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11月, 2017の投稿を表示しています

どうして僕から離れていくときはそんなに可愛いの

 寝ぼけた君は、こんなことを言ってきた。 「どうして僕から離れていくときはそんなに可愛いの」  恋人を自分のものにしていたい人にとって、少しでもその人から離れることはたぶん、苦痛なんだろう。それも、こんな、かわいくおめかしなんかして自分の元を離れてく、ってことは。出かけた先で何かあるのかもしれない、と不安なのかもしれない。  家を出るときには化粧をするというような当たり前のことだって、寝ぼけた人には通用しない。ただ、めかし込んだ恋人が自分の元を離れていってしまう、という事実だけが、寝ぼけ眼を刺激しているというに過ぎない。 「あら? あなたといるときは可愛くないのかしらん?」 イジワルして言う私。 「そんなことないけど。でも、今の方がステキ」 「あらそう。ありがとう」  いつもステキであって欲しいという気持ちが現れている言葉に、私はなんだか嬉しくなった。なんだか自分を認められたような気がして。一緒に暮らす彼とはもう長い。だから、いろんな面を見せている。それでも私のことを魅力的だと思ってくれているのだ、という感触。そして、私を失うことを恐れてくれているのかもしれない。そんなに深く考えていないかもしれないけれど、というか全然見当違いのことを私は考えているのかもしれない。そんなことを考えてるうちに時間になった。  ただ、離れていくときに可愛くしていく人を不思議に思っているというだけに過ぎないのかもしれない。そこに僕はいないのに、なんでそんなにめかしこむの、と駄々をコネていたのかも。  いや、もっと、素朴な疑問だったのかもしれない。彼の中から化粧をするという社会的行為の概念がすっぽり抜け落ちてしまっている。寝ぼけた人間は厄介で、かわいい。そんなことを言ったことだって、きっと明日には覚えていないだろう。  まぁいいや。いろんな優越感を抱えたまま、私はアパートを出たのだった。

最近のこと

 今日は趣向を変えて掌編ではなくて、近頃のことを書こうと思う。  私が普通に喋れるようになった途端に父が糖尿で入院してしまって、大変忙しい日々を送りつつ、直近のこと、ちょっと将来のこと、さらに将来のことを具体的に考えつつある。とにかく今のことをやっていくことでしかないけど、まぁ展望もなんとなく見据えつつ。近眼的になりがちなので大局観を持ちたい。とにかく視野の狭くなる恐怖は持ち続けないと。集中すると周りが途端に見えなくなってしまうのだ。それは良いことともなりうるし、そうでもなくなることもある。  なんで喋れなかったのかわからないくらいに普通に喋れるようになった。滑舌は少し悪いけど、喋れないよりはぜんぜんまし。喋れないということを思うと、いろんなことが不思議になる。恥ずかしいとか遠慮しているとか引っ込み思案とか、そんなことではなくて、本当に喋れなかったのだ。こうしている今だって、なんで喋れなかったのか、わからない。ただ病気だったということなのだろう。  病気のことをどう捉えたらいいのかわからなかったけど、言い訳に使うのは止そうと思ってる。でも、今の自分をどう人に説明したらいいのかわからない。病気だったのだ、というのが一番手っ取り早いし、嘘がない。何もしてこなかったことの担保にもなる。そう言ったら同情だって買いやすいだろう。心配もされるだろう。そして見放されるのだろう。  言い訳にはしないけど、うまく自分を説明する言葉をまだ獲得していない。折り合いもついていない。なんとかやっていくのだろう。たぶん、心配には及ばない。自分の責任は自分で取る。  文章に納得いかないことが増えたけど、自分を絞り込んで考えていくことでしかない。どれだけのめりこめるか、深く考えられるかだ。全ては。そこを怠った瞬間に、地獄を見る。粘り強くやっていく。  もし期待があるのなら応えたい。私は人を楽しませることが好きだ。できたら文章でそれができたらいいと思ってる。文章でならできるだろうと思っている。  先はまだ見えない。なんとかなるかもしれないし、なんともならないかもしれない。知るべきこと、学ぶべきことは山のようにある。一つひとつだ。一歩いっぽだ。先は永い。

好機を感じるということ

ラジオで偶然かかった曲。 図書館でたまたま見つけた本。 ぶつかった子どもら。 朝日が綺麗だったこと。 ***  いろんなことが日々僕の身に起こるけれど、なにがきっかけでどうなるかなんてわからない。それらのすべてが偶然とは言い切れず、しかしなにかを感じるには信心深すぎる。そういうことを虫の知らせと昔の人は言った。そういうことってあるのかもしれない。なにかが私にメッセージを送ってる、なんて妄想を誦える病気があるけれど、僕はそんなんじゃない、と言っておこう。この世界にはどう考えても目に映るすべてのことがなにかの思し召しとしか思えないことが起こったりするのだ。流れがある。昨日から今日にかけて、そんな日だった。  ラジオにかかった曲を漠然と聞いてた。90sの特集らしい。そこから流れてくる音のなにもかもが懐かしい。過去をあまり振り返る方でもないのだけど、こんな曲が流れたら考えてしまう。曲に張り付いた思い出が鮮やかによみがえる。ふと思い出すことが、今に通じてると気がついた。あの時のことがあったから、今があるんだと。この曲を聴かなかったら、そんな発想にはならなかったろう。あの時の失敗があったから今があるのだ。あの時には間違ったと思っていたけど、そんなこともなかったのかもしれない。  図書館に行くと、いつもは予約した本を受け取ってすぐに帰る。のだけど、今日はなんとなく本棚を眺めていた。そこで見つけた本。なんとなく惹かれた本。手に取ってしまった本。こういうことがあるから、時たま、本棚を眺めたくなる。必要な時に必要なものに目が止まる。半自動にそこにある。求めているものはいつだってそこにあるのに、気がつかないのはこっちなのだ。セレンディピティを鍛える方法があるのなら、知りたいものだ。  道を歩いていると、公園から飛び出してきた子どもらとぶつかってしまった。私もぼーっとしていたし、子どもらも必死に走っていたようだ。「おぉ!」と思う間も無く私が行くはずだった交差点で車が暴走してきた。子どもらと出会わなかったら、私はどうなっていたか、わかりゃあしない。ぼーっとしていても幸運が降ってくることがあるのだ。  朝起きて、大抵は散歩に行く。旭日の出るタイミングを見計らって。季節ごとにタイミングを計って外に出る。今朝はそれがとても綺麗だった。いつになく。こんな日は一年に一度だってお目にか

ちいさい頃

「じいじもご本を読むの?」 「ん? うん、そうだね」 「かめんらいだー?」 「いや、俺は仮面ライダーは読まないな」 「じゃあなにをよんだの」 「俺も小さい頃には本を読んだよ」 「じいじもちいさいころがあったの」 「そうだよ」 「なによんでたの」 「うんと昔のことだから忘れちゃったよ」 「ふーん。ボクがうまれるまえ?」 「そうだね、うんと前。君のパパとママが生まれるより前だよ」 「パパとママにもちいさいころがあったの」 「そうだよ。みんな小さい頃があったんだよ」 「イイモノにも? ワルモノにも?」 「そうだよ」 「かめんらいだーにも?」 「そうだよ」 「じいじはちいさいころなんさいだった?」 「んー、、君は今いくつだ」 「4さいだよ」 「じいじも四歳の頃があったよ」 「かめんらいだー?」 「仮面ライダーはなかったなぁ」 「じゃあなにがあったの」 「ん、いろんなのがあったぞ。なんでもあったぞ」 「みんなちいさいころがあったの? ぜったい?」 「そうだな。小さい頃がない人間はいないんだよ」 「ちいさいころはみんなおなじなの?」 「いや、みんな違うよ。俺の時は俺の時。パパの時はパパの時。君の時は君の時」 「じゃあ、いつがいちばんいいの」 「うーん、それぞれにそれぞれがいいんだよ。どっちがいいってことはないんだよ」 「ふーん。ちいさいころ、たのしかった?」 「そうだなぁ。楽しかったな。でも大人の方が楽しいぞ」 「ふーん。」

