あなたがある日突然、喋ることができなくなったとしたら、どうだろう。

 あなたがある日突然、喋ることができなくなったとしたら、どうだろう。そんなこと起こり得ないだろうということが、人生には起こるものだ。あなたは仕事をやめるだろうか。人付き合いもやめてしまうだろうか。喋るという行為の負っていることはあまりに多すぎる。そしてそれは、失われてみないとわからないことだ。ちょっと今晩は想像してみてほしい。喋れないということのハンデをあなたが負うとしたら。
 あなたはあらゆる伝達を、口ではなく、筆記によってすることになる。いちいち書く。そして、いちいち読んでもらう。書く時間によって伝える内容のハードルは上がってしまう。わざわざ書いてそんなことか感は強くなる。書くのにも、読むのにも時間は使われる。いちいち間が生まれる。喋ることで埋めることのできない間である。
 あなたが喋れないと知ると、相手は耳も聞こえないと思うだろう。それは自然なことである。しかし、あなたの耳は普通に機能する。それを伝える手段はやはり書くことだけである。
 喋れないというだけで、人はあなたに哀れみを感じるだろう。可哀想、障害者だ、という目を向けられることになる。そしてその哀れみはあなたに直裁に伝わる。
 初対面の人には説明がつきづらいものだ。「そういう人」として接せられる。深いコミュニケーションの取りようがない。必然的にうわべだけの関係になる。うわべだけと言っても筆談で天気の話をする人はおそらくいないだろう。書くことは、わざわざ感が強すぎるのだ。わざわざ書いて雑談かい! という空気になる。必要な情報の交換に終始する。
 どうしても仲良くなりたい人がもしいたなら、僕だって気を惹くようなことをしていたかもしれない。しかし、私が緘黙であった9年間、そんな人はけっきょく一人も現れなかった。
 無意識に人と接することをセーブしてしまう。仲良くならないようにしてしまう。たぶんきっとおそらく、自分は理解されないであろうという圧倒的予感。私”なんか”と仲良くする人は現れないであろうという感覚。そうして必然的に閉じていくだろう。やりどころのない何らかの感情が湧いてくる。なぜ自分なのか。落ち込んだりもするかもしれない。
 緘黙は病気である。そして、誰にでもではないけれど、起こる可能性はあるかもしれない。当たり前にあることが、当たり前でなくなる日。そんなことが、あるかもしれない。思えば、この命だって、いつ果てるともわからないのだ。

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