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お金について

 今日の文章はいま僕が抱えてる悩みのひとつについてです。  僕はお金を稼ぐということに頓着していない。そこそこでいいと思ってるし、仕事しないで暮らせるのなら、そのほうが良いとさえ思う。それで幸せならね。あくまで倫理的に社会的に憲法的にそれが許されるのならば、ということだけど。  お金の話をしようとすると仕事の話になっていくのでとりあえず切り離しておく。純粋にお金について、まずは書きたい。  お金が無ければできないことって結構あるだろう。結婚も子育ても、何もかもにお金はかかる。自分の範囲で幸せでいるためのお金と、人を裕福にするためのお金の量には当たり前だけど大きな差がある。あくまで裕福であって幸せとは敢えて書かない。  あと税金を払うとか寄付や募金をして人を助けるとかみたいな話も今日は割愛します。あくまで自分と自分の周りだけの話に簡略化して考えたい。  お金(を稼ぐこと)に執着しないことの理由の一つには、たぶんどっかで、幸せはお金に依存しないはず、と思っているんだと思う。思いたいんだと思う。お金があるから恋人ができるとか、結婚できるとか子供を育てられるのだ、ということを本当には信じていないのだと思う。なくても愛し合ってさえいれば意中の人と結ばれて、結婚して子供を育てることができる”だろう”と考えている。  ちょっと考えればわかることだけど、それがアマいということは”頭では”わかってる。だからこのことを悩みとして認識しているし、なんとかしたいとも思ってる。頭ではわかっているけど、どっかでそんなのは本当の愛ではないとか、自分の求めている幸せとは違う、などと考えてしまう。  そういう自分の考えは、実は簡単に変更可能でそんなに執着があるわけでもたぶんなくて、「魔法の言葉」一つですぐに違う道を往くだろうって感じはしてる。浅い考えで、自分の都合の良いように考えているだけだから。  何をするにもお金はかかる。どうしてもかかる。この社会では自明である。一人で幸せになろうとしたって当たり前にお金はかかる。その量が少なく済む、というだけの話。自分の範囲なら今の自分で賄えるというだけの話。将来設計も予測も不慮の何某かにもなんの備えもない。  そういう自分を見てバカにする人もいるだろうなと思うけど、なるべくしてこうなってしまったので、あまり気にはならない。要するに病気を患っ

人を人としてみること、モノとしてみること

 仲良くなる人とそうでない人がいるのはナゼなのか。例えば同じクラスになったとしても、特別に仲良くなる人とそうでもない人がいる。たまたま席が前後になった人と気があったとかこの世界には様々なエピソードに事欠かないけれど、何が人と人が仲良くなることを決定付けているのだろう。  人と人が仲良くなるということは、まずはその相手に興味を持つことから始まるだろう。その上でその興味を満たしあうことができたなら、それが仲良くなるということの第一歩かもしれない。  人が人を理解しているということと同じくらいに、その人のことを許せるということが大事なのではないかなぁと僕は思う。他人は他人である。どんなに仲が良くても自分の意に反することはいくらでもあるだろう。全てを自分のいう通りに行動する人がいるとしたら、それは友人ではなく奴隷である。人のすることを理解できなくとも、とにかく許すことができたなら、その関係はある程度はうまくいくんじゃないか。そこにはプライドだとか相手をどう見ているかだとか様々な要素がある。人と人が関わるときに根本にあるべきなのは尊敬の念なのではないか。それがなければ、どんな関係だとしてもうまくいくわけがないとさえ思う。尊敬という言葉が重いのなら、認めているだとか対等に見る、人として見ている、ということでもいい。人をモノとして見ていることは意外と多い。僕の中には人として認められたいというような欲求は当然あるし、人として認められないのならその関係はきっとうまくいかないだろう。  人として認められていない、ということに僕は絶望してしまう。人としての尊厳を失われてしまう。そういう場面では誇り高く生きることは困難だ。見下されることにはなんらかの理由が在るのだろうけど、ここではそのことについては触れない。欠点を晒したくないということではなく、一般性を失うからだ。欠点は誰にでもあるが、人によっては許すことのできない欠陥というのもあるのだろう。ある人たちにとってのそういう許しがたい何かを、僕が持ち合わせていたというだけに過ぎない。 ***  心を開いている閉じているという言い方がある。人は誰にでも心を開くわけじゃない。同じように出会った人に対しても閉じたり開いたりしてしまう。同じ人に対しても時と気分によって、あるいは何かのきっかけによって、開いたり閉じたりしてしまう。人と人の関係

