人と人との距離感について その2

 「この世界には見えない人の環がある」というようなことをある映画の主人公は言ってた。あるところではうまくいく人も、またあるところではうまくいかなかったりする。なにがそれを決定しているのかはわたしにはよくわからないけれど、きっとなにかがあるのだろう。多くのところでうまくいく人格の人もいれば、限定された環でしか輝けない人もいる。
 人にはそれぞれに良いところと欠点とあると思う。それをそれぞれに周りにいる人が見るか見ないかというだけなのか、いや、もっと奥深いかもしれない。きっと人と人は許したり許されたりしているのだろう。
 人と仲良くするってのはどういうことなのか。ふとしたきっかけで気があったり、魂が惹かれ合っているとしか思えないような出会いがあったりする。共通の趣味や好きなものがあると仲良くなりやすいってのはわかるけど、どうもそれだけではないらしい。
 ある準備のできている人は誰とでも仲良くなるし、閉じている人はそうでもないかもしれない。ひとは基本的には親切だ、とわたしは知っている。ある特定の条件で不都合なしになにか理由を持って出会うことができたなら、きっと誰とでも仲良くなれるだろうって気はする。ただその条件はよくわからないでいる。
 縁と片付けてしまっていいかもしれないけど、簡単すぎるのでもう少し考えたい。
 わたし達は人と出会った時、距離を取って何かを守ろうとしている。距離のとり方は丁寧語を使うとか、御座なりに扱うとか、塩対応するとか、人によって違うと思う。親しくなりすぎないようにしているし、距離を取ることで嫌われないようにしているのかもしれない。相手がどんな人間かわからないうちは様子をうかがっているのかも。無為に嫌われたり、あるいはその気もないのに親しくされたりすることが煩わしかったりするのだ。なにかの担保のない人と関わることが億劫になっている。
 楽観的なわたしは人はふつう親切なものだといい、悲観的なわたしは自分を閉じていると決めてしまう。
 誰とでも仲良くなれるかもしれないし、誰とも仲良くなれないかもしれない。その不思議をいま噛み締めていて、とてもおかしな気分。もう少しポップで愉快な方に振れていったらこの文章群を読む人も現れるのだろうけど、あいにくそうはいかない。いまの自分の気分としてはこの文体がちょうどいいんだ。
 自分のことをどう捉えているのかも、わたしにははっきりしない。なので他人が外から見てよくわからない人だと思うのは当然だと思う。自分でもよくわからないんだから。なにが外に表出しているのか、それを人がどう受け止めるのだろうということにあまりにわたしは無頓着だと思う。その点は反省しないといけない。それはわたしという人格に根本的に関わってくることだと思う。
 友達はいろんなことを我慢してくれてたり、あるいは心配かけたりしているのかもしれない。
 何十億という人がいて、たまたま出逢った人たちが仲良くしているのは不思議だし、なんというか、とても心地が良いものだ。人間関係というのは安易に切れたりまた繋がったり、ぼくにはイマイチ把握することができていない。なんとなく慣例に従って振る舞っているにすぎないと思う。そのぎこちなさが危ういなといつも思う。わたしはたぶん、生きていくのに大事な感覚を持っていないのだと思う。
 わたしは自分の都合の悪いことは見なかったことにするし、忘れようと努めるかもしれない。でも、それではきっとだめなんだ。きちんと向き合わないことには、先に進むってことはないんだと思う。

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