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8月, 2017の投稿を表示しています

人恋しくなって狂う

 一人っ子は往々にして甘えるのが下手であるか、図々しいほど人に甘えるか、どちらかであると思う。下手な人は、しっかりしてしまうので、どうやって人に甘えていいのかわからないのだ。なんでも自分でやろうとしてしまうし、人に頼るということをしない、できない。どちらにせよ甘えている、という言い方もできるのだけど、表面的に取り繕う分だけ厄介かもしれない。  彼も人に甘えることが下手な人間の一人だ。そう自覚はしていないが、さまざまな不具合を見てとるにそうであると私は確信している。人との関わりが深すぎたり、浅すぎたり、うまく距離感を掴めない感じがすごくする。変に厚かましかったり、他人行儀すぎたり、甘えるべきところで距離をとったり、あるいは自分ですべき時に人に頼ったりしている。そうするべき時を判断できないでいるようだ。  そういう人間は人に変に気を使わせてしまう。人に迷惑をかけると言ってもいい。私はそう思う。彼といることは楽しいことでもあるが、どこか変な人間である。一緒にいて楽しいと思うのは愛着があるというだけに過ぎないのかもしれない。  自分と人との状況、心持ち、関係性を計るのが下手なのだ。そうするべき時にそうできず、そうしなくていい時にそうしてしまう。うまく行くときもあれば、そうでないときもある。ほとんど当てずっぽうでやっているか、自分の思うままにやっているということなのだろう。それでは、人間関係はうまくいかないだろう。  案の定、彼は孤立している。うまくいっていない。フォローするものの、うまくいってない。自分をどう捉えるのか、人をどう捉えるのか、に不備があるように思う。完全に孤立している。このままでは何もかもが上手くいかなくなるだろう。何か手を打たなくてはならないが、人間としての根本に足を踏み入れることになるだろう。そう容易くはないし、誰にでもできることではない。  人恋しくなればなるほど自分と人との距離を測れず、どんどんおかしくなる。絡まった毛糸を解くことができればいいのだが、余計にこんがらがっていく。  人と人の関係は距離なのだろうか。もっと根本に相性とか、気が合うとか、思想とか、慣れとか、いろんなことが絡み合っている。それを解くというか解することができなければ、人付き合いは難しいかもしれない。合う人とは会った瞬間から何かあると感じるものかもしれない

真夏の夜の散歩 同居人

 ──AM3:30。今日も二人は深夜の散歩をしている。相変わらずの彼女たちらしい。  「この間ちゅーした人」「うん?」「うん」「なにさー、ほれほれ~」「好きになった。完全に」「……そうなんだー」「笑うよねー」「ふーん」  ──同居人に秘密を言うと、あたしはなんだか小っ恥ずかしくなる。こんな話を人にするのは初めてだ。女子らしく、普通の女の子らしくできているんだろうか。  「そうなんだー。あのさ」「なに?」「わたし、家でようと思ってんだけど」「え? なんで?」「彼氏出来た」「ナニー!!」  ──同居人はわたしがモヤモヤしている間に、同居人でなくなろうとしている。人は簡単に恋に落ちるし、簡単に住まいを変えることができる。それは良いことだし、あたしだって彼女を応援したいと思ってる。  「……そうなんだー。へー」「だから年内に出てくから。考えといてね」「エー、そうなんだー、えー」「えへへ。あんたも頑張んなさいよー」「余計なお世話だよー、くそー」  ──あたしは池に着くと、サンダルをすっ飛ばして膝まで池に入った。池の底はヌメッとしてる。あたしはこの想いをあなたや彼に救って欲しいと願ってる。この気持ちをどうしたらいいのかわからないのだ。あたしが彼を好きなことが彼には関係ないように、彼女がこの家を去ることも彼女にはきっと関係がない。だけど……。  「あのさ、あたし一人で暮らすよ。ここに」「そう」「離れるの、惜しいよ。池もあるしさ。たまには遊びに来てよ」「うん、来るよ。家が二つみたいになったら楽しいかも。さっこが居てくれたら、良いね」「うん」「またこうやってわたしは起きてて、さっこは起きて来て、散歩したいね。」「そうだね」「じゃあ、ベッドだけ置いてくわ。また来られるように」「いいねー」  ──救って欲しいと願ってた気持ちをなんとかしたのは、他ならぬあたし自身だ。人に何かを求めたって、いつもその通りになるってわけじゃない。自分で自分をなんとかしながら、あたしたちはきっと生きてくんだ。きっとそうなんだ。そう思えたら、いろんな人とうまくやってける気がした。  参照 真夏の夜の散歩 https://otona-to-kodomo.blogspot.com/2017/08/blog-post_23.html

不確かな情報を拡散するということ

 『マンモスを食うと死ぬらしい』。まことしやかな噂が流れてきた。私たち一族は、狩をして暮らしている。マンモスは今までにも何匹も狩って食っている。そうしないと我々は生きていけないからだ。これからもマンモスを狩っていくつもりだった。  その噂はたまたま会った見知らぬ一族から聞いた話だ。彼らがなにを考えてそういう『噂』を流すのかわからないが、何か意図があるのかもしれない。もしかしたら、本当に食うと死んでしまうマンモスというのがいるのかもしれない。私たちの一族は混乱している。マンモスを狩るべきだろうか。  この情報を得た経緯をもう一度洗いたいと思う。本当なのだろうか。確かな情報なのだろうか。マンモスを狩らなければ、私たちは食うのに困るだろう。そうすることでこの地域のマンモスは、他の部族のものになるかもしれない。その噂によって得をする人間がいるということだ。  情報を流す人間にとってその媒介となる人間は都合がいいものだ。自分が情報源であることがあやふやになる。それによってさらに混乱させ、自分に罪が及ぶ可能性も下がるだろう。なるべく多くの部族を間に挟んで、たくさんの人間にマンモス狩りをやめさせることができたら、大きな益を得ることができるだろう。なるべく多くの人間を騙すのだ。そのためには確か『らしい』情報を混ぜる。ある部族のタロウはマンモスを食った途端に泡を吹いて倒れた、『らしい』。  過激であればあるほど、情報は遠くまで広く伝わるだろう。どの地域に行ってもマンモスを狩ることが容易になるかもしれない。裏を知っている人間は少ない方がいい。どんどん偽の情報を確からしいものにしてリツイート、じゃなかった拡散していけばいい。  「待て、自分たちで判断しようのないことなら拡散するべきでない。それは自分たちで検証してから他の部族に伝えるべきだ。嘘であると見抜く根拠がないなら拡散するべきでない。脊髄反射に拡散するな。マンモスを食うと死ぬかどうかは食ってみればわかることだ。私が喰う。全て毒味する」。  情報は本当なのだろうか。疑っている人間は少ない。愉快犯かもしれないし、本当にそうであるのかもしれない。混乱の元になっているのはなんなのか。ちょっとした情報で、命取りになることもある。事態が切迫すればするほど。一瞬の判断が命を分ける瞬間は来るかもしれないし、来ないかもしれな

遠く離れて もう一つの話

 彼がもうすぐ帰ってくる。宇宙から。今、あの地平線にいる。あそこが輝いて見えるのは、彼がいるからかもしれない。もうすぐ彼と会えるのだ。  この数年で私たちは変わってしまった。少なくとも、私は変わった。定期的に連絡を取り合うといっても、毎日とはいかず、あくまで定期的に、である。彼はそうすることを望んだが、私はこの数年とても忙しかった。宇宙勤務のように定時に全てが済むわけでもなく、毎日違ったことをし、毎日違う一日を生きている。それでも、彼との関係は変わっていない、そう思いたい。逢ったらすべてわかるのだろう。  宇宙から帰った彼はひどく疲れていた。コップを何個も割ってしまったし、重力というものの不便さを笑っていた。彼はこの重力に慣れるより先に、また宇宙に戻る。束の間の地球。  彼も私もそんなに変わっていないように一見みえる。しかし私たちの関係はそれ以前とは違うような気がする。この数年保たれていたように見えていた関係は変質してしまっていた。以前がどうであったかなんて、よく覚えてもいないし、表面上はうまくいっているように見える。だけど、彼もやはり変わったのだと思う。  どう変わったかは、はっきりわからない。私だって変わったし、お互い様かもしれない。  それでも私は彼のことが愛おしいし、彼も愛情を示してくれる。それを私は受け入れる。人は変わりつつ、そしてその関係は変わらないものなのかもしれない。互いが対応しつつ、変わらないように、この壊れそうな何かを必死に守っているのかもしれない。みんな、そうなのかもしれない。なにかを飲み込まない関係なんて、ありえないと、私は思う。  私はただ待つだけ。  彼が宇宙に帰る日が近づいてきた。こんだけ宇宙にいると半分宇宙人だ、みたいな話を彼が笑いながらした。そうなのかもしれない。私の愛する人は宇宙人なのだ。ワレワレはみんな宇宙人であり、地球人だ。空と宙の境界がなくなって何年も経つ。容易に行けるようになった宇宙。どんなに身近になっても、私と彼を隔てる距離には違いはない。  あのひかりの一つに彼はいるのだ。輝き以上に明るく見えるのは、彼がいるからだ。とても美しい。彼に見せたい。  参照 遠く離れて https://otona-to-kodomo.blogspot.com