互いに高め合う人間という複雑系

 人と人が何かをするということについて、なにがしかの感慨を覚えてる。なんでもいい。バンドメンバーがそこに集まって音楽を奏でることも、小説家と編集者が寄り添って小説を書くことも、詩人と詩人が対詩をすることも、女と男が知り合って一生を添い遂げることだって。  それは唯の例であって、人と人がすれ違っていくことも、あるいはすれ違いすらしないことも。人と人の間に巻き起こる全てのことを、今は注視したい気持ち。  その人たちが合わさることになった経緯とか努力とか歴史について、思わずにはいられない。それが優れていても、そうでなくても、関係ない。その人たちが出会ったことの尊さを思わずにはいられない。  人と人が出会うことを縁というけれど、縁を感じるかどうかはその人たち個人こじんが決めることだろう。僕が縁を感じても、相手が感じなければ、出会うことはできない。親と子でも、クラスメイトでも、何かを感じなければ、その人たちはうまくいくことはないだろう。愛情を注いでも、うまくいかないだろう。  優れているから必然的に出会うこともあるし、ただたまたま出会ったふたりが高め合って昇っていくこともある。だから優れているというだけでは、私は励起しない。そこで高め合うことのできる人たちこそが私を愛おしくさせる。  私は人とうまくやるだろう。そんな感じはしているけれど、誰とでも高め合うことができるかといったら、そんなことはない。気を許していてもうまくいかないことはあるし、緊張関係にあるからうまくいこともあるだろう。  人という複雑系の存在に、僕は魅了されてる。  僕はまだうまくやる方法を知らないのだ。人に絶望しているわけではなし、希望を持っているというわけでもない。ニュートラルに人を受け入れて、あるいは関わることができるだろう。この先の未来に人が関わってくることは必然で、そのことについては希望を持っている。この家を一歩出たなら、そこには当たり前に人は居て、その人と関わるも関わらないもきっかり半分は僕がその責任を負っている。受け入れることができるだろう。突き放すこともできるだろう。  人と人が織り成す全てを愛す。この全て歴史も未来も輝かしい。  僕がこうするから、君はこうする。  君がこうするから、僕はこうする。  多くはそこから始まっているんじゃないのか。

人に向かって何かをするということ

 ボクはこれまでに、いろんな人の助けを借りて生きてきたのに。それは相手がそうしようとしていたことも無意識のうちに助けになったこともあったと思う。それから時限装置のようにあらかじめ作られたものに(ボクに向けて作られていなくても意図せずボクの前にそれは現れて)助けられたということもあったと思う。回りくどい言い方になったけど、つまりそれは誰にでも日常的に起きていること。全ての造られたもの起こったことはそういう風にボクの眼前に現れてボクに影響している。  そのことに、ボクは無頓着だった。当たり前のようにそれを享受し、当たり前のように消化して、あるいは受け取ってた。本当に当たり前になってしまってて、そのことを感謝することはもちろん感じることもなかったし、尊いこととも思ってなかったのだ。人に親切にすることだってされることだって、当たり前だと思ってた。  だからだと思う。人がなんで自分の造ったものを人に広めたいとか不特定多数の人に見てもらいたいと思うのだろうか、ということを疑問に思ってた。  ボクは当たり前に自分のために何かを書くし、作るけれど、それは全然当たり前のことじゃないんだ。  何もかもがひいては自分のためなんじゃないか、と思ってたこともある。結局は自分をよく思われたい、ということに帰着するんじゃないか、とかさ。  当たり前に人のために何かすることは、当たり前じゃない。そこに意図があるわけじゃなくて、自分のためだけに何かするわけでもなくて、やっぱり人のためになっていることがいつかどっかであるんだと思う。そう思わずにはいられない。  ボクが文章を公開するのは、緊張感を保つためだとか客観性を持つためだ、と思ってた。だけど、たぶんそれだけじゃないと思う。ボクが書くことをやっぱり、人に読んでもらいたいんだと思う。それが何か人影響できたらいい、と、どっかで思ってたと思う。本当に心を掘り下げてみるとね。  この、人に関わるということを「尊い」という表現をするのであっているのかわからない。でも、人に関わるから、造るとか親切にするとか、そういうことに何か特別な感情を抱くんだろう。ありがたいと思うんだろう。そうやって無意識に思ってたことが、意識化されて、ボクは今とても興奮してる。当たり前に思ってたことが可視化されたのだ。  造ること、書くことに懐疑的だった。敷衍することに疑

