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10月, 2017の投稿を表示しています

怒鳴り声についての一考察

 「恫喝」という言葉がある。怒鳴ることはその言葉とつながっているように見える。だけれど、ただ怒鳴るという人もいるのかもしれない。自分の気持ちの表現としての怒鳴り。そうしなくては伝えられない何か。しかし、どんな時でも人は怒鳴られるのは嫌なものだ。怒鳴り散らされるのはもっと嫌だろう。恫喝はできたら一生お目にかかりたくないものである。  怒鳴ることのおびやかされている感じというのが私はとても苦手だ。得意という人はいないかもしれない。平気だという人は何かが麻痺しているか、自分も怒鳴り合いの当事者になっているに過ぎないのではないか。自分も怒鳴っていれば、人の怒鳴りは気にならないことが多い。自分をそうやって無意識に正当化するのだ。だから、人が怒鳴っている時、自分も怒鳴ってはならない。馬鹿にするのは馬鹿のすることというのと同じ。相手と同じ土俵に立ってはならない。  感情が昂ぶるとつい大声になる、という人がいる。そうすることでうまくいってきた経験があるからなのか、単に昂ぶってしまっているだけなのか。感情の発露とともに声がでかくなるのである。そこは自動的なのだろう。そうすることでフラストレーションを発散しているのかもしれない。そういうことは一人でやってもらいたいと私は願う。何かを伝えるのに怒鳴る必要なんてほとんどの場合必要ないはずなのだ。  別に私はこの文章で怒鳴り散らす人間が愚かであると言いたいわけではない。ただ怒鳴ることについて考えてみたいと思っただけだ。  人を自分の思う通りに動かしたいとき、恫喝する人がいる。相手を怯えさせて言うことを効かせようという人だ。そこには感情の発露もあるだろうし、その方法がうまくいくというある種の無意識の計算もあるのかもしれない。怒鳴る人はそれがうまくいったからそうするのだろう。怒鳴ることが死刑に値するのなら、誰も怒鳴らない。怒鳴ることが効果的だと暗に思っているからそうするのだ。  怒鳴ってしまう、ということは自分に自信がないことの現れなのではないか。怒鳴らなくても伝わることを、怒鳴ってしまう、あるいはあえて怒鳴るということは、そうしなければ受け入れてもらえないという気持ちの現れなのではないか。何もなくても伝わって説得することができるのであれば、あるいはそういう自信があるのであれば、普通は怒鳴る必要はない。恫喝する必要などないのだ。彼らは本

ゆらめかせる

それは、雲のながれ それは、台風の残りび それは、映える朝陽のスクリーン それは、心のざわめき それは、歩みを進めるきっかけ それは、出逢い それは、けしかけてくるおんな そして、それが風であることを知った *** 風は、暴れながら人を叩く 風は、炎をけしかける 風は、別れさせる 風は。ゆらめかせる、戦旗を。

壁を越える厳しさ

 最近思ってることを今日は書く。どう表現したらいいのかわからないので試行錯誤して書くけれど、うまく伝わるとうれしいです。とにかく書いてみます。  社会の厳しさというか、入りにくさ、みたいなのを感じてる。甘ちゃんの自分が悪いんだけど、でも、感じてるものは感じてる。ちゃんとしてなくてはいけない感じというのが本当にひさびさで面食らったというか、ちょっとショックだったんだよね、やっぱり。あぁ、こういう感じ、あったわ、って。ずっと忘れていた。  大学に入りたての時のような若い頃には、世間知らずでもなんでもとにかく若いんだから許されていたことがたくさんあったんだと思う。今はそれが許されないというか、相手にもされない年齢になっているのだな、ということを、最近になって実感した。  しっかりしていればいいのだし、社会性というか、そういうある種の厳しさを受け入れることはできる、はず。でも、ずっと一人でいて、そういうアマい生活の楽さに慣れてしまっている自分もいる。温室はやっぱり心地いいし、出るのが困難だっていうのもわかる。  私はいま、誰にも認められていない人間だ。それはある種の厳しさを通っていないからだ。誰の担保もない。この人はこういうことができる人だ、と誰からも認められていない。それはきっと厳しさとひとつながりにたぶんなっていて、その壁を超えたクオリティを持っていないと、社会には認められないんじゃないかな、と思ってる。  それは、自分の作るものもそうだし、自分自身のことも言っている。  自分に厳しく、ってよくいうけど、私にはそういう風にはできそうにない。自分に厳しいのかもしれないし、甘いのかもしれない。自分ではよくわからない。やるべきことをやっているつもりだったけど、それが社会性を持っているかというと、全然そんなことはなくて、ただ自分なりにやっているというだけだった。走ることも睡眠時間も食事も、書いたものも、もう、何もかもが。  自分という人間が、自分のしてること、作ったものを見ている。だから、自分がもとだし、そこから全ては始まってる。自分がダメだったら、自分の作ったものも、たぶんダメだろう、って普通に考えて、まぁ、そうだろうと。まず自分ありきだし、自分がダメだったら、何やってもダメなんじゃないか。  私は自分のことを社会性がある方だと漠然と思っていた。だけど、全然そ

違反

「なんであのおっさん、スキンヘッドを黒く塗ってるの……」 「しーっ! あの人、高校教師で、生徒指導の一環でああしてんだってさ」 「どういうこと?」 「だ、か、ら! 生徒指導係りなんだって。それで生徒が染色するのを理不尽に注意してたら、ある日生徒に言われたんだって」 「なんて?」 「先生は白髪染めなくていいんですか? って。示しがつかないから染めたら、頭皮が痛んでハゲちゃったんだって」 「それで?」 「それでも生徒に突っかかられて、ああしてんだってさ」 「むごいわー。笑っちゃ悪いかな。帽子かぶればいいのに」 「ねー。あれは校則違反じゃないのかな(笑)」 「マッキーで塗ってるのかな? かぶればいいのに」 「最初はかぶってたんだけど、髪型はうるさくいうのにズラはいいのかって詰め寄られたんだって」 「かわいそー(笑)」 「マジックで塗るのはいろいろ違反だよね。もうどうしようもないじゃん? 育毛しないのかな」 「頭皮が死んでるんじゃない? あっ!」 「睨まれたね(笑)説得力皆無(笑)」 「どうやってあれで威厳を保ってるんだろう。ネタじゃん?」 「あっ、こっち来た(笑)」 「なんで帽子被らないの?」 「知らない。被るとムレるんじゃない? インクが落ちるとかさ(笑)」 「すげぇ。遠くからだとパッと見、わかんないもんだな」 「近くで見ると異様だよね」 「ちょっとね。何が正しいことなんだかわかんないね」 「黒けりゃいいのかよ(笑)」

いなくなった君

 道で人とすれ違う時、この人は君なんじゃないかと思う時があるよ。電車の中に座ってる人、本屋で本を眺めてる人、みんな君なんじゃないかと。ちょっとドキドキしたりして。でもそんなわけがない。どの人も、わたしとは無縁の人ばかりで。いや、すれ違う人と仲良くなりたいとか気を持ちたいとか、そんなことではないのよ。ただ、あれは君なんじゃないかと思ったりする。  君はたぶん、どこにでもいて、なんでもしてて、ある時は通ってる病院の看護師さん、ある時はスーパーのレジ打ち。魅力的な人だからそう感じるとかじゃなくて、君と同じ性の人を見ると、なんとなく君を感じてしまう。もしかしたら誰だっていいのかもしれない。都合よく自分の中の君と、その場にいる人をダブらせているだけなのだけど。  本当に誰でもいいのかもしれないと思って、そういう自分の浅ましさに凹んだりしてる。誰でもいいわけはないのに、どんなところにもいる君を思うと、わたしは誰でもいいのではないかと思ってしまう。君を想像するから、その像さえあれば誰でもいいのだ。これって不思議な感覚じゃないか。いろんなところにいる君に、君が宿っているように感じてる。たぶんその君に話しかけても、決して君ではなくてただその人なのだ。わたしの知らない赤の他人なのだ。でも君はそこにいるような気になってくる。  夢でもないし幻でもなくて、ただ幻想として君を欲してる。そこに君がいるような気になってくる。そうであればいいと思ってる。でも、そうじゃない。君は一人しかいなくて、それは決して代替不可能で、つまり君でなくては駄目で。でも君はいなくて。  どこにいても何をしてても寝ても覚めても、君を求めてる。だから、人を見ると君だ、と思ってしまうんだろう。こういうこと、『愛してる』っていうのかもしれない。愛してる。そう言う前に、君はいなくなってしまった。だからこそ、求めてしまうのだ。君を。どうしても逢いたい。愛してる。  今日も、『君』とすれ違う。そうかもしれないと思いつつ、でも違う人だと知っている。紛うことなく違うのだ。しかし脳は身体は全身が君を求めてる。そのことを止めることができない。どうしたって街の人に君を見出してしまう。  君よ。  いなくなった君よ。  いま、どうしてるのだろう

