コミュニケーションの端にいる人。

 目の見えない人が、高い場所にいて怖がるだろうか。それと同じようなことが自分にも言えるんじゃないか。つまりしゃべれないことを自覚しないようにしている。しゃべれないことでおこりうる損害や恐怖を避けていると思う。目の見えない人が高いところにいることは危険なこともある。そういう危うさを、わたしは無意識に回避しようとしているのではないか。
 ぼくは人間が本来的に親切だって知っているし、でも、そうでない人がいるってことも知っている。様々なバリエーションの中にいるってこともわかってる。ある親切な人が次の瞬間、悪人になることだってわかってるつもり。つまりそういうものなんだ、人間は。
 だからこそ怖いなって思う。自分自身を含めて信じすぎるのも、信じなさすぎるのも。その中間で、うまく自分をコントロールできていない。どういう振る舞いを人に対してしたらいいのか、わからない。
 謙虚に、礼儀正しくと言うのは基本だとは思うけど、というかそう教育されたんだと思うけど、そのことがどういう結果をもたらすのかの実感が無いと思う。というかそれで不便がなかったというだけにすぎない。尊大にいたこともあったし、それで痛い目にもあったんだろうけど、未だに自分を包括しきれていない。おとなになっていない。
 しゃべれないところにいるから、見えてくるものがあるはず。人間関係とかコミュニケーションについて。わたしは常に高いところにいる、盲なのだと思う。そういう危うさを感じてしまってる。そしてその危うさを怖がってもいないのだ。無頓着であることが、怖い。想定していない怖さというか。先の見えない怖さ。未来もそりゃあ見えないし、でも、したいことはたくさんある。人並みにね。
 目の見えない人には自分が高いところにいるかどうかもわからない。知識として知るだけだと思う。コミュニケーションに於いていまわたしがどこにいるのかというのを察するすべがない。下手をすれば落っこちていくのではないかという恐怖。どう振る舞ったらいいのかわからない。どうするのがわたしなのか。わたしらしいのか。『わたしらしさ』とはなんなのか。コミュニケーションとはなんなのか。人間とは。
 いずれにせよコミュニケーションに於いてわたしは端にいると思ってる。だから見える地平もあるのではないか。目の見えない人だから感じることのできる視界というのもあるのではないか。少なくともわたし達は『状況』に敏感であるはずだ。目の見えない人が素晴らしい音楽を奏でるように、わたしにはコミュニケーションに於いて、わたしにしか感じない何かがあるはず。それは制限されているからこそ感じる何かだと思う。
 それは人間の機微である。コミュニケーションの機微である。こういう時に人はこういう言い方をするということの積み重ねをわたしは蒐集し続けたい。それこそが人間であるという言い方だってできると思う。同じアクションに、ある人は塩対応し、ある人は熱心に応えてくれる。その違いを考えないわけがない。それはわたしが孤独に近いところにいるからだし、そして、しゃべれないからだ。
 わからないことは、わかるようにするしかない。一つひとつ学んで、理解して、実践していくことだと思う。わたしにはそれができるはず。わたしがせかいになにか奉仕することができるとしたら、人と人との関係を明確に表現していくことなのではないか。書くことでなら、それができると思う。

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