人が一人でできることなんて、たかが知れているのに

 自分一人で何かをできていたかのように認識していたことが問題で。その裏にはたくさんの人の支えや影響や感化があったはず。ちょっと考えればわかることだ。この世に存在し私が触れたものの中に、私に影響しなかったものなんてなかったはず。  人と分かち合う歓びを、僕は知らないと思っていたけど、それは、僕の想像力の欠如からくることだ。自分一人で何かをできていると思うなんて傲慢なのだ。この世に存在していることさえも、両親の手を借りなければできなかったことなのだ。こうして成長することなら尚のこと。その間にいろんな人と巡り合って、僕は成長してきた。  一人で何かする方が楽しいと思っていた。思ってしまってた。人と何かすることに意味を見出せなかった。人と何かすることは楽しみを倍に、悲しみを半分にする、という言葉を詭弁だと思っていた。自分ですることを決めて、自分で何かを成し遂げることの方が、尊いと思っていた。その方が自然だった。一人でできることなら、一人でやった方がいいんじゃないか。  人が一人でできることなんてたかが知れているのに、一人で何かをしようだなんて。知恵は多い方がいい。愚かさから学ぶこともある。自分より優れた人は多い。  それなのに、僕はずっと独りだった。閉じているとか引きこもっているとか、いろんな言い方を人はするだろうけれど、どれもピンとこない。そういう時間だって必要だ、というのが今の僕の見解で、だけどそれだけでもダメなのだ。バランスが必要。両方できた方が良いと思う。社会性を持つことと、自分の時間を持つことは背反しないのだから。  一人の時間が大切なのは、そういう時間にしか、自分と向き合えないからだ。誰かを媒介にした自分を見つめても、それが自分の向き合うべき自分であるとは限らない。  どっかで僕は人を求めている。人恋しいと思うこともあるし、人に認められたいと思うこともある。世間は人でできている。一人でできることには限りがある。二人集まればそれだけできることは増える。三人増えれば三人分の。自分にできないことは人に任せたら良い。自分にできることをなにかに活かすというのなら、それは間違いなく人がいるできることだろう。他人がいるから自分を活かすことができる。  活かし、活かされる。  生かし、生かされる。  自分にできないことをしようと思うなら、人の力を借りるのが良い

求められるということ

 求められることで成り立つことって、結構多いのかもしれない。こうして文章を書くことは、自分で書こうと思って書いているわけだけど、自分が求めた文章を書いている、とも言えるかも。誰からも──あるいは自分からさえも──求められないとしたら、その人の存在意義は脅かされてしまうかもしれない。少なくとも社会の中で生きることは難しいだろう。どんな人だって、社会の中にいるのなら、なんらかの求めに応じていると言えるんじゃないか。  子は親の求めに応じて生まれてくるという言い方もできるかもしれない。そこに存在していることが、もう誰かの求めに応じているんじゃないか。生きている限り、どこかでだれかがあなたを求めているはず。  あなたを求められているから、その仕事をあなたがするのだ。誰にでもできる仕事だとしても、そこにその時あなたがいるから、その仕事は成るのであって、それはあなたが求められているということに他ならない。  (私のように)誰に求められるわけでもなく、ただ自分のしたいように何かをする人だって、少なくとも自分自身はそうすることを求めているはず。その価値が高まれば、それを求める人は増えるかもしれない。自分だけでなくだれかが自分を求めるようになるかもしれない。たとえ自分のためにしたことであっても、届くべき人に届くことがあるかもしれない。  誰も自分なんて求めていない、なんて諦めてはいけない。自分あるいは自分のすることの価値を高め続けることで、拓ける未来もあるのだろう。  仕事も恋愛も家族も友情も、求めるから成り立っている。どんなに自分には何もない、という人にだって、求められるべき何かはきっとある。この世界には幾億の人がいて、それぞれに何かを求めて生きている。  求め、求められ、僕たちは生きている。期待されるのならできる限り応えたい。そうすることで、できることも拡がるのだろう。自分の可能性を潰す人がいるとしたら、結局はそれは自分自身だ。誰にも求められないとしたら、自分に非があるのだ。求められないとしても、それでお終いというわけじゃない。淡々と日々は続いていくのです。価値が不十分なら、価値を高め続けるしかない。鍛錬を続けよ。いつかどこかだれかに、求められる日があるかもしれない。やるしかないのです、生きるために。