「若々しい」という言葉は、必ずしも褒め言葉ではない

 歳相応の経験を一切せずにこの歳になってしまった。たぶんこの歳の普通の人が経験する何事も、私は経験していない。どんな業種だとしても、うまく渡っていけない気がしてる。転職はみんなそうだよというかもしれないけれど、私にはなんの経験もない。こんなこと、堂々と言ったって仕方がないのだが。ないものはないし、そのことは今後の不安材料となるだろう。  学生の時から大人っぽいとかしっかりしてるとか言われて大学生らしく扱ってもらえなかったりしていたけど、そういうアドバンテージはもうないだろうなと思う。しっかりしている人間が通るべき道を何も通らずにこの歳を迎えてしまったのだから。それは実際にはしっかりしていない人間なのだ。それが病気によってだったにせよ。  年齢とか、経験みたいな曖昧な言葉を語るのは危険かもしれない。うまく立ち回ったらいい経験ができる可能性はあるし、まだ人に認められる可能性だってあるのかもしれない。問題は自分の持っている能力をどうやって人に示すのか、ということだ。その示し方としての「資格」だったりするのだろう。資格をずっと甘く見ていたけど、とったほうがいいのではないかと思い始めてる。というか、自分がこの先生きのこるためには資格をとるという選択肢しかないのだ。それでしか能力を示す方法がない。この先の道にもよるけれど。  何をしたらどうなるか、なんて、誰にもわからない。欠けていると思っているところが長所になることだってある。自分の非常識さが役に立つ何かが、ある……かもしれない。たぶんないけど。  歳相応の経験や振る舞いというのが、どういうものなのか、自分にはよくわからない。たぶん、自分は一端のサラリーマンにはなれないだろう。というかここまで来たら踏み外せるだけ踏み外したらいい。そういう道だって自分にはあるはず。その為には、優れた才能が必要で、それを示す必要があるのだろう。  自分には目立った才能なんて無さそうだな、というのが此処まで生きてきての所感である。人生に人を魅入らせることができる何かを持った試しがない。そうしようとも思ってこなかった。魅力的な人間というところからは本当に遠いところにいる。おべっかも使えないし、人によく見られたいということもない。ただ生きているだけに近いのだから。  自分にできることを探ってるここ数年だった気がするけれど、結局、見つからなか

すべてをあきらめている自分へ

 一生懸命になれない自分にコンプレックスがある。それは以前は一生懸命だった時があったということの裏返しでもあるのだけど、それでダメだったってこともあって、自信を失っているのかもしれない。根を詰める媒介がないことがそもそもの問題で、そういうものを見つけようとしていないかもしれない。見つけようと思わなければ、一生見つからないだろう。  我武者羅に何かをするということから遠ざかって幾年も経つ。その間は病気もあったし、いろんなことがあったけど、一生懸命にならない言い訳をふんだんに盛り込んで私はこれまで生活してきた。できないことを病気その他の所為にしてきたし、それは真実かもしれないけど、真実ではないかもしれないとも思う。できることは、あったはず。それをし尽くしていたかというとそんなことはない。  だから、悔いが残ってる。できることはいくらでもあったはずであったのに、私はそうはしていなかった。いつもギリギリで、いっぱいイッパイで。でも余裕を作ろうとはしなくて。1日にするべきことを決めて、それをこなしてるだけだった。一歩も前には進んでいなかった。  この世は、実力がすべて。人情とかに頼ってられない。確固とした何かしらの実力を示すことができなければ、何もできない、役立たずな人間として扱われて当然。自分を如何に制御してくか、どう振る舞ってくか、何を鍛えるのか、どうプロデュースしてくか、ってのが、たぶん肝で、そういう視点をずっと自分は持ってなかったと思う。ただやりたいことをやりたいように、やたらめったらやっていただけだった。計画性も思惑も、何もなかった。  ただ文章さえ書いてたら、それで満足だった。満足だったのに、実際に文章で人に認められてるかといったら、全然そんなことはなくて、ただ自分のことを書いているに過ぎない。誰の役にも立たないことを書いているだけの人間。  私には、衝動がない。これをしなければ気が済まない、ということがない。  瞬発力を持って書くことはあっても、それが人にどう影響するのかっていうと、なんの影響もしないのが現状だ。だって、自分のことしか書かないから。そこには思惑なんてないし、人をこういう気持ちにさせたいとか、何かをコントロールしようとか、そういうことなんて皆無なのだ。だからダメだっていうんじゃなくて、それでは、この世に存在する意味がない。人に語られて初

自分が情けない人間なのだということを呑み込んでから、すべてが始まる

 自分なんて大した人間ではないのだということを呑み込んでから、すべてが始まる。別に大した人間だと思ってたってわけでもないけど、なんか可能性があるとか、地力があると思ってたと思う。それだけの自尊心を抱えるだけの経歴だってそれなりにあったのだから。でも、そんな経歴だって今の自分を省みたらなんの役に立たないってことは、とてもわかる。だから、ぼくはしっかりしないといけない。これはどうやってこの先生きのこるかって話だ。  自尊心というか、やっぱり、自分のことを過大評価していた部分はあったのかもしれない。ある時期まではうまくいってたけど、ある時からはうまくいってない。社会的ないわゆるレールの上には、もう乗ることは難しいのかもしれない。どうしてもレールに乗るというのであれば、それ相応の努力と根性とやる気と、必要だろう。今の自分にそれがあるのかっていうと、よくわからない。どう生きるのか、って難しい問題。やるなら資格取るとか、いろんなことが必要だ。  レールが何の為にあるのかって、何も考えずに生きるとか、好きなものがないとか、才能がないとか、いろんなことの為にあるのかもしれない。別に自分が、考えて生きてるとか好きなものがあるとか才能があるとは言ってない。だけど、レールに乗らなくても何とか生きていけるだろうと、タカをくくっていたと思う。何となく、生きていけると思ってた。  今だってどうやったって生きていけるとは思ってるけど、それが幸せなのか、っていうのはわからない。どう生きるのが幸せなのかって、わからない。具体的には家族をどう持つかとか、どう死んでいくかとか、そういう人生設計のことだ。そういう設計を考える前に病気になってしまって、何も考えずに生きてきて、どうしようもなくなってしまったのが、今の自分であると思う。病気のことを言い訳にするのは嫌なんだけど。事実は事実だから。病気だとしても誇り高く生きてる人は実際にいて、自分はそうではなかった、情けない人生だったって思ってる。  いま、これからを、どう生きるかってことをきちんと考えたい。きちんと考えるのがどういうことなのかってのも知らないままにこう書いてるけど、何とかにじり寄っていけたら。考えることに食らいついていけたら。  どう生きることが、人として正しいのだろう。「誇り高い」って言葉を、安易に思いつきに使ったけど、今の気持ちとし

成長

「たね、うえたよ」 「そうだねぇ」 「あした、きはえる?」 「明日には無理だなぁ。まだ数年は掛かるよ。君が大きくなる頃には実が生るんじゃないかな」 「おいしい?」 「たぶんねー」 「うふふ、いいねー。おいしいの!」 「君と背ぇ比べだね」 「ぼくのほうがおっきいよ!」 「ふふ。今はね」 「ビワのほうがおっきくなる?」 「なるねー」 「ぼくのほうがおっきいもん」 「だねー」 「あしたには、はっぱでる?」 「うーんどうだろね。まださきかな?」 「おみずあげる?」 「そうだねー。あげすぎないでね」 「ぼくもごはんもたべるよ」 「君も大きくなるね。競争だね」 「トトロみたいにたいそうしたらはえてくるかな?」 「かもね。やってみたら?」 「うん! おとーさんもやって。ほら」 「とーさんも? いいよ。ほーら」 「でるかな?」 「今すぐには出ないよ。芽は簡単には出ないんだよ」 「ぼくもおっきくなるのにじかんかかる?」 「そうだねー」 「どのくらい? あした?」 「明日には少しは大きくなってるかもね。子供の成長は早いから。芽も出るかもね」 「いつたべれる?」 「うーん、実はまだ先だなぁ。君が大きくなる頃には食べられるよ」 「はーやーく、おおきくなるといーなー」 「待ち遠しいね。君もビワも」

