わたしの人生における友達についての一考察 その2

 本を読んでいて、自分が引っかかっていたことについて腑に落ちた話の続きです。その1はリンクから飛んでください。
 過去に起こったことを憂いてもしかたない。今日こそは未来について書きたい。そこにしか行く道はないし、考えてもしかたないことを考えてもしょーがない。
 人の担保があるからこそ、人との繋がりがあるからこそ、私はわたしとしていられる。昨日はともだちという言葉を使ったけれど、それは他者と言ってもいいと思う。独りよがりを脱するためには他者の目が必要だ。自分を保つためには、社会が必要である。
 笑って過ごしていたいし、楽しく過ごしていたい。いつだって。できる限り楽しく生きていたい。死ぬまでそうしていたい。一人で笑うことなんて、たぶん虚しいことだろう。真に独りだったら──社会と寸断していたら──笑うことなんてないだろう。楽しいことも少ないだろう。
 人と分かち合う喜びをぼくは知っているし、人と笑い合う喜びも知っている。人に認められる喜びも知っているし、人が楽しんでいるのを見ると、自分も楽しくなる。人にはいろんな価値観があるし、考えもある。そういった違いを許容することもできるし、多様することは楽しいことだと思う。
 いろんな人がいるから楽しいのに、ぼくだけは許されなかった。ただそれだけのことだったのだ。状況や流れや人が違えば、ぼくはうまくやるだろう。未来への不安を払拭したい。そのためには過去のことを水に流すわけにはいかない。だけど、そのことを書いている紙面は今日もない。
 うまく人を頼ることができない、っていうのは大きな問題だと思う。そうだからこそ自分の美点はあったのだと思うけど、しかしそれは大きな欠点でもある。人に相談ができない。そういう言葉を持っていない。表現がない。だからこうして書くわけだけど、それにも限界がある。自浄するには限界がある。そこには誰の担保もないからである。自己完結した独りよがりな考えほど、醜くなんの役にも立たないものはない。
 心を許している人がこの地球に少なすぎる。それは同時に僕のことを信頼している人が少なすぎるということでもあるかもしれない。僕はいつもぎこちなく人と接してる。どう人と接したらいいのか、未だにわからないでいる。表現を持っていないということの欠陥を今日も抱えてる。
 ツイッターやブログをやっていて思うけれど、この世界の何処かには、ボクのことを理解してくれる人がいるのではないか、ってどこか期待している。でも現状そんな人はたぶん現れないだろう。ネットで出す情報には限界がある。一人で考えるよりは独りよがりではないかもしれないけれど、それでも足りない。他者の目を感じているというだけで、そこに実際に他者がいるわけではない。それは自分の中の他者に過ぎない。
 ボクに友達がいない感覚を与えているもの。それは自分自身である。自分がそれを許していない。ネット上にだって、どこにだって、その人たちはいるだろう。いるはずだ。そういうポテンシャルは誰にだって、ある。道端にだって喫茶店にだってある。許していない、信じていない、ただそれだけなのではないか。自分のされたことを人にする必要なんてない。楽しく生きたいと願うなら、楽しく生きるように努めて尽くす以外にない。そのこと以外にすることなんて何もないのだ。そのことに邁進したらいい。余計なことを考える暇などないのだ。
 誘え。魅力を以って。そのことから始まる。そのことからしか始まらない。楽しみはどこにだってあるのだろう。

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