縁は異なもの。それはいいもの

 私たちは出逢ったの。ちょっと不思議ね。それまでは他人だったのに、いつの間にか大事な人になった。  彼といるのは楽しかった。出逢ってから、何回か時間を過ごして、わかったの。この世には本当に相性のいい人がいるんだってことが。  合わない人、場、状況ってのがあるのよ、生きてると。そういうところに執着してしまうことほど、自分をつらい目に合わすことなんてないのよ。乱れるし、自分を見失うの。大事にされると人は執着してしまうものなのよ。そんな不幸はないわ。こんな話し厭ね。  合う人とは何をやってもうまく行く気がするのよ。刺激を与え合えるし、成長させ合うことができるわ。それでいて楽なのよ。この人と一緒にいられたらいいのに、って心の底から思ったわ。  ちょっと前までは他人だったのに、いつの間にか近しい間柄になって、刺激し合って、互いを高め合ってる。疑問があったらそれを指摘しあうこともできる。そういうことを促すし、受け入れてくれる。呼吸するのも笑うのも何もかもが楽なのよ、彼とは。  こうすることができるのって、彼のことを尊敬しているからだと思う。彼が私のことを認めてくれているのもわかってる。だから、こういう関係が築けているのだと思うの。そうじゃなきゃ、一緒にいることなんてできないわ。これからも一緒にいたいと思ってる。  こんなに幸せだと、不安もある。彼を失ってしまうとしたら、そう考えることさえも怖いの。こんなに合っている人とはもう出逢えないかもしれない。彼を亡くしたら、私も死ぬわ。抱き合って絡み合って死ぬのよ。彼との生活のない人生なんてない。彼はもう現れない。そう考えるだけで不安になるのよ。こんな人いないわ。  恋人がいる人はみんな言うわね。「これは運命の出会いだ」って。そう自分に言い聞かせているのかもね。私がそういう人と違うとは言えないわ。でも私の直感が言っている。この人のそばにいると、きっと人生はいい方に行くって。みんなそう言うのかもね。  合う人を見つけたら、逃したら駄目よ。捕まえて、観察して、話をたくさんして、自分に訊くのよ。  幸せになりなさい。自分のために生きることも、人のために生きることも同じなのよ。つらい時間なんて必要ない。楽しむために人生はあるのよ。自分の総ての時間を幸せになるためだけに使うべきだわ。何度でも言うわ。幸せになりなさい。

