換えて欲しいと促したりできるのだから。  それから、相手の気遣いがとてもよくわかるようになった。それは自分の発言に対してのリアクションがあるからで、こんなこと考えてこういういい方をしたのだろうな、ということが透けて見えるような気がする。以前だったら、筆談することに気を使わせてしまって、それどころではなかった。大抵の人は筆談になると耳も聞こえないと思うもので、それを説明するための紙をいつも持ち歩いていたくらい。  つまり、喋れなくなる前よりも思慮深くなってい

できない理由を探し続けるひと

「やりたくない人はできない理由を探すよ。やる人は、そんなこと探さないし目にも入らない」 「私、何がやりたいのかわからない」 「やりたいこと、見つかるといいのにね。そんなの、生きていくのに基本的なことじゃない」 「なんていうか、今、生きているだけで精一杯なの。どうしたいこうしたいなんて、言ってられないわ」 「それでも、何か持つべきだ。今日は仕事が終わったらあれをやろうとか、年末は旅行するぞとかさ」 「そうだけど、本当に忙しいのよ。でも、仕事をしたいってわけでもないの」 「何の為に生きてるのかってことなんじゃないの。生きていく為に仕事以外できないならそうするしかないじゃない。でも、それは幸せなのか、ってこと」 「幸せよ、たぶん」 「たぶん? 自分のことなのに? やりたいことにも気が付かずに今を仕方なく生きている人が幸せだとは思えないな」 「人生、ある程度までいくともう一直線なのよ。もう私の人生はほとんど決まってるのよ。このまま誰かと結婚して子供作って老いていくのよ」 「やりたいことがわかっていても、やろうとしない人はいる。人生のある時期にしか、それを叶えられないと思い込んでいることもあるし」 「そういうこと多いわよね。もうエネルギー湧かないし」 「だけど、自分の本当にしたいことするためなら、それをしなければならないなら、何とかなるんじゃないの。本当にやりたいことだったらさ。それ以外をしている暇なんてないんだよ、人の生には」 「わかるけど。私にはどうしたらいいのかわからない。やりたいこともないわ」 「どのくらい、なにかをやろうとしてそう言っているの? 四方八方やり尽くしてそう言っているのか、ただ面倒くさくてそう言って自分を誤魔化しているだけなのか」 「だから、忙しいんだってば」 「そうやって言い訳していればいいさ。君には一生自分のしたいことなんて見つからないし、適当な男とくっついて、男に奉仕して一生を終えるんだろう。それもいいんじゃないの」 「……。」 「時間は取ろうと思わなければ、取れないよ。どんなに暇だとしても、忙しいとしても、そうしたいと思わなければ、時間なんて生まれない。やらない理由を探しているうちはそこには一生たどり着けない。そのことに今すぐ気がつくべきだ。そして行動するべきだ」 「やりたいこと、ないわけじゃないのよ。でも無