ブックデザイン勉強会に行ってきた

 装幀というものにずっと関心があって、いわゆるブックデザインなのだけど、学生の頃からできたらやってみたいと思ってた。その勉強会があるとのことで、今日はそこに行ってきた。  学生の時には、書店バイトで見つけた変な本を収集していた。装幀家さんの名前にも明るかった。そのバイト先は美大系の人が多かったのだけど、そういう人の会話に加われるくらいには。  今日は、参加者の人があらかじめ造ってきた表紙の講評から。先生の装幀した本を見たら一目瞭然だけれど、文字にすごくこだわりがある先生の講評なので、文字についての指摘が大部分だった。違う書体を使わないこと(明朝なら明朝一種類だけ)とか、文字を要素ごとにブロックとしてデザインするとか。基本的なことを学べてよかった。そういうことがわかっていなければ、そこからの逸脱も不自然なものになってしまうのだと思う。  最後に講評を受けた方の装幀が特に素晴らしかった。かっこいい本。こういうのが自在に造れたら楽しいだろうな、と思う。  文字詰めから始まって、文字のデザインは奥が深いなぁと思う。ちょっとしたことで読む印象を深く操作できる。パッと手に取りたくなるデザインというのがあるのだと思う。なんでいま俺はこれを手に取ったのだろうって。なんとかなく惹かれるというか。ベタ組みではつまらないし、実際読みにくいし、印象には残らない。そこの機微を知りたかったけど、むつかしいなと思う。経験というか、その場その場の状況で臨機応変にやっていくものなのかもしれない。基本的なことは学べたので、自分でも今晩少しやってみる。  これまでにも自分で自分のものをデザインのようなことをする時には詰めたりしていたのだけど、やっぱり、プロは違うな、と。まだまだ全然甘かったのだけど、やってやれないことでもないはず、とも思ってるし、挑戦したい気持ちもある。というかやる。  懇親会で、装幀家として食っていくのはこれからはきついだろうと。今までもきつかったけど、より一層だと。装幀一本で食っていくのは難しい。何か他にもできることがあれば目はあるかもしれない。考える。というか、やっぱり、本に関わる仕事がしたいんだなぁと思う。装幀に限らずね。  現状、将来について路頭に迷っている。いろんなことが遅すぎた。でも、まだやれない訳じゃないと思う。活路を見出せるとしたら、自分がしたことにだけ。

月に住むひと

「そろそろ月に帰ろうかしら」 「へ? 君は月から来たのか」 「そうよ? 知らなかったの」 「初耳。もう帰るのか。置いてかないで」 「あなたも来る? けっこう良いところよ」 「じゃあお言葉に甘えて」  その日、初めて彼女の家に行ったのだった。そらには月が輝いてた。そのことには二人とも触れずに、家までの路を黙って歩いた。彼女の家は月みたいだった。宙の月より月であった。 「ここよ」 「月ですね」 「そうよ? 良いでしょ」 「ふーん」 「中入ってくでしょ?」 「じゃあお言葉に甘えて」  今日はデートだった。3回目の。まさか家に行くとは思ってなくて、気の抜いた靴下を履いて来てしまったのが悔やまれる。月の主はお茶を淹れてくれている。あまりじろじろ部屋を見ないようにしようとするも、つい見てしまう。こんな部屋に住んでるんだ。 「素敵なところだね」 「そうでしょ。月っていうだけあるでしょ?」 「うーん、これは紛うことなく月だ」 「ところで。キッスしていいかしら」 「月だもの。いいよ。こっちに来て」  ……。いつの間にか、朝になっていた。月の輝きは失せていた。朝に見える月が青白く薄く見えるように、この家はなんだか違って見えた。夜の輝きをうしなって、でもなおその存在は、確かに在る。この家もひと月に一度くらい隠れてしまうのだろうか。  月に住むのは、ウサギでも蟹でもなく、愛おしいケダモノだった。  彼女とデートすると、彼女は「月に帰るわ」という。その度に僕はついて行って、セックスした。彼女はケダモノになり、僕は獣になった。  月での日々を、ときどき思い出す。この人とずっと一緒にいられたらと思っても、そううまくはいかないものだ。今も『月』はあそこにあるんだろうか。あの眩しい輝きを、ときどき思い出す。あれは、良いものだった。

友への手紙

 君が頑張ってきたことを、僕はほとんど知らないけれど。  君が頑張ってきたことを、君は絶対知っているはず。  君がなにかを賭していたことを、僕はなんとなく知っているけど、うまく君を励ませそうにない。きっとこれからも君にも僕にも困難はあるだろうし、うまくいかないこともあるだろう。自分の思い通りにならないことも、運命に翻弄されることもあるだろう。だけど、自分にできることをできる限りすることでしかないのだと、僕は思うよ。人をコントロールしようったって、大抵はうまくいかないものだし、当てにもならない。とにかく準備を十分にして、自分を追い込んでいくことでしかない。  君のしたいことを、していくがいい。  僕は自分のしたいことをようやくできそうなところまできたさ。これから、自分がどんなもんなのか、やっていくうちにわかるだろう。努力は惜しまないし、僕が気を抜いたら、言ってほしい。僕はすぐに手を抜くから。これまでにない努力ができると、自分を信じている。  拓けるかどうかもわからない。人に認められるかどうかもわからない。食っていけないかもしれない。でも、なんとか生きていかなくてはならない。どんな形だとしても。  いつまでも這いつくばっているわけにもいかないし、いつまでも自由にできるとも限らない。でも、いつまでもそうしていたいと思ってる。それがいつまで適うかはわからないけど、いつか叶うといい。  俺にはなんの野心もないし、野望もないけれど、でも、なんとなく生きているってわけでもない。どこかには向かっているはずで、それは君だって同じだろう。生きている限り、どこかへ向かっているだろう。  自分の望みを叶えた人にも叶えられなかった人にも、お金持ちにも貧乏人にも、友達が多くても少なくても、死は必ず訪れる。必ず。  死ぬ瞬間に、生き切った、と呟いて死ねたらいい。それが一年後か五十年後かはわからないけれど、そういう日は来るのだ。その日までをどう迎えるか、悔いなく迎えられたら本望だ。あー、幸せだった、と死にたいものだ。  君がしてきたことを、君の全てを、僕は知っているわけじゃないけれど。  僕は君のことを、少しは知っているはず。  君も僕のことを、少しは知っているはず。  だから。  僕が生きる依り代の一部であってほしい。君がいるから、僕はやっていける。君を裏切らないため

やるということ

 「君はそうしたいって言ってたけど、実際には何もしていないじゃない。なんで?」「……準備できてないから」「ふーん、それはいつできるの?」「そのうちに」「今そうしてるうちにできたんじゃないの、本当にそれをやる気あるのか疑問だよ」「やる気はあるよ。ただ今じゃないだけ」「その今はいつ来るのさ」  そう私が言うと彼は走って行ってしまった。大見得を切ってもやらない人間のことなど私にはどうでもいいことだ。それが息子だとしても。それが彼の人生である。できないとただ嘆いているだけなのか、実際にそれに向かって足掻いているのかは、見たらわかることだ。彼の生活には足掻いてるという素振りなどなかった。ただそうしたいと言っているだけで、それができるほどこの世は甘くない。そう言うことが見栄であるということもわかる。そして、彼にはおそらく無理だろう。ここで逃げている彼には、自分のやりたいことをやりきる胆力もないのだ。それが彼の人生である。  彼は明らかに私を避けるようになった。しかし、そこで避けているのは私ではなく、ただ自分のやりたいことなのだ。ふっかけてくる私から逃げるということは、自分のしたいことから逃げるということなのだ。「俺から逃げてもできないことができるようになるわけじゃないぜ」「……。」「やりたくない人間はやれない理由を探すものだよ。煽ってくる人間を遠ざけるし、どこまでも逃げるものだ」「……。」「君がやりたいなら、協力できるだろう。やらないならこのまま、自分のしたいことをできないまま人生を過ごしていたらいい。お前の人生は、俺の人生ではない」「やりたくないわけじゃないよ。ただ今じゃないだけ。今は忙しいし、準備ができていないから」「だから、その準備はいつできるの? 忙しくないときはいつ来るのさ。疲れていない時などないのだよ、人生には。いつだってお前は疲れているし、忙しい。黙っていて準備が整うわけでもない」「今すぐにやれってこと?」「やる気になっているときにしか人はやろうと思わないものだ。今この話題になって、ソファにふんぞり返っている人になら、できるんじゃないかと思うんだけど」「でも、疲れてるし……」「好機を待っていても、そんなものは一生訪れやしないよ。思ったなら、やるべきだ。やり続けるべきだ。そこに到達するまで。そうしない限り、できないことはできるようにはならないし、準備が整うことも

