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6月, 2017の投稿を表示しています

真っ当に愛し、愛されたい。

 いろんなことについて、正しく考え、正しく選択して、正しく行動すれば、絶対なんとかなるはず、と思ってきたけど、「正しい」という概念自体に不安ができてしまって、混乱してる。それは、自分の思いたい、自分にとって都合のいい「正しさ」なのかもしれない。そこにはたぶんなんの根拠もないし、誰の担保もないただの戯言なのだ。あるのは自分の感覚だけで、そしてそれにはきっといろんな偏向が混じってるし、いろんなことに影響され、作用されてる。それを自分が思っていることだと信じている。自分の考えなんて、たぶんない。正しさもない、どこにもない。   言葉でしゃべって、人と交錯することを、わたしは良しとしていないのかもしれない。人と交流することは否定していないにせよ、わたしには、絶対になにかある。ただ脳細胞の分泌によって何かが起きているに過ぎないとは決して言えない。なにかエピソードがあったのだろうか。思い当たる節はない。あるいはなんらかのエピソードによって恢復するところまできていると思う。重大なことを置き去りにしたまま、わたしは生きてしまっている。そのことに危機感もない。   要するに、人との関わりにズレを感じているのだ。それは、自分に自信がないからかもしれない。自分に自信がないのは、人を愉しませられるかどうか、という点なのだと思う。外見ばかりで判断され続けて、わたしはすっかり自分という人間に自信のない人間となってしまった。人に好かれなくてもいい、というのは自己防衛でしかない。好かれなくてもいいって思うのは勝手だけど、それはとてつもなく生きにくい暮らし方だ。好かれた方が良いに決まってるし、好かれた時に、きちんと応じられる人間にならないといけない。それがどんなに不当だったとしても。   たぶん多くの点でわたしは 期待に応えられない 、だろう、というところから自信のなさが芽生えている。関心を持たれないならともかく、持たれた上で期待を裏切ってしまうのはしんどいのだ。   笑わせる必要は必ずしもたぶんなくて、愉しませられるかどうか、なのだと思う。つまりそれは サービス精神 。わたしの振る舞いによって人を不愉快にさせるということはなくても、応じ方によっては、不快にさせるかもしれない。たぶん、そこのところで齟齬というか、人との間に感覚のズレがあるのだと思う。   わたしは沈黙を怖がらないし、笑いが

「死」を想う / I remember all your episodes.

 しんだら居なくなる。さわれない、匂いもかげない、思いやることも、思われることもできない。全てのエピソードを想う。  人間が居なくなる。この世界のどこにも居なくなる。  居なくなるだけならば、いつか、どこかで逢えるかもしれない。でも、しんでしまったら、もう逢えない。たぶん、逢えない。  来世があるかなんて、わからず、そう信じるしかない。  死の世界があるかどうかなんて、わからず、ただ信じるしかない。  今できることは、一緒にいるこの時間をなるべく生ききることでしかないと思う。今、ここに、生きているということを、かみしめつつ、でもそんなに硬くならず、意識せず、でもときどきこの幸せを思いつつ。  あなたたちと生きることができてよかった。あなたたちの子種を基に、あなたたちの中から産まれることができてよかった。  あなたたちはいつか居なくなるのでしょう。わたしも同じようにいつか居なくなるでしょう。「それ」を、どう迎えるか、そこにどのように向かっていくか、それは日々の幸せの連続であってほしい。つまらないことには目もくれず、ただ、ただ、大事なことに向き合っていてほしい。この生命の輝きを。幸福の享受を、ただ。願ってる。  ただ居なくなるだけさッ、なんて、からっぽになってしまうのに、そんなにつらいことないのに、わたしたちはそれを受け入れなくてはならない。そういう日は確実に来るのだろう。もしくは自分が逝くほうが早いかもしれない。その日まで、わたしは生きたい、できたら、幸せでありたい。できる限りの幸せを考え続けることが、幸せにむかう第一歩。それさえ思考することができないのなら、それこそが不幸であると思う。  得うる限りの幸福を得ようという欲望が、自分の中に希薄である。それがみっともないと思っているのか、ただ、自分の中にないだけなのか。求めなければ、手にすることはできない。実の成ることを願って種を植えるように、わたしたちはタネを植え、水を与え、育んでいかなくてはならない。 *** If you die, there are not your existence. I can't touch your skin, smell your body, care your heart and be cared with me. I remember all y