自分の浅はかさを思い知ってる

 自分の浅はかさを思い知ってる。今更そんなこと思ってるの、と思う人もあるかもしれないけど、実際にそうなってみてはじめてわかることがある。それまで障害者だったのにある日からそうではなくなった。そのことにたじろぐ。というか、水をぶっかけられたような感触。  社会に於いての厳しさというか、しっかりしてる感じって、懐かしさもあったけど、悠々自適に生きていた自分にはやっぱりショックだったんだと思う。自分は甘かったと本当に思ってる。今になって、いろんな言い訳を思い出す。いろんなことを書いてきたけど、そのどれも、私にとって言い訳以外の何物でもなかった。この先、どうやって生きていったらいいのかわからないでいる。どうしようもないかもしれない。  喋れなかったんだから仕方ない、って言い方は、今の自分には正直きつい。だとしても、生きるべきだった。上昇志向でいるべきだった。私はただ自分の好きなように文章を書いていただけだった。そういう上を見ていない感はここにきて、アイタッて感じ。たぶん同い年の人の何十倍も低い位置に私はいる。超低空飛行だ。誰もこんな人間に手を差し伸べようとか、仲良くしようとは思わないだろう。簡単にそういうことは想像がつく。何より私には人にアピールする何かが何もない。いつの間にかそういう人間になってしまっていた。  親からでさえも、大丈夫だよと言われても、何がわかって言ってるんだという気持ちになるだろう。気休めだとしても。自分のことだって自分でよくわかっていないのに人に自分のことがわかってるとは思えない。自分を救うのは誰か。たぶん自分以外にいない。自分でなんとかするしかない。  冒頭に書いた「社会」という感じに恐れをなそうとしてる。遠慮がちになってる。こういう時に逃げ出さずになんとか立ち向かわないと、たぶん、一生このままだって気がする。いまが肝心で、なんとかしなくてはいけないのに、こんな文章を書いていていいのかって思う。  せめて、何か取り柄のある人になりたかった。人に誇れるものが何かある人はいいな。自分には何もない。熱心になることもない。エンジンを積んでない。努力もできない。ただ悠々自適に生きてくことしか今の自分にできないのかもしれない。のんびり生きてたって仕方ないのに。熱心になるのなら、その方がいい。でもその媒体は何もない。私には何もない。書くことしかやってこな

悲観的な自己観

 自信を著しく失っているのであえて書く。不安を煽るように、自分を叱咤するように。私は、強くなる。  何が不安なのかって、まだ言語化できていないけど、人間として自分はどうなのかってこと。今までずっと障害者として暮らしてきて、そうでなくなった瞬間に何もできない人、何もアピールするものがない人として社会に放り出されてしまった。出されてしまったというか、自分がそうして生きてきて、そうして飛び出ただけなんだけど。  それでも何かあると思って生きないことには何も先には進まないし、本当に何もない。自分にはそれを見出してくれるような人もないし、自分で見つけないと。何をアピールするかっていうか、そもそもどういう風に生きてくかってことからして、もう分かんないんだけど。でももうすでに閉じられた道は多いし、なんだってできるわけでもない。ただ、できることはまだある。  若いという特権を行使しないままにこの歳になってしまって、──そういう特権があるとしてだけど──これからできなくなっていくこととのせめぎ合いだって気がしてる。日に日にできなくなることは増えていって、あっという間におじいさんだ。おじいさんになれたらまだ良くて、そうなる前にどうにかなってしまうかもしれない。冗談じゃなく。だから焦ってる。若いうちにできることをしているだろうかって、そういう視点はずっとなかったから。もっと失敗したらいいし、情けない目にもあったほうがいい。若いうちにしかできないことをしておかないと、たぶん、私はダメな人間になる。  それに私はあまりにも人間を知らなすぎる。そのことを危惧してる。どんな人がこの社会にいて、その人たちはどういう風に自分の気持ちを持って、どういう風に気持ちを表現して、裏と表、本音と建前をどう扱ってるのか、そういうことに無頓着すぎる。親しい人にさえそういうことがわからない。  私は正直に生きてきたつもりだけど、そのことがいつもいいとは限らない。馬鹿正直とも言える。ちょうどいい嘘とか、人をいい感じにあしらうとか、そういうことが一切できない。  それに、私は、とてもつまらない人間かもしれないとも思う。自分でそう思うのだ。  確固たるものがあったらいいのにと思うけど、この歳になってそういうものが何もないというのは、やはり不安の種だし、何かにすがりたくなる。とにかく今の自分の生活の中で、自信

喋ることのなにかしら

 人通りの少ない道に、人が倒れている。 (大丈夫ですか? 誰か呼ばないと……人が通らないだろうか)  あいにく誰も通らない。こうなる日をずっと恐れていたのだ。誰も助けを呼ぶことができない。声をかけることもできない。家まで走って助けを呼ぶか? 筆談道具はあるが、チャイムを押しても、人は出てこないだろう。誰も喋らなければ、ただのピンポンダッシュになってしまう。 (大丈夫ですか?)  そう言っているつもりで倒れている人の身体に軽く触れてみる。……起きそうにない。携帯は持っているけれど、私は、喋ることができない。どうしようもないかもしれない。とにかくチャイムを連打するか? 緊迫に押せば誰か出てくるかもしれない。依然意識を失ったままで、人が倒れている。どうすればいい? という問いばかりが浮かんで、答えが出てこない。このまま見捨てるわけにもいかない。こんな人通りの少ない道では次にいつ人が通るかなんてわからない。  緊急事態なんだ。なんとも言ってられない。私は一番近くの家のチャイムを連打した。誰か居ろ! 居てくれ! しかし出ない。誰も居ないのか。とにかく人が出るところまでチャイムを連打しまくるしかない。  しかし、近所にはどの家にも人は居ないみたいだった。どの家のチャイムを押しても、反応がない。こんなに必死にピンポンを連打したら怖がられるのかもしれない。どうすればいいのか。  だんだんと自分の裡に不甲斐ない気持ちが芽生えてくる。  喋れないことは、ずっと、自分の問題だと思っていた。でも、そうではなかった。人に迷惑をかけることだってある。それが今なんだ。私はこの人を救えないかもしれない。もしも、喋れたら、全く違う結果になっていたかもしれない。せめて、救急車は呼べるだろう。声を掛けたら起きるかもしれない。誰かを呼ぶことができたかもしれない。そのどれをも私はすることができない。  自分を憎む暇もなく、焦る気持ちばかり先行してくる。  喋ることができないことがこんなに悔しいことだったなんて。今までずっとそれを押し隠して生きてきたのだ、私は。そのことを悔いている。  どうしたらいい?!  どこかの家の玄関の前で立ち尽くしていると、他の家から人が出てきて、倒れている人を介抱し始めたのだった。  助かった。 「チャイムを鳴らしてたのは、あなたかしら? 今、救急車を呼

Re:Write; 愛することの問答

 山頂にある巨石の前で、人が虚空に向かって喋っているのを、カップルは片隅で聞いていたのだった。 「愛とはなんなのでしょう。神さま」 「私は誰だって愛せる気がするし、誰も愛せないという気もするのです」 「私は優柔なのかもしれません」 「誰だってよい気がします。なんだってよいのです……。愛するに足るならば」 「神さま。愛するということを引き出させてくれる相手であるならば、私はそうできるでしょう」 「たまたま知り合った、たまたま気の合った人ときっと結ばれるのでしょう」 「私は真に愛されたいのです。そして真に愛したい」 「このいたたまれない気持ちのやりどころを、私は知らないのです」 「わからないことだらけなのです。どのように人と人は愛し合うのか。惹かれ合うのか」 「本当に愛するとはどういうことなのでしょうか」 「真の愛とはなんなのだ」 「神よ」  その人はそこまで言うと下山していった。  カップルは考えさせられたのだった。本当に私たちは愛し合っていると言えるのだろうか、と。それを考えさせるために、何者かがカップルの前にかの人を遣わしたのかもしれない。  その日の次の夜、正式にカップルは結婚を決めたのだった。山の上の問答を聞いたことが切っ掛けとなったのかもしれない。煮え切らない関係は、山上の問いによって、一気に進んだのだった。  ただこの人だと思い、互いの未来を受け入れることができる、その一点だったのだ。そういう人と出逢うということがそもそもの人生の不可思議で、宇宙の謎である。わからない。なぜこの人であったのか。でも、この人でなければならなかったのだ。なぜだかそう確信できるのである。  かの人はカップルにこそ幸せを授けてくれたのだ。愛とはなんなのか。それが解らないまま、愛し合っている。それは本能といえるかもしれない。人間にそもそも備えられた能力なのだ。  愛するということの本来は、神さえも知らないのかもしれない……。ただ愛し合う人だけが知っているのだ。