 僕たちは『箱』を介在させている。それでつながっているフリをしてる。日々。そこにはいろんなことがあるようで、何もないのかもしれない。会ったこともない人と、何かがつながっているような気になっている。日々。『箱』がなければそれは成り立たず、それを失った瞬間に、僕はいろんなものを失うわけだけど、それが人生の全てってわけでもない。でも、僕の一部であることは確かだ。  今夜も、あの人はそこにいるようで、いないようで。ときどき現れてはまた消えて。言葉や写真を表しては、いるようないないような。ときどき言葉を交わす。そうやって人とつながっているフリをしている、僕たちは。日々。  そこにはなんの繋がりもないはずなのに、なんだか親和しているような錯覚を覚えてる。その人たちは僕が危うくても不安でもたぶん力にはなってくれない。日々。そうとわかってるのに、僕はあの人たちに依存している。それはよくないことなのかもしれない。  ここに生きているという感覚を失っている。楽しければいいのだろうか。時間が埋まりさえすればいいのだろうか。気をふっと抜けたらそれでいいのだろうか。そういうことに人を使ってしまっているように思ったりする。  ただ僕は人とコミュニケーションを取りたいというだけで。そうやって寂しさを紛らわせてるだけで。人が呟いているのを見るだけで、言葉を見るだけで、写真を見るだけで、僕の中の何かが紛れている、ような気になってくる。そこに人がいるかもしれないというそれだけなのだ。その人が僕を思ってくれるわけでも、気にかけてくれるわけでも、ない。日々。なんでもない、日々。  身のあることをしなくてはならないのはわかってる、つもり。でも、実感としていま、そういう感触は全然ない。実体がない。  『箱』を介在させて、僕は独りをごまかしている。そこにはごまかしきれない何かがきっと在って、僕を苛む。どうしようもない淀みが溜まってる。鬱屈は晴れず、生は日々短くなってゆく。  人生をどうしたいのか、親身にならないと。このままで良いのだろうか。圧倒的に足りないことがある。できないこともある。やるべきことをやっているだろうか。やる前から諦めていやしないか。  少しずつ、一歩いっぽだ。日々だ。

ある恋のはなし

 出会ってすぐに想いを告げられたけれど、ボクにはそんな気は全然なかった。よく知りもしない人と付き合う癖はボクにはなかったのだ。昔から、付き合うまでにとても時間がかかる。相手のことをよく知りたいし、知ってからでないと、お話にならない。  その後、彼女を意識しなかったと言ったら嘘になる。想いを知ってる人と、一緒にいるのはなんとなく気まずかったし、なんとなく、自分が強い立場になってしまうのが嫌だった。でも距離を取るでもなく、普通に接するようにしていた。  出会って3年後にその娘と付き合った。ボクの方から、そう申し込んだ。あなたにまだその気持ちがあるのなら、ボクのそばにいて欲しいと。あなたが必要だと。  ふたりとも一人っ子だったことを意識しなかったわけじゃない。ボクはまだ若かったけれど、彼女はボクより11歳も年上だったから。彼女だって意識していたはず。二十歳過ぎたら年なんて関係ないのよ、と言ってた。お互い一人っ子とだとわかったのは、よく話すようになってからだ。そうなってくると、考えることを考えてしまう。  年上だから敬遠してたわけでもないし、顔の好みもボクにはどうでもよかった。ただ『よく知らない』ということだけだった。縁あって出会ったボクらだったけれど、それが繋がるのには、何年もかかったのだ。それでも関係が壊れなくてよかった。  出会って3年後に付き合ったきっかけ? 彼女とは職場で出会ったんだけど、彼女が辞めることになったから。そうなったら、なんだか突然に寂しくなったんだ。彼女でなければならなかった。そばにいて欲しかったから。彼女でなければダメだったんだ、とその時に気がついた。  その後、結局は別れることになるわけだけど、歳の差も、一人っ子であることも、関係なかった。なんか、ダメになってしまった。そういうことって、あるでしょう? 歯車が一つずれると、全部が狂ってしまう。関係なかったと思ってるのはボクだけで、彼女はやっぱり、意識していたのかもしれないけど。  それ以来、恋愛ってボクはしていない。出会いがないこともあるけれど、なんとなく簡単には恋愛できない年齢になってしまった。また恋愛するのには、時間がかかるだろう。恋愛で動くものが、自分の中にはある。そう知っているから、また動けるだろうと思ってる。

煩悶

──あの人、あの時、こんなこと言ってたわ。君のことを本当に愛してるのか、今の僕には解らない、って。これどういう意味? 愛してるかどうか解らないことなんてあるの?  ──僕にはあるよ、この人を本当に愛してるんだろうか、って。愛されてるから、愛さなくてはならないんじゃないかって、強迫観念みたいに思ってしまうことが。好かれると、自分も好きにならないといけない、みたいに思ってしまう。 ──そうなのかしら。私は真っ当に愛の表明をしてただけなんだけど、それってマズいことだったのかしらね ──そんなこともないけど、とにかく、好かれると好きになりやすいものだよ。振り向かなくても良いからずっと好きでいて良いですか? とか言われると男はコロッといっちゃうもんだよ。気にしないようにしても、気にしてしまうものだよ。どんなにその人が自分のことを知らないとわかっていても、自分がその人のことを知らなくても ──あー、それをナチュラルにやっちゃうのが、オンナってもんよね。態度でわかるもの、この娘あの人のこと好きなのね、って。目の輝きが違うわ ──態度だけで自分のこと好きだろうって感づく男はそうはいないと思うけど、そういう噂が周りまわって自分のところまで来た時にはもう落ちてるよ、大抵は ──ふーん。あの人も、そうだったのかしらね。私はストレートだったから。迷惑かけたのね ──迷惑ってことはないと思うけど。でも、愛してるかどうか解らないなんて、素敵ですね。その煩悶うらやましいな。 ──それが最後だったのよ、あの人とは。それきりよ。結局、愛してないことにしたのよね、きっと。 ──そう、かもしれません。でもそうじゃない理由で身を引いたのかも。自分の病気のこと知ってたとか。そういうこと、ないですか。 ──……。わかんないわ、もう、今となってはね。お別れよ。何もかも。