期待するということ、しないということ

 人生に於いて、自分が必要としていた物語を書けばよい、という着想を得たのでとりあえず書く。どんな話にわたしは励まされ、勇気をもらい、発奮したろう。どういう言葉を書けば、わたしのような人間を奮い立たせることができたろうか。  わたしには、人並みはずれて優れた人生経験もないし、いたって普通の人生だったと思う。人生のレールからはそれつつあるけれど、それも大したことではないと思ってる。復帰は難しいかもしれないけれど、絶対に不可能というわけでもない。どこからでもやり直せると思ってる。たとえわたしが今55歳だったとしてもやり直せるだろう。わたしが人に必要とされる人間であるかどうか、それだけなのだと思う。  いま、この世界に、わたしに期待している人、というのはどのくらいいるだろう。両親にさえ、わたしに対しては「期待している」という言葉は似つかわしくない。わたしは誰からも期待されていない、といえそう。それは逆にわたしにとってはノー・プレッシャーということなのだけど、緊張感、緊迫感、逼迫感は人生に於いて必要であるとわたしは思う。ときに背負うものが必要である、ってこと。  両親には、わたしが一番しんどかった時、わたしに期待しなかったことにとても感謝している。どういう時に人に期待をかけるべきなのか、わたしにはよく分からない。  思えば、両親に期待されたことなんてなかったように思う。幼い頃に自転車を買ってもらった時でさえも、サッカーを始めた時も、高校入学を控えて勉強していた時も、大学入学に際して浪人していた時も。この人たちは期待しない人なのだ、と思う。いま、料理の手伝いをしても、家の片付けをしても、期待していない感じ、というのは多分に伝わる。その方がわたしとしても手伝いやすいし、下手こいてもとりわけ迷惑になるということもない。とにかく何をするにも、期待されていない。  たぶんわたしだって、わたしに対して期待しないだろう。  友人にも、恋人にも期待しない。良ければ良いし、そうでなくても一向に構わない。こうして欲しいとはあまり思わないし、どうあってもいいのだと思う。それは、もしかしたら、強さなのかもしれないし、一方で弱さなのかもしれない。  自分に期待して、鼓舞して、自分を突き上げていく人に、わたしはなれそうにない。「期待」という言葉は今のわたしには空虚だ。努力はするだろうし、し

友情について

 友情に関する文章を書こうとすると、自分の友情についての価値観みたいなものを暴露することになってしまって、そこに欠陥があるとすると、それはつらいな、と思ってしまう。別に無理して書く必要ないことですし。  鑑みて、他の書いてることだってたぶんそうなんだけど、友情はなんか柔らかいとこに触ってしまう。やっぱりコンプレックスに思ってるのかしら、と思ったりする。どうでもいいと思ってる時もあったのだけど、ここ数年はちょっと気にかかったりしてる。友達って、なんなんだろう。それを解き明かすことが、自分にとって必要なことと思う。ので書く。  なんで友達の話題が柔らかいのかというと、これを読んだ人を失いたくないからかもしれない。コイツこんな友情感で生きてんのか、クズだな……!みたいに思われるのが嫌なのだと思う。ましてや読んだ友人を失うのはもっと嫌だ。  わたしは友人の定義の話をしたいわけでもないし、友人に対してどういう思いを持っているかを語りたいわけでもない。友人はわたしにとっての友であって、それは何年も連絡を取っていなくても、きっとそうである、あって欲しい、と思ってる。凍結している関係をわざわざ溶かす必要はないけど、そうできたら楽しいかもしれないし、そうでもないかもしれない。本当に悲しいことにもう会えない友達というのもある。  友達と逢ったら感慨はあるのだろうけど、あまり過去の記憶に浸りたくないという気持ちもある。かといって今の話はもっとつらい。未来の話はなおさらであるし、たぶんわたしたちの年齢になるともう、将来のレールの決まってしまっている人ばかりだろうと思う。ローンを背負ってる話ほどつまらないものはない。夢を語るという歳でもないし、そもそも若い頃からそういう話はしてこなかった。  共通の趣味を持っているというわけでもなく、同じ価値観を持っているというわけでもなく、人生の一時期を共に過ごした人たちがいる。それは学校が同じだったり、職場が同じだったりしたのだろう。なんらかの共通点を持っていると友人にはなりやすいのだろうけど、どうもそれだけではないと思う。  わたしは人生において、自分の容姿とか能力によって評価されるということもほとんどなかったし、受け入れてもこなかった。だから、たぶんそういうことでは繋がっていないのだと思う。じゃあなにで繋がっているのだ、と訊かれても、自分

