人と生きる、人として生きる

 あるところに住んでる、ある人。その人は誰とも関わることもなく過ごしてる。そうやって生きることを常としている。そうすることが当たり前で、その人はそうしていたいのだ。人と関わることは、人にどう思われるか、を気にしなければ成り立たない。そうすることを、その人は拒んでいるのかもしれない。本当のところはわからない。
 人と関わることなしに暮らすということは、誰の手助けも受けず、頼りにもせず、一人の力で暮らすということだ。自分の力で住むところをこしらえ、食べるものを用意し、生きて死ぬまでの責任を持つということだ。
 人は一人でいるようにできているのだろうか。社会的な動物であると、誰が決めたろう。一人で暮らすことが不可能であると、誰が決めたろう。人と暮らした方が楽というだけで、一人で暮らすことは苦でもないかもしれないし、してはいけないことでもないはずだ。その人の土地に、その人が家を建て、食料を調達し、暮らす。
 誰にも迷惑をかけないのなら、それでいいのだろうか。何かを得るということを自分一人の責任に於いてやるのであれば、それでいいのだろうか。
 一人で暮らす。その人は自分がどんな生活をし、どんな格好をしているかに注意を払わない。しかし、それは生きていくための必要条件を満たしている。理にかなってさえいれば、それで良い。暮らしやすければ、それで良いのだ。
 この人は何のために生きているのだろう。ただ生きるために生きているのだろうか。人と暮らすということはどういうことなのだろう。人に支えられ、人の役に立つということはどういうことなのだろう。自分のためだけに生きる人、自分の責任においてしか生きない人を、人間と呼称していいのだろうか。
 どんなに人に絶望しようとも、一人になったとしたら、人とは呼べないような気がする。動物とほとんど変わらない。知恵を持ってはいるけれど、人と関わることを拒むのならば、人ではない気がする。
 人と一緒に過ごしている人間のような人がたくさんいる。人と触れ合うことで人は人になるのかもしれない。社会の中で生きるから、人は人と呼べるのではないか。そこで生きるから、人の中で生きるから、人として生きられるのではないか。
 愛があるから、人生は愉しい。比較するから成長するのだろう。人との関わりの中で人は生きている。一人で生きることなんて、多分わたしには、できない。わたしが弱いからではなくて、人と生きるという愉しさを知ってしまっているからだ。

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