赦してほしい

 どうすれば、赦してくれる。何をしたら、何をしても、僕のことを君は赦してくれないだろ。欲しいものがあるってわけじゃないだろ。わがままじゃないってこともわかる。意固地になった君を溶かすものはなんなの。君の気に入りそうなこと探しても、どれも適わないって気がする。そういうことじゃないのだろ。  愛してるさ。  でも、それだけでもないのだろ。身体で示す。心で示す。それでも足りないのだろ。君はきっと赦さない。そんな気がしてる。  君はこのことの復讐を、君が幸せになることだ、と思ってるだろ。それでいいよ。君が幸せなら。僕はそれでうれしいさ。赦されなくてもいいのかもしれない。それはこっちの問題だから。ただ僕がすっきりしないってだけだろ。君が幸せならそれでいい。  振り向いて欲しいわけでもないし、君を奪いたい夜でもない。ただ君を幸せに『したかった』。でもそうはできず、僕はなんだか恨まれているような気になってる。  僕を赦して。君を愛せなかった僕を。  僕は自分だって愛せなかった。君はもう今は僕を愛してはいない。それはわかってた。そんな気がしてた。ただ恋に恋してる君に振り回されて。僕たちはもうメチャクチャで。自分を愛してない自分を基に、人に愛されるなんてできなかった。だから。  だから、僕は自分と同じように、君を愛さなかった。愛せなかった。そのことを詫びたい。かといってもう何ができるというわけでもないけれど。赦してくれるなら、きっと、何かが僕の中で晴れるだろう。天晴(あっぱれ)さ。  君と僕はもう関係なく生きていて、君はきっと幸せで、僕はたぶん不幸せで。これで君の復讐は成っている。だから。  だから、僕をもう赦して。僕を解放して。僕の中の君にそう言いたい。止まった時は、きっとこのまま動き出さない。そうさせているのはたぶん僕自身で。僕の中の君で。  きっと、君の海の中にずっといたいのだろう。君を想っていれば、幸せな気がするから。だから。  だから、僕は一人でいたんだ。そんな呪い。君はもう今の僕のことなんて知りはしないだろ。僕の中の君がそうしてる。もういいだろ。だから。

誠実であること

 ありがたいことに、意見をくれる人というのがときどきいてくださる。自分から意見をして欲しいと頼むこともあるし、相手の方から意見をくれることもある。意見かどうかもわからないこともあるし、感想だったり、愚痴だったり、あるいは悪口かもしれない。自分に対して言っているのかどうかも不明なこともあるし、そうではなくても、自分に対して言っていることとして受け止めるということもある。そういうことの方が多いかもしれない。変に被害妄想的にとかではなくてね。  そういう意見にもさまざまあって、その人自身の身を砕いて話してくれるという人もあれば、なんの責任も持たずただ言ってるだけということもある。自分を賭けて、あるいは自分を負って話してくれる人というのはすぐにわかる。私のために身を砕いてくれる人は、本当に有り難い。  実際に知っている友達に相談することと、ネットの知り合いに相談すること、そしてネットで知らない人にぶつけられた言葉には、どれも大きな隔たりがある。どのくらい話者の人格を賭けて、負って喋っているか、という違いでもあるし、どのくらい被話者(わたし)のことを知っているかという違いでもあるのかもしれない。  そこにはたぶん、人間関係の距離感というのがある。負っている人の距離感は近いし、そうでない人は遠い。私のことをそんなに知らない人はとても遠い。それなのに親密であるかのように振舞われると違和感を感じてしまう。中途半端な時が一番難しい。長年知った友達でも、しばらく交流がないと距離感を図るのが難しかったりする。  アドバイスは相手をどれだけ知っているか、そしてどれだけ自分を砕いて、負って話すか、によるのかもしれない。どんなに考えを尽くしたとしても、知らない相手に安易にアドバイスすることはできないし、責任を持たないアドバイスには何の意味もないと私は思う。それが、けしかけるようなものであれば尚更。無責任にけしかけることほど迷惑なものはない。  自分自身に対して何か言葉を内声的に発することも実は同じだと思う。自分に対しての言葉に責任を負わないというと変だけど、砕いていないということがままあるのだ、私には。適当に考えてると、たいてい失敗する。自分に対して無責任なのだ。その無責任さの負債は自分で負うわけだけど、そういう人間は何をやってもダメなのだと思う。まず自分がどういう人間であるのかを知

向き合うこと

 そこに行くとあなたは感じるだろう。死の匂いを。病室に入った瞬間に、彼の体調が芳しくないとわかる。陰気な雰囲気がある。  あなたは病室に入りたがらない。僕だけが入る。話しかけると彼は目を閉じたままうなずく。とりあえず意識はある。しかし、意欲はない。ここ数日なにも食べることは許されず、ただ病室で横たわっているだけの彼。こんな夜をどう過ごしているのだろう。死の影を感じたりしているのだろうか。  あなたはため息をつく。これからどうなるのかわからないでいるのかもしれない。転院を繰り返し疲弊しきっている。少し思い詰め過ぎているのだ。気を抜かなくてはならない。  あなたは病院にはなるべく行きたくないのだ。弱々しい彼を見たくないから。元気な彼であったなら、足取りも軽い。しかし、今はあなたの足に碇がついてしまってる。  立ち込める匂いに、あなたはたじろぐ。もうここに居たくないと思う。せめて僕はしっかりしなくてはならない。へっちゃらでことを進め、彼に話しかける。彼はうっすらとうなずく。あなたは入り口に立ち尽くしている。目を閉じた彼にあなたの存在を知らせようと僕は気を使う。  そこでようやくあなたは部屋に入り、彼に話しかける。彼は意思を蕾んだまま、そこにいる。応答はそれほどしない。あなたは怯えた声を出している。今にも消え入りそうなか細い声。これが彼に届いているのかもわからない。ただ私には聞こえた。  励ましもせず、慰めもせず、体に触れもせず。ただ「今日は無理だよ……」というあなた。「帰ろうか」。  今日は彼の体調が悪かったのだ。  いま目の前にあることから目を背けたくなる気持ち。向かい合うことは苦しいことだ。そして、逃げることはどこまでも簡単なことだ。  あなたといえども逃げ出してしまうほどに、死は尊い。そこには誰も立ち入れない。そこは、彼だけの聖域。向かって行くその場所を、いまきっと見定めている。  見つめてる。立ち込める匂いを。自尊心を。尊厳を。

僕が空を見上げるわけ

 どんな生活をしていようとも、きっとみんな毎日を同じように送ってる。病院でぼーっとするような日々でも、誰かのため精を出しても。人は日がなほとんどを習慣で過ごしてる。毎日を新しい場、新しい人、新しい言葉、新しい仕草、で過ごす人ってのは滅多にいない。それに対して飽きるとか嫌気がさしてしまうとかはまた別の話だけど。でも、多くの人が毎日を同じようにして過ごしてる。たまにあるはずの例外をみんな求めているのかもしれない。  でも、僕はなんとなく空を見上げてしまう。この宇宙の広さからしたら、僕がいま持っているこの気持ちなんてどうでもいいことかもしれない。それでも僕は『そうやって』生きていく。だって、そうでしか生きることができないのだから。  でもね。ときどきにでも宙を見上げると、心がスッとする。全てを投げ出したっていいんじゃないかと思える。有り金叩いて、仕事も全部キャンセルして、どっかに旅立ったっていいんじゃないか。そうすることが、自分にはできるんじゃないか、と。  そんなことを思わないわけじゃない。ただ僕は空を見上げてる。空には雲が在って、風が吹いている。その雲の向こうには宙があって、途方もない空間が広がっている。そこでは僕にはなんの肩書きもなく、仕事だって関係ない。ただ一人の地球人でしかない。いや地球人ですらないかもしれない。ただ動物。ただ生命体。いろいろなしがらみなんて、そこには関係ないのだ。ただ在るだけ。それは、雲と風と同じ。  そんなことをぜんぜん思わないわけじゃない。ただ在ることを確認したら、それでおしまい。虚空をちょっとだけ眺めて、僕はまた元に戻る。いえには家族がいて僕の帰りを待っている。元の生活。元の社会。  ときどきそういうものを意識の上で飛び越えて、僕は成り立っているのかもしれない。つまり、それさえも習慣のひとつなのである。そうやって、ときどき行ったり来たりしながら、また日常に戻っていく。  そうすることが当たり前だから。そうすることが正しいことだから。そうすることが、誰も悲しまないことだから。  今日も独り空を見上げる。ありふれた毎日を飛び越えて。僕は空に飛び立つ。空を想う。