遠く離れて

 ときどきなんで自分がここにいるのかわからなくなる。ここは不便ではないし、困ったこともほとんどない。むしろ生活空間としてはとても楽なのだけど、しかし何かが足りない。  宇宙に来ることが当たり前になっても、全然ここに慣れない。この宇宙という異空間は、何億年も前からずっと変わらずにあるのに、人類にとってはまだ慣れない世界だ。初めて人が宇宙に飛び出てまだ100年も経ってないけれど、まだ宇宙で暮らすということは、人類にとって特別なことなのだ。  こんな時代になっても相変わらず人は人を愛して、あるいは憎んで、その命はゴミのように扱われたり、太古と同じように丁重に扱われたりしている。どこにいたって、人間というものは変わらないみたいだ。  ここに暮らして一年になるが、宇宙の一年も地球の一年も、変わらず長いようで短い。振り返ればあっという間だが、先を見ると途轍もなく長く感じる。  いつになったらこの世界に慣れるだろう。この空間にも、生活にも、君なしの世界にも。定期的に連絡を取っているとはいえ、君に触れることは叶わない。どこか存在しているようで、非存在の気がしてくる。プログラミングされた君とどこかで入れ替わったとしても、僕はそれに気がつく自信がない。君を君と疑ってしまうことほどの不幸を、僕は知らない。  こんなに星々が綺麗なのに、僕は孤独だ。独りなんだ、どこまでも。どこまでも続くこの宇宙で、僕は孤独に震えてる。君に逢いたい。触れたい。抱きたい。キスしたい。ここにいる仲間たちは、君の代わりになれそうにない。君は、君なんだ。    宙から見た地球が美しいのは、そこに君がいるから。あの灯の一つは君が点けたひかり。僕はこうしてここでそれを見てる。すごく美しい。君に見せなくては。  ここには何もないし、誰もいない。君に逢いたい。

月という女性

 目の前に月のような女性がいる。どう言い表したらいいのかわからないのでそう形容するが、まるで月のようだ。  ただ明るいという意味でなく、夜空を照らす暗闇の中に明かりと陰を持っている。パッと輝いていると思う一方、きちんと闇も持っている。  ただ美しいというわけではない。凛としているといえばいいだろうか。私が月に感じる何かを、この女性からも感じる。  暗闇に浮かぶ月。この女性が闇夜にいたならば、月のように光り輝いているのではないか。月の太陽による反射の輝きのように、この女だって何かの光を受けて輝いているのかもしれないと思ったりする。己の力で光らないという儚さ。一度物に当たっているからこそ感じる優しいひかり。そういう類の優しさを、この人は放っているのかもしれない。  なんというか、この人そのものが優しいというよりも、この人の振る舞いが優しいのだ。この人に関わったなにもかもが、優しく私の元に届く。その妖艶な風貌だけでなく、立ち居振る舞い、仕草、言葉の発し方、彼女を構成する何もかもが、月を思わせる。  月のように美しいおんな。  真昼の月を見たことがあるだろうか。白い月。夜とは違った表情の月。どこかあっけらかんとしていて、その存在はすこし薄い。私は見つけるとうれしくなる。陽の光にも埋もれない。自分で光っているわけではないのにその光を失わない。他者がいるから自らが輝けるのだという持念。満月が昼間に見えないように、この女性も昼間にはどこか欠けているのかもしれない。夜こそが彼女の時間。独壇場。夜だからこそ、その妖艶な輝きはいっそう増すのだ。  月がわが惑星に影響するように、この女性もきっと私に影響を及ぼすだろう。この人が存在しているというだけで生まれるその波動は、私を捉えて離さない。雲が出れば、月は見えなくなってしまう。しかし確実にわが惑星に影響している。そこに変わらず存在しているからだ。この女性も、そこに存在しているというだけで影響を及ぼす女性なのだと思う。本人は意図しなくとも、男を変えてしまう魔性。  月に入れ込むことは、わたくしの気を、狂わせる。    ※この文章はフィクションです。

コンプレ

 この二人、父娘である以上に似ている。大方は娘が真似ているのだ。離れて住むようになってそれは顕著になった。娘が好きになる人も皆自分の父親にどこか似ている。多くの女性がそうであるように、娘は自分の父親の面影を男性に求めている。それが一番近しい異性としての男であり、それはつまり一番目に触れてきた男である。遺伝子上の重なり以上に、共に暮らしてきた男に似た人に惹かれるのは当然かもしれない。  父の好きなものはたいてい娘も好きになる。父の憎むものは娘だって憎む。娘はコーヒーが好きだし、Tシャツは首から着る。まるで自分がないみたいに娘は父親のコピーである。父の言われた通り進学し、就職し、今日まで生きてきた。家を出るとき、すがるような気持ちだった。「結婚」という言葉を父の前に出すのが辛い。きっと父は泣くだろう。娘だって辛い。  娘はうまく人を愛せないのかもしれない。どこか父親がちらつくのだ。父に憧れもし、忌避もする。そうありすぎてはならないと思う。だが、いつもその面影を追い求めてしまう。  小さい頃から育てられてきた、という呪縛はおそらく一生解けないだろう。父の愛した人間と、父自身の遺伝子でできた娘。父の愛した人間と、父自身によって手懐けられた娘。ずっとわたしは父の呪縛の中に生きるのだろうかと、娘は思っている。父と似た男を愛し、父に認められた男と結婚し、父と似た人を産むのかもしれない。その人生が「父」であるのは、生まれさせられた時からの定めかもしれない。──父の呪縛。  この世の中のすべての女性がそうだとは言っていない。だが、父親を無視して一生を遂げる人間はいない。どこか、匂っている。それは、まず父が「男性」であるからだし、父親像というものを実父しか知らないのだから、当然なのかもしれない。  父親以外にも男はいる。この世の人間の半分は男である。この世には様々な人間がいて、それぞれの意志によって活動している。父親だけが男でない。それでも、父の呪縛というのはある。父親しか知らない女性はほとんど不幸かもしれない。  娘は、父のことを慕ってる。この歳になってようやく結婚を決意できた。それは父親とは似ても似つかないひと。父親の呪縛を逃れることができたのは、なぜなのか。結婚とは娘にとって、新たな父親を模索するか、父親に烏合するかの二択なのかもしれない。娘は新たな父親を模索した結果

胡蝶

 夢から覚めると見覚えのある家にいた。  部屋には本を夢中で読んでいる子供がいる。インターフォンが鳴るが誰も出てこない。この子しか家にいないみたいに。3歳くらいだろうか。絵本を読んでいる。  子供のお腹が鳴っている。腹が減っているよう。相変わらず本に集中していてこっちには気がついていない。確か台所はこちらだ、と思いつつ厄介ごとになったらまずいなとわたしは思う。しかし、家には誰もいない様子である。  また子供のお腹が哭いている。途端にいたたまれなくなって、台所に行く。何かあるだろうか。食器棚にパンを置いていたことを思い出す。ここは、紛れもなく、わたしが小さい頃に住んでいた家だ。何もかも覚えている。この家を壊して、今住んでいる家を建てたはずなのに。わたしはまだ夢をみているのだろうか。  棚からパンを取り出す。あんぱん。居間に戻って、子供に渡すと無言で食べ始める。この子は、誰だ? 名前を訊こうにも言葉が出ない。ここに来てから子供もわたしもしゃべっていない。やはり、夢なのかもしれない。  子供の顔をよく見てみる。自分なのだとしたら、顔に二箇所、傷があるはずだ。母と散歩している時に転んでつけた傷。子供は蝉の抜け殻をじっと見ている。こちらに気がつくようすもない。  顔に傷はない。わたしは一人っ子だし、それではこれは誰なのだろう。傷ができる前のわたしなのだろうか。なにを暗示している? そもそもこれは夢なのだろうか。  子供が誰かに呼ばれかのように台所へ行った。わたしがいないかのように。わたしには呼びかける声は聞こえなかった。ちょっとして子供は戻ってくる。あんぱんを持って。  棚には一つしかパンはなかったのに。これはやはり夢なのだ。わたしは不気味に無視されている。夢の中で、幼い頃の自分を見つめている。幼い自分は本を読み、蝉を凝視し、ぱんを食っている。それをわたしは見ている。  目が醒めると蝶が舞っていた。

