「傷つきたくない」こと

 「傷つきたくない」気持ちを凌駕できれば、拓ける未来もあるはずなのに。踏ん切りがつかないでいる。
 人はふつう傷つきたくない。身体面でも精神面でも。傷を負うことは命にかかわるからだ。もっと自分を傷つけよとは思わないけど、わたしは傷つくことを過剰に恐れすぎだと思う。傷つきそうなところに足を踏み入れないことで、傷つくことを回避している。
 でも、けっきょく傷つく時は傷つくのだ。人間どうあっても傷つくものかもしれない。完璧な人間なんていないし、失敗もする。独りでいても自分のしたことで傷つくし、人と居れば尚更だ。人との輪郭のことを傷と呼んでもいいくらいだ。ちと中二的発想だが。
 傷ついた時にどう対処するか、できるかでその人の人格が決まるのではないか。そのためには経験も、勘も必要。例えば恋愛に積極的な人にはきっと負う傷を癒やす方法があるのだろう。というか自然と身に着けていくものなのかもしれない。もしかしたら麻痺してるのかもしれないが。人は持ち堪え得ることをだけしているとも言えると思う。わたしはその閾値が低いのだ。
 何ごとに対しても「傷つくかもしれない」と怖がっているのでは話にならない。皿になにも盛らなければ、その人の料理を堪能することはできない。
 傷つくのを避けて生きることで、わたしの精神はどんどんその痛みを耐え難いものにしてしまっている。どんどん打たれ弱くなっている。傷つくことを恐れるのが過剰だというのはその結果だと思う。普通の人には当たり前のことも恐れている有様。わたしは温室で育ってしまったのだ。
 傷つくことは生きていくのに当たり前かもしれない。「死ぬこと以外かすり傷」という座右の銘を持つ人がある。そのくらい強く生きられたら良いのに。
 わたしは痛みに慣れていない。ちょっとしたことで痛みを感じてしまう。過敏と言えるかもしれない。人は当たり前のように傷つく。そこでわたしは足掻いてない。受け入れてしまっている。
 ほとんど自分ひとりと言っていいくらいの規模でしか生活していないのに、傷ついている。ひとりなのはさらに傷つくことを恐れているからだ。そしてその恐れが人に伝わるからだ。恐れを表している人間に人はどう接していいのかわからない。表しているのは他ならぬ自分。恐れたとしても、人にいらぬ心配をかけたり、気を使わせるのはわたしの本意ではない。表現しない工夫をするべきだと思う。
 痛みを恐れている自分を自覚すること。なにかを避けているとき、傷つくことを想定している、と自覚すること。あとは肚を決める以外にないと思う。痛みは、痛み。代え難いものだ。避けては生きていけない。傷つくことを受け入れることで拓ける人生がある。人はひとりでは生きられないのだ。それなしには生きられないのだ。
 足掻いて、あがいて、傷ついて、生ききってやる。

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