認められるために

 認められるということは、自分のしたことを人に見てもらって頷いてもらえるということだ。私たちはきっと、いろんな人に認めてもらうことができて初めて生きることができるのだろう。最初は両親から、その後生きていくうちに出会う人たちから認められることでなんとか自分を保っていくことができるのだ。それなしには人は生き場を失うだろう。今うまく人に認められないとしても、自分のやりようによっては、また他の人に頷いてもらえるかもしれない。そうなる可能性を閉ざしてはならない。いつも開いていることが肝要なのではないか。
 彼は、無意識に人に認められたいと思って生きてきた。しかし、認められるべき行動をとっていなかった。つまり何もしてこなかったということだ。なぜ自分が誰にも相手にされないのか思い悩むということもなく、淡々と生きてきた。でも、どこかで認められたいと思っていたのだ。そういう欲求を人は隠し持っているものだ。その気持ちが満たされたらいいのにとどこかで思いつつ、歳を重ねていく。こうしたいということもなく、やらなければ気が済まない何かもなく、月日は経っていく。誰からも認められることもなく、ただ生きている。そうやって生きることだって、人にはできるものだ。恵まれてさえいれば。しかし、それは生きていると言えるのだろうか。どこの誰からもその存在を認められていないという人間。戸籍には登録され住む家もあるという形式上の認可は得ていても、誰も彼を知る人はない。ただ独りの人。
 何かするということの意味を。人と関わるということの意味を。人に頷いてもらえるということの意味を。
 何かするから認められる芽があるわけで、そうでなければ、人に頷いてもらえることなんてない。何もしない人間が認められるなんてことは、たぶんない。そして、何かした人間が必ず認められるというわけでもない。しかし、何かしなければならない。それは人の中に生きるためである。生き場を見つけるためである。
 彼が認められるためには、自分を開かなくてはならない。出て行かなくてはならない。自分のすることの一挙手一投足を精査しなくてはならない。できることをし尽くさなくてはならない。人の心を射抜かなくてはならない。
 そうしようと思わなければ、それはできないことだ。認められたいという自意識をまず自分が認めること。それから、すること。大抵でないことを。それを人に見てもらうよう努めること。頷いてくれる人を探すこと。認められるために必要なことはそういうことだと僕は思う。

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