花落ちる

 街でばったり出遭った二人。「お茶しない? 時間ある?」で始まる小話。  「なんで? いやよ。」  唐突な出会いに戸惑う女性。応える男。  「許して、なんて言えないけど、もう忘れてると思ってた」「忘れるわけない。許してもいない。」  なにか訳ありな二人である。繁華街の中、人が次々と通り過ぎてく。日差しは強く、みな速足だ。そこだけ止まった時間。  「一生許さないと思う。会うと思い出すからヤなの」「そう……だよね。」  離れる二人の距離。女は大声で言った。人目も気にせずに。男は彼女に聞こえるかどうかもわからないくらいの微声で応える。  「あの頃は僕も君も若かった」「そんなの関係ない。人格の問題」「そう……」  男性は近づこうとするが、距離を取ろうとする女。男は手ぶらだが、女性は袋をたくさん下げている。か細い声で男は言う。  「どうしたら許してくれる?」「こんなに時間経ってるのに、もうムリ。どうしようもないんじゃない? 自分で考えたら? そういうとこ、変わんないよね」  時間はなにも解決せず、ただただ二人の時間が流れていただけだったのだ。  「いや、でも、連絡取れなかったから。怒ってたし」「怒ってた? 当たり前でしょ? 連絡なんて、しようと思えばいくらでもできたと思うけど」  彼女の下げたクロッカスの鉢から房がポトリと落ちる。  「そうやって、避けてたんでしょう?」  行きつ戻りつしながら、男性は遠ざかっていく。往く女性。  「君が閉じたら、もう開かないことはわかってた。でも、ああするしかなかったんだ。僕には知恵がなかったし、経験がなかった」  男性は独り呟く。もう誰も聞いてはいない。  往く女性。

真夏の夜の散歩

 「いま起きたの?」「うん、今から寝るの?」「うん、散歩しない?」「いいよ、コーヒー淹れたらね」「よしゃ」  ──AM3:00。コーヒーを淹れ、軽く身支度して家を出る。  「あの人とちゅーした」「このあいだ言ってた人? それで?」「そんだけ」「ふーん」「初めてちゅーした相手って覚えてる?」「覚えてない」「あたしは幼稚園の時、よっくんて子と。ふふ」「ふーん」  ──AM3:20。陽の出る前の公園を、二人は歩いてる。あと1時間ほどで夜明けだ。  「そういえば、今日の夢、キスする夢だった。なんかやけにリアルでさ」「へー」「なんか欲求不満? わたし。くちびるに感触が、こう」「なんかあれだね」「なに?」「飢えてますな」「うっさい」  ──AM3:40。家を出て、歩き、また家に帰る。いつもの散歩。いつもの公園。池には誰もいない。世界中に二人しかいないみたいに。  「帰ったら、また寝よっかな。夢の続き、みられるかも」「そだね。あたしもアパート着いたら寝るわ。ネムイ」「小さいころ、寝るの怖いときなかった?」「うーん、あったかな? 覚えてない」「キスしたことは覚えてるのに?」「うっさい」  ──AM4:00。二人は家に着く。いつもこうして散歩するわけでもないけれど、ときどき二人は歩く。特に何か言いたいわけでもないし、用があるというわけでもないのだけど。ただ、なんとなく。  「明日、じゃなくて、今日、か、あの面接」「そうだね」「受かるといいね」「うん」「今までやってきたんだもん。大丈夫よ」「そだね。だといいけど」「うん、だいじょぶだよー」  ──日常の中に、とりとめのないことを話す相手がいる。気の置けない相手はわたしのことをだいたい知っているし、だいたい知らない。気が向いたらしゃべって、気が済んだら自分のことをする。たまにこうして散歩をする。真夏の夜の散歩。世界には二人だけ。それで充分なのだ。

she loves him, and he loves her.

 彼女は彼を眺めてた。彼は最近何かに打ち込んでいる風だった。だがそれが芽を出す気配はない。彼はとても忙しそうだった。彼女は彼の力になりたかった。彼女自身は有意義に暮らし、なに不自由なく暮らしていた。しかし、どこか、退屈なのだ。  「すみません、これずっと借りっぱなしで」彼は彼女に言う。「いいのよ、まだ借りてても、」彼女は応える。彼は鞄からそれを取り出すと彼女に手渡した。そして、一瞥。「いや、次のがあるから、もういいんです。ありがと」「そう」。彼女は笑って応じる。「わたしも」「こんど、話しない? お礼もしたいし」「いいよ。いつでも」「んじゃ、また今度」「じゃね」。  彼女は彼の何かのきっかけになればいいと思ってた。けしかけてやるくらいの気持ちだった。彼を変えてしまいたかったのかもしれないけれど、そう簡単に人間は変わらないことも知っていた。自分が人に変えられようとしていると気がついたら、ゾッとするだろう。愛し合っているならまだしも。  彼は彼女にとても感謝していた。しかし、そのことをうまく伝えられなかったと悔いていた。だから食事に誘ったのかもしれない。  彼はまだ彼女の視線に気がついていない。彼女は彼を見ている自分を意識していない。なんとなく見ている風に、しっかりと彼の足取りを追っていた。気になっていることに意識的でないのだ。  けしかけるといって、どうすればいいのか、わからない。ただ彼の望みを叶えているだけではダメなのだ。彼女だって彼を媒介に満たされたい、成長したい。できることがあるはず。  駆引、焦燥、憧憬、尊敬、愛情。  互いに刺激し合える関係ならば。互いに成長できる関係ならば。こんなに成ってしまうわたしをわたしは知らない。この人といたら、永遠にどこまでも行けるだろう。新たな生命は幸せをたくさん産み、わたし自身も連れ合いとわたしを幸せにできるであろう、という人。そういう人と出逢えたならば。  「君でないと駄目なんだ」「わたしも」「うれしい」「わたしも」。

父について

 父が元気ないので今日は彼について書く。人間を描くとはどういうことか、何の結論も出ないままに書いてしまうけど、たぶんなんとかなるはず。なんとかする。書くことで見えてくることもあるはず。  たぶん父のことを書くのなら、わたしにとっての父についての最初の記憶から書くのが良いのではないか。はっきりとした時期がいつだったか定かではないが、こんな記憶がある。  父が仕事帰りに何かおもちゃを買って帰ってきたことがあった。プラレールだったかもしれない。わたしがうんと小さい頃。そのことをよく覚えてる。今日は自分の誕生日なのかとわたしは母に訊いたように思う。しかしその日はなんでもない日だった。もしかしたら、夫婦の何かの日だったのかもしれない。誕生日でもないのにおもちゃを買ってくれるなんて、この人はなんと良い人なのだろうとわたしは思ったのだ。わたしは心からありがとう! と言ったと思う。たぶん、母にこういう時なんていうの? なんてそそのかされたのだろうけど。わたしの記憶に残る最初の「ありがとう」は父に対してであり、それがわたしにとっての父の最初の記憶である。  父はいろんなことを抱えた人だ。基本的には優しい人なのだが。どうにもならないことをどうにかしようとするタイプでもなく、駄目なら駄目で諦めているような人。息子に対してもうまく振る舞うことができず、人との関わりを捨て去っている人。こういう人がそばにいるから、反面教師にわたしは人との関わりを捨ててはならないと思ったりするのだと思う。  何かを考えてる風でツメが甘かったり、だらしなかったり、ハリキッテ作った料理はまずかったり。いつも母への配慮がどこかズレている人。母はそれを優しさとして受け取り、しかし実益のないものだと思っていると思う。突然の思いつきで良かれと思って買ってきたものが役に立ったことはほとんどない。野菜を育てるが何が必要かという質問は一切せず、ただ作りたいものを作っていく。そしてどこかズレている。それを笑うでもなく、馬鹿にするでもなく、母は優しさとして受け取っている。うちはそうやってうまくいっている。  他の父親と比較したことがないので、わたしは普遍的に父を語る言葉を持っていない。自分が父親になるとしたら、父を見習うところは見習い、自分なりに、成るのだろう。  父は理不尽なことは決して言わなかった。説得には必ず言葉を

この地球上、何十億人という人がいる

 あるところではうまくいかなくても、それは自分が合わなかったというだけで、他のところではうまくいくかもしれない。問題が自分にあるのかもしれないし、だとしたら改める必要はある。なにを許してなにを許さないかというのは、集合の美意識みたいなもので、結構どうにでもなるものかもしれない。自分が正しいと思うのなら、自分に合う場を探し続けるしかない。理不尽に振る舞うように見える人がいるとしたら、なにかを抱えた人なのだ。そういう風に為さざるを得ない何かを持った人なのだ。運が悪かったと思うしかないかもしれない。  人はだれでもある人に対しては良い人で、ある人に対しては悪い人なのだ。ただその人の一面を見たに過ぎない。正しいことをした人が、その次の瞬間に悪いことをする。人間とはそういうものなのだと思う。  にんげん誰もが悪人に見えているのだとしたら(ぼくにはそういう時があった)不幸にして出会っていないだけで、どこかに自分に対していいタイミングで良い面を見せてくれる人があるはず、と願い続けるしかない。  人間を怖がっている人ほど、人と会っていないのではないか。経験不足というだけなのではないか。その問題を突破するためには人と会い続けるしかない。要するに勇気と機会と運の問題。母数を増やせば、良い思いは増える。  一生を孤独のままで生きていくというのなら、それでもいいのだけど。きっとそうはいかないのだと思う。自分の認める人に認められることほどうれしいことはないのだ。独りでいても、そういう機会には絶対に出会えない。  とにかく人と出会うことだ。出会い続けることだ。幸福でいるために、あるいは不幸になるためにはそれしかない。つまり、変わり続けるってことだ。  この地球上、何十億人という人がいる。わたしはただ出逢っていないだけ。それは言い訳にも使えるし、勇気づけることだってできるだろう。切磋琢磨することはもちろん必要で、でも、そして、その上で自分の逢うべき人と会うこと、居るべき場所を探し続けること。それが良い方へ行くこともあれば、そうでないときもあるだろう。今のままなら、今のままだ。変化を恐れないこと。受け身にならぬこと。次々と変えていくこと。自分の中にしっかりした芯があれば、どのような場でもやっていけるはず。

