父について

 父が元気ないので今日は彼について書く。人間を描くとはどういうことか、何の結論も出ないままに書いてしまうけど、たぶんなんとかなるはず。なんとかする。書くことで見えてくることもあるはず。
 たぶん父のことを書くのなら、わたしにとっての父についての最初の記憶から書くのが良いのではないか。はっきりとした時期がいつだったか定かではないが、こんな記憶がある。
 父が仕事帰りに何かおもちゃを買って帰ってきたことがあった。プラレールだったかもしれない。わたしがうんと小さい頃。そのことをよく覚えてる。今日は自分の誕生日なのかとわたしは母に訊いたように思う。しかしその日はなんでもない日だった。もしかしたら、夫婦の何かの日だったのかもしれない。誕生日でもないのにおもちゃを買ってくれるなんて、この人はなんと良い人なのだろうとわたしは思ったのだ。わたしは心からありがとう! と言ったと思う。たぶん、母にこういう時なんていうの? なんてそそのかされたのだろうけど。わたしの記憶に残る最初の「ありがとう」は父に対してであり、それがわたしにとっての父の最初の記憶である。
 父はいろんなことを抱えた人だ。基本的には優しい人なのだが。どうにもならないことをどうにかしようとするタイプでもなく、駄目なら駄目で諦めているような人。息子に対してもうまく振る舞うことができず、人との関わりを捨て去っている人。こういう人がそばにいるから、反面教師にわたしは人との関わりを捨ててはならないと思ったりするのだと思う。
 何かを考えてる風でツメが甘かったり、だらしなかったり、ハリキッテ作った料理はまずかったり。いつも母への配慮がどこかズレている人。母はそれを優しさとして受け取り、しかし実益のないものだと思っていると思う。突然の思いつきで良かれと思って買ってきたものが役に立ったことはほとんどない。野菜を育てるが何が必要かという質問は一切せず、ただ作りたいものを作っていく。そしてどこかズレている。それを笑うでもなく、馬鹿にするでもなく、母は優しさとして受け取っている。うちはそうやってうまくいっている。
 他の父親と比較したことがないので、わたしは普遍的に父を語る言葉を持っていない。自分が父親になるとしたら、父を見習うところは見習い、自分なりに、成るのだろう。
 父は理不尽なことは決して言わなかった。説得には必ず言葉を使う人だ。そして優しい人。どこか諦めてる人。
 父の何がわかって書いているわけでもないし、一言では人の人生なんてまとめられない。自分もまとめられたくないし、自分のことを文章にしたと言われたら、ここが違う、あそこが違う、わたしはこんな人間じゃないと憤るだろう。そういうことをわたしはしているし、書き足りないことも分かっているのだけど、書かないことには気持ちが収まらない。ここ数日で、父との別れが近づいてるように思うから。

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