罰と褒められること。そして悔いについて

 なんというか、自分の周りで起こったことみんな自分が悪いから起こったんじゃないか、みたいな発想になってしまってつらい。冷静にその根拠を探れば、自分のせいであるはずがないことなのだけれど、第一感でまず自分の罪を感じてしまう。小さなことも大きなことも、様々なことが自分のせいなのではないかと思ってしまう。  それは、自分が何もできない人間だという強迫観念からくるんじゃないか。過剰に卑屈になっているのだと思う。自分は非をしでかしてしまう人間なんじゃないかと思い込んでいる。とにかく自分のことを出来ない人間、不充分な人間、と思い込んでいる。そしてそれはおそらく図星なのだけど、それすらも自分が悪いのではないかという発想の一部なのかもしれない。  存在が罪深いとまでは言わないけれど、自分がなんの役に立っているのだろうという自己嫌悪は拭えない。なんともなしに救われたいと思ってしまってる。楽になりたい。このままこの強迫観念が強くなっていったなら、私に待ち受けている道は一つしかないのだろう。この罪の意識──しかしそれはなんの根拠もない──をどうしたらいいのか私にはわからない。  この強迫観念を払拭するために、私は何かができると自覚したいのだと思う。ある会話で、僕は褒められたいのかもしれないと呟いたのだけど、おそらくそれだって自分が何かをできる人間であると承認されたいのだと思う。そうしなければ、自己罰に押しつぶされてしまう。  自分で自分を認めることは「一応」できているはず。でもどこかで認めきれていない部分があるのだと思う。自信がないわけではないのだけど、社会がそれを許さないかもしれないと、どこかで思っている。というかそれをまず許さないのは自分なのだと思う。何もできない人間だとか、恥ずかしいとか、目立ちたくないとか、人と関わりたくないとか、思っているのだ。私にとって世間という言葉は往々にして自分のことである。  自分を信じている部分もあるし、それはたぶん過去の自分によって、だ。今の自分をどう思っているかというと、あやふやなまま。評価されたらうれしいけれど、そうでなくても何も感じない。努力をしているかもしれないし、そうでもないかもしれない。それが報われるべき努力か、あるいは他の誰も真似のできないような努力かというと、そんなことはない。ただやっているだけとも言える。そんなこと、努力と

きょうの神様

 外に出ると木枯らし。強い風が吹くと、いつも誰かが通ったかのように感じてる。そこにはきっといるのだろう、「きょうの神様」が。  父は入院してからというもの、冗談を言うことが多くなった。それがこの閉鎖空間でうまくやっていくための秘訣なのかもしれない。あるいは本当に気が触れてしまったか。はたまたあるいは寂しいのかもしれない。看護師さんを笑わせている父を見ると和む。家では滅多に冗談なんていう人間ではない。それが人が変わったように冗談を連発してくる。本人が笑うことも多い。一見明るくように見えて良いように思えるけれど、やはり、病院生活はつらいだろう。昨晩、血圧がとても高かったんだ、と言う父は、とても不安そうだった。でも彼は命を落としたわけじゃない。「きょうの神様」がそうはしなかったのだ。明日はどうなっているかはわからない。今日より良くなっているかもしれないし、明後日はもっと悪くなっているかもしれない。いい日になるといい。  家に父がいない日が続く。家はとても静かで、物音がするたびにそれが母が起こしたものだと見当がつく。父がいる時と変わらない生活をしているようで、そこかしこに違いがあるはずなのだ。父のいなくなった居間の机の上を整理し、父の和室を二人で片付ける。父がいないからといって変わったことは何もないとはとても言えない。いつも居た人間が一人いないというだけで、こんなにも心情が変わるものかと驚いている。それは、それが父だからだ。父のしていたことを一つひとつ思い出しながら、いろんなことに不便が出ないように気を使っている。もちろん、入院している父自身に対しても。いろんなことに気を配ることは、楽しいことでもあり、苦しいことでもある。気を詰めないようやっているけれど、不便を被るのは自分であり、家族であり、父であり母である。気を配り損ねて、今日は少し大変な思いをした。でも、大事には至らなかった。「きょうの神様」がここにもいた。いい日になるといい。  歩いていると、幼稚園児が母親と共にこちらに歩いてきた。正確には子どもは走っていて、母親は歩いている。目の端で眺めつつ歩いていると、子どもが転んだ。でも、子どもは泣かなかった。母親も特に騒がず、膝をはらって、そのまますたすた行ってしまった。子どもはまた元気に走って行った。「きょうの神様」が癇癪を閉じたのかもしれない。あの児は幼稚園で元気に

求められている自分こそ

 何かをすることは、生きている限り、するのだろう。ただ無目的に生きることもできるのだろうが、今は人のために生きることができたらいいのにと思っている。そうすることが自分の力を一番発揮できるはずだと思うからだ。ひいては自分の能力を一番伸ばす方法だからだ。  私は自分のためにずっと生きてきたし、そう生きることを選ばざるを得なかった。人のために生きるって、カッコつけてる感じになってしまうけど、自分の力を出すためには、そうすることが一番だと本当に思ってる。自分のために自分の力を発揮し尽くすことは難しい。どこかで手を抜いているのだと思う。  文章を書くのも、いつも自分のために書いてきたのだけど、それを外に向けて書いていたら、自分でも少しはましかもしれないと思えるようになった。少し世界が開けたのだ。ずっと閉じた系で書いてきたから、とりあえずそのことは新鮮だった。どういう文章を書くことが自分にとっても特定の誰かにとっても良いものなのだろうか、って考えると、少しは普遍性を持てるかもしれないと思う。  普遍性を持った文章をずっと書きたいと思っていたけれど、うまくいかなかった。自分にしか当てはまらないことは、誰にでも当てはまることじゃない。読む人の顔が思い浮かぶってわけでもないけど、今はそれよりは少しは開いているのかなと思う。それは実社会での自分の開き方とも呼応しているように思う。  人を認めることができるようになったら、文章にも少しは変化があるだろうと。自分の人の見方が文章に反映されるということは容易に想像できる。自分が卑屈であれば、文章も卑屈だろう。自分が開いていれば、文章も開くのではないか。  人に求められる自分が本当の自分なのだとしたら、僕は求められているように生きるのが良いだろう。だけど、今は、誰からも、何も、求められていない。家族にほんの少し認められているという程度。この範囲が広がっていったら良いのになぁと思うし、そうする努力をこれからも続けていくつもり。  その範囲はきっと仕事によって拡がるし、努力次第だろうって感じはする。自分が何をできる人間なのかをきちんと明確にする必要があるし、それを情熱を持って伝えられるようにならないといけない。  今自分の前に立ちはだかっている壁はとても厚い。負けたくない。負ってきたものが重すぎる。一歩いっぽだ。進んでいれば、どこかへ