愛することの問答

 山頂にある巨石の前で、人が虚空に向かって喋っているのを、私たちは片隅で聞いていたのだった。 「本当に愛したら、本当に愛されるって、本当ですか、神さま」 「私は真に愛されたいのです。そして真に愛したい」 「愛するとは愛する気持ちを相手から引き出すことなのでしょう? わかっています」 「互いに引き出し合えば、愛し合うことができるのでしょう」 「そしてそのためには、自分にも愛されるに足る魅力がなければならないはず」 「それが私にあるのかはわからない」 「人が私の何に魅力を感じるのか、見当もつきません。そんなもの、あるだろうか」 「神さま。私は人に愛されるに足る人間でしょうか。とても不安なのです」 「このいたたまれない気持ちのやりどころを、私は知らないのです」 「わからないことだらけなのです。どのように人と人は愛し合うのか。惹かれ合うのか」 「本当に愛するとはどういうことなのでしょうか」 「愛するとは、許すということなのでしょうか、受け入れるということなのでしょうか」 「愛とはなんなのでしょう」 「私は誰だって愛せる気がするし、誰も愛せないという気もするのです」 「どんな音楽も、どんな演劇も、どんな文章をも、私は愛せるのです」 「私は優柔なのかもしれません」 「なんだって良い気がします。なんだって良いのです……。愛するに足るならば」 「人も同じなのです。愛することを引き出させてくれる相手であるならば、私はそうできるでしょう」 「そうであれば、誰だって良いのです。たまたま知り合った、たまたま気の合った人と結ばれるのでしょうか」 「真の愛とはなんなのだ」 「神よ」  その人はそこまで言うと下山していった。  私たちカップルは考えさせられた。なぜこの相手と結ばれたのだろう。私たちは本当に愛し合っていると言えるのだろうか。不穏な空気がそこに生まれた。私たちにそれを考えさせるために、何者かが私たちの前にこの人を遣わしたのかもしれないと訝しがってしまう。  その次の夜、正式に私たちは結婚を決めたのだった。山の上の問答を聞いたことが切っ掛けとなったのかもしれない。ただこの人だと思い、互いの未来を受け入れることができる、その一点だったのだと思う。そういう人と出逢うということがそもそもの人生の不可思議で、宇宙の謎である。私にもわからない。なぜ

喋れるようになって、忘れないこと

 ある頃から、この世界の多くの人にとって当たり前にできていたことができなくなった。それからというもの、不自由な生活を強いられてしまった。私は障害者、だった。今は違うのだが。  普通の人と違うのは筆談をしなければ、意思の疎通を取れないということだ。身振り手振りでもできるが、それは曖昧な言語である。詳しく喋らなくてはならない時には、否応にも筆談となる。  もちろん家族とも筆談である。何をするにも。どこへ行くにも。この口は、食事をするためのものでしかなくなっていた。とにかく不自由にこの9年間を過ごした。  家族はだんだんと私が何を言いたいのか、そのジェスチャだけでわかるようになってくる。しかし、パソコンやスマホなどの説明は専門用語を擁する具体的な話題のため、筆談でするより他なかった。  少なくとも週に2,3度は母にエクセルやワードの操作ついて訊かれる。その度に筆談していた。私と母の間のコミュニケーションの多くはその話題だった。パソコンが必要になった母にマックを勧めたのも私だし、なのならば、その説明・解説も必然的に私だった。  筆談には限度がある。伝わらないことも多い。なんとか言いたいことをまとめてメールしたり、教科書を作ろうかと思ったほどだ。母は今、なんとなくパソコンを使えているようだ。  とにかく、パソコンが私と母をつなぐ懸け橋であった。週に2,3度母は私の部屋を訪ねてくる。来たら、あ、マックだな、と大体わかる。それを私は心待ちにしていたようにも思う。母の方でもわざわざ訊くことを作るでもないが、何度も同じことを訊いてくることもあった。そこが、実世界での私の社会とのほとんどすべての繋がりだったのだ。そういうことがなかったなら、私は今こうしていないかもしれない。  ある日から、筆談を必要としなくなった。きっかけは様々なのだが、ここには書かない。普通に喋るようになり、家族もそれを普通に受け入れていった。何もなかったかのように。以前からずっと喋っていたかのように。  先日、母がいつものように私の部屋にパソコンを持って来た。私はその時初めて母に口頭でマックの説明をした。「ここをこうして、こうすると早い」何も返事がないので振り返ると、母は泣いていた。目を真っ赤にして。  こういうことで、実感するのだと思う。何事もなかったように振る舞っても、顕著になることはこうして

続けられるという勇ましさ

 それをやり続けるということは、人によっては困難なことである。しかし、また別の人によっては特別な配慮をしなくても簡単にやり続けることもある。まるでそうなることが神の思し召しであったかのように。それが不思議な力なのか、あるいはそう形容したくなるような不思議なことであるかは、その人にとっての困難さによるのかもしれない。ある時期にできたことが、またある時期にはできなくなっているということもあるのだろう。心の余裕とも密接に関係があるし、あるいは執着とも言えるかもしれない。  私の家では毎年夏にトマトを栽培する。それは食べるためではなく、隣の家との境の壁に叩きつけるためだ。その模様はとても絵画的で、近所の人の関心を集めている。今日はいい出来やなぁ、とか今年のトマトはイマイチ良い模様が付きにくい、とか寸評が毎日のように行われる。これをするために私の母は毎年畑を耕し、種を買ってきて、トマトを育てる。実が生る朝、叩きつける大きさに育ったトマトを収穫し、そのまま壁に叩きつけるのだ。別に隣人に恨みがあるわけでもない。ただ叩きつけるのに良い壁であるからそうするだけなのだ。白壁は夏の間じゅう、紅に染まる。  そうすることをもう50年、母は続けている。  続けることを求められるからであるし、彼女もそうしたいのだ。続けるということがどんな意味を持つのか、全くわからない。どうでも良いとさえ思う。誰からも評価されなくてもそうするだろう。ただそうすることが楽しいのだ。そうしなくてはいられないのだ。だからそうするのだ。続けることに意味があるというよりも、その心意気に意味がある。毎年、それだけのトマトを育てる心と経済的な余裕もそれに加担しているのかもしれない。  続けることの勇ましさを、私は幼い頃から感じている。  トマトは食べるものではなく、叩きつけて壁を装飾するものだとばかり思っていた。たまに食卓に出るものや、小さいそれを、私たち家族は訝しげに見ていた。  母はそれを死ぬまで続けるのだろう。彼女がやらなくては、意味がない。思し召しとして、それをするのだ。そうすることが彼女の命であり、銘である。  これからも血のように紅いトマトが、庭に実り続けるだろう。

これからの事

 退場する人。登場する人。──何もしない人。  退化する人。進歩する人。──何も変わらない人。  うつうつな人。わくわくな人。──平常心な人。  怒ってる人。楽しんでる人。──無感情な人。 ***  渦巻く気持ちは、さまざま。いくらでもできることはあって、でもそれを制限しているのは、たぶん自分自身に過ぎない。  私はずっと「退場」してる人だったけれど、これからは「登場」できる。そのことの喜びを噛みしめてる。社会の中で生きるということを、思い出しつつある。そのことの恍惚と不安が再び。でも、きっと、不安以上に楽しいことはたくさんあって、なんとなく幸せに、なんとなく不幸せに、生きていくんだろう。それが良いって思う。  私はこの数年で退化したとも進歩したとも何も変わってないとも言えると思う。社会に役に立つ能力は何一つ伸びていないが、自分にとって役に立つ能力は十二分に伸びたのだろう。そして、それは人によっては、何もしていないとも言えることだ。自分のしてきたことを活かしたいと思う。そのためにはどうしたら良いのか考える。きっとそうしたら、良い未来が待っているだろう。  未来にずっと怯えてた。思考停止していたと思う。自分が作ってく未来を放棄していた。このままでいいんだと自分に言い聞かせていた。そしてその通りに過ごしてた。だけど、良いことも悪いことも自分で背負ってくんだと覚悟したら、悪いことを避け、良いことを選ぶという道を往くことができるのだ。それすらも放棄して、今のままでいることを選んだなら、私たちはみんな、どんどん悪い方へと進んでく。それは目に見えている。私はそう思う。  良い気分はきっと良い行いの後に。好きなことの彼方にはきっと良い気分が。私はどんな気分でも生きることができる。でも、生きるのなら、良い気分でいたい。  怒りを顕にしている人は自分の不安に怒っている。楽しんでいる人はその心の余裕が現れてる。自分の不安に目ざとい人でありたいし、いつも心に余裕を持っていたい。 ***  この世界は、悪いもんじゃないと思う。良いこともあるし、そうでもないこともあるってだけ。それは自分で選べるし、改善もできる。私は、良いほうに進んで行くことができる。自分の意思を持って、意識して、進んでいける。私はとても運が良かった。喜んでくれる人があって良かった。  まだ、道はつ