好きになる由縁

 人がなにかを好きになったり、人を好きになったりする、そのメカニズム。なぜ人はなにかを好きになったり、人を好きになったりするんだろう。野暮なことは言わず、ただ好きだから好きなんだって終わらせることだってできるけれど、ちょっと考えてみたい。  有名な何かや説得力のある何か、あるいは友人による何かによって人はなにかを好きになったりすることがある。自分が好意を寄せている人の何かは重く価値付けられて目の前に迫るし、認めている人の何かだってとりあえず話を聞こうという態度になりがちだと思う。わたし達は社会的な動物なのだから、それは当然だと思う。テレビに出たものは価値のあるものだと思いがちだし、影響力のあるものに人は弱い。  ものを見る目、人を見る目ってなんだろうなと思う。何を以って価値のあると認めるのだろう。何に価値があるかは人によって違って当たり前のはずなのに、そうでもないようにも思うし、そうであるかのようにも思う。共通した価値認識がないと経済が回らないからそうなっているだけなのかもしれない。  生まれてからすべての人が違う道を征く。だからその価値観だって違うはずなのに、影響の受け方によって、みんな同じ方向を向いたりする。時代の空気みたいなものなのだろうか。みんなが似たような状況の時に同じ気持ちになったりするのは当たり前なのかもしれない。  別にその流れから逆らおうとも思わずに、むしろ乗れない感じで、わたしは生きている。きっと、どこか変なのだと思う。  みんなが好きでもないものを好きな時に、本当にそれを好きなのかどうか、自分でもよくわからなくなる。自分だけが好きなことに酔っているだけなのかもしれないと思ったり。でも、本当に一人だった時も今と変わらずに好きなものがたくさんあったと思う。なんだかわからないけど、好きなのだ。なにか基準というか、モノサシがあるに違いないと思う。理屈かもしれないし、感情かもしれないとも思う。自分でもよくわからない。  わたし達はじぶんをコントロールできるようで、できない部分がある。好きという気持ちはunコントロールな気持ちかもしれないし、意思によってそれを押さえ込むことだってできるのかもしれない。それが人間の面白いところだとわたしは思う。  惰性、妥協、同調、共感。いろんな価値付けがわたし達の周りにある。何を以ってすればわたしは幸せな気持

自分の不満を自覚する

 自分を語ることは、セックスやお金儲けと同じような「快感」であるというのを、どこかで読んだ。きっとなにか脳内物質が出ているのだろう。自分がいくら禁欲的だからといって、この快感を損ねるようなことはしないと思う。でも、ちょっと考えてみたい。  わたしは自分を語りたいというか、自分を見つめていたいのだ。自覚的でありたいということ。自覚的であるためには自分を表現することが必要で、それゆえにわたしは書くのだと思う。書きようがないことを書いているという自覚だってあるけど、そこに表層された何かによって、きっとわたしは毎日自覚的になっている。はず。  自覚的になるということは自分を変え続けるということだと思う。その変化によって自覚するのだと思う。行動したり、人に影響されたり。停滞した自分なんてつまらないとも思う。  世の中には、人を変えることで自分を保とうとする人がいるらしい。つまり人を批判することで、自分の立場を守ろうとするのだ。でも人を変えるより、現状に満足していない自分に自覚的になって、自分を変えていったほうがよっぽど早いし、効率的だとわたしは思う。人を批判したって人は人であって、変わるわけじゃない。その他人を変えたところで、同じ意見の人間全員を変えることにはならない。つぎつぎと人間は湧いてくるだろう。それなら、現状を満足できるように変えたほうが良いってわたしは思う。  自分が満足していないことに自覚的でないと、人はより一層、不幸になるのではないか。だから、せめて自覚していたいのだ。  わたしにだって、欲望はあるし、満足していないことは多い。だけど、不満をぶちまけたところで満足できるわけでもないし、足りない部分が満たされるわけでもない。社会通念を変えるより、自分がどうにかしたほうが良いって思う。  人は自分の持ち物で生きてくしかないんだ。生きてくうちになんとかなるかもしれないし、一生不満を抱えたまま生きていくのかもしれない。それはわからない。だけど、自覚することなしに、何かが変わることはたぶんない。変えようと思わなければ変わらない。変えようと思った瞬間に変わるかもしれない。意固地になってもしかたないって思う。そうなってしまうのもまた人間だけど。   わたしは壊れている自分を自覚することから目を伏せたくない。欠けている自分をずっと恐れてた。言葉では闘うと書いていて

ブログをどういうつもりで書いているか。

 ちょっと気になったんで、自分のブログ感みたいなものをまとめてみようと思う。何を考えて毎日書いているのかということも含めて。ほとんどブログというものを読まない人間の考えなので、たぶん一般的ではないし、いろんなことから外れた考えだと思うので、そういう類のツッコミはなしで。ブログでお金を稼ぎたいとか、人気ものになりたいという人の役にはびた一文立つ気がしません。ただわたしが何を考えてブログを書いているのかっていうのをダラダラ書きます。  一つのブログ記事を気に入って欲しいとはあんまり考えてないんです。ブログを全体として気に入って欲しいと思ってる。この人だから、読みたいと思われたい。そのためにブログのデザインにはこだわってるつもりというか、ひと目見て、あぁ、あの人のブログね、とわかるようにしたいと思ってる。だから背景写真は自分で撮った空の写真を使ってて、あまり頻繁に変えたくない。スマホで見るとどういうふうに見えてるのか、すべてを知ろうとしてないけど、空の写真が出てるといいなと。そういう設定にしてるはず。  とにかく一つのブログ記事を気に入ってもらうというよりも、わたしの書いた文章群を気に入って欲しいと思ってる。だから毎日書くし、今は忙しくて無理だけど、決まった時間に公開しようとしてる。この時間にアドレスを開くと更新してる、よし、読むゾ、となって欲しい。それが理想。つまり、単純にいえば、わたしが書く文章を気に入って欲しい、わたし自身を気に入って欲しいということなんじゃないかって思う。やや不遜だけど。  だから友達や知ってる人、愛着のある人、興味のある人に読んでもらえるのはとてもうれしい。というかそのために書いていると思う。ブログで一旗揚げたいわけじゃないし、人気モノになりたいわけでもないし、お金を稼ぎたいわけでもない。そうしたいなら、そういう文章を書くし、そういういろんなことを採用すると思う。わたしはそうするつもりは全然ない。ただ書いていたい。  ただ、今のところ、このブログを読んだら何か良いことがあるということはないから、定期的に読んでもらうとか、更新したら必ず読みます、という人はいないんじゃないかと思う。けっこうそこら辺はいい加減に思ってて、書きたいことを書きたいというのはある。自分の脳内整理と言うか、パソコンの前に座ったら何が出てくるんだろうという自分への期待み

人とひとが出会うという、人生の楽しみ

 昨日の続き的なナニカ。なんで人間のことがそんなに気になるようになったのか書きたいと思う。  ちょっと前までの自分は、生きていることに半信半疑だったと思う。昔、なんで生きているのかというと生かされているからだ、と書いたことがあったけど、なんで自分が生きているのかもわたしにはわからなかったのだ。  それはわたしが生きていく過程で人生は素晴らしいものだと言ってくれる人がいなかったからだと思う。生きていることを楽しんでいる人をわたしは見たことがなかった。育ってくる過程で出会った大人たち教師たち、みんなどこか戸惑っているというか、なんとか生きていくことだけを考えているというか、その場しのぎというか、そんな印象で、まったく楽しそうではなかった。   わたしにとって憧れた人っていうのはみんなテレビの中とか、本に書かれている人、雑誌に載ってる人、そういう遠い人たちだった。存在を確認された人なんていなかったし、身近には人生を楽しんでいる人は皆無だった。  とにかく戸惑いながら生きている人たちばかりだった。生きることって楽しいのだろうかと、ずっと疑問だった。  いろんなことを熱心にすることだって、そうすることが良いことだと思っていたからに過ぎないと思う。何かを愉しもうとか、まして人生を楽しもうとは思ってなかった。人生は暇つぶしだと思ってた。  結論から書くと、わたしはいま生きてることがとても楽しい。病気だとか、障害だとか、恋してるしてない、友人がいるいない、そんなことぜんぜん全く関係なく、生きていることが楽しい。それは人間に興味を持ったからだと思う。  人間という不可解さと向き合う準備をずっとしていたと思う。今だってしてる。人間という面白さの真髄は、人とひとの関わりにあると睨んでる。そこにはいろんな関係があってそれを追求するだけで、おそらく一生かかるのだろう。  考えても考えても、次々となにかが湧いてくる無限の泉だと思う、人間の関係というのは。だから無数の映画が、小説が、音楽が、詩が、絵画が、あらゆる芸術が、そして、あらゆる経済が、あらゆる社会活動が、存在している。  存在しているから、わたしは生きている。それらによってではなくて、それらを享受するために、愉しむために。わたしはいま寝る時に翌日起きるのが楽しみだ。つまり明日もなにか楽しいことが起きるに違いないと、毎晩

