好きになる由縁

 人がなにかを好きになったり、人を好きになったりする、そのメカニズム。なぜ人はなにかを好きになったり、人を好きになったりするんだろう。野暮なことは言わず、ただ好きだから好きなんだって終わらせることだってできるけれど、ちょっと考えてみたい。
 有名な何かや説得力のある何か、あるいは友人による何かによって人はなにかを好きになったりすることがある。自分が好意を寄せている人の何かは重く価値付けられて目の前に迫るし、認めている人の何かだってとりあえず話を聞こうという態度になりがちだと思う。わたし達は社会的な動物なのだから、それは当然だと思う。テレビに出たものは価値のあるものだと思いがちだし、影響力のあるものに人は弱い。
 ものを見る目、人を見る目ってなんだろうなと思う。何を以って価値のあると認めるのだろう。何に価値があるかは人によって違って当たり前のはずなのに、そうでもないようにも思うし、そうであるかのようにも思う。共通した価値認識がないと経済が回らないからそうなっているだけなのかもしれない。
 生まれてからすべての人が違う道を征く。だからその価値観だって違うはずなのに、影響の受け方によって、みんな同じ方向を向いたりする。時代の空気みたいなものなのだろうか。みんなが似たような状況の時に同じ気持ちになったりするのは当たり前なのかもしれない。
 別にその流れから逆らおうとも思わずに、むしろ乗れない感じで、わたしは生きている。きっと、どこか変なのだと思う。
 みんなが好きでもないものを好きな時に、本当にそれを好きなのかどうか、自分でもよくわからなくなる。自分だけが好きなことに酔っているだけなのかもしれないと思ったり。でも、本当に一人だった時も今と変わらずに好きなものがたくさんあったと思う。なんだかわからないけど、好きなのだ。なにか基準というか、モノサシがあるに違いないと思う。理屈かもしれないし、感情かもしれないとも思う。自分でもよくわからない。
 わたし達はじぶんをコントロールできるようで、できない部分がある。好きという気持ちはunコントロールな気持ちかもしれないし、意思によってそれを押さえ込むことだってできるのかもしれない。それが人間の面白いところだとわたしは思う。
 惰性、妥協、同調、共感。いろんな価値付けがわたし達の周りにある。何を以ってすればわたしは幸せな気持ちになれるのかわからない。
 いろんなものを、偏見なく好きでいたいって気持ちがすごくわたしにはある。いろんな価値観を楽しみたい。その方が人生は豊かだと思うからだ。そのために必要なものはきっとたくさんある。知らなければわからないこと、手に入れなければわからないこと、一緒にいなければわからないこと。多様こそ強みでありたい。いろんな楽しみをこそ楽しみたいと思っている。

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