わたしの人生における友達についての一考察 その3

  一昨日 、 昨日 の続きです。  僕がするべきことは、自分の中の友達像を作り直すことだと思う。友達だと思ってはいけない人たちを友達だと思っていたのだと思う。そのことによる不具合だって気がしてる。というか友達像を作り直すことでほとんどの辻褄は合うのではないか。  ここ最近の自分を見ていると、距離感を誤るということが多い。そういう感覚がなんらかの障害でぶっ壊れているんだろう。友達と思ってはいけない人のことを友達と思っているのだとしたら、そこには齟齬があるのは当たり前で、自分の思い通りにはならないのは当然である。  誰が友達で、誰が友達ではなかったか、ということをここで論じても仕方ない。友達の定義を書いても無意味だろう。  あるグループがあって、そこで楽しむことができない人がいるとしたら、それはそこでは合わなかった、というだけ。自分の欠陥「だけ」を示しているわけでもないし、自分に何かを楽しむ能力がないわけでも、人と楽しむ能力がないわけでもない。いろんな要素があって、僕はそこかしこに存在してる。存在を許されてる。  楽しむか、はたまたそうではないか、というだけで、そこで楽しみたいのか、っていうだけだと思う。楽しめないのなら、他へ行きゃあいいし、そこにこだわる理由なんて何もないはず。そう思えば自分の人生を共に過ごした人たちと、うまくやっていくことだってできるのかもしれない。  ただ僕は心を許すことができない人たちのことを友達と思いたかったのだし、そしてその人たちのことをどっかで友達だと思っていたのだと思う。でも、彼らは友達ではないと思う。いろんなエピソードからそう思ってる。友達なら当然するだろうことを僕たちはそれぞれにしなかった。それぞれの楽しみ、許せないこと、いろんな要素から僕たちは道を別ったのだ。その認識こそが甘いのではないか。  友達と思ってはいけない人のことを友達だと思っていた、ということはそういうこと。それは僕に友達を作る能力がない、というエピソードではない。ただある人たちとそりが合わなかった、というだけにすぎない。  この世界にはたくさんの人がいる。人生のある時期を過ごした人とうまくいかなかったからといって、この世の全ての人とうまくいかないと考えてしまうのは早計だ。実際に楽しく過ごせているエピソードだってたくさんあるのに。悪いイメージばかり

わたしの人生における友達についての一考察 その2

  本を読んでいて、自分が引っかかっていたことについて腑に落ちた話 の続きです。その1はリンクから飛んでください。  過去に起こったことを憂いてもしかたない。今日こそは未来について書きたい。そこにしか行く道はないし、考えてもしかたないことを考えてもしょーがない。  人の担保があるからこそ、人との繋がりがあるからこそ、私はわたしとしていられる。昨日はともだちという言葉を使ったけれど、それは他者と言ってもいいと思う。独りよがりを脱するためには他者の目が必要だ。自分を保つためには、社会が必要である。  笑って過ごしていたいし、楽しく過ごしていたい。いつだって。できる限り楽しく生きていたい。死ぬまでそうしていたい。一人で笑うことなんて、たぶん虚しいことだろう。真に独りだったら──社会と寸断していたら──笑うことなんてないだろう。楽しいことも少ないだろう。  人と分かち合う喜びをぼくは知っているし、人と笑い合う喜びも知っている。人に認められる喜びも知っているし、人が楽しんでいるのを見ると、自分も楽しくなる。人にはいろんな価値観があるし、考えもある。そういった違いを許容することもできるし、多様することは楽しいことだと思う。  いろんな人がいるから楽しいのに、ぼくだけは許されなかった。ただそれだけのことだったのだ。状況や流れや人が違えば、ぼくはうまくやるだろう。未来への不安を払拭したい。そのためには過去のことを水に流すわけにはいかない。だけど、そのことを書いている紙面は今日もない。  うまく人を頼ることができない、っていうのは大きな問題だと思う。そうだからこそ自分の美点はあったのだと思うけど、しかしそれは大きな欠点でもある。人に相談ができない。そういう言葉を持っていない。表現がない。だからこうして書くわけだけど、それにも限界がある。自浄するには限界がある。そこには誰の担保もないからである。自己完結した独りよがりな考えほど、醜くなんの役にも立たないものはない。  心を許している人がこの地球に少なすぎる。それは同時に僕のことを信頼している人が少なすぎるということでもあるかもしれない。僕はいつもぎこちなく人と接してる。どう人と接したらいいのか、未だにわからないでいる。表現を持っていないということの欠陥を今日も抱えてる。  ツイッターやブログをやっていて思