人とひとが出会うことの表現の可能性を知りたい

 人とひとが出会って、了解し合う感じ、何かが始まる感じ、存在を許し合う感じ、そういうことを具現化したものを欲してる。  人とひとが出会うことで起こるさまを表現しようとすると「化学反応」みたいな言葉しか出てこない自分が憎い。なんだか決まった結果しか出ないみたいじゃないか。思うに、その結果は無限にあり得て、仲睦まじくなる可能性だってあれば、その場で喧嘩別れする可能性だってある。なんだって起きるかもしれないし、なんにも起きない可能性だってある。それはいろんな要素によるし、それを科学実験のように単純化した瞬間に壊れる何かがある。  だから(科学とは違って)面白いのだと思う。  その、いろんな要素を解剖しようとは思わないけれど、小説や映画ではもっともらしい何かが提示されているのだと思う。そうでなければ、監督や作家はトマトをぶつけられるのだろう。絵や音楽や文字などの表現によって、それらは成されている。みんなそれぞれに危うい橋を渡っているに違いないと思う。それは物語の、というか人とひとが出会って起こったことの、説得力を彩るものであることは間違いない。  人とひとが出会うことによって起こりうること。そのすべての可能性を網羅することはできない。想像すらできない。その一つの出逢いによって人生が大きく変わることもあるし、奈落の底に落ちていくことだってあるのだろう。事象でしかわたし達はその出会いを感じることができないけれど、出会ったことそのものには本当にはなんにもないのではないか。ただ人が目の前にいるというだけでは、おそらく何も起こり得ず、人間が人間として在って、働きかけ、リアクションし、そして作用するから何かが起きるのだ。なんだか結局「化学反応」に戻ってしまった。どうもわたしは根っからの理系らしい。  一意的に見た瞬間にこぼれ落ちるもの。こうなるはずだという「野暮」な考え。目論見はいつだって破綻する可能性を帯びている。だから面白い。単純化した瞬間にこぼれ落ちるなにかをつかみたい。それはきっと些細な事で、どう在っても表現に耐えないことなのではないか。こう在ったからこうなった、こう行動したからこうなった、そしてこうリアクションした、そしてこうなった。そのすべての可能性を把握してみたい。  両親を見ていると、互いに許してるな、という感じがとっても伝わってくる。だからきっとおそらくな

つっかえたものを取ること

 俺、敗北を受け入れられていない人だ。宙ぶらりんのまま、いろんなことを病気のせいにしている。そして納得してないんだと思う。だからグズグズするんだ。病気になったことは仕方ないことだけど、この病は自分が望んだものかもしれない、と思ってる限り、ぼくは前に進まないのだろう。  あの頃はそれなりに情熱もあったはず。わたしは本気だった。でもダメかもしれないとも思ってた。自信がなかった。でもやろうと思ってた。その矢先に病気になった。わたしにとっては好都合だったかもしれない。やらないうちに諦める理由ができたのだから。そうしてわたしは病気になったことを受け入れたのだと思う。そこがわたしの弱いところ。  宙に浮いてしまったあの頃のあれを葬り去らなければいけない。諦めたわけでもないのに、諦めたことになってしまっている、いろんなことを。チャレンジする前に病によって退場させられてしまった、あれらを。  つまりうまく消化してないのだと思う。人生を。それでいろんなことを見失ってしまった。失われたさまざまな感覚を取り戻すことは容易ではない。  この病はきっとわたしが望んだものなのだ。この病さえなければわたしは自分のしたいことに挑戦できたのに(、でも退場してしまった)。『無念』という気持ちを病気の所為にしている。それってすごく情けなくて、かっこ悪いことなんじゃないか。しゃべれないうちは、しゃべれないことをいろんなことの盾にできる。何をするにも熱心になることを回避できる防波堤になる。障害があるから、わたしはやらなくていい。できることをすればいい。仕方なくすればいい。人生を楽しめなくて当たり前。友達少なくて当たり前。人との交流の感覚を失うのも当たり前。そう言ってるうちは先に進むことはない。一生ない。  納得がいってないと同時に、助かったと思っている自分を粉砕しないことには、わたしに未来はない。複雑な気持ちを抱えている。難しい。挑戦することが、怖くなっている。また倒れるというんじゃなくて、またなにかを言い訳にして逃げるんじゃないか、と。情けなく逃げる自分が嫌なんだ。  諦めることを、きちんと諦めること。それをしない限り、次にいけない。ぼくはずっと宙ぶらりんのまま。諦めるために、熱心に言い訳せずにやりきることでしかない。そうでないと、報われない。  報われるために生きてるわけではないけど、自分

人とひとが会うということ

 去年の今日の日から一年間、なにか変わっただろうか。  思うに人とそれなりに会った。この一年で初めて出会った人もいる。人と会うということの概念にちょっと変化があった。というか病気になってからこっちが歪んでいただけなんだけど。人とひとが会うことがどういうことなのか、今日は考えてみたい。ちょっと長くなると思う。  ただ会うというだけなのに、ただ目の前に居るというだけなのに、わたし達は何かを交換している。わたしは会った相手からなにかを得て、なにかを与えている。表層にも深遠にも。その合意があるというだけで、その人の何かを規定している。心のどこかでこの人と会うことはどういうことなのだろうと、無意識に考えるのだと思う。会うというだけで、許されているということもできるかもしれない。会いたくない人とは会わなくたっていいのだ。会うというだけで、何かがお互いに定まる。ふつうそんな大袈裟に考えないものかもしれないけど、わたしにとっては大問題なのだ。だから敏感になっている。会う相手を選んでいるというわけでなくて、「逢うこと」そのものが、わたしにとっては一段高いところにある。あるいは異常事態。えまーじぇんしー。  人と会うのは(ほんとうには、)エネルギーがいることだ。どこかで、自分をどう思われるのだろうと、気にしないつもりで気にしてしまうものだろう。見た目にも、振る舞いにも、受け答えにも、思っていることにも。相手を大事に思えば思うほど。  人と会うことの楽しみ、あるいは軋轢は会うからこそ起こる。会わなければ、たぶん一生触れ合うこともなく、ただ、お互いが知らないふりをして、それからも生きていくのだろう。縁あって出会った二人が、逢うことの幸福よ。大袈裟かもしれないけれど、わたしにとっては。  わたしはいろんなことに影響を受けて生きている。書物にも音楽にもwebにもニュースにも、あるゆる情報から、芸術から、社会から。それを造っているのはあくまで人である。それを伝えるのも人である。それに価値の重みをつけるのも人である。その人は身近な人もいれば、人生には関わり合いのないように見える人もいるかもしれない。  この世は人によって成り立ってる。人のいない世界なんて在り得ない。その人の作ったもの、その人が伝えたもの、価値の重みを付けたものと出会うことはその人自身と出会うことに似ている、と言ったらた

「傷つきたくない」こと

 「傷つきたくない」気持ちを凌駕できれば、拓ける未来もあるはずなのに。踏ん切りがつかないでいる。  人はふつう傷つきたくない。身体面でも精神面でも。傷を負うことは命にかかわるからだ。もっと自分を傷つけよとは思わないけど、わたしは傷つくことを過剰に恐れすぎだと思う。傷つきそうなところに足を踏み入れないことで、傷つくことを回避している。  でも、けっきょく傷つく時は傷つくのだ。人間どうあっても傷つくものかもしれない。完璧な人間なんていないし、失敗もする。独りでいても自分のしたことで傷つくし、人と居れば尚更だ。人との輪郭のことを傷と呼んでもいいくらいだ。ちと中二的発想だが。  傷ついた時にどう対処するか、できるかでその人の人格が決まるのではないか。そのためには経験も、勘も必要。例えば恋愛に積極的な人にはきっと負う傷を癒やす方法があるのだろう。というか自然と身に着けていくものなのかもしれない。もしかしたら麻痺してるのかもしれないが。人は持ち堪え得ることをだけしているとも言えると思う。わたしはその閾値が低いのだ。  何ごとに対しても「傷つくかもしれない」と怖がっているのでは話にならない。皿になにも盛らなければ、その人の料理を堪能することはできない。  傷つくのを避けて生きることで、わたしの精神はどんどんその痛みを耐え難いものにしてしまっている。どんどん打たれ弱くなっている。傷つくことを恐れるのが過剰だというのはその結果だと思う。普通の人には当たり前のことも恐れている有様。わたしは温室で育ってしまったのだ。  傷つくことは生きていくのに当たり前かもしれない。「死ぬこと以外かすり傷」という座右の銘を持つ人がある。そのくらい強く生きられたら良いのに。  わたしは痛みに慣れていない。ちょっとしたことで痛みを感じてしまう。過敏と言えるかもしれない。人は当たり前のように傷つく。そこでわたしは足掻いてない。受け入れてしまっている。  ほとんど自分ひとりと言っていいくらいの規模でしか生活していないのに、傷ついている。ひとりなのはさらに傷つくことを恐れているからだ。そしてその恐れが人に伝わるからだ。恐れを表している人間に人はどう接していいのかわからない。表しているのは他ならぬ自分。恐れたとしても、人にいらぬ心配をかけたり、気を使わせるのはわたしの本意ではない。表現しない工夫をす

