好機を感じるということ

ラジオで偶然かかった曲。
図書館でたまたま見つけた本。
ぶつかった子どもら。
朝日が綺麗だったこと。
***
 いろんなことが日々僕の身に起こるけれど、なにがきっかけでどうなるかなんてわからない。それらのすべてが偶然とは言い切れず、しかしなにかを感じるには信心深すぎる。そういうことを虫の知らせと昔の人は言った。そういうことってあるのかもしれない。なにかが私にメッセージを送ってる、なんて妄想を誦える病気があるけれど、僕はそんなんじゃない、と言っておこう。この世界にはどう考えても目に映るすべてのことがなにかの思し召しとしか思えないことが起こったりするのだ。流れがある。昨日から今日にかけて、そんな日だった。
 ラジオにかかった曲を漠然と聞いてた。90sの特集らしい。そこから流れてくる音のなにもかもが懐かしい。過去をあまり振り返る方でもないのだけど、こんな曲が流れたら考えてしまう。曲に張り付いた思い出が鮮やかによみがえる。ふと思い出すことが、今に通じてると気がついた。あの時のことがあったから、今があるんだと。この曲を聴かなかったら、そんな発想にはならなかったろう。あの時の失敗があったから今があるのだ。あの時には間違ったと思っていたけど、そんなこともなかったのかもしれない。
 図書館に行くと、いつもは予約した本を受け取ってすぐに帰る。のだけど、今日はなんとなく本棚を眺めていた。そこで見つけた本。なんとなく惹かれた本。手に取ってしまった本。こういうことがあるから、時たま、本棚を眺めたくなる。必要な時に必要なものに目が止まる。半自動にそこにある。求めているものはいつだってそこにあるのに、気がつかないのはこっちなのだ。セレンディピティを鍛える方法があるのなら、知りたいものだ。
 道を歩いていると、公園から飛び出してきた子どもらとぶつかってしまった。私もぼーっとしていたし、子どもらも必死に走っていたようだ。「おぉ!」と思う間も無く私が行くはずだった交差点で車が暴走してきた。子どもらと出会わなかったら、私はどうなっていたか、わかりゃあしない。ぼーっとしていても幸運が降ってくることがあるのだ。
 朝起きて、大抵は散歩に行く。旭日の出るタイミングを見計らって。季節ごとにタイミングを計って外に出る。今朝はそれがとても綺麗だった。いつになく。こんな日は一年に一度だってお目にかかれないだろう。雲の感じ、そらの焼け具合。そこにその瞬間いたという好機。眼福である。こんな日があるから、生きるのを飽きることがない。
 永遠に生きるかのようにして学び、明日死ぬかのようにして生きよと、彼は言った。すべて好機を受け入れ、生き切ること。感じることができるなら、僕たちはやっていける。どんな幸運も、好機も、自分で掴み取るのだ。ラジオを聴かなければ、図書館に行かなければ、道を歩かなければ、朝起きなければ、それを感じることは無かったのだ。好機はいつだってそこら中に転がってる。そうやって、運命の流れを感じるのだ。

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