わたしの人生における友達についての一考察

 本を読んでいて、自分を縛り付けているものについて腑に落ちた。そのことを考えると過去のことを書かなくてはならないけれど、なるべくそれは簡潔にして、なるべく未来のことについて書きたい。  要するにキーワードは『ともだち』なのだと思う。こう書くと一気に某〇〇世紀少年ぽくなるけど。過去について触れたくないのは、それがトラウマに直結しているからだ。そこを掘った時、自分がどうなってしまうのかわからない。だけど、表現してみる。  大学一年の冬に、エポックメイキングなことが一週間くらいの間に起こった。そこで、その何年間かに付き合いのあった人たちと縁を切ったり、その一年間所属していたサークルを辞めたりしている。つまりそこで一気に『ともだち』を失ったのだと思う。その影響が大学四年の時に出て、私は喋ることができなくなったのではないか。私は今そう考えてる。  物の本によれば、ダブルバインドに挟まれた時、わたしの病気になることがあるらしい。つまり処理できない問題を抱えすぎると病むということだ。  『ともだち』は欲しいのに自分は拒絶してしまった。たぶんこれだけ書いても読んだ人には意味不明だと思うのだけど、この文章ではここまでしか書けない。とても過去のことを詳細に書くには字数が足りない。わたしにも落ち度はもちろんあったし、彼らにもあった。とにかく、わたしと彼らを繋いでいる糸は切れてしまい、それを修復することを互いにそれほどしなかった、ということだ(ちょっとはあった)。そこには男女間のもつれも絡んでるし、うまく説明する自信はない。わたしは不器用だったし、彼らはわたしを切り捨てたと思う。とにかくそういう結果だけが残ったのだ。  その時にはわたしは自分のしたいようにしたと思っていたけど、やはり心にずっと抱えていたんだと思う。それが後になって響いたのだ。抱え込んだ闇の大きさに耐えられなかった。人を切り捨てる、切り捨てられるということは闇と直結している。  ともだちを作ることが自分にはできないのではないか、というのがわたしの根本としての未来への悩みだったように思う。言い換えれば、病気の原因は、ともだちが欲しいのに、裏切ってしまった、というダブルバインドだろう。ともだちを失った自分を心のどこかで了承できなかったのかもしれない。そしてそのことは、未来にともだちができないかもしれない、という思考へ

人間関係不得意

 人がどう思ってそれをしたんだろうって、思いを巡らす想像力を失いたくない。だから、自分に関することだけじゃなくても、いろんな人のいろんな場面でのいろんな気持ちを知りたい。どういう時に、人はどういう行動をするんだろう、って。どういう行動をすると、どういう意味が生まれるんだろうって。  行動そのものよりも、行動によって生じる意味が大事なんじゃないか。その意味によって人がどう感じるか、ということ。そのことを考えないといろんなことを間違える。僕は自分がどう思われてるのだろうということにも、これを言ったら相手がどう思うだろうということにも鈍感なので、いろんなことをよく間違える。 ***  行動によって立ち上がってくる意味は、その行動をする人によって変わってくる。同じ行動をしたとしても、同じことを言ったとしても、その人のキャラクターによって、相手の受け取り方が変わったりする。尊敬してる人がすることと、見下してる人がすることは意味の受け取り方が変わったりする。  それから受け取る人のキャラクターによっても行動から立ち上がる意味の享受の仕方は変わるだろう。 ***  僕はただ言いたいことを言ったり、したいことを行動したりするだけなので、人と接することに困難を感じるのだと思う。今は僕のキャラクターを把握してる人たちによって、たまたま許されているというだけに過ぎないのではないか。本当は意味不明なことをたくさんやっているんじゃないだろうか。 ***  人が行動する。  その行動から意味が立ち上がってくる。  それを人が受け取る。  そして何かを思う。  人の営みはそうやって成り立っているんじゃないか。自分の思ったことが直接人に伝わることはほとんどなくて、そのほとんどは行動を介して伝わる。自分のキャラと相手のキャラとの相互作用(行動による意味の受け渡し)によって人間関係は成り立ってる。 ***  僕は鈍感すぎるのだ。自分のしたことと相手が受け取ることについて。それと同じように相手のしたことと自分が受け取ることにも鈍感だと思う。自分のできないことを自分が把握することは難しい。  人との関係を今よりもっと築いていきたいのなら、自分のしたことを人がどう受け取るか、人がしたことを自分がどう受け取るか、ということに感覚を張らないといけないと思う。それが思いを巡らす想像力

