喋れるようになって思うこと

 ここ数年、病気でほとんど喋らずにいたわけだけど、この一ヶ月くらいで喋ることができるようになった。それはもちろん嬉しいこと。やっと人並みになれるかもしれないところまできた。その入り口に立てるかもしれないというところにいる。
 喋れるってことは、それだけで、人との関わりの深さが全然違うと感じてる。家にいる親ともそうだし、出会う人、その場でしか触れ合わない人とだって、その濃さが全然違うと実感してる。それは、自分のような人にしかわからないことだと思う。
 人とコミュニケーション取ることで、イライラすることなんて全然なかった。伝わらない歯がゆさみたいなものはあったかもしれないけれど、それは初めから諦めているし、無理に伝えようともしていなかったと思う。伝わればいいし、思い浮かんだことも、伝えないことの方が多かった。こういう風に言えたらもっとうまく伝わるのになぁとか考えることはあったけれど、そうできないのだから筆談で最小限のことを伝えておしまいということの方が多かった。筆談は書くのも読むのも面倒くさいことなのだ。それでも、けっこういろんなことを筆談してきたし、できる限りの事をしていたとも思っているけど。
 でも、喋ることは人との関わりの深さが全然違う。コミュニケーション取ることでイライラしたりもするんだけど、概ね楽しい。こんなイライラはずっと味わっていなかった。小さなことも、大まかにも。口で伝えるということのありがたみを日々感じている。喋れるようになってもう一ヶ月くらい経っているけど、何不自由なく喋るところまで来ている。滑舌が多少悪いという程度だと思う。
 喋ることによって、自分の思っていることが明確になる。そして、相手の思っていることも明確になる。わかりにくいことは言い方を変えて言い直したり、わからないことは言い換えて欲しいと促したりできるのだから。
 それから、相手の気遣いがとてもよくわかるようになった。それは自分の発言に対してのリアクションがあるからで、こんなこと考えてこういういい方をしたのだろうな、ということが透けて見えるような気がする。以前だったら、筆談することに気を使わせてしまって、それどころではなかった。大抵の人は筆談になると耳も聞こえないと思うもので、それを説明するための紙をいつも持ち歩いていたくらい。
 つまり、喋れなくなる前よりも思慮深くなっているのではないかと思う。それは加齢による成長なのか、ただ自分が敏感になっているのかはよくわからないけど、そういう機微みたいなものを感じることが多い。この人、いい人だなぁとかさ。ネットでも文字で会話したりしていたけど、実際に会話してみると、そういうことを感じることがとても多いのだ。ネットはやっぱり制限されているなと感じる。実際に面と向かって喋らないことには、ほとんど何もわからないのだ、と思うようになった。ネットの限定された情報、例えば文字だけ、とか撮った写真だけ、とかそういうことでコミュニケーション取るのもそれはそれで楽しいけれど、それだけではないのだ。もっと芳醇なコミュニケーションというものがあるのだ、人間には。
 相手がどう思っているか、わかる、ような気がする、ってのは思い込みなのかもしれないけど、それを感じてる、ってことが自分には新鮮だし重要なのだ。ただ閉じていただけなのかもしれないけど、喋れないとどうしてもコミュニケーションは限定されたものになる、というか大抵の場合すぐにでもその場を離れたいと思うくらいだ。喋るという誰でもできるようなことが、今の自分には自信となっている。だからいろんなことに気がつく余裕ができているし、喋ることも楽しいのだと思う。
 どう考えても以前の自分は人と面と向かうことを恐れていたし、どう思われるのだろうとビクビクしていたと思う。疑心暗鬼だったし、いろんなことを恐れていた。そういうことは徐々にだけど、消えつつあると思う。場数を踏んでいくことで、もっと違う自分が顔を出すだろう。喋れるようになって1週間もしないうちにバイトの面接に行ったのだけど、そのことも大きかった。でも、その時はいろんなことがわかっていなかった。今はもう少し整地されて、視野も広くなったのではないか。もっと、いろんなことを経験したいなぁと思ってる。良いことがあるだろう、あるべきだと思っているし、そのために行動することは惜しまない。感情も使っていくし、言葉ももちろん。最近はいろいろと忙しいのだけど、結構楽しく生きている。
 是非、お会いしてお話ししましょう。宜しく。

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