改・トラウマについての一考察

 トラウマが次の行動に影響を与えるだろうということ。未来の行動を躊躇させるということ。そうやって制限されているであろう人をたくさん見てきた。それがなにによるのかも、なんとなく察しがつくこともあった。そういうことをなるべくなら乗り越えられたらいいのにと思ってた。障害なく暮らせた方がいいって思う。
 人はなにかしら背負ってる。生まれたばかりの赤子だって背負ってる。大人になればなおのこと。成長していくに従って周りとの関係によってその人は作られていく。それがどういうものになるのかは、誰にもコントロールできない。
 トラウマが瓦解するとき「腑に落ちる」という表現が一番ピンとくる気がする。私に危害を加えてきた人はこういう感情や理屈を持っていたから、こういう行動をしてきたのだと思える。そのこと自体は許せなくても、なんでそうしたのかを知ることができたなら、自分を納得させることができるかもしれない。諦めもつくかもしれない。そこになんらかの感情や筋の通った理屈があれば、だけど。そんなものなく、心的外傷をもたらされることだって時には、ある。
 縁は不思議。それがそこにあることに何か意味があるのかもしれないし、ないのかもしれない。わからない。
 なにかを受け取ったときに、どう振る舞うのか。幸も不幸も、必然も偶然も。僕はことによっては取り乱すだろうし、うろたえるだろうし、憔悴してしまうかもしれない。あるいは受け入れるのだろう。もしかしたら何かを失ったまま、人生を過ごすのかもしれない。
 なるべく自分の近しい人が自分の人生を生きることができたらいいって思う。未来の行動に影響を及ぼす全てのことをコントロールすることはできない。でも、ちょっとだけ良くすることはできるかもしれない。自分をどう思うのかってこと。自分を憐れみすぎるのもよくない。かといって過剰な自尊心も毒である。
 自分を自分で縛ってる。自分への憐れみも自尊心も。制御することで自分を守ろうとする。自縛を解くことができれば、少しは自由になる。許せなくてもいい、納得できたなら。
 そのために、想像力を働かせることだ。状況と感情を把握することだ。その時なにが起きていたのだろう。すべては想像力による。今すぐじゃなくていい。時がきたら想いを馳せてほしい。腑に落ちる時がくるかもしれない。
 どうか、いい人生を。

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