人間を理解するということ

 なぜ人間を描きたいかといえば、人間を理解したいからだ。なぜ人間を理解したいかというと、人間は捉えようがなく不思議で、オモシロクも怖い存在だからかもしれない。人間の存在というものの興味深さにはなんだって敵わないとわたしは思う。わたしにとって人間は忌避すべきものであり、同時に愛情の対象でもある。愛憎入り交じっていて、わたしにはなんだかよくわからないのだ。  つまり現時点で捉えている人間というものについて、その解釈はどちらにでも振れうるということだと思う。わたしはどこまでも孤独になることもあれば、人の輪の中に入っていくことだってできるだろう。どちらでもいいと思っているし、どちらも正しいことだと思ってる。わたしはたぶん両方を知っている。  どこまでも思い通りにいかないのが人間で、だから面白い。一人ひとりの人間が何を考え、何に興味を持ち、何を言い、そしてどんな行動をするのか、わたくしには不可思議でまったくわからない。わたしが把握している人間などこの世にはいない。自分自身を含めても。  だから人が大勢いるところに行くと、意識して蓋をしてしまう。この人たち一人ひとりに家族がいて、興味のある某かがあって、誰かを愛していて、というようなことを考えると目がくらむ。  あるいは特定のひとをこういう人間であると決めつけた瞬間に、もう見失うものがある。人は良いことをした次の瞬間、悪を行う。こうであると固定できないのが人間で、いつも流動し捉えどころがない。わかった瞬間にもうわからなくなっている。  人間という深遠さをわたしは見て見ぬふりしている。大勢のひとを考えるときも、特定のひとについて思う時にも、わたしは目眩がするようだ。わたしには人間について理解しえないことが山ほどある。  人が行うこと、人が求めるもの、人という存在。  人という面白さ。  書くことで考え、人間理解を深めたいのだ。書くことでならいくらでも考えることができる。誰にも影響しない。誰にも邪魔されない。自分ひとりの世界でそうすることができる。人間理解に足りないところがあると思えば、人に読ませればたちどころに解るだろう。  人間にとって、人生の鍵を握るのはいつだって人間なのだ。人間を避けては通れない。人間のいない世界などない。なにごとも人間ありきで、人間なしにすべての思考も、芸術も、経済も、生活も、人生もない。

どう思われてもいいという思考

 自分をどう思われたいと思っているのか、考えてみたいと思う。わたしにとっての表現ってなんなんだろう。それを考えようと思ったきっかけは服装について考えたからだ。  最近よく逢う友達は、わたしと違ってとても服にこだわっている。本当に一緒にいるのが申し訳ないくらい。わたしは服にこだわりがないし、防暑防寒できたらそれでいいという感じなので、ほんとに"ひどい"格好なのだ。つまり、人にどう見られたって構わないということになる。見た目で判断するなとも思ってるだろうし、判断されたくないとも思ってるはず。それって本当に身勝手な考えだと思う。  人はどうあってもまず見た目で判断するし、中身は長いあいだ接してないとわからないことだから、どうでもいいということは多いだろう。体裁が大事だというのは大袈裟だけど、それでまず判断されることは多い。人にどう思われようが関係ないという思考は、かなり"ヤバい"。  つまりわたしは表現をそう捉えているということだ。表現したことを、どう思われてもいいと。一緒に遊んでる友達にどう思われてもいい。書いた文章を読んでる人にどう思われてもいい。つぶやきを読んだ人にどう思われてもいい。撮った写真を見た人にどう思われてもいい。潔いように見えるけど、実際にはそこに気を使っていないということでしかないと思う。自分を晒すことを善と思ってきた節があるけど、素材のまま出したって美味しくないし、オモシロクもない。味付けが必要である。  どこか投げやりに人にどう思われてもいいという感覚に蝕まれている。どう思われているかに気を張ることに慣れていない。そう意識し続けなければできないと思う。根底から自分というもののなにかを変えないとできないことだと思う。つまり「すべての振る舞い」「すべての表現」「すべての人に見えること」に気を巡らすということだ。それを自然にできるように習慣にすることはけっこう大変なことだと思う。意識の問題だけど、変にナルシスト的になるのは違うし、奇抜な格好、奇抜な表現、奇抜な発想をしたいというわけでもない。一見普通に見えるものの中に、この人はわかっているという何かがあるのが理想。わたしは普通の人でありたいし、あくまで平凡な人である。そのことに劣等感も全然ない。目立とうとか、よく見られたいというのであればこういう表現はしない

書くことはひとつの手段にすぎない

 わたしは文章で身を立てたいという自分をごまかしているのだと思う。誤魔化しているうちは成長もないし、先はない。「わたしも昔はブログをやってたんですよ」と言いたいだけなのだと思う。情熱を傾けられないのならやめるべき。時間の無駄。要は熱を入れる覚悟が定まっていないのだ。だからごまかす。言い訳する。  決められないのには理由があるはず。それを知りたい。たぶんわたしはどう在ってもいい人間のはず。何をしたとしても誰に迷惑がかかるというわけでもない。ただ腹を括れないというだけで、無為な時間を過ごしてる。  自分がどうしたいのかをきちんと逃げずに考えない限り、先はない。こうしたかったんだとあとから考えても、どうしようもないのだ。どうしたいのかを考えて行動しない限り、それが達成される可能性は本当に紛れもなくゼロである。  そうすることが(あるいはしないことが)いいことだと思っているのだと思う。億劫だっただけかもしれないし、何かまだネックがあるのかもしれない。わたしは文章を書くことで、どうしたいのだろう? どうなりたいのだろう?  「書きたい」ということを免罪符のようにしても、人が読んでくれるわけじゃない。自分に関係のあることかもしれないと思わなければ、人は読まない。  人に批判されるのが怖いのは、全力でやってないから。これ以上考えることができないというところまで尽くせたなら、どんな批判だって構わないと思えるはず。要は頭が足りないのだと思う。文句を言わせないつもりで書いてない。文章に対して誰にも何も言われないのは、わたしが本気であると感じさせない文章だから。  文章で人に評価されることが、それほどうれしいことでもないのかな。人に読んでもらえることが、そんなにうれしいことでもないってことなのかな。それって、本気で書いてないってことなんじゃないか。  ただ書ければいいと思ってる。そう思ってるだけのうちは、また同じことを言うだろうと思う。書くことのおざなりな回廊。  書くことは愉しい。でもそれだけでは、文章を書く資格は得られない。人が読んで意味のあるものを書かなくては、価値が無い。情熱を入れ込めないのなら、やったって仕方ない。すべてを書くことに向けよ。わたしにできる表現はこれしかないんだ。  形だけ整っていても仕方ない。破綻したってオモシロイほうがいい。感性を使っていな

クソリプについての一考察

 クソリプ送ってしまうのってなんなんだろな。わたしもときどきクソリプ送ってしまう。クソリプ使いかもしれない。  絡みたい気持ちだけが先走って、内容が追いついていないとクソリプに成ってしまうような気がする。コレ言うべきでもなかったなとか、ただ言いたいだけだったみたいな時、クソリプ感が増す。それに返信来たりすると罪悪感が半端じゃない。反省もするけど、けっきょく絡みたい気持ちはずっとあるからまたクソリプしちゃうんだよねー。  昨日までの話と関連するけど、距離感の問題って気がする。友達に対してだったらクソリプとは言わない気がするというか、成らないと思う。話しかけるべきでない人にどうでもいいちぐはぐな内容の話を振るからクソリプ感が半端ない感じになってしまうのだ。  たぶん絡んでることで満足してしまってて、内容はどうでもよくなってるんだろうな。相手が著名人だと尚更だけど、ネットだと著名でなくても望まないリプライというのはあるものだ。悲しいことだが。問題なのはやっぱり距離感なのだと思う。問題はその詰め方というか、接し方なのではないか。  わたしは人と親しくなるのがうまくないというか、人生において本能に任せる以外の方法を知らないで生きてきた。つまり、策を練って人と仲良くなったことがないということ。仲良くなった人はみんな、なんとなく親しくなった人ばかりで、意図して仲良くなった人って一人もいないと思う。なんとなく気があったとか、たまたま学校の席が近かったとか。友達や元恋人からしたら意図を持って近づいたんだよ! ということはあるのかもしれないけど、自分から計画したことってないな、と思う。だからとっても下手くそだと思う。どうしたらいいのかわからないのだ。  クソリプについて丹念に調べたわけでもないし、自分の感覚と知見でしか語ってないけど、たぶんそんなところじゃないの。  絡みたい気持ちってなんなんだろな。仲良くなりたいということなのか。人に認識されたいのか。それで一体どうしたいっていうのだろう。承認欲求みたいなものなのかな。でもそれって冷静に考えると迷惑な話だよなァと思うよ。いや、ほんとに。オナニーは布団の中でするべきと思う。  そんなに親しくもない人に認められたいとか、関わりたいという発想がそもそも間違っているのだと思う。じゃあ気になる人と親しくなるにはどうしたら良いんだー