最近のわたしの興味と動向、そして危機感のなさについて

 最近、わたしは活動的になってると感じてる。 週2で映画観たり、 服を数年ぶりに整理したり、 服を買いに行ったり、アイロン買おうとしたり、 部屋の デッドゾーン を片付けたり、 本の整理したり、 CDの整理したり、 ある意味では有意義な生活が続いている。 それから、翻訳の講座の資料の請求をしたり。 ほぼ毎日の日課として、ジョグ、筋トレ、瞑想もローテーションが途切れずに続いている。家中の掃除機かけも。 どこに向かっているのかわからないけど、とにかく、どこかへは向かっているかもしれない。 泊まりがけでどこかへ行く計画したり、 友達のライブに行くつもり。 映画を観にこんなに頻繁に都内に電車に乗って行くのだって、ちょっと前だったら、全然考えられなかったことだ。  何が変わったのか、自分でも、よくわからないのだけど。去年の年末から毎日のように走り始めたことが功を奏しているのか、でもそれは一端であると思う。薬を減らしてもらったり、両親同士の関係がとてもうまくいっていて家にいて楽しいとか、そういうこともあると思う。なんだかんだと付き合ってくれる友達もいる。筋トレはずっとしていたのだけど、ここ最近になって本格的になってきた。今の悩みは体重がどんどん減っていくのに食欲はそれほどない、ということだ。というか、今だって4食たべているのだけど。  それから本は人生で一番読んでいると思う。何より買っている。CDも買っている。  この購入欲を満たしていくためにはどうしても今以上の収入が必要だと思われる。今は持続可能ではなく、発展性もない。少なくとも家族は養えない。  自分一人の範囲でなら、なんとかなっているのだけど、月々の銀行への貯金額には確実に響いてる。使わない分を貯金するのだから当たり前なのだけど。使えば使うほどに月あたりの貯蓄額は減っていく。今月はちと散財しすぎた。  幸いにして貯金が底をつくことはたぶん当分ないけれど、何に使うか、というのはとても大事なことだと思う。両親は両親でなんとかするのだろうけど、それがいつ破綻するかなんて、わからないことだ。 セーフティネット は多いほうがいい。全てを失って、露頭に迷うことは全くのゼロではない。自分のことばかり考えて生きてきたけれど、それが転換する時期が来ているのかもしれない。自分の力で生きていくことが肝要だし、他人をこそましてをや。  問題は、