自分への陶酔と努力の質

 自分なりに努力していたというだけで、それにはなんの担保もなかった。褒められたことだってそう大したことではなかった。頑張ってるね、とかそういう程度だった。それで良い気になっていたし、自分はできるんだと思い込んでいた。でも、そうではなかった。  というか、何もできないところに立っている。今、現実に。自分を成り立たせることができないでいる。それが現実だ。学歴があってもなんの意味もないところに立っている。それはなぜかって、全部自分の所為なのだ。ここに立っていることにはなんの矛盾もないし、立つべくして立っている。そういう人生を生きてきたからだ。確実にそう言える。自分の人生の総体としてここに立っている。  いろんな努力をしてきてものになったことは一つもない。そこにはきっと自分の中の何か甘い部分があるのだろう。努力とか、込めるということのなにがしかを私は勘違いしているのかもしれない。うまく自分を磨くことができていない。そのままでは何をやってもダメだろう。ここにある文章群がダメであるのと同じように。  努力しているということに酔いがちなのかもしれない。自分は努力している、だから認めて欲しいという風になりがちなのだ。でもそれだけではダメで、努力しようがしまいが、結果さえついてくればそれでいいのだ。結果を出すことができないなら、努力していないのも同じなのに、ただ闇雲にやり込んでいるだけで、私はなんの結果も出せないでいた。結果を出すことに尽力せず、ただ脇目も振らずやりこむことに熱中していただけだった。自分に酔っていたというのはそういうこと。努力の質が低ければ、何をどんなに努力を重ねても、なんの役にも立たない。  たぶん、自分にはやりたいことがあるのだろう。まだそれは言語化されていないし、表現もされていない。だけど、そこに向かうなら、自分の陶酔に関しては、きちんと考えなくてはならない。変に努力してうまくいってしまったから、それで調子に乗っているだけなのだ。人に導かれてうまくいったことが自分一人でできるわけじゃないし、たまたまうまくいっていたに過ぎない。その結果は自分の宝物ではあるけれど、たまたまうまくいったことをいつまでも抱いていても、不幸な人生しか待っていない。  『いまの』自分が『現実に』どうであるのか、どんなことができて、それはどう役に立つことなのか。どう自分を成り立たせ

けしかける人

「できないんだー?」 「できないよ」 「ふーん」 「なんだよ?」 「いやー、別にぃ?」 「……。」 「ふーん。そこで黙るんだ?」 「できないものはできないの! 俺じゃ無理」 「そうかなぁ? あたしはできると思うけど」 「いや、無理だよ」 「やってみなよぉ。やってみたことあるの?」 「ないけど。無理だよ、どうせ」 「んじゃ、やってみなよ! できるかもしんないじゃん!」 「そうかなぁ? できないと思うけど」 「いいからいいからほら。今すぐでなくても、きっといつかできるようになるよ」 「うーん。できたらいいとは思うけど……」 「ねっ? やってみたらできるかもよ? やろうとしなくちゃ、一生できないままだよ」 「そうだけどぉ」 「どうせ自分には、とか考えてる暇あったら、どんどんやろ! やんなきゃできないでしょ!」 「できないのが怖いんだよね」 「大丈夫だよ。今できなくても、いつかできるよ。きっと。そのための一歩目だよ、今日は」 「初めからできる人なんていないのかなぁ」 「そうだよ、ほら! やったやった!」

嗾(けしか)ける人

 私はあなたを嗾(けしか)ける。あなたは私を嗾ける。そうやってDNAのらせん構造のように上ってく。互いがいなくてもたぶん僕たちはうまくやるだろう。でも、あなたがいた方がきっとより速く上がれるだろう。気づけることもあるだろう。  互いに欠けた部分を補いあって僕たちはのぼってく。二人でいるから正しくなれる。  一人でも生きられるが、誰かと生きるならあなたがいい。その方がより正しく生きられる。できないことを補完しあって、僕たちは生きていく。  信じることは、誰が相手でもできるわけじゃない。あなただから、できるのだ。あなたでなければならないのだ。 *** 「できないんだー?」  その一言でいい。それだけで私の心に火をつけるのに充分で。それだけで私がやる理由として充分で。心が動けば動くほど、私は躍起になるだろう。自分の実力以上の力を発揮できるだろう。そうやって僕は上って行きたい。できなかったことができるようになる時、私はあなたのことを感じてる。  ──君に請われることの、うれしさよ。  望みを叶えることを、惜しみたくない人。どんなことでも叶えたくなる。すべて口惜しいことは君の望みを叶えられないこと。できうる限りをしたいと思う人。 ***  無言の要望でもいい。私がしないときに、(できないんだ)と思う、それだけで私は躍起になる。ただあなたがここに存在していることが、私の成長につながっている。限界突端の発端なのだ。やる気になるのだ。なんだってできるのだ。  ──だからやるのだ。  ただいるだけで、それだけで。あなたを感じることが、私を躍起にさせる。 ***  嗾けること。私だけの到達点は、二人でなら簡単に超えるだろう。二人三脚の方が速く、遠くへ行ける。一人ではいけないところへ行ける。二人だからできること。二人だから行ける場所。  僕はそうしたい。そうしなければならない。そうしなければ気が済まない。そうでない時間なんてありえない。  ただ、君を想う。

訥々I Love You

 私に気づかせて。私の知らないことを。見えていないものを。感じていないものを。  私に気づかせて。見失っていたものを。これから大事なことを。  私に気づかせて。すでに出会ってたことを。 ***  感化すること。啓発すること。嗾(けしか)けること。  あたしの思い通りに生きれば良いと、その不遜さはいらない。ただ自分の正しさを相手にも正しいと納得させること。時に話し合い、時に議論し、激昂し。何が正しいのか、その到達点を共有したい。  私の正しさとあなたの正しさが合わされば、きっとより正しいだろう。  私の見えている世界と、あなたの見えている世界が合わされば、きっとステキだろう。 ***  私を嗾ける人が好きだ。そのためなら、見くびられたってかまいやしない。  あなたはいつも私を感化して。嗾けて。  それによってわたくしは、生きることができる。  あなたのいうことなら、納得できる。なんだかそんな気がする。そう思えることが、私にとっての愛の証明なのだ。無条件降伏するつもりはないけれど、今までのあなたはとりあえず、私にとって大まかに正しかった。  だから上手くやれるはず。  あなたが嗾けるなら、私はやるだろう。嗾けなくてもやるだろう。だけれど、その要望が、私にはうれしいのだ。喜びなのだ。やるのなら、あなたを想ってやった方が上手くいく。必ず。  あなたの影を感じながら、あなたを追いかけていたい、追われていたい。  そうすることが、人生に於ける、私のこの上ない喜びなのです。 ***  私の正しさとあなたの正しさと合わせたら、きっと上手くいくだろう。僕たちは、互いを補完しあって生きていく。そうでなければ生きていけないと思えるほどにその正しさは精巧である。私はあなたがいなければ、あなたは私がいたら、その正しさに到達できる。互いが互いを必要とし、絡まり合って生きて行く。絡まり合って死んで行く。どうあってもうまくいく。どうあっても納得できる。どうあっても生きていける。この二人なら。 ***  だから私はあなたを嗾けるし、あなたは私を嗾ける。そうすることで僕たちは螺旋状に登ってく。やがて高みに到達するだろう。  互いを感化しあっていく。知らないことを知らせ、見えていないものを見せ、感じていないことを感じさせるのだ。

持つ者、持たざる者

「何も考えずにそれをしているってのが、まるわかりだよ君は。考えてないでしょう」 「そんなことないって? 誰だってそういうよ。きちんとコメないと、伝わらないよ。そういうことは、相手にはわかるものだよ。こいつ手を抜いてるなぁって」 「やる気ないなら、さっさと諦めて次に行ったほうがいいんじゃないの。あなたがどのくらい他のことができるのか知らないけど。やればできるんじゃないの」 「たまたまこれはダメだったというだけでさ、そんな大したことじゃないよ。きっと何かがあるはず。打ち込めるだけの何かが。それをできるだけ早く見つけることだよ」 「やる気がないように見えるのは、損だと思うけどね。あるんだかないんだか知らないけど。気持ちは大事だと思うよ。どうやってそれに取り組むのか、っていうさ」 「何も考えていないのは簡単に人にわかるよ。こいつ路頭に迷ってるな、やる気ないな、って」 「気持ちさえあれば、叱ったり、諭したりできるけど、何も考えていない人には何もいうことはないよ。どっか他へ行けば、って感じ」 「やる気がないなら去れとは言わないけど、志もなくやってても仕方ないんじゃないの」 「自分のやる気になることなんていくらでもあるはずだと思うけど。なんとなくやっているんだったら、誰の為にもならないんだよ」 「どうこれに取り組むかってこと。何を目標にしているかってこと。どう思ってやっているのかってこと」 「自分で疑問に思って、課題を立ててくことでしか成長なんてないだよ」 「人の言うこと聞いてるだけじゃ、自分のやりたいことなんて一生できないよ。こき使われるだけの人間になる」 「やりたいことなんて一切なくて、ただ人の言うこと聞いてるだけでいいってのならいいけど、そんな人と一緒に居たくないよね、普通は」 「やる気を出せって言うのは簡単だけど、それ言われて出た人なんて見たことないからね」 「一生、人のいいなりになって生きるのも、人生でしょ」 「志って言葉も曖昧だけど、それがなければ、たぶんやっていけない」 「生きる覚悟はあるか、ってこと」 「つまんない人生を生きるのもいいさ、他人の人生だもの」 「自分で切り拓いてくことでしか、見えないところもあるさ」 「変化したらいいってものでもないけど、そのままなら、そのままだ」 「どうしたいのかって、もっとよくいろんなことを