自分でもびっくりするくらい、わくわくしてる

 これから出会う人が、たぶんたくさんいる。そのことがとても楽しみ。うまくいくかもしれないし、いかないかもしれないけど、どっちでもいいやっていう感じになれている。うまくいかないことも楽しめるだろうって。だから、どう転んでもいいし、人にどう思われてもいい。それは投げやりな気持ちじゃなくて、自分の気持ちをどういう風にも持っていけるだろうって、思ってる。ある時期の自分よりも、ずっとしなやかな気持ちになれている。  これから向かってくことが、自分にとってどんな意味があるのかはわからないけれど、たぶん良いことだろう。どんな経験が積めるのか、今から楽しみにしてるけど、とりあえず、人と接する楽しさみたいなことを、じっくり味わいたいと思う。  自分という人間がどういう人間なのか、それで、わかるだろう。きっと大したものでもないし、ただ、自分の経験を活かせるってのは、うれしいものだ。素敵なことだと思ってるし、わくわくもしてる。やるぞ! って感じ。今、脳が焼き切れるくらいドキドキしてるけど、やばいとか、切羽詰まった感じではなくて、なんというか、新しく会う人たちへの不安とか、わくわくなのだと思う。簡単に言ったら緊張してるということだけど。でも、良い緊張だ。  人は簡単に退場するし、そしてまた現れる。自分のこの9年間を肯定も否定もしない。なんとかなっていたはずだとも全然思わない。なるべくしてなったし、あるべくしてあった。その間に得た経験がどのくらい自分にとって意味があったのかは今はわからないけど、でも、何かを得、あるいは失っていたことは確かだ。良い方に向かうと良いけど、こればっかりは、運だと思う。悔いてもしかたない。そうでしかなかったんだから。  運を天に任せる覚悟ができたのだ、と思う。この間の通院の時に、喋るのに覚悟がいります、と先生に言ったのだけど、喋ることそのものの覚悟というよりも、喋ることで起こることへの覚悟だったのだと思う。そして、それはもう通り越している。たぶん、僕は大丈夫。  これから忙しくなるなぁと思う。これまでに得た習慣を、どのくらい続けて、どのくらいそうでなくすか、ってのが目下の課題で、瞑想とか筋トレとかジョギングとか文章を書くだとか、まぁいろいろあるけど、全部これからもやっていたいと思ってる。やるべきだとも思うしね。  とりあえず、お金を貯めて、やりたいことを

聞いてない

「あの、この本はどこにあるんでしょうか?」 「えっとですね、あ、こちらです。ご案内します」 お客様を棚までご案内する。 「この棚ですね、えぇと、よろしいですか」 「×××です」 「あ、これですね」 「あー、あったわ。ありがとう。ずっと探してたのよ。主人が読みたいって言」 「それでは」 *** 「このダンボールは、ここに」 「はい、重いっすね」 「そうね、頑張って」 「これは?」 「それはそこ」 「あ、はい」 「あの、ダンボールは」 「ダンボールはここって、言ったばっかじゃん、聞いてないの?」 「すみません、ぼーっとしてました」 「もう、しっかりしてよ?」 「あまりに重くて忘れちゃいました」 *** 「これは、どこに入れる?」 「もう、さっきゆったじゃん!」 「聞いてない」 「なんで、」 「夢中だったから、」 「なにに?」 「君に。」

服についてのエトセトラ(春)

「おじさん、軍人なの?」  買い物していたら、子供に話しかけられた。 「違うよー」 「だって、軍隊の服着てるじゃん!」 「こういうファッションなんだよ」 「うそだー」 「ほんとだよ」 「あれやってよ、ホフク前進」 「だから、違うってー」 「いいから、ほら!」 「ここでするわけにはいかないから! ね?」 「えー、じゃあ、鉄砲撃ったことある? 悪い人やっつけるの?」 「撃ったことないよ。柔道はやってたけど」 「柔道ってなに? 強いの? やっつける?」 「そうだなー、そういうことにも役に立つかもねぇ」 「へー! かっこいいね!」 「坊や、強くなりたいの?」 「うんっ!」 「じゃあ、体鍛えろよー。格闘技もいいかもなぁ」 「かくとうぎってなに? うちのお父さん筋肉もりもりなんだぜ!」 「ふ、ふーん。格闘技って、戦うスポーツだよ」 「そうなんだ! やっつける?」 「そうだねぇ。やっつけるねぇ」 「ヒロくーん! なにしてるのー?」 「あっ! ママ! 今、軍隊のおじさんにかくとうぎ習ってたの!」 「あら、どうも? 軍人さん……ではないですよね?」 「はいー……」 「やっつけるんだって!」 「ハハハ」 「こら、ヒロ! なにしてるんだ!」 「あっ! パパ!」  見るからに軍人のパパがこっちを見下ろしていたので、私はいそいそとその場を去ったのだった。

服についてのエトセトラ(冬)

「まちがえたー!」  散歩していると、水をぶっかけられた。冬空の下である。 「す、すみません」 「……。」  バケツに入った水を草木に撒いていたようだけど、何を間違えることがあるのかと。下半身びしょ濡れである。 「すみません、今タオル持って来ますんで。ほんとにすんません!」 「……。」  家にいったん入ったオヤジがいそいそとタオルを持って出てくる。そんなに大したスーツでもないけど、濡れていることは濡れている。寒い……。 「家近所ですか? いやー! はっはっは」 「近所ですし、もう帰るんで大丈夫ですよ。ありがとう」 「ちょっと待っててください」 「……?」  またオヤジが家の中に入ってく。すぐに出て来たが何か持っている。 「これ、クリーニング代……本当にすみません」 「いや、大丈夫ですよ。ちょっと濡れただけですし」 「やー、気持ちが済みませんわ。こんなに寒いのに。風邪ひいたらあれだし。受け取ってください」  けっこう押しの強い人である。無理やり銀行の封筒を渡される。 「いや、でも……」 「これも何かの縁、なんかうまいもんでも食ってください、ね?」 「はぁ、そうですか、」  お言葉に甘えて、受け取る。クリーニングするほどでもないし、どうしたものか。 「立派なお庭ですよね。よくこの前通るんですよ」 「いや、うちは野菜専門なもんで。よかったら何か持って行きますか?」 「いや! 大丈夫です。これ以上甘えるわけには!」 「そうですか。じゃあまた」  家に帰って封筒の中をふっと見ると枯葉が入っていた。これ、タヌキが使うやつじゃん。

服についてのエトセトラ(夏)