人をしあわせにする『サービス精神』について

 わたしはあんまり人を楽しませようとか、気分良くいてもらおうとかって思わない方かもな、と思う。何かを便利に使って欲しいとか、わかりやすく説明したいとかはあっても。そういう至らなさって、わたしが着る服とか、聴く音楽とか、いろんなことに現れてると思う。人が自分の服をどう思おうが構わないと思ってる。ダサいかっこで人と一緒にいることを厭わないというか。自分の聴く音楽の種類を人がどう思うかなんて、考えたこともない。自分にとって心地の良い音楽にしか興味がない。  『サービス精神』ってなんなんだろな、と思う。  『サービス精神』を英訳してから和訳し直すと『もてなしの心』という言葉になる。『サービス精神』は英語だと"Entertainment"がしっくりくるけど、ちょっと足りないかな。『もてなしの心』は"Hospitality"だろうと思う。EntertainmentとHospitalityの境界あたりに『サービス精神』という言葉はありそう。  『サービス精神』は人と接するのに、必須の能力であるように思う。多少なりとも無いと、人とはうまくやっていけないと思う。それは人を笑わせるとか、朗らかにさせるとか、和ませるとか、そういうことも言っていると思う。面白い人、っていう言い方があるけど、あれって、『サービス精神』がある人ってことなのかもな、と思う。  わたしはサービス精神のある人にとても憧れてる。わたしにサービス精神がないからだと思う。ここ数年、自分のことばっかり考えて生きてきた。今、わたしの周りにはほとんど人はいない。だからサービス精神を発揮しようにも、そうする相手がほとんどいない。わたしの輪郭はきっと柔らかくない。凝り固まっていると思う。堅苦しい人間というよりも、余裕のない人間と思う。人に笑われてもいいというような大らかさがあれば、全然違うと思うのだけど。わたしはサービス精神のなさの 極値 として、しゃべれないのかもしれないと思ったりする。  しゃべれないことを、人にどう思われたっていいし、しゃべるということをどう思ったっていいと思う。そんなに大したことじゃないと思えばいい。そう思うしかない。  どっちかっていうとわたしは職人向きかもしれないと思う。エンターテイナーにはなれそうもないし、なる気もない。変に真面目すぎるというか。裏方

惑い人と、漫画『プラネテス』

 『 プラネテス 』という漫画がある。 幸村誠 先生の処女作である。今日は特にその第一巻について書きたい。  絵を描けるだけでは人は漫画を描くことはできない。その、絵と漫画の境界に漫画家を志す誰もがはじめは立っていた。そういう初々しさみたいな、漫画を描きたいという”足掻き”がこの「第一巻」には描き込まれているようにわたしは感じてる。  きっとあらゆることを考え尽くしたのだろうという痕がこの漫画には漂ってる。それはきっとたぶんこの漫画だけではなくて、全ての漫画、全ての創作物は当たり前に皆そうなのだろう。この『 プラネテス 』第一巻にはそれが露骨に現れている。いや、見ようによってはどんな作品だって、現れているものなのかもしれない。当時のわたし、そして今これを読んでいるわたしには、その作品がだんだんと立ち上がっていく過程がとってもステキなのだ。ス トー リーもセリフも絵も全てをわかっている今のわたしにとっても十分に刺激的である。この作品に惹かれるものがあったから、何度も読み返したし、その露骨さでさえも許容できたということだろう。むしろ気持ち良いのである。  そこにはどうやったら作品を造ることができるのだろうという、足掻きが見え隠れする。創作者の苦悩が描き込まれている。それを隠そうとしていない。とても真摯に、とにかく面白いものを、漫画で創りたいという 欲求 がとてもこ こち いい。グサグサくる。  当時、連載は不定期だった。わたしは毎週モーニング誌の目次を立ち読みして、『 プラネテス 』が載っているか確認した。載っていなければ読まないし、載っていれば雑誌を買った。そのくらいにわたしはのめり込んでいた。  この漫画は全四巻で、最初の方はオムニバスとなっている。いつ終わってもおかしくないという緊張感がこの漫画にある。そしてそれが漫画を面白くしたのではないか。その緊張感は最後の方まで続いていく。終わったとしても打ち切りとさえ言われないような不定期連載で、一話ずつ掲載が許されていき、そして結果として単行本になったようにも見える。実際はどうなのかわからない。  主人公は最初金髪なのだけど、途中から特に理由もなく黒髪になる。その右往左往、行き当たりばったり感。しかし一話一話にはとても腑に落ちるものがある。考えが尽くされている。描写一つひとつにきっと思惑がある。  伏線の回収の巧みさ。そ

