僕たちは『箱』を介在させている。それでつながっているフリをしてる。日々。そこにはいろんなことがあるようで、何もないのかもしれない。会ったこともない人と、何かがつながっているような気になっている。日々。『箱』がなければそれは成り立たず、それを失った瞬間に、僕はいろんなものを失うわけだけど、それが人生の全てってわけでもない。でも、僕の一部であることは確かだ。
 今夜も、あの人はそこにいるようで、いないようで。ときどき現れてはまた消えて。言葉や写真を表しては、いるようないないような。ときどき言葉を交わす。そうやって人とつながっているフリをしている、僕たちは。日々。
 そこにはなんの繋がりもないはずなのに、なんだか親和しているような錯覚を覚えてる。その人たちは僕が危うくても不安でもたぶん力にはなってくれない。日々。そうとわかってるのに、僕はあの人たちに依存している。それはよくないことなのかもしれない。
 ここに生きているという感覚を失っている。楽しければいいのだろうか。時間が埋まりさえすればいいのだろうか。気をふっと抜けたらそれでいいのだろうか。そういうことに人を使ってしまっているように思ったりする。
 ただ僕は人とコミュニケーションを取りたいというだけで。そうやって寂しさを紛らわせてるだけで。人が呟いているのを見るだけで、言葉を見るだけで、写真を見るだけで、僕の中の何かが紛れている、ような気になってくる。そこに人がいるかもしれないというそれだけなのだ。その人が僕を思ってくれるわけでも、気にかけてくれるわけでも、ない。日々。なんでもない、日々。
 身のあることをしなくてはならないのはわかってる、つもり。でも、実感としていま、そういう感触は全然ない。実体がない。
 『箱』を介在させて、僕は独りをごまかしている。そこにはごまかしきれない何かがきっと在って、僕を苛む。どうしようもない淀みが溜まってる。鬱屈は晴れず、生は日々短くなってゆく。
 人生をどうしたいのか、親身にならないと。このままで良いのだろうか。圧倒的に足りないことがある。できないこともある。やるべきことをやっているだろうか。やる前から諦めていやしないか。
 少しずつ、一歩いっぽだ。日々だ。

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