すべての逸脱した人たちへ

 私は自分のルールを持ち出しすぎなのかも知れない。それが過剰になると、きっと良くないことが起きるのだろう。そのことは社会に認められるということと関連している。自分だけの世界で生きている時間が私には長すぎた。過ぎてしまった時間を悔いても仕方ないし、これからそういうものを身につけていけばいいはずなのだけど、どうするべきなのかわからないでいる。  自分だけのルールが社会に適応しているかといったら、たぶんその多くはそんなことはなくて、逸脱していると思った方がいいのだろう。自分だけのルールが素晴らしいものである可能性はたぶん低くて、なぜなら何も考えていないから。社会のルールを鑑みてそう決めたというわけでもなく、ただ自分の都合の良いように決めただけのルールなんて、何の役にも立たない。ただ自分が自分にとってのみ、まともであるというだけなのだ。それは社会とってのまともさに適っているというわけではない。  いかに社会と自分について考えるか、なのだと思う。どれだけ自分を貫こうとも、社会の中に収まっているのならそれでいいのだということ。見た目の問題だけでなくて、精神とか志のことを私は言っている。  いかにまともであるか、という昨日の話は、ルールの適用にかかっているのだということに気がついたというわけ。どんなルールを持ち出して、それに応えるか、ということである。社会の端にいたとしても、社会のルールと自分のルールが適応していれば何の問題もない。自分のやりたいようにやるのは結構だけど、社会のルールを度外視していたのでは、社会の一員とは言えない。  『志を持たないものが、志を持つものの言い成りになるのは当たり前』と某アニメスタジオのPは言っているみたいだけど、最近は志について考えてる。このことは自分なりにやる、ということと関係があると思う。志をいかに持つのか、ということ。自分なりに無意味にそれを持ったところで、空回りすることは目に見えている。そうやって増長し続けて、私はずっと失敗してきたのだ。問題は『志』というルールをどう設定するか、ということだ。どうそれを考えるか、ということ。闇雲に持っても仕方ないということ。今回は戦略的に行くぞ、と思ってる。ただ頑張るだけではダメなのだ。  エナジーをいかに燃やすかということ。どのように、何に対して燃やすかということ。これをきちんと戦略できたら、き

まともであること

 まともであることについて今日はうっすら考えていた。何を持ってまともというかっていうのは難しいことだけど、まともな人なんているんだろうか、とか、その度合いがあるのかもしれない、とか、まぁ、いろいろある。  まともでなくてはいけないということもないと思うけれど、度が過ぎるのは困りもの。その度をどういう風に解釈するのか、あるいは具体的にどういう点でまともでないかというのが問題になると思う。それをどう自分で感知して、どう暮らしてくか、ということでもある。  社会の中で暮らしていくことについて、まともであるということはどういうことなんだろうって考えても、たぶん答えは出ない。自分は、自分だけはまともであると思いたいのが人間だ。でも、どこかで気がつくのだ。きっと。自分はまともではないかもしれないと。その時に見て見ぬ振りをするのか、しっかりと受け止めるのか、というだけなのではないか。まともでないというエピソードが大仰なものであったら受け止めやすいし、簡単なものだったら流されてしまうのかもしれない。多くの場合、一人では気がつきにくいことなんじゃないか。一人でいるということの怖さはそういうところにあると思う。つまり独りよがりになりがちだということだ。  みんな自分はまともであると思いたいものだ。一歩も道を外していないと思いたいものだ。まともでない自分なんて存在していないかのように振る舞ってしまう。まともでないことを受け入れるのは人によっては難しい。  私はまともでありたい。きっと特をしたいし、いい目にあいたいのだろう。少しでもまともでありたいと思っていたし、まともであるとも思っていた。御多分に洩れず、私は少しもまともではなかった。小さい頃からのエピソードを思い返しても、難しかったな、と思う。それでもそれなりに人に好かれたり、好いたりできたのだから、まぁ良かったのかもしれない。  まともであろうとはしていると思う。それは自分の思うまともである。社会の思うまともとは違うのかもしれない。そこにきっとズレがある。生きていけるからといってまともとは言えないだろう。半身不随でも一応生きている。でも、まともではないかもしれない。まともに生きることの難しさ。まともを考える難しさ。認知する難しさ。たぶんこの考えはどこまでも尽きない。完璧な人間なんていないからだ。  まともな人間なんていない

片麻痺(へんまひ)

 父が倒れた。救急車を呼んで、入院することになった。診察によると糖尿病による脳梗塞らしい。半身麻痺が出ていて、リハビリ次第だが障害が残るかもしれない。今は左手足に力が入らない状態。一人でトイレに行くのにも不自由している。  私も障害者であった。ほんの1ヶ月前まで。入れ替わるように父が障害者となりつつある。私はずっとサポートしてもらってきた立場であるので、これからできる限りの事をしたい。  今はなんでこんなに甲斐性を持てるのだろうと不思議に思うくらいに、父のことを考えてしまう。「父」はこの世に一人しかいない人間である。こんなに自分の親父のことについて考えていることがあったろうか。不自由してないだろうか。何か欲しいものはないだろうか、考えてしまう。できる限り快適に過ごして欲しい。こうして夜に何もできることもなく、時間を過ごすこともできずにいると思うと、居ても立ってもいられない。  今日は3回病院に通った。着替えを持って行ったり、スマホを持って行ったり。家から5分のところに病院はあるので通いやすい。思い立ったらすぐに行ける。一日に何回でも行ける。  父は今、少々鬱っぽくて会っても笑顔をほとんど見せない。うなだれて、寝ているでもなく、起きているでもなく。ぼーっとしている。何を考えているのだろうか。病室のカーテンはどれも閉ざされていて、一つひとつの空間は仕切られている。  2回目に行った時、スマホを操作できずに「指が動かせねぇや」と笑っていた。私は緊張していた。午前中に面会に行った時、ちょっと悪い空気になったからだ。父も自分の不甲斐なさにイライラしているし、母はできることをしようとしているのだけど、それがうまく噛み合わなかった。午後は私だけで行った。笑った父を見たら、少しだけ安心した。なんでか食事を摂っていないので、時間とともに元気が無くなっていく。1度目に行った時に見せていた回復への意欲も、2回目には失せていた。3回目はもっとであった。明らかに落ち込んでいるな、とわかる。何をするでもなく、考え事をしているのだろうか。この、今の時間も、何をしているのだろう。  3回目の面会で部屋がナースステーションに近いところに移っていた。それだけ看護師さんにご厄介をかけているということかもしれない。今すぐに何かあるってわけじゃあない。歩けないのでナースコールを押す回数も多いのか

