惑い人と、漫画『プラネテス』

 『プラネテス』という漫画がある。幸村誠先生の処女作である。今日は特にその第一巻について書きたい。
 絵を描けるだけでは人は漫画を描くことはできない。その、絵と漫画の境界に漫画家を志す誰もがはじめは立っていた。そういう初々しさみたいな、漫画を描きたいという”足掻き”がこの「第一巻」には描き込まれているようにわたしは感じてる。
 きっとあらゆることを考え尽くしたのだろうという痕がこの漫画には漂ってる。それはきっとたぶんこの漫画だけではなくて、全ての漫画、全ての創作物は当たり前に皆そうなのだろう。この『プラネテス』第一巻にはそれが露骨に現れている。いや、見ようによってはどんな作品だって、現れているものなのかもしれない。当時のわたし、そして今これを読んでいるわたしには、その作品がだんだんと立ち上がっていく過程がとってもステキなのだ。ストーリーもセリフも絵も全てをわかっている今のわたしにとっても十分に刺激的である。この作品に惹かれるものがあったから、何度も読み返したし、その露骨さでさえも許容できたということだろう。むしろ気持ち良いのである。
 そこにはどうやったら作品を造ることができるのだろうという、足掻きが見え隠れする。創作者の苦悩が描き込まれている。それを隠そうとしていない。とても真摯に、とにかく面白いものを、漫画で創りたいという欲求がとてもここちいい。グサグサくる。
 当時、連載は不定期だった。わたしは毎週モーニング誌の目次を立ち読みして、『プラネテス』が載っているか確認した。載っていなければ読まないし、載っていれば雑誌を買った。そのくらいにわたしはのめり込んでいた。
 この漫画は全四巻で、最初の方はオムニバスとなっている。いつ終わってもおかしくないという緊張感がこの漫画にある。そしてそれが漫画を面白くしたのではないか。その緊張感は最後の方まで続いていく。終わったとしても打ち切りとさえ言われないような不定期連載で、一話ずつ掲載が許されていき、そして結果として単行本になったようにも見える。実際はどうなのかわからない。
 主人公は最初金髪なのだけど、途中から特に理由もなく黒髪になる。その右往左往、行き当たりばったり感。しかし一話一話にはとても腑に落ちるものがある。考えが尽くされている。描写一つひとつにきっと思惑がある。
 伏線の回収の巧みさ。そんなこと作品として表現されているものに言ったってしょうがないのだけど。だってそういうものがあって当たり前だから。しかし、当時のわたしはとてもそのことに感動していた。こんな漫画ない、と思った。亡くした妻を思い続ける宇宙飛行士、造花の伏線。老宇宙飛行士と若く、しかし生きることに苦しむノノとの対比。自分を見失う主人公。ヒーローの息子としての在り方、など。
 一話ごとの繋がりに於いて、危うい橋を渡り続ける。不定期なのだから先のことを考えていなかったのかもしれない。そんな余裕が作者になかったのかもしれない。余白をたくさん残し、その余白を利用して話を連ねていく。そこに矛盾はあまりないように見える。わたしは話の辻褄とか矛盾をあまり気にしないので、人によっては登場人物の人格が破綻しているとか、伏線が緩すぎると思うのかもしれない。
 その橋渡り感にとても感銘を受ける。お話って、こういう風に作られるべきだとすら思う。『プラネテス』に弱点を感じるとすれば、それが露骨すぎるということかもしれないけれど、その露骨さが今のわたしをとても励ましている。
 どうやったなら、自分のやりたいことを達成できるだろう。幸村先生は「漫画」を描くことで漫画家になった。「お前はやりたいことをできないで済む言い訳を欲している」という影のセリフに何度励まされたことか。
「たたかいきれないお前は」「ようやく今頃になって言い訳を探し始めている」「この病はお前が望んだんだぜ?」「地球(おか)に降りて結婚して年くって」「シリウスのかがやきを見上げながら」「『あの病がなければオレも今頃は……』」「そう言い逃れる権利をお前は欲したんだ」
プラネテス』第一巻 p.214 より
言い訳を施している間はできることはほとんどない。どこまでも自分に厳しくならないことには、わたしには本願成就は無理だろう。降って湧いた病だって甘んじて受け入れるのなら、言い訳の一つである。わたしはどこかで自分の病を望んでいたのかもしれない。実際に何にも熱心にならないことが、その証左である。泥まみれ汗まみれ血まみれになってやるべきなんじゃないのか。
 わたしは何をするべきなのか。どうなりたいのか。問うているだけでは、何も答えは出ない。のんべんだらりとシリウスを見上げて暮らしてくだけだと思う。そうできてしまう流れに乗ってしまっている。さて。
 スタートラインにさえ立っていない、今のわたし。なにをおいてもするべきことがあるはずだ。できることがあるはずなのだ。ハチマキが、幸村先生自身が、辿った道。修羅の道。言うこと書くことは簡単で、実際にそうすることはとてつもなく難しい。そうわかっていても、わたしにはしたいことがあるんじゃないのか。それを隠し持っているんじゃないか。顕さないようにしてるんじゃないか。
 ぼくらはいつだって分岐点。この瞬間の行動が、次の瞬間の行動を生み、連なっていく。わたくしにできるはずのこと。わたしは、目を逸らしてる。簡単な方をいつも選んでる。人生とは? 人間とは? わたしはいろんなことを見誤っている。ずっと気がついていたはずなのに。こうして言葉にしていたはずなのに。それでも足りない。
 識って、やる、それだけなのだ。惑い人はきょうも惑う。

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