 道の向こうからガラの悪いお兄さんが歩いてくる。なんだか見慣れた格好。 「おい、コラ。真似してんじゃねぇぞ」 「服いっしょっすねー。わはは」 「今すぐ脱げコラ」 「なんでですかヤですよ」  夏真っ盛りだけど、サスガに裸になるのはまずい。Tシャツもパンツも同じ。靴も同じ。ちょっと気まずい。 「あ? それどこで買った?」 「いや、覚えてないですよ。一緒かもしんないすねー」 「俺のはな、全部嫁が買ってるからよ、知らねぇんだ。どこで買ってんだ、あいつ?」 「これは、どこだったかなぁ? でも全部お揃いすね。わはー」 「ガラにもねぇ服着るもんじゃねぇな。こんなガキと同じかよ」 「写真撮りません? あっ、エスエヌエスとかまずいっすか?」 「良いがよ、ナメてんのか? あ?」 「じゃあ、顔見えないようにしますんで……はい」 知らないガラの悪いお兄さんと写真を撮る。なんだか仲良くなれたような気がする。 「それにしてもこんなに雰囲気違うのに同じ服って面白いすね」 「まぁ、俺は適当に着てっから」 「僕は真面目に着てたんすけどね。うーん」 「どうした? 光栄だろうが、俺といっしょなんやぞ!」 「お兄さん誰すか?」 「いや、名乗るほどのもんじゃねぇけどよ」 「あー! もしかしてビビってる?」 「あ?」 「いや、すみません」  不思議な縁があるものだ。たぶん同じ服を着ていなかったら、一生話すこともなかったろう二人。夏の盛りに、すれ違った二人。 「暑いすね」 「嫁がアイス待ってるからよ、行くわ」 「はい〜。僕も、アイス買おうかしら」

「引きこもり」であることを自覚するということ

 まず、自分では自分に対して引きこもりという言葉は適さないのではないか、と漠然と思ってた。病人であって、せざるを得なくて家にいるのだから、引きこもりとは違うのだと。だけど、まぁ他人から見たらそれは紛うことなき「引きこもり」なのである。別にそう見られることが嫌だとかそういうことでなくて、自覚の問題なのだと思う。  「引きこもり」として見られているのなら、そういう振る舞いをするべきだし、つまりそこから脱するだとかそういうアクションを起こすべきだと思う。開き直るとかさ。  だけど「引きこもり」としての自覚がない人にはそういうアクションを起こすことは難しい。だって「引きこもり」だと思っていないのだから。「引きこもり」だという自覚がないことにはそこから脱するとか開き直るとか、何もすることはできずにただ病人であるだけなのだ。何の変化も兆しもそこにない。  「引きこもり」としての自覚はずっとなかった。だってオレ外にも出てるし、出たくないわけでもないし。ただ人と喋るのが苦手(最近になって苦手というくらいまでに恢復した)というだけで、都会に出ることも結構平気でしてたし、毎日散歩して、ジョギングして、って活動してるから。人と会うのが苦手なのを「引きこもり」の定義とするなら当てはまるけど、例えば1ヶ月とか家から出ない人のことをそういうのなら、今の自分には当てはまらない。かつての自分は半年とか外に出なかった時期もあるけど、ほとんどその頃の記憶はない。というか病気が重すぎて死んでたので(苦笑)。  「引きこもり」としての自覚って、けっこう大事だと思う。あぁ、そういう風に見られてるんだ、ってのはかなり新鮮で、人に何かのレッテルを貼られるということがほとんどなかったので、なんとなく存在を認められた気になって、少しうれしかったりした。確認されたというか、理解されたというか。「引きこもり」だってことがうれしいわけじゃないけど。  たぶん人と人の関係って、互いに互いを理解し合っていく、ということが大きいのだと思う。ネットですれ違う人も、道ですれ違う人も、どのくらいの深度で理解するか、ってのは、人と人の関係に於いてかなり重要なファクターだ思う。もちろん、この人のことは別に理解したくないということも含めてね。  何に依ってそれが左右されるのか、ってのはよくわからないけど、面と向かってならハンサ

服についてのエトセトラ(秋)

 ジャズメンは着飾らない。それを見に来る客もその多くは着飾らない。着飾るとしたら、場違いな感じがするのではないか。それは言い過ぎかもしれないが、おしゃれな雰囲気を想定してジャズクラブに行くと、肩透かしを食らうことになるだろう。  ジャズミュージシャンが服に気を使わないのにはきっと訳がある。音楽によってのみその人が評価されるからとか、ポップミュージシャンのようにPVを撮らないからとか。つまり彼らは服装に気を使う必要がない。誰もそんなところ見ていないし、何よりライブに来る人もみんなそんな格好である。見た目によって音楽の評価が変わるということはたぶんない。人気のある人は間違いなくその奏でる音楽によって人気がある。ジャズミュージシャンにとっては奏でる音楽こそが全てなのだ。  夏が終わって秋になる。服を一枚羽織る人が増える。ジャズメンにとって服は寒さを凌ぐための何かでしかない。風を紛らわせるための何かでしかない。演奏中を快適に過ごすための何かでしかない。  古くは演奏のスタイルはスーツが普通だった。いつしかそんな伝統はほとんどなくなりつつあるように見え、普段着でステージに上がる人が多くなったように思える。少なくとも私の知る範囲では。テレビに映ろうがDVDになろうがネット配信されようが、着飾らずに彼らは演奏する。スーツを着るというのも一つの型であって、おしゃれだとかそういうことではなかったのかもしれない。  即興で演奏することと、服装に関係があるのではと勘ぐったが、だとしたらおしゃれになるはずだと思う。あるいはその即興性が服装にも現れているのかもしれない。  アドリブ中に音楽に合わせて着替えるミュージシャンがいたら面白いと思うが、彼らはそんな面倒なことはしないのだろう。落語のように自分の番が回って来るたびに服を脱いだりしたら楽しいかもしれない。  しかし、彼らにとって服とは気温を調節するための何かでしかない。表現の一部となっているようには見受けられない。そうする必要がないからだ。彼らには、音楽が全てであり、そうしなければ、その音楽を奏でることはできないのだ。ある種の執拗さが必要なのだ。  夏が終わって秋になる。温かいものが恋しくなる季節がやってくる。風が心地よい季節になってくる。音楽が輝く季節がやってくる。おしゃれの秋という言葉は彼らには関係がない。ただ音楽を奏で

いつも最善を尽くしてるかと問われると、自信がない。

 いつも最善を尽くしてるかと問われると、自信がない。なんとなくやってしまってることもあるかもしれない。悔い尽くせない自分が情けない。何かを諦めるほどそれをしていないのに、諦めようとしている。  私は卑屈かもしれない。弱い自分について、開き直っている。強くあろうとしていない。弱くても構わないと思っている。だから、ずっと弱いままだ。その開き直りが、私をさらに弱くする。相乗に弱くなっていく。まずは弱い自分を認めて、そこから足掻くことだ。  できることをしているかというと、怪しい。できることが何なのかすらも把握できていない。できることとできないこと、向いてることと向いてないことの線引きができていない。だから何をやっても駄目なような気がするし、何もできないような気になっている。本当はできることだってあるはずなのに。そんな片鱗は見えるのに。しようとしない。挑戦もしない。そして、できることはどんどん限られていく。結果、できなくなっていく。   今が肝心だ、とわかってる。でも、そうしようとしない。どんどん喋っていかなくてはならないのに、そうはしない。無理にでも人と喋る機会を作ればいいのに、そうはしない。勇気がない自分を肯定しようとしている。これは仕方がないことだと開き直ってる。やはり、卑屈である。  その根本のところで、私は曲がってる。だから先に進まない。いつまでもこのまま。生活が変わることを過度に恐れている。喋ることを恐れてる。喋れてしまう、と思ってる。喋れないことは困ることではない、などと思いつつある。喋れたほうがいいに決まってるのに。そのほうが楽しいのはわかりきっているのに。そうはしない。  最善を尽くしているか。何か今日、昨日と違うことをしたか。新しい何かをしたか。きのう駄目だったことを改良したか。私は良くなっているのだろうか。  した努力はすべて報われた、と言えるほど、私は頭をひねっているだろうか。徒労に終わっていないか。そもそも努力をしているのか。報われるべき努力をしているか。  いろんな疑問を出したけど、もっとシンプルに。  したいことをしているだろうか。これが本当にしたいことなんだっけ? したいことをしたいようにしているか。そのことだけが心配。悔いのないように。悔い尽くせるように。