補助輪

 置かれた補助輪。はしゃいだ子供が乗ってくる。 ***  初めて自転車に乗れた日のこと。なんとなく乗れるような気がして、父に頼んで外してもらう。補助輪を外すには道具が必要で、それは自分一人ではできないことだった。なんとなく、それだってできそうだったのだけど、だってねじを回すだけだから。だけど、父に頼んだ。乗っているところを見て欲しかったのかもしれない。  ぼくは自転車に乗りたかった。補助輪はついていても、ついてなくてもどっちでもよかった。だからたぶん一年くらいつけていたと思う。そうするうちに上手くなっていって、補助輪なしでも走れるようになっていた。いつの間にか。それは実は父の調整の賜物で、父のレールの上にいつの間にか乗っていたわけだけど。  ぼくは当たり前のように父の前で補助輪なしで走って、なんだか誇らしかった。補助輪のシャラシャラ云う音をさせずに走ることができたから。気にしていないふりをして、やっぱり気にしていたのかもしれない。情けないという気持ちにはなっていなかったけど、なんとなく負い目を感じていたのかも。それは父がなるべく補助輪を外そうと工夫したことから感じる何かだったのだ。  言うなれば、社会性のようなもの。  人は社会に少しずつ適応したり、外れていたりする。人と違うことを不安に思ったり、誇らしく思ったりする。どっちが良いってもんでもなくて、ただ、幸せだったらそれで良いんだと思う。  補助輪がない方が曲がりやすい。友達にもばかにされない。シャラシャラ云わない。  自分の感覚として手に入れたものは失われない。成長の感覚。誇らしい感覚。烏合する感覚。 ***  少年は補助輪を置く。誇らしい気持ちと、うれしい感触と、かりそめの自由を手に入れたのだ。その自転車で、どこまでも行くのだろう。

言葉の力を思考/施行する

 言葉で表現してわかること。上から順に書いていき、上の文字が下の文字を規定する。上に意味があるから、下も意味を持つ。どれ一つとして欠けても意味を為さない。無駄がなく、練られた言葉は、強く響く。  書く言葉は試行錯誤できる。納得がいくまで練り上げることができる。話す言葉ではこうはいきそうにない。上から書いていく。最後まで来て読み直す。自分の表現したいことが現れているだろうか。これを読んだ人に自分の伝えたいことが伝わるだろうか。効果的に伝わるだろうか。人の中に何かを響かせることができるだろうか。ぼくの知恵は発揮されているだろうか。それは紛れもなくぼくの言葉だろうか。  書いていくうちにそこにこの言葉が必要だとひらめく。それを順番に言葉にしていく。とっさに浮かんだ言葉も、感覚的に入れた言葉も、一緒くたになってこの言葉の集まりに参加している。それぞれに作用しあってそこに存在している。書きあがったものは、なんとなくまとまっているかのように見える。でもそれが効果的なのか、ぼくにはわからないでいる。  いつもうまく言葉にできているとは思ってない。いつだって不甲斐ない思いをしてる。何かが足りてないような気がしてる。言い残したことがあるんじゃないかといつも不安。もっと効果的に伝える方法があったんじゃないか。ぼくが書かなくてもよかったんじゃないか。  書いて伝えるということには、魔法がある。文字にすることで印象を残すこともできる、文字を残しておくこともできる。その文章は今でない、いつかその人を救うかもしれないのだ。  他ならぬぼくが知恵を練りこんで書いた文章を、ぼくの大事な人に贈るのならば、それはぼくにしか書けない文章である。 ***  人を説得するとき、言葉を書く。自分を説得するときにも。それを読んでもらうことさえできたら、うまくいくかもしれない。読んでもらえないことにはどうしようもない。誤読だってされるだろう。できるだけ、わかりやすく書く。論旨明快に。  相手がぼくの意図に気がつくとき、気持ちの良いように書きたい。頭の中を解きほぐすとき、言葉はとても有効だ。言葉を以って考えない人は少ない。だから言葉で解く。隠れた自分を見つけたとき、懸命な人にとっては心地が良い。ぼくの文章を読むうちに、そういう気持ちになってほしい。  淀みなく書かれた文章はすらすら読める。つぎつぎ