期待するということ、しないということ

 人生に於いて、自分が必要としていた物語を書けばよい、という着想を得たのでとりあえず書く。どんな話にわたしは励まされ、勇気をもらい、発奮したろう。どういう言葉を書けば、わたしのような人間を奮い立たせることができたろうか。
 わたしには、人並みはずれて優れた人生経験もないし、いたって普通の人生だったと思う。人生のレールからはそれつつあるけれど、それも大したことではないと思ってる。復帰は難しいかもしれないけれど、絶対に不可能というわけでもない。どこからでもやり直せると思ってる。たとえわたしが今55歳だったとしてもやり直せるだろう。わたしが人に必要とされる人間であるかどうか、それだけなのだと思う。
 いま、この世界に、わたしに期待している人、というのはどのくらいいるだろう。両親にさえ、わたしに対しては「期待している」という言葉は似つかわしくない。わたしは誰からも期待されていない、といえそう。それは逆にわたしにとってはノー・プレッシャーということなのだけど、緊張感、緊迫感、逼迫感は人生に於いて必要であるとわたしは思う。ときに背負うものが必要である、ってこと。
 両親には、わたしが一番しんどかった時、わたしに期待しなかったことにとても感謝している。どういう時に人に期待をかけるべきなのか、わたしにはよく分からない。
 思えば、両親に期待されたことなんてなかったように思う。幼い頃に自転車を買ってもらった時でさえも、サッカーを始めた時も、高校入学を控えて勉強していた時も、大学入学に際して浪人していた時も。この人たちは期待しない人なのだ、と思う。いま、料理の手伝いをしても、家の片付けをしても、期待していない感じ、というのは多分に伝わる。その方がわたしとしても手伝いやすいし、下手こいてもとりわけ迷惑になるということもない。とにかく何をするにも、期待されていない。
 たぶんわたしだって、わたしに対して期待しないだろう。
 友人にも、恋人にも期待しない。良ければ良いし、そうでなくても一向に構わない。こうして欲しいとはあまり思わないし、どうあってもいいのだと思う。それは、もしかしたら、強さなのかもしれないし、一方で弱さなのかもしれない。
 自分に期待して、鼓舞して、自分を突き上げていく人に、わたしはなれそうにない。「期待」という言葉は今のわたしには空虚だ。努力はするだろうし、してきたつもりだけれど、ダメだったら仕方ないと思う。これは、自戒も込めて思う。期待しても仕方ないのではなくて、結果はどうなるか分からない。ダメ元でもないし、とにかく期待しない。うまくいけば幸運だし、できなかったら次にうまくいくように工夫すれば良い。それでもできないかもしれないし、いつかできるかもしれない。どうしても不可能なことは人生にあるにせよ、それでも、とにかく期待しない。降って湧くことも期待しないし、やれるなら、それ相応の結果も付いてくるのだろう、というだけだと思う。したいことがあるのなら、それに向かって努力して、工夫して、頭を使って、一歩いっぽすすんでいく以外にない。そこに期待はあるのか、といったら、ない。
 CDを買うとき、どんなサウンドなんだろうと「期待する」。本を買うとき、読んでドキドキするだろうかと「期待する」。だけど、自分のすることには「期待しない」。そう在る。在ってしまっている。
 期待しないことは強さであり、弱さであると書いた。期待するから、できることがある。期待されるから、できることがある。期待に応える力はあまりに強大で、我々を鼓舞するだろう。能力以上の力や能力外の力を発揮するとき、「期待の力」が働いているような気がする。期待に応えたいという気持ちは、勇気を持ち合わせるなら、さまざまな壁を壊す。
 期待しないということは、逆をいえば、勇気の放棄であるかもしれない。あきらめかもしれない。それでうまくいけば良いけれど、なにかを避けている、といういいかたもできるかもしれない。プレッシャーを、緊張感を、緊迫感を、逼迫感を。
 人生にはいろんな見方ができるはず。期待した方が良い場面もあれば、期待しない方が良い場面もあるだろう。ドキドキが生まれるのは期待するからだ。見えない壁を乗り越えるのは期待するからだ。期待するから人は鳥のように自由に空を飛び、果ては宇宙まで行ったのだ。
 能力のない人間に人は期待しないであろうし、勇気を持ち合わせない人間に期待しないだろう。あきらめている人間にも、棚ぼたを狙っている人間にも、努力しない人間にも。わたしなら、期待はしない。
 わたしが期待されない人間なのだとしたら、そのどれかに当てはまっているのかもしれない。わたしは能力がないかもしれないし、勇気がないかもしれない。あきらめているかもしれないし、何もせず幸運を待っているだけかもしれない。わたしは、努力しているだろうか。追求しているだろうか。
 誰からもいっさい期待されていない、という結果だけがわたしの周りにある。何かを変える必要がある。
 限界まで、上限まで下限まで、目一杯の幸福を得たいのならば、そうあるように行動しなくてはならない。そのための方法を学び、運を掴み、実行していく。運の引き寄せ方というのがあるはずで、それは期待と表裏一体である気がする。この人になら任せても良い、という人にしかチャンスは巡ってこない。いつもベストであるべき。ファーストチョイス、ファーストコールを目指せ。
 いつも「自分のしたいこと」で、人の「期待」に応えたい。人生には"野望"が必要だ。人の期待に応えてこそ、プロであると思う。
 両親はわたしに期待していないと書いたけれど、そんなことはないかもしれない。わたしが感じていない、あるいは感じないようにしているだけなのかも。そこにあるはずの期待を感じるようになれば、わたしは変わるだろう。感じないようにしているのであれば、わたしは目を瞑っているということだ。目を見開くとき、わたしはわたしの周りにある「期待」に気がつくのだろう。
 そう知ってからでは遅いのだ。わたしは能力を持とうと追求し、勇気を磨き、あきらめずに行動し、運を掴む。ずっとずっとそうしている人間だけが、期待を感じるとき、期待に応えることができる。
 わたしが必要な人間であるならば、そうであるということを示さなくてはならない。自分に必要だった文章を書こうとするように、わたしは自分の人生を創っていくことができる。
 未来に期待するから、わたしたちは生きていける。きっと今は自由に空も飛べるはず。

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