向き合うこと

 そこに行くとあなたは感じるだろう。死の匂いを。病室に入った瞬間に、彼の体調が芳しくないとわかる。陰気な雰囲気がある。
 あなたは病室に入りたがらない。僕だけが入る。話しかけると彼は目を閉じたままうなずく。とりあえず意識はある。しかし、意欲はない。ここ数日なにも食べることは許されず、ただ病室で横たわっているだけの彼。こんな夜をどう過ごしているのだろう。死の影を感じたりしているのだろうか。
 あなたはため息をつく。これからどうなるのかわからないでいるのかもしれない。転院を繰り返し疲弊しきっている。少し思い詰め過ぎているのだ。気を抜かなくてはならない。
 あなたは病院にはなるべく行きたくないのだ。弱々しい彼を見たくないから。元気な彼であったなら、足取りも軽い。しかし、今はあなたの足に碇がついてしまってる。
 立ち込める匂いに、あなたはたじろぐ。もうここに居たくないと思う。せめて僕はしっかりしなくてはならない。へっちゃらでことを進め、彼に話しかける。彼はうっすらとうなずく。あなたは入り口に立ち尽くしている。目を閉じた彼にあなたの存在を知らせようと僕は気を使う。
 そこでようやくあなたは部屋に入り、彼に話しかける。彼は意思を蕾んだまま、そこにいる。応答はそれほどしない。あなたは怯えた声を出している。今にも消え入りそうなか細い声。これが彼に届いているのかもわからない。ただ私には聞こえた。
 励ましもせず、慰めもせず、体に触れもせず。ただ「今日は無理だよ……」というあなた。「帰ろうか」。
 今日は彼の体調が悪かったのだ。
 いま目の前にあることから目を背けたくなる気持ち。向かい合うことは苦しいことだ。そして、逃げることはどこまでも簡単なことだ。
 あなたといえども逃げ出してしまうほどに、死は尊い。そこには誰も立ち入れない。そこは、彼だけの聖域。向かって行くその場所を、いまきっと見定めている。
 見つめてる。立ち込める匂いを。自尊心を。尊厳を。

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