話をするという焦燥を。

 喋れるようになって、話をするという焦燥を感じてる。それまではなかった。わたしは喋ることができなかった。だから、そんな焦燥はない世界に生きてた。ただ伝えたいことを伝え、伝わり、伝わったことがわかり、去る。それだけだった。
 そして、今は。話をするということが、情報を伝えること以上の意味のあることだと感じてる。この人は今どんな気持ちなのだろうか。これを言ったらこの人はどんな顔するだろうか。どんな気持ちになるだろうか。なんでこんなつまんなそうな顔してるのだろう。これを言ったら楽しませられるだろうか。
 そういうことを感じてる。話すことで、それは往々にしてわかる。話さなければ、ほとんどわからない。話すというコミュニケーションがあるから、初めてわかることがある。察知する。痛みとして、分かる。その焦燥を。
 わたしは自分の都合を押し付けてるだけだった。筆談ホワイトボードに書いたことを見てもらって、そのリアクションを見る、それだけ。そこにはほとんど感情はないし、機微もない。ただの情報の交換というだけ。
 日常の、とりとめもないことを、日々楽しんでいる。なんの弊害もなく喋れるようになった。その変化は、大変なものだった。喋れなかった時間に失ったものはあまりに多く、得たものは少ない。わたしは明瞭な滑舌と就職の機会を失い、ちょっとした自由とちょっとした収入を得た。どういう生活が正しいとか、どういう生活が良いとか、わたしにはわからない。ただこうしてしか、生きることはできなかった。
 だけど、これからは違う。生きてる限り、可能性を、自分の力で追い求めることができる。生きている限り、自分の投じた何かと引き換えに、何かを受け取ることができるだろう。その、歓びを。
 話すことができない、という不安感はいろんなところに立ち現れる。仲良くなっても、会話ができなければ、楽しくもない。何事にも先がないように感じてしまってた。そうやって、人を制限し、人生を制限していた。
 人はいつ死ぬかもわからない。明日死ぬかもしれない。これを書き終わった瞬間に、死期が迫ってくるかもしれない。明日を迎えることができないかもしれない。今日を、幸せに。少しでも、幸せに。苦労はいつだって少ない方がいい。いつだって、幸せがいい。それを描くことができないのなら、それは全員、不幸せであると思う。ちょっとしたことでいい。生きているという実感。交歓を。込めたことの見返りを、日々。話すから、返ってくる、その歓びを、焦燥を。

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