人の感じる幸せというわたしの幸せ

 人がいること。  その存在、その思考、そのしぐさ、その思いやり、そして、その匂い。  きみの瞳、きみの出す音、きみの感触、きみの嗜好、きみの内、きみの外。きみのすべて。  あなたの笑み、あなたの困った顔、泣き顔、怒り顔。それからうれしそうな顔。  きみといることは、煩わしいことであり、そして同時に愛おしいこと。 **  あなたがあなたを失っても、わたしはわたしでいられるだろうか。  わたしがわたしでなくなっても、きみはきみでいてくれるだろうか。  わたしがわたしである理由なんてないのと同じように、あなたがあなたである理由はなく、ただわたしはわたしとしてあり、あなたはあなたとしてある。  そこにはたぶんなんの因果関係もなくて、ただそういうものを感じていたいだけなのだ。 **  人が人といる理由なんて、きっと些細なことで、親子とか、兄弟姉妹とか、夫婦とか、そんな縁だって、ひょんなきっかけで簡単に消え去るのだろう。愛おしいとか、煩わしいだとか、そんなことを打っ棄って、ただわたしは生きている。  どうすることが最善なのか、思考停止している。瞬間瞬間に間違えている気がしてならない。なにが自分にとって正しいのかさえ、わたしには思考する余地もなく。ただ言い訳としていろんなことを持ち出して、わたしは、生きてしまっている。 **  本当に一人になったことがないから、わたしは独りを知らない。それを知らないという劣等感をわたしは持っている。ここには敵も味方も、批判も賞賛もない。ただわたしが語るなにかが虚空に垂れ流されているだけだ。  わたしは誰にも語らず、しかし、一人ではない。そのことの幸福を? それは思考停止したまま受け入れても良い幸福なのだろうか。 **  どういうわたしがわたしとして幸せなのか。あるいはどういうあなたがあなたとして幸せなのか。  わたしはあまりにも人生を知らず、知ろうともせず、のほほんと生きてしまっている。  わたしはわたしを尽くさず、切磋せず。ありもしないことに怯え、恐れ、逃げている。不甲斐ないと上段振りかぶっても、魅力的になるわけでなく、ただただ情けないだけだ。 **  わたしはあなたにとって必要な人となりたい。あなたの幸せとなりたい。それがたぶんわたしの幸せである。自分の存在意義を、誰の子としてでもなく、誰の兄弟姉妹

人間、その愛おしい存在 / Human, It is lovely existence

 人がいること。その存在、その思考、そのしぐさ、その思いやり、そして、その匂い。  きみの瞳、きみの瞳に映っているぼく、きみの出す音、きみの皮膚の感触、きみの嗜好、きみの内面、きみの外面。きみのすべて。  きみといることは、煩わしいことでもあり、そして同時に愛おしいことでもある。 ***  一歩家から出れば、そこには家族でも友人でもない、赤の他人がたくさんいて。その人たちそれぞれに、きっと大切な人がいて。きっとそれぞれに煩わしがられたり、愛されたりしてるんだろう。  この世にはうんざりするほどたっくさんの人がいて、そして、その人たちのほとんどと関係を持たないまま、わたしは虚空に消え去っていく。そのことは特別にむなしいとも思わないし、ことさらに関係を持ちたいとも思わない。ただ、縁あってすれ違う人と、それなりに楽しく過ごしていきたいってだけだと思う。  今日すれ違った人とは、明日はたぶんもう会えないし、今日逢った人とは、明日も逢うかもしれない。  ぼくがきみと出会わなくても、誰かがきみと出会うだろう。その誰かに煩わしがられ、そして愛されるだろう。  今日すれ違ったあの人も、きっと誰かを煩わしく思い、そして同時に愛しているのだろう。 ***  人がいるということ。ぼくは、ひとりでも生きていけるかもしれない、いけないかもしれない。大切な人たちが在るということ。その人たちを、わたしはがっかりさせたくない。限りなく独りになることはできるかもしれない。しかし、この、人間という愛おしい存在。  わたしはおそらく独りでも生きていける。しかし、一緒に生きるのなら、あなたがいい。  人は、生きて、そしてシんでいく。わたしをとおってきた人々よ。聖なるヒトよ。  不甲斐ない自分を見つめるだけでは足りず。わたしはヒトをがっかりさせるかもしれない。成長し続けることでしか、報いることはできない気がしてる。わたしはヒトと生きていきたい。他者を通してみる自分、自分の見つめる自分。その両方によって、わたしは社会に存在している。  わたしもきっと誰かのヒトであるはず。そのことを忘れなければ、わたしは健やかに生きていけるのだろう。 There is humans, the existence, the thoughts, the gesture, the compassion,