気持ちを尽くすこと

 自分が寛解して1ヶ月もしないうちに父が倒れてしまって、こんなこともあるんだなぁという感じでいる。寛解と前後してたら、今日の自分は役立たずであったろうと思う。今日はいろんなことを考えた。父と喋ることは本当に良いことだと思う。  2ヶ月くらい前にも父は体調を崩してて、ヘルペスやら結膜炎やらやってたのだけど、今回は歩けなくなっての入院。大変だろうと思う。サポートしたい。介護が必要になるかもしれないし、今後はどうなるかわからない。お金もかかるだろう。  10年くらい前、自分がヘルニアで入院した時に父と喧嘩になってしまって、父はそれから病院には一切来なかった。自分がそういう年頃だったと言ってしまえばそれまでだけど、そういうこともあった。まぁ、親子だからね。男親と息子にはいろいろあるものだ。最近はうまくいっていると思ってるけれど、お互いイライラしたりしたら、どうなるかはわからない。うまく関係を持っていたいと思ってる。できることなら自分で世話をしたいと思っているということ。できるはずだし、私にしかできないこともあると思う。父が嫌がったらそれまでだけど。母と私の二人体制で介護できるのだから、まずはそれで様子を見ることになるだろう。よくなるといいけど。  丁寧に親切に。親だからといって、気を抜かないこと。父がどう思っているか、きちんと察すること。考えること。慮ること。いろいろ言葉を並べたけど、自分にはできるはずだと思っている。ここまで生きてきた中で、そうできないわけがないと思っている。時間も作ればある。まだ死ぬってわけじゃあない。互いに楽しく暮らしてくことだってできるだろう。父のことを思うことを諦めなければ、できるだろう。関係が壊れなければ。自分としては諦める気はないけれど、父が嫌だといったら本当にそれまでだ。こんなこと書いてるとそれを呼び込んでるとか、望んでいると思われるかもしれないけど、割とプライドはある人だと思うから。息子に情けないところを見せたくないと思っているかもしれない。まだそんなそぶりは見せないけど。母に任せたほうがいいのかもしれない。時間を持て余して、しゃしゃり出るのは良くないのかもしれない。少しずつ、様子を見ようと思う。  リハビリでどこまで回復するかにもよるのだし。歩けないと書いたけど、歩けないこともあるという程度で、微妙なところ。力が入らないらしい。薬

世の中にいる人たち:眠れない夜に母が話してくれたこと

 眠れない夜に母が話してくれたことには。 「あなたが思ってるよりも、世の中は良い人に溢れているのよ」 「そうねぇ。知り合った人に良い気分でいてほしいと思うような人。人に良いことをするのは自分も良い気持ちになるものよ」 「出会った人がたまたま、嫌な人だったからといって、すべての人がそうというわけではないの。あなたを嫌いな人もいるし、そうでない人もいる。あなたに関心のない人だっている」 「あなたを嫌いな人と無理して付き合うことないのよ。離れられるのならそうした方がいいこともあるわ」 「それにね、今まではあなたを好いていたのに、ある瞬間から全く逆の気持ちを持ってしまうこともあるのよ」 「そうなったら、身を引くことよ」 「大きくなると着られなくなる服があるように、人も合わなくなったりするものなのよ」 「それは、誰が悪いってわけじゃないわ」 「人は誰だって愛されたいものなのよ。それに、愛したいものなの。そうすること、されることを求めているものなの」 「そうするために、いろんなことをするし、そうされないから、いろんなことをしてしまうのよ」 「あなたに危害を加えた人にも、きっと理由があったのよ。それをどうしても知らなくてはいけないということはないけれど、世の中にはそんなに理不尽なことなんてないのよ。たまたまあなただったということはあるけれど」 「人はみんな同じ方を向いているわ。愛されたいし、愛したい。それを叶えるためにいろんなことをするの。してしまうの。このことを忘れないで」 「あなたも、愛せば、きっと、愛されるわ。きっとね」 「どうにもならないこともあるけれど、それを知っているだけで楽になるということだってあるのよ。覚えておいて」

認められるために

 認められるということは、自分のしたことを人に見てもらって頷いてもらえるということだ。私たちはきっと、いろんな人に認めてもらうことができて初めて生きることができるのだろう。最初は両親から、その後生きていくうちに出会う人たちから認められることでなんとか自分を保っていくことができるのだ。それなしには人は生き場を失うだろう。今うまく人に認められないとしても、自分のやりようによっては、また他の人に頷いてもらえるかもしれない。そうなる可能性を閉ざしてはならない。いつも開いていることが肝要なのではないか。  彼は、無意識に人に認められたいと思って生きてきた。しかし、認められるべき行動をとっていなかった。つまり何もしてこなかったということだ。なぜ自分が誰にも相手にされないのか思い悩むということもなく、淡々と生きてきた。でも、どこかで認められたいと思っていたのだ。そういう欲求を人は隠し持っているものだ。その気持ちが満たされたらいいのにとどこかで思いつつ、歳を重ねていく。こうしたいということもなく、やらなければ気が済まない何かもなく、月日は経っていく。誰からも認められることもなく、ただ生きている。そうやって生きることだって、人にはできるものだ。恵まれてさえいれば。しかし、それは生きていると言えるのだろうか。どこの誰からもその存在を認められていないという人間。戸籍には登録され住む家もあるという形式上の認可は得ていても、誰も彼を知る人はない。ただ独りの人。  何かするということの意味を。人と関わるということの意味を。人に頷いてもらえるということの意味を。  何かするから認められる芽があるわけで、そうでなければ、人に頷いてもらえることなんてない。何もしない人間が認められるなんてことは、たぶんない。そして、何かした人間が必ず認められるというわけでもない。しかし、何かしなければならない。それは人の中に生きるためである。生き場を見つけるためである。  彼が認められるためには、自分を開かなくてはならない。出て行かなくてはならない。自分のすることの一挙手一投足を精査しなくてはならない。できることをし尽くさなくてはならない。人の心を射抜かなくてはならない。  そうしようと思わなければ、それはできないことだ。認められたいという自意識をまず自分が認めること。それから、すること。大抵でないことを。

掴む

 例えば、の話をまず書くので読んでほしい。  用を足しにいってなかったら私は死んでいただろう。『そこにいた人』はみんな爆風と爆音に巻き込まれて居なくなっていた。私はカフェでコーヒーを注文していただけだ。コーヒーが出来上がるまでの数分をトイレで過ごすことにした。それで私の運命は変わってしまった。というよりも、無くなったはずの生がそうではなくなったのだと思う。 ***  とりとめのないことで人生は変わるものだ。その生死を分かつデッドラインは見えることはない。どこに存在しているのか、その一歩だって命取りになるということはありうるのだ。  命を分けなくても、何かを分けることはある。あの日、本屋に行ったからこの本と出会えた、だとか。たまたま散歩していたら旧友とばったりあって、運命が変わった、だとか。そういうほんの些細なことの中に、何かがあるのだとしたら。それを掴むのは、どういう人間なのだろう。限られた出発点から誰だって始まっていく。誰だって一つのきっかけから、何かが始まっているに過ぎない。たまたま、トイレに行った。たまたま、外を歩いた。たまたま何かを得た。幸運というにはそれは野暮である。何かがある。その人は掴んでいる。  それは生かもしれないし、はたまた死なのかもしれない。そんなに大げさでなくても、それは一生を左右する出会いかもしれない。極限状態──つまりは戦争であるとか──では生死を分かつことなんて簡単で、そういう感覚はどんな時にでも役に立つはずだ。この瞬間、逃してはならないという嗅覚。それは場数を踏んでいるから得られるのだろうか。  この出会いを、この場を、この瞬間を、逃さないということ。  それは本当にたまたまなのか。トイレに立つことが生死を分ける瞬間があるのだとしたら、人の生という儚さを私は恨む。それは私でなければならなかったのか。なぜ他の人間ではなく、私なのか。誰がそれを選んだのか。  それは紛れもなく私である。掴んでいるのである。  人は皆、選んでいる。トイレに行く間を。外に出るということを。人と会うということを。本を読むということを。知らず知らずのうちに選択している。そうやって時を超えて、人生は成る。成るも成らないも、本当には自分次第であるはずなのに、そうはしない。言い訳することはあまりに簡単で、運命を人に託してしまうことほど安易なことはない。