人と人との距離感について その2

 「この世界には見えない人の環がある」というようなことをある映画の主人公は言ってた。あるところではうまくいく人も、またあるところではうまくいかなかったりする。なにがそれを決定しているのかはわたしにはよくわからないけれど、きっとなにかがあるのだろう。多くのところでうまくいく人格の人もいれば、限定された環でしか輝けない人もいる。  人にはそれぞれに良いところと欠点とあると思う。それをそれぞれに周りにいる人が見るか見ないかというだけなのか、いや、もっと奥深いかもしれない。きっと人と人は許したり許されたりしているのだろう。  人と仲良くするってのはどういうことなのか。ふとしたきっかけで気があったり、魂が惹かれ合っているとしか思えないような出会いがあったりする。共通の趣味や好きなものがあると仲良くなりやすいってのはわかるけど、どうもそれだけではないらしい。  ある準備のできている人は誰とでも仲良くなるし、閉じている人はそうでもないかもしれない。ひとは基本的には親切だ、とわたしは知っている。ある特定の条件で不都合なしになにか理由を持って出会うことができたなら、きっと誰とでも仲良くなれるだろうって気はする。ただその条件はよくわからないでいる。  縁と片付けてしまっていいかもしれないけど、簡単すぎるのでもう少し考えたい。  わたし達は人と出会った時、距離を取って何かを守ろうとしている。距離のとり方は丁寧語を使うとか、御座なりに扱うとか、塩対応するとか、人によって違うと思う。親しくなりすぎないようにしているし、距離を取ることで嫌われないようにしているのかもしれない。相手がどんな人間かわからないうちは様子をうかがっているのかも。無為に嫌われたり、あるいはその気もないのに親しくされたりすることが煩わしかったりするのだ。なにかの担保のない人と関わることが億劫になっている。  楽観的なわたしは人はふつう親切なものだといい、悲観的なわたしは自分を閉じていると決めてしまう。  誰とでも仲良くなれるかもしれないし、誰とも仲良くなれないかもしれない。その不思議をいま噛み締めていて、とてもおかしな気分。もう少しポップで愉快な方に振れていったらこの文章群を読む人も現れるのだろうけど、あいにくそうはいかない。いまの自分の気分としてはこの文体がちょうどいいんだ。  自分のことをどう捉えている

甘えることと人との距離感

 甘えることって難しくて、自分にはよくわかららないことも多いので考えてみたい。  わたしは一人っ子だからなのか、甘えるのがとても苦手、と思ってたけど、まぁ、甘える時は甘えてるのかなと思う。人生に対して甘いのと、人に甘えるのはちと違うのかなとも思う。自分に甘えてるという言い方もできる気がするけど。  わたしは自分に甘いのだと思うけど、人に甘えるのはあまりできないというか、どうやったら人に甘えられるのかよくわからないでいる。懐の入り方がよくわからない。わたしが人に甘えてるとしたら、意識的でなくて、無意識になので、とてもたちが悪いと思う。  無意識に人に甘えることを避けるのはとても難しい。相手を信頼している、気を許している、あるいは、舐めている、いろんな言い方ができると思うけど、なんだかまだ解釈として芯をついてないって感じする。甘えるというのは人との(あるいは自分との)関係だから、そこを見定めないと『甘えること』を理解したことにならないと思う。  甘えることが板についている人もある。ある種、厚かましいのかもしれない。懐に入るのがうまいというかさ。人に迷惑をかけることを躊躇なくできる人。うらやましい。甘えられるとうれしいという場合だってあるだろうし、一概には迷惑とはいえないのかな。でも、人に何か影響するってことだと思う。しかし、迷惑っていい方をするとわかりやすいかもしれない。なにかこぼしてしまうだろうか。  迷惑をかけるのを意識することもあるし、関係によっては迷惑を顧みないこともある。わたしは甘えるのも下手だし、迷惑をかけるのも下手だと思う。  人との距離感を測るのが下手なのかな。それはいろんな人格の人と関係を築いてこなかったからなのではないか。人のことを慮るのが下手なのかもしれない。要するに想像力が欠けているのだ。人を見る目がないし、人がどう思うかを考えることはわたしとって難しい。  甘える人は甘えていいかどうか逡巡せずに本能で甘えているようにみえる。さも当たり前であるかのように懐に入ってくる。距離の詰め方がうまいのかもしれない。そういう人に物を頼まれるのはあまり嫌な気持ちにならない。自然とそうする気持ちになっていることが多い。  気を使うことで距離を取っているのだろうけど、人と人との関係を、わたしは見誤っていることが多いのかもしれない。とりあえず距離を取

コミュニケーションの端にいる人。

 目の見えない人が、高い場所にいて怖がるだろうか。それと同じようなことが自分にも言えるんじゃないか。つまりしゃべれないことを自覚しないようにしている。しゃべれないことでおこりうる損害や恐怖を避けていると思う。目の見えない人が高いところにいることは危険なこともある。そういう危うさを、わたしは無意識に回避しようとしているのではないか。  ぼくは人間が本来的に親切だって知っているし、でも、そうでない人がいるってことも知っている。様々なバリエーションの中にいるってこともわかってる。ある親切な人が次の瞬間、悪人になることだってわかってるつもり。つまりそういうものなんだ、人間は。  だからこそ怖いなって思う。自分自身を含めて信じすぎるのも、信じなさすぎるのも。その中間で、うまく自分をコントロールできていない。どういう振る舞いを人に対してしたらいいのか、わからない。  謙虚に、礼儀正しくと言うのは基本だとは思うけど、というかそう教育されたんだと思うけど、そのことがどういう結果をもたらすのかの実感が無いと思う。というかそれで不便がなかったというだけにすぎない。尊大にいたこともあったし、それで痛い目にもあったんだろうけど、未だに自分を包括しきれていない。おとなになっていない。  しゃべれないところにいるから、見えてくるものがあるはず。人間関係とかコミュニケーションについて。わたしは常に高いところにいる、盲なのだと思う。そういう危うさを感じてしまってる。そしてその危うさを怖がってもいないのだ。無頓着であることが、怖い。想定していない怖さというか。先の見えない怖さ。未来もそりゃあ見えないし、でも、したいことはたくさんある。人並みにね。  目の見えない人には自分が高いところにいるかどうかもわからない。知識として知るだけだと思う。コミュニケーションに於いていまわたしがどこにいるのかというのを察するすべがない。下手をすれば落っこちていくのではないかという恐怖。どう振る舞ったらいいのかわからない。どうするのがわたしなのか。わたしらしいのか。『わたしらしさ』とはなんなのか。コミュニケーションとはなんなのか。人間とは。  いずれにせよコミュニケーションに於いてわたしは端にいると思ってる。だから見える地平もあるのではないか。目の見えない人だから感じることのできる視界というのもあるのではない

コミュニケーションに於いてわたしが抱えている問題について

 人と接してこなかった弊害なのか何なのか、わたしは人とコミュニケーション取ることの対処や対応を間違っているんじゃないかと思ったりする。どうも、うまくいってないし、不満に思うこともある。不満に思うということは欲求があるということなのだけど。そこのところで人と噛み合えていないって思う。  ものすごく人としゃべりたい、コミュニケーション取りたいときもあれば、そんな気分にならなくてスルーしてしまうときだってある。自分がされてつらいことを人にするのかって思うけど、そういう時、情緒とか人情とか、そういう気分は消え去っている。とにかく、いまはあんたと話す気にならんのじゃ!という感じなのかな。基本的には一人でいるし、誰かとコミュニケーション取っていたいという方だと思うけど。どう人と関わっていったらいいのかわからないでいる。  ネットでのコミュニケーションは難しいというか、コミュニケーションがそもそもわたしにとって難しいのかもしれない。そういう質なのかもしれない。  昔はよく女の子に、なんで話しかけてくれないの? って言われてたな。自分としては話しかける気がしなければ話しかけないし、気まずいとも全然思わないので、どうでもいいことが多いのだけど、面と向かうと待つ側に回る女の人は多いのかなと思う。そうするとまぁ、うまくいかないというか、それだけで嫌われてしまって、損だなぁと。そもそも、わたしの方からしゃべりかけないでオーラを出していた可能性も否定できないけど。  コミュニケーションを学んでいくべきなんだと思う。一つ一つ潰していく感じかな。でも、興味を持てないと難しい。美人だったりかわいかったり自分に自信のある人ほど、待つ傾向にあるというか、待つまでもなく話しかけられるんだろうなーとは想像してる。わたしはあんまりそういうことで人に興味持つ方じゃないので。  最近は友達と筆談することも多いのだけど、結構不自由なくできている、と思いたい。意思の疎通はできている。元から友達がよくしゃべってるような関係だったから。いろんなことわかってるしね。人柄とか。そういう人とはコミュニケーション取りやすい。無言もたぶん苦でないし、そもそも無言にはならないのだけど。話すことが楽しい。  さんざんチャットしたいチャットしたい言ってたけど、面と向かって友だちと話すのは楽しいな、と思う。たぶんそういうこ