人と人の関係、あるいは恋ついて

 男と女にはこれがある。男と女の組み合わせだけに限らないが、特にこの組み合わせにはこれは不可避かもしれない。  恋なんてしなければいいのに  そんなものないことにすればいいのに  あるいは初めから恋していればいいのに  半端に恋い焦がれて、離れていく人  そうであることの表明は、二人の関係の命を削る  そうならないと信じているのなら、そうならない手筈を踏まなければならない。それは人間の掟である  私たちは恋について何もわかっていない。誰も恋についてわかってはいない *** ただ男と女として仲がいいだけ。そこに恋が混じると──有り体に言ってしまえば性交とそれに対する欲求なのだが、──それだけでダメになってしまう関係というのがある。そんなものなしに男と女が、あるいは男と男が、女と女が、関係できたらどんなに良いだろう。 ***  男と女は、あるいは男と男、女と女は常に結ばれなければならないのだろうか。ウンメイという言葉で片付けるには陳腐すぎる。そうならなければいいのに、そうなってしまう。それまでのなにかは失われ、また新たな関係に成っていく。それが良いことなのか、そうでもないのか、誰にもわからない。  愛し合う人々は、互いがそうでないかのようには振る舞わない。愛してるという観念を言葉にし、行動し、表現しなければならない。そうし続けなければならない。その関係にとって、そうすることが適切でないとしても。  人と人の関係が、愛、あるいは性交だけではないと、私は知っている。人と人がセックスできる回数には上限がある。そう何回も、とはいかない。それは人間の掟。  愛、あるいは性交の魔性に人は魅入られてしまっている。それは確かに良いものだ。気持ち良いものだ。しかし、そうするべきでない相手もいるのだろう。そうすることによって壊れてしまう関係というのがある。その道は、イッたら戻れない。  男と女、あるいは男と男、女と女の適切な関係について。私は憂慮する。誰も彼もが繋がる必要はないし、そうしない方が良いこともあるということ。その方が幸せだということもあるということ。  そうしたから、私はあなたと今、こうして会えるのだ、ということ。あの時にあなたが私に好意を持っていたことを私は知っている。だけど、それを表明してくれなくてよかった。だからこうして逢えるのだから。

愛する

 あの日出逢ってから、今日まで、ずっと君のことを思い続けてきた。君のことを思わなかった日はない。僕はいろんなことを考えることができるし、いろんなことをすることができるはず。  だけど、君を愛するということが、ずっとできなかった。なんだか、許されないような気がしてて。  こんな自分情けない。僕は自分が卑屈だと思う。不甲斐ないと思う。楽しいことも、そうじゃないことも、考えたいし、したい。君と一緒に。  君と一緒にいるときの、僕は、ちょっとはマシになれるような気がしてる。そうでもないのかな? 自分ではよくわからないんだけど、でも、君のことを考えただけで、心がピリッとして、引き締まる。目の前のことをなんとかしないと、という気持ちが、とても強い気持ちが、湧いてくる。これは、君じゃないとダメなんだ。  君がきみだから、僕はぼくでいられる。そう思う。僕がぼくだから、君がきみでいられるのだとしたら、こんなにうれしいことはない。  自分のことを卑屈に思うのは、なんだかしのびない。一人で勝手に悩んで落ちてるだけだ。自己満足に悲しんでるだけ。自分を下にみたいだけ。卑下することで、自分をなんとか保とうとしてる。失敗したときの言い訳になるように。大した人間じゃないとわかった時にがっかりしないために。それは、自分に対しても、君に対しても。  つまり保険を打ってるってこと。安パイに生きようとしてるということ。  そして、それは卑怯だってこと。  たぶん、僕はまだ成長できる。君となら、成長できる。君なしの人生なんて、考えられない。いつしか僕たちはこうなった。愛し合うようになった。僕は卑屈だけど、とても卑屈だけど、君はそれを解こうとしてくれた。それが僕にはうれしいことだった。  でも、まだ、きちんと、愛せてないって思う。  愛そう、君を。勇気をもって。 ※この掌編はフィクションです。

おともだち

 幼稚園から帰ってくる途中、子供に訊かれたこと。 「おともだちっていたほうがいいの?」 「うーん、そだねー。いたほうが、寂しくないかもね。でも、いたからどうってことでもないんだよ。一人でも楽しめて、お友達とも楽しめるのが一番いいんだよ」 「あたしおともだちいるよ!」 「そうだねぇ。楽しいねぇ」 「ひとりでも遊べるよ」 「そ、だねぇ。寂しくない?」 「さみしくないよ! ひとりも楽しいし、おともだちと遊ぶのも楽しいの」 「一人が怖くないってのは、良いことだ」 「おともだちはね、みんなあたしとは違うの。でも楽しいんだよ」 「ふーん、どう違うの?」 「あたしは黄色が好きなんだけど、おともだちはピンクが好きなの」 「他には?」 「あたしはりんごが好きだけど、おともだちはイチゴが好きなの」 「そう。違うの、いや?」 「そんなことないよ。あたしのにできるからいいよ」 「取り合いにならないよね。一人で遊ぶときは何してるの?」 「うーんとね、あたしのしたいことするの! おともだちにはみせないんだよ」 「そう。お父さんにも見せてくれないの?」 「お父さんはいいよ!」 「なんでお友達には見せないの?」 「じぶんだけでつくりたいから!」 「そう。完成したら、見せてあげてね」 「うんっ」 「きっと、喜んでくれるよ」

しゃーわせ

「いま、しゃーわせになるためになにかしてる?」 「しゃーわせ? うーん。朝起きて、ご飯食べて、働いて、寝ての繰り返しかな」 「そうじゃなくて。しゃーわせでい続けるためにしてること。なんでもいいから!」 「うーん? 本読んだりとか、そういうこと?」 「健康でいるために運動するとか、彼氏げっとするためになにかしてるとか、給料あっぷのためにしてることとか。夜ぐっすり寝るためにしてることとか、日中ご機嫌に過ごすためにしてることとか」 「うーん、特にないかな。ほんと仕事してばたんきゅーよ」 「いまが幸せなのかもね。でも、きちんとしゃーわせについて考えないとダメよ。いつまでも今のままなんて、ぜったい有り得ないんだから」 「うーん、映画観にいくのは好きかな。音楽聞くとか。そうすりゃ一週間はご機嫌よ」 「なにかして、し続けないとダメよ。臨機応変にね。いざという時、働かない頭じゃ仕方ないのよ。何か起きて慌てたって何も出てこないのよ。普段から考え続けることよ」 「うーん、よくわかんないよ」 「あんたにとって、幸せってなんなのか! ってことよ。それに敏感になり続けて、向かう方向に進み続けないと、幸せなんて維持できないのよ。もしそうしてないのに幸せなのなら、たまたまなのよ」 「うーん。まぁずっと今のままじゃいられないってのはわかるけど」 「やった努力はすべて報われた、ってほどに考え尽くして、いろんなやり方でやり続けないと、幸せにはなれないんだよ、きっと」 「しゃーわせねぇ」

幸せの感度

「幸せと不幸せ、どっちがいい?」 「どっちも嫌。そのどちらかを選ぶという可能性がイヤ」 「そうよねぇ。そのリスク背負うの面倒よねぇ」 「だったら無難に幸せでも不幸せでもない道を選びたいなー」 「幸せは不幸せだし、不幸せは不幸せよね」 「うーん。お金があるのはうれしいし、生活に困るのはヤだけど、無くてもそこそこ幸せに生きられるのなら、そのほうがいいよね。あるに越したことはないけど」 「なんていうか、お金があるのが幸せだって、言えないよねぇ。あるに越したことはないけど、あってもつまんない仕事して死ぬほど働いて、何もできないんじゃ楽しくはない」 「それは仕方ないけどさ。どっかで楽しみを見つけるしかないのよ。それは無い物ねだりよ。生きるためよ」 「みんなが仕事できる人ならいいし、みんなが自分のしたいことが見つかるならいいのにね」 「でも、みんなそういうこと見つけようともしてないように見える」 「お金なくても、幸せに生きる方法はないのかなぁ。価値観の問題だよねぇ、たぶん。幸福の感度っていうかさ」 「ただ散歩するんでも、楽しみを見つけられる人ってのはいるのよ。何してても、幸せな人はちゃんと幸せなのよ」 「そうだよねぇ。えっちらおっちらお金稼ぐよりも、そっちの方がずっときちんと幸せだし、真っ当だよねぇ」 「お金は絶対必要だけど、それだけが全てってのは変だよ絶対」 「そうだねー。幸せと不幸せと両方同時に迫ってくるよねー、何かしようとすると。絶対どっちかなわけじゃん。それだったら、『何もしない』を選択したくなる気持ちもわかるかな」 「うーん。なにもしなかったら、一生、誰かに認められることも、好かれることも、慕われることも、愛されることもないんだよ。それこそが究極の不幸せだと思うけど」 「そうかもなぁー。」 「幸せの感度を上げ続けて、不幸せを遠ざけ続けるってことでしかないのかな」 「何が幸せで、何が不幸せかって自覚するのも大事よねぇ。なにか人生に楽しみがあるといいのにね」

