人とひとが会うということ

 去年の今日の日から一年間、なにか変わっただろうか。
 思うに人とそれなりに会った。この一年で初めて出会った人もいる。人と会うということの概念にちょっと変化があった。というか病気になってからこっちが歪んでいただけなんだけど。人とひとが会うことがどういうことなのか、今日は考えてみたい。ちょっと長くなると思う。
 ただ会うというだけなのに、ただ目の前に居るというだけなのに、わたし達は何かを交換している。わたしは会った相手からなにかを得て、なにかを与えている。表層にも深遠にも。その合意があるというだけで、その人の何かを規定している。心のどこかでこの人と会うことはどういうことなのだろうと、無意識に考えるのだと思う。会うというだけで、許されているということもできるかもしれない。会いたくない人とは会わなくたっていいのだ。会うというだけで、何かがお互いに定まる。ふつうそんな大袈裟に考えないものかもしれないけど、わたしにとっては大問題なのだ。だから敏感になっている。会う相手を選んでいるというわけでなくて、「逢うこと」そのものが、わたしにとっては一段高いところにある。あるいは異常事態。えまーじぇんしー。
 人と会うのは(ほんとうには、)エネルギーがいることだ。どこかで、自分をどう思われるのだろうと、気にしないつもりで気にしてしまうものだろう。見た目にも、振る舞いにも、受け答えにも、思っていることにも。相手を大事に思えば思うほど。
 人と会うことの楽しみ、あるいは軋轢は会うからこそ起こる。会わなければ、たぶん一生触れ合うこともなく、ただ、お互いが知らないふりをして、それからも生きていくのだろう。縁あって出会った二人が、逢うことの幸福よ。大袈裟かもしれないけれど、わたしにとっては。
 わたしはいろんなことに影響を受けて生きている。書物にも音楽にもwebにもニュースにも、あるゆる情報から、芸術から、社会から。それを造っているのはあくまで人である。それを伝えるのも人である。それに価値の重みをつけるのも人である。その人は身近な人もいれば、人生には関わり合いのないように見える人もいるかもしれない。
 この世は人によって成り立ってる。人のいない世界なんて在り得ない。その人の作ったもの、その人が伝えたもの、価値の重みを付けたものと出会うことはその人自身と出会うことに似ている、と言ったらたぶん大袈裟だけど、会った気分になることがある。わたしはそれで満足してしまってた。会わなくても良いと。それは自分に自信がないからだと思う。この立派な人に自分みたいな人間を見せることが怖かったのだと思う。怖いというのはちょっと違うかな。煩わしいというかさ。立派な人にでなくても、市井の人にも、友達にも、とにかく会うことが億劫だったのは、影響し、影響されることが厭だったのだと思う。わたしはそんな人たちと謁見を許されるような人間でないと思っていたと思う。いまでも少しそう思ってる。
 こんな自分を人に許されたから、わたしは人と会うことが楽しくなったのだと思う。自分をすこしだけ認められたのだと。自分で自分を認めたのだと思う。
 人と会うことを考えることは友達とか、人間関係とかいろんなことがつきまとうので面白くて書くことに事欠かない。やはり、面白いのは人間なのだ。
 またこれからの一年で、どんな変化があるのだろう。それを楽しみにするということは、これまでの一年はそれなりに楽しかったということなのかな。不安も焦燥もあるけれど、なんとかやっている。これからもやっていけるだろう、と祈る。
 今日また一年シに近づいた。わかったりわからなくなったりしつつ、今日も生きてる。来年の今日は良いことあるといいけど。

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