わたしには励ましたい人がいる。

 わたしには励ましたい人がいる。正確には励ましたい人たちだ。友人だってあるし、自分自身だって励ましたい。励ましたい人がいるということが今のわたしには誇らしい。本当に孤独だったときを通過しているからそう思うのだと思う。わたしには人を信じることができなかった。それは、そういう病気だったから。  どうやったらエールを贈れるのだろう。たぶんいろんな方法がある。降っても晴れてもいつも変わらずにその人たちにわたしの存在を感じさせることが大事なのではないか。いつでも味方だと思ってもらい続けること。  なにも特別なことをするんじゃなくて、ただ居るだけ。わたしはつまらない存在だし、なにもできないのだけど、できるのは存在を感じさせることくらいなのではないか。この人はいつもそばに居てくれる人だ、どんな自分も受け入れてくれる人だという感触を、与え続けたい。  くだらない話も、何気ない話も、ノープレッシャーでできる関係というのは貴重だとわたしは思う。笑いたい時に笑えばいいし、泣きたい時には泣けばいい。つらい時もあるだろうし、楽しい時だってあるだろう。あって欲しい。  ここに書いてあることは、わたしがわたし自身にも思っていることだと思う。つまり、わたし自身がいつだって自分の味方であるべきだ。わたしはそうできなかった。だから人を信じることができなかったのだと思う。問題はあくまで自分の裡にあったのだ。  誰かの敵に回ること、それは自分自身さえも引き裂くこと。自分の気持ちをどこか裏切ることになる。敵意や信頼しない気持ちは、あまり良いものを生まないとわたしは思う。なにかするだけの根拠がきっと人にはある。そのことを忘れないで欲しい。その根拠を知ることができなくても、何かあるはずなのだと察すること。許すことができれば、たぶん、人は完成する。  励ましたい人がある。とても大切な人たち。人の応援をする前に自分が頑張れよと思うかもしれない。だけど、大切な人を励ますことは自分への激励にもなる。励ました手前、自分だって頑張れるはず。そばにいる人は自分の鏡なんだ。鏡は磨かなければ、用を足さない。ただ居るだけの人になってはいけない。その存在こそがありがたいと思う人格を持っていたい。

価値を見出すこと、価値を高めること

 どのようにして人はいろんなことの価値を決めているのだろうか。それがわかるといろんなことをうまく運べると思う。誘惑にも負けないし、気の迷いも防げるかもしれない。社会にとって価値のある物を造ったり、価値のある人間になることを人は求めてるんじゃないか。  なんでそんなこと考えようと思ったのかというと、とにかくお金を使ってしまうから。使うからにはそれに価値を見出しているのだろうけど、なにに拠ってそれに価値があると考えたのかということに、意識的になりたいのだ。それがわかれば、本当に必要なものにだけお金を払うことができるはずだから。  あるいは、自分という人間の価値を見定めることにも役に立つだろうと思う。学歴や職歴や収入ではかるのも一つの方法だと思うし、人柄とか人格とか人間にはいろんな要素がある。自分というものを知るためには、価値というファクターに目を向けるのも良いかもしれない。自分の技術の価値を高めることにも繋がるはず。 ***  誰かが褒めていることにあまり惑わされない質だと思ってきたけど、どうもそうでもないな、と思ったりする。わたしはかなりいろんな人の影響を受けて生きている。認めている人というわけでもなく、なんとなくSNSで流れてきた情報に惑わされたりもする。それによって本を買ったりCDを買ったりしているわけだけど、その字面というか物言い、表現の仕方に影響されているのかなと思う。というとブランディングの話になりそうだけど、この話はそういう話でもある。たぶん自分の中にツボがあって、こういう言い方に弱いみたいなことがあるんじゃないか。  それから限られた貯金の中から今月はこれを買おうと決める場合、価値を比較することになる。あるものは買うけどあるものは買わない。その線引きをどこでしているのだろう。買う価値と買わない価値はどう違うんだろう。  どんどん買って勉強していくんだ、経験なんだという言い方もできるかもしれないけど、経験を溜めている感じはしない。いつも間違っているような気になる。いつだって無配慮に、安易に、簡単に選んでいる。  自分の基準のものさしを持っていない場合、やっぱり他人に依存しているのだ。人が良いと言うことによって自分内評価が上がり、意識することなしに自分が選んだつもりで手にしているのではないか。  必要なものだという根拠を得るために、例えばCD

正気じゃない、ぼくら

 10代の俺も20代のぼくも、今のわたしも正気とは思えない。何も自分が特別だと言いたいんじゃなくて、きっと誰もがそうだろう。自分は正気ではずっとなかった。  俺は恋に応えなかった。ぼくはひたすら病気だった。わたしはなにやってんだろう。俺は勉強が好きだった。ぼくはお金を稼ぐのが好きだった。わたしはお金を使うのが好きだ。  みんなどこか正気でなくて、みんなどこかで狂ってる。だらしないときもあれば、しっかりしてるときもある。何かに必死なときもあれば、気の抜けた甘ったるいサイダーみたいなときもある。何かに感動して心動かされたり、人とうまくいかなかったり人生はいろいろだ。  人はふつうみんな親切で、親切でないとしたら何か理由があるのだ。その理由が解るときもあれば解らないときもある。理不尽に感じるとしたら解らないからで、絶対に何かある。すべての人に対して何かあるはずだと思えたら、きっと人間関係はうまくいく。探ろうってんじゃなくて、在ることを察すればいいのだと思う。街やSNSですれ違った人に親切にする、しないも、きっと安易なことでしかない。正気でないと思うのなら、この人はそうせざるを得ない何かを持った人なのだという風に考える。わたしだって何かを持っているし、俺だってそうだった。たぶんぼくだって。  自分というものをいつだって見誤っている。俺は熱心で『正気でなかった』。ぼくは我を失って『正気でなかった』。わたしはもぬけの殻で『正気でない』。いったい人生のいつ『正気になる』というのか。熱心になることをわたしは恐れてる。我を失うことを、抜け殻になることを怖がっている。  きっと見えない手がわたし(達)を振り回している。きっかけはいつも不意に訪れてコントロール不能なのだ。なんだか知らないけど熱くなる、なんだか知らないけど病気になった、そして抜け殻。  どこかに向かっているはずなのに、どこにも向かっていない気になってくる。幸福に向かってる? 否。死に向かってる? 否。わたし達の道はいつも狂っていて、わたし達は正気でない。正気でないまま生きてきた。正気でないまま何処かへ行くんだ、きっと。  正気でないから自分の存在価値を秤りかねてる。自分の価値をどうやって増していけば良いのかわからない。そうだとしても何をしたってどこかに向かうはず。時間はいつだって流れてるのだから。神の見えざる

言葉にして、人に伝えるということ。

 とりあえず言葉にしなければ伝わることはない。だから人間は面白い。誤解されたり変に勘ぐったり。わたしはシンプルな方が好き。愛してるならそう真っ向から言いたいし、駄目になってしまったのなら、そう言ってしまいたい。なぁなぁでいるのはつらいから。誤解も勘ぐるのも少ない方が良いって思う。でも、どうしてもそうなってしまう。  伝わること、伝わらないこと。言葉にしきれないこと。不充分な言葉。曖昧な言葉。恥ずかしい言葉。伝えたいのにモドカシイ気持ち。逡巡するから人は面白いのだと思う。  言葉として表現すること。表現するだけではなくて、伝わるようにきちんと表現すること。伝わらなくては、表現するということの価値はない。完全に自分の思った意図の通りに人に伝えることって、我々にできるのだろうか。どこまでも齟齬はある気がするし、親しい人同士で会話する時は補完しあっているような気がする。つまりこの人はこういう人だからこういう意味で行ったのだと勘ぐって考える。何か意図があるのだろうな、とか。何かお互いに勘違いしているのではないかとか。深く理解しようと試みるときもあれば、流すときもあるのでは。そういう面白さもあると思う。  『そこで齟齬があっても失われない何かこそ愛おしい。』とわたしは思う。  わたしは、しゃべれないことで相対した人に甘えているのだと思う。障害のためにできないことがある、だから無理強いしないでくれ、とか。コミュニケーションを最初から放棄している。それって、人としてどうなんだろう。  今のわたしにはうまく対応できないことの苛立ちがある。反応速度の問題ではなく、そもそもあるかないかの問題なのだと思う。しゃべれないとしても、なにかやりようはあるはず。気心がしれている中だからこそ気をつけるべきだし、知らない人ならなおさら。  自分にだからできるコミュニケーションがあるのではないか。チャットのことを散々書いたけど、それもその一つだと思う。  伝えることの難しさ。わたしは頭が悪い。考えを尽くしていない。自分勝手に生きていたのではいっしょう有意義なコミュニケーションなんてできない。自分にだってできることがあるはず。それを考えないことには始まらない。あがけ。