嘆きの壁

 たくさんの人がその場所を訪れて、心を表していく。それは信仰であり、信条であり、そして、人生についての「嘆き」である。訪れる人々は皆、ここに心を置いていく。壁の人の背丈の高さには、色が変わっている部分がある。人々がそこに触り、嘆くからだ。  その壁は様々な嘆きを聞いてきた。それはきっと、人々の人生の嘆きである。そういうものがこの世界に在って良かったと思う。この世で一番澄んだ場所は、嘆きの壁であるかもしれない。  人々は其処に行き、嘆く。それだけなのだけど、それは大事なことだ。人種も性別も宗教も年齢も、生まれたところや信条をも超えて、人々は其処に集まり、嘆くのだ。  発することで人の心が救われる。ただそれだけなのに、人の心は浄化する。それによって直接なにかが解決するわけではないのだけど、発声することによって、気持ちの整理がつくのだろう。その場に来て、何を発言するのか、人は何かを考えるであろう。それによって自分を知ることになるだろう。  壁は壁である。だが、壁である。壁を反射して聞こえてくる人々の声は、きっと、嘆きを嘆きでないものに変えているだろう。それはよもや救いの声となっているのかもしれない。  みんなどこかで話したいことがあるだろう。それを聞いてくれる相手を求めているものだ。自分の声が反射して聞こえてくるこの壁に、人が集まってくる理由がなんとなくわかる気がする。  壁に嘆くことで、何かがその人の中で変わるのだ。発声することで変わるのだ。哭くがいい。叫ぶがいい。ここではそれが日常なのだ。そうしてまた元の生活に戻っていくがいい。この世界の片隅に、この壁が在ってよかった。

興味を持つということ

「これなに? なんていうの?」 「君は何にでも興味を持つねえ」 「そうかしら? 興味あるものにしか興味ないけど」 「いや、知らないということを躊躇しないのは良いことだ」 「ふーん、知りたいだけなのよ。今の世なら名前さえ知ることができれば、ネットがあるじゃない」 「そうだけど、」 「知らないで後で恥かくのは自分でしょう? それになんていうのかな、知りたいってのは小さい頃からずっとあるのよね。自分の好きなことに対しては」 「うーん、誰もがそうできるわけじゃないんだよ」 「そう? そんなの当たり前でしょう」 「いやー、結構みんな面倒くさがったり、後回しにしたり、躊躇したりするものだよ」 「よくわからない。自分の知りたいことを知ろうとするのなんて、当たり前だと思うけどなー」 「まぁそういう人にはそうかもね」 「興味を持つってなんなんでしょうね。何にでも興味湧くわけじゃないし、何にでも関心があるわけじゃないのよ」 「うーん。なんか惹かれるものがあるんだろうね。嗜好っていうかさ」 「そういうの、どうやって決まるんだろうね? 好きな人の好きなものを好きになったことある?」 「あるよ、ぜんぜん」 「あの感じもなんか変なものが混じってそうで、なんか自分で嫌になったりするのよね。醒めるっていうか。純粋に自分の嗜好で好きなものを好きでいたいのに」 「うーん、大抵の人は人に合わせたりするんだよ。仲良くなるためとか、愛を示すために」 「それが愛なの? よくわからないわ。でもまぁそれで仲良くなるってのはわかるかな」 「相手を受け入れてるっていうかさぁ。あなたを認めてますよ、ってことに、ならないのかなぁ、君にとっては?」 「それで仲良くなっても見せかけよね、それは。と思うけど」 「別に恋人同士で同じ趣味を持つ必要もないけど、理解は必要じゃない?」 「うーんまぁ。でもそれってその人のこと好きなのかしらね」 「どんな趣味を持ってようとも構わず、相手のことを受け入れることができる、ってのはある意味最強だよなー」 「でしょう? そっちのが、愛なんじゃないの」

9年目の会話

 昨晩、友達とLINEで会話しました。  二人とも小学校からの友人で、一人は名古屋在住、もう一人は横浜在住。名古屋の子とは滅多に会えないので、私が喋れることにもそんなに違和感なかったみたいというか、私の緘黙をそんなに実感としてなかったみたい(事象としては知っていて、心配してくれていた)。ぜんぜん違和感ないよね、と言ってもらえてよかった。  最初は名古屋の子と喋っていて、横浜の子が時間でき次第合流する手筈になっていた。はじめの方は二人でしんみり話してた。とりとめもない話。まるで、私が喋れないことなんてなかったみたいに淡々と、近況とか、最近読んだ本とか、漫画の話をしてた。2、30分経ったくらいで横浜の子が突然闖入してきて、二人ともびっくりして笑ってた。名古屋の友達は私の頭がおかしくなったのかと思ったと言ってた(笑)。横浜の子は、ハイテンションで入ってきて、これから電車乗るから、あと1時間待っててとだけ言って去っていった。横浜の子はここ一年くらいけっこう頻繁に会っていて、筆談していた関係なので、私が喋れるようになったことがうれしいみたいだった。それゆえのハイテンション。  名古屋の友達は寝るというので、一人で起きたまま、横浜の子が帰宅するのを待ってた。鳴る電話。会話。筆談だったり、LINEのチャットでしてたような話の続きを会話でした。二人ともいろんなことで悩んでて、苦しんでて、そういうところで意識共同体というか、分かり合えるところもそうでないところもあって。時々笑いながら、ちょっとうるっときながら、話してた。  ほとんどまともに話せなかった9年間。まだ完全に喋れるようになったわけじゃないけど、まぁ少しは前に進んでるかなと思う。  これから、明らかに生活が変わるだろう。そのことをずっと恐れてたと思う。私には幸せになる勇気も、不幸せになる勇気もなかった。それらは一緒になって私に迫ってくるのだ。矛盾しているようだけど、人間には表裏一体それらがいつもつきまとっている。どちらのリスクも背負っている。どちらかになるのなら、今のままなんとなくしあわせでいた方が良いのではないかと思ってた。だって、いま、十分にしあわせだから。幸せに、喋るも、喋らないも関係ないって、思ってた。  でも、昨日の夜、ちょっとだけだけど、喋ってみて。幸せと喋ることは関係あると思った。喋れなかったからそ

寝付けない私に、母が話してくれたこと

 寝付けない私に、母が話してくれたことには。 「大人時代の方が楽しいのよ。子供時代も楽しいけどね。本当よ」 「欲しいもの買えるし、美味しいものを好きに食べられるし。いろんなことが自分の思い通りになるのよ」 「そうね。すべての大人がそうではないかもしれないけど、これからのあなたの振る舞い次第では、いろんなものが手に入る人生になるのよ」 「お母さんたちは運も良かったけど、努力もしたのよ。すべての努力が報われたわけじゃないけれど、努力しない人が報われるわけじゃないのよ」 「あなたは、まだピンとこないでしょうけど、自分のしたことで人に認められるっていうのは、とてもうれしくて、誇らしいことなのよ」 「褒められるっていうのも似てるけど、ちょっと違うの。認められることでいろんなことが良い方へ進んだり、自信を持てたりするのよ」 「いろんなことを自分の責任でやっていくってのは、楽しいことなのよ」 「しなくてはならないこともあるけれど、そういうことも知恵次第では楽しいことに変えられるのよ。本当よ。今つらいことも、工夫次第で楽しいことに変わるのよ」 「そういう知恵を身につけるといいわよ。学びなさい。学校の勉強だけじゃなくて。いろんなことを」 「それにね、大人になったら、人を愛する歓びを知ることができるのよ。相手が自分をどう思おうが構わない。ただ自分はこの人のことを愛してる、この人の為になりたい。そう思って実際にいろんなことができるのは幸せなことなのよ」 「そうね。いろんな人に認められる人間になりなさい。人をまっすぐに愛せる人間になりなさい。そうしたら、すこしは幸せになれるかもしれないわ」

あなたは僕を認めてくれた

「あなたは僕を認めてくれた」「もっと自分のしていることに誇りを持ちなさい。誠実にやっていれば、世界のどこかに、あなたを認めてくれる人はいるわ」「そうなのかな」「そうよ。それを見つけるのも才能だし、知恵を尽くすべきよ」「僕はただ虫みたいに書いていたいんです」「ずっと書き続けたいなら、自分を認めてくれる人を見つけたほうがいいわよ」「あなたは僕を認めてくれるの」「よくわからないわ」「誰かを振り向かせようという意思が、こんなにも強い力を持つだなんて、知らなかった。自分以上になれる気がするよ」「それもあなたなのよ」