誠実であること

 ありがたいことに、意見をくれる人というのがときどきいてくださる。自分から意見をして欲しいと頼むこともあるし、相手の方から意見をくれることもある。意見かどうかもわからないこともあるし、感想だったり、愚痴だったり、あるいは悪口かもしれない。自分に対して言っているのかどうかも不明なこともあるし、そうではなくても、自分に対して言っていることとして受け止めるということもある。そういうことの方が多いかもしれない。変に被害妄想的にとかではなくてね。
 そういう意見にもさまざまあって、その人自身の身を砕いて話してくれるという人もあれば、なんの責任も持たずただ言ってるだけということもある。自分を賭けて、あるいは自分を負って話してくれる人というのはすぐにわかる。私のために身を砕いてくれる人は、本当に有り難い。
 実際に知っている友達に相談することと、ネットの知り合いに相談すること、そしてネットで知らない人にぶつけられた言葉には、どれも大きな隔たりがある。どのくらい話者の人格を賭けて、負って喋っているか、という違いでもあるし、どのくらい被話者(わたし)のことを知っているかという違いでもあるのかもしれない。
 そこにはたぶん、人間関係の距離感というのがある。負っている人の距離感は近いし、そうでない人は遠い。私のことをそんなに知らない人はとても遠い。それなのに親密であるかのように振舞われると違和感を感じてしまう。中途半端な時が一番難しい。長年知った友達でも、しばらく交流がないと距離感を図るのが難しかったりする。
 アドバイスは相手をどれだけ知っているか、そしてどれだけ自分を砕いて、負って話すか、によるのかもしれない。どんなに考えを尽くしたとしても、知らない相手に安易にアドバイスすることはできないし、責任を持たないアドバイスには何の意味もないと私は思う。それが、けしかけるようなものであれば尚更。無責任にけしかけることほど迷惑なものはない。
 自分自身に対して何か言葉を内声的に発することも実は同じだと思う。自分に対しての言葉に責任を負わないというと変だけど、砕いていないということがままあるのだ、私には。適当に考えてると、たいてい失敗する。自分に対して無責任なのだ。その無責任さの負債は自分で負うわけだけど、そういう人間は何をやってもダメなのだと思う。まず自分がどういう人間であるのかを知らないといけない。そしてこれからどうしたいのかも。そういうことをわかってるフリをしていると、痛い目に合う。というかやりたいことには到底たどり着けない。
 自分に対して誠実でない人間が人に対して誠実になれるとも思えない。自分のやりたいことをし続けるということは、人に対してはもちろん、自分に対しても誠実なのだと思う。
 誠実であるということは私にとって難しいことだ。誠実であることに酔ってしまうことがある。誠実にやっているのだから、うまくいくだろうとか、認めて欲しいとか。しかし誠実であることと、ものごとがうまくいくこととは相関がないことも多い。それだけが、良いものであることの条件ではないし、認められる条件でもない。ダメなものはどんなに誠実でも、ダメである。
 そもそも実態として誠実であることが難しい。人は簡単に手を抜くし、楽をしようと思えばいくらでもできる。平気で裏切るし、簡単に行く先を変えてしまう。自分に対してだけでなく人に対しても言えること。突き詰めて誠実であることは難しいことだ。
 そのうえ誠実であるかどうかは、人からは簡単にわかることだ。その態度、仕草、発する言葉、すべてに誠実であるかどうかは現れる。本人よりも周りの人の方が、その人が誠実であるかどうかを知っているだろう。対面して会話していれば尚更、ネットの会話でもそれはありありとわかるものだ。
 僕は誠実な人が好きだし、自分もそうありたいと思っている。誠実だけではダメだが、誠実でなければダメ。責任を持たない言葉には何の意味も価値もない。言うのであれば、なにかを負わなくてはならない。そこにネットの欠点があるし、安易なところだと思う。記号としてのいいね! では、ほとんどなにも伝わらない。だからそういう時になるべくコミュニケーションを取りたいと思ってる。なにがその人にとって良かったのか、なにを気に入ったのか。自分だけでは知り得ないことだからである。

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