掴む

 例えば、の話をまず書くので読んでほしい。
 用を足しにいってなかったら私は死んでいただろう。『そこにいた人』はみんな爆風と爆音に巻き込まれて居なくなっていた。私はカフェでコーヒーを注文していただけだ。コーヒーが出来上がるまでの数分をトイレで過ごすことにした。それで私の運命は変わってしまった。というよりも、無くなったはずの生がそうではなくなったのだと思う。
***
 とりとめのないことで人生は変わるものだ。その生死を分かつデッドラインは見えることはない。どこに存在しているのか、その一歩だって命取りになるということはありうるのだ。
 命を分けなくても、何かを分けることはある。あの日、本屋に行ったからこの本と出会えた、だとか。たまたま散歩していたら旧友とばったりあって、運命が変わった、だとか。そういうほんの些細なことの中に、何かがあるのだとしたら。それを掴むのは、どういう人間なのだろう。限られた出発点から誰だって始まっていく。誰だって一つのきっかけから、何かが始まっているに過ぎない。たまたま、トイレに行った。たまたま、外を歩いた。たまたま何かを得た。幸運というにはそれは野暮である。何かがある。その人は掴んでいる。
 それは生かもしれないし、はたまた死なのかもしれない。そんなに大げさでなくても、それは一生を左右する出会いかもしれない。極限状態──つまりは戦争であるとか──では生死を分かつことなんて簡単で、そういう感覚はどんな時にでも役に立つはずだ。この瞬間、逃してはならないという嗅覚。それは場数を踏んでいるから得られるのだろうか。
 この出会いを、この場を、この瞬間を、逃さないということ。
 それは本当にたまたまなのか。トイレに立つことが生死を分ける瞬間があるのだとしたら、人の生という儚さを私は恨む。それは私でなければならなかったのか。なぜ他の人間ではなく、私なのか。誰がそれを選んだのか。
 それは紛れもなく私である。掴んでいるのである。
 人は皆、選んでいる。トイレに行く間を。外に出るということを。人と会うということを。本を読むということを。知らず知らずのうちに選択している。そうやって時を超えて、人生は成る。成るも成らないも、本当には自分次第であるはずなのに、そうはしない。言い訳することはあまりに簡単で、運命を人に託してしまうことほど安易なことはない。
 選ぶのだ。掴むのだ。進むのだ。生きるのだ。

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