どう思われてもいいという思考

 自分をどう思われたいと思っているのか、考えてみたいと思う。わたしにとっての表現ってなんなんだろう。それを考えようと思ったきっかけは服装について考えたからだ。
 最近よく逢う友達は、わたしと違ってとても服にこだわっている。本当に一緒にいるのが申し訳ないくらい。わたしは服にこだわりがないし、防暑防寒できたらそれでいいという感じなので、ほんとに"ひどい"格好なのだ。つまり、人にどう見られたって構わないということになる。見た目で判断するなとも思ってるだろうし、判断されたくないとも思ってるはず。それって本当に身勝手な考えだと思う。
 人はどうあってもまず見た目で判断するし、中身は長いあいだ接してないとわからないことだから、どうでもいいということは多いだろう。体裁が大事だというのは大袈裟だけど、それでまず判断されることは多い。人にどう思われようが関係ないという思考は、かなり"ヤバい"。
 つまりわたしは表現をそう捉えているということだ。表現したことを、どう思われてもいいと。一緒に遊んでる友達にどう思われてもいい。書いた文章を読んでる人にどう思われてもいい。つぶやきを読んだ人にどう思われてもいい。撮った写真を見た人にどう思われてもいい。潔いように見えるけど、実際にはそこに気を使っていないということでしかないと思う。自分を晒すことを善と思ってきた節があるけど、素材のまま出したって美味しくないし、オモシロクもない。味付けが必要である。
 どこか投げやりに人にどう思われてもいいという感覚に蝕まれている。どう思われているかに気を張ることに慣れていない。そう意識し続けなければできないと思う。根底から自分というもののなにかを変えないとできないことだと思う。つまり「すべての振る舞い」「すべての表現」「すべての人に見えること」に気を巡らすということだ。それを自然にできるように習慣にすることはけっこう大変なことだと思う。意識の問題だけど、変にナルシスト的になるのは違うし、奇抜な格好、奇抜な表現、奇抜な発想をしたいというわけでもない。一見普通に見えるものの中に、この人はわかっているという何かがあるのが理想。わたしは普通の人でありたいし、あくまで平凡な人である。そのことに劣等感も全然ない。目立とうとか、よく見られたいというのであればこういう表現はしないと思う。人にどう思われてもいいと思っていたのがその証左である。
 自分から友達を作ろうとしなかったこと、服装に興味が無いこと、自分をどう思われてもいいと思うこと、文章をどう読まれてもいいと思うことは、ぜんぶ根は同じである。このままでは人生にとって大きなものを失うことになる。服にこだわりを持つことは文章にこだわりを持つこととつながっている。ほんとうにそう思ってる。大きくみたらすべて表現だし、自分をどう見られているかということに視点を持つということだ。
 大きな転換点にいると自覚してる。
 「つまんない」と言われたくないと思えって、書くのは簡単だけど、ずっとぬるま湯に浸かってた人間には厳しい。わたしはあらゆる点でそういう風に育てられたのだという逃げが効いている。安寧しない気構えがいる。いつも評価の目を感じ続けるということだ。目を持つのはあくまで自分。そしてそれを課し続けること。「つまらない」「ダサい」「友達が少ない」をイタミに感じなければ、変わらないだろう。読んだ人につまらないと言われるのはつらいけど、あいにくそう言ってくれる人もない。ダサいと言う人も、友達少ないんすね(笑)と言ってくる人もない。目を持って、自分で行動しないことには進まない。誰かが代わりにやってくれるわけじゃない。
 自覚はこうして書くからはっきり確認できることであって、書くことでまとまっていくし、考え、定着していく、はず。だからわたしは書くことをやめられないのだと思う。

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