傷つきたくない。からの脱却

 私の今ある悩みというのは、きっと、「傷つきたくない」ということに収斂されるのではないか。それを乗り越えたら、次のステップに移れるのではないか。
 「傷つきたくない」ことで弱気にもなるし、踏み出すことも億劫になる。傷つかない範囲でしか行動しない。積極的にもならないし、おっかなびっくり物事をすることになる。人に叱られるのも嫌だし、人が怒鳴っているのを見るのも嫌。悲しい気持ちになることも嫌だし、脅やかされるのも回避したいし、影響されるのも嫌なのかもしれない。そして何より、できない自分を認識することが嫌なのだと思う。「傷つきたくない」というワードだけで、これだけのネガティブな言葉が連なって出てくる。ここに全てが現れている。
 「傷つくこと」を平気でできるようになったら、人生変わるだろうな、と。マゾになれということではなくて、打たれ強くなりたいのかもしれない。不屈の、というと使い古された言葉だけど、やってもやっても這い上がれるのなら、それほど強いことはないのではないか。どうしたら、そういった精神を手に入れることができるのだろう。
 気持ちの強さ、思いの強さなのだろうか。
 否定されることの認知について考えたい。あるいは失敗からのリカバリーについて。私はいろんなことがわかっていないのだと思う。どうしたら、失敗を、過ちを、正せるのか、あるいは、人に許してもらえるだろう。失ってしまったことを復帰されることができると知れば、否定されることが怖くないかもしれない。つまり、どこまで人はやり直すことができるのか、ということだ。それは人生だけでなく、無くしたもの、やり過ごしたこと、できなかったこと、嘘や、自分を大きく見せたい心などのことだ。
 どんなに否定されたっていいんだ、と経験として知れば、いろんなことが進むのではないか。
 私は人生経験として、どのくらいやり直せるものなのか、識らない。やり直せるものなのかもしれないし、もうどうにもならないこともあるだろう。やり直せるか、どうにもならないことなのか、判断する前から、勝手に傷ついて、諦めているのだ。そういう弱さを私は持っている。
 「傷つく」という悲しさに比べたら、「挑戦しない」という悔しさなんてなんでもないのが、私なのだ。自暴自棄になっているのかもしれないし、ある意味やけっぱちなのかもしれない。挑戦しない、予想しない、試してみない、という逃げをしている限り先に進むことはないのだろう。精神的に吝なのかもしれないし、傷つくことを過剰に恐れているのが、今の自分である。
 思いつめたり、考え込んでしまうことは、何を間違えて良くて、何を間違えたら取り返しがつかないのか、という線引きができていないということかもしれない。シンプルに、失敗しても良いのだ、と思えれば、もっと違う人生になるはずだ。命まで取られることはない。不安も心配も杞憂になることの方が多いし、リカバリーが効くことも多い。そういう時にこそ、知恵を働かせべきで、回避したり逃げるために知恵を使うことほど愚かなことはないのではないか。よく考えて生きたい。

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