最近のわたしの興味と動向、そして危機感のなさについて

 最近、わたしは活動的になってると感じてる。
週2で映画観たり、
服を数年ぶりに整理したり、
服を買いに行ったり、アイロン買おうとしたり、
部屋のデッドゾーンを片付けたり、
本の整理したり、
CDの整理したり、
ある意味では有意義な生活が続いている。
それから、翻訳の講座の資料の請求をしたり。
ほぼ毎日の日課として、ジョグ、筋トレ、瞑想もローテーションが途切れずに続いている。家中の掃除機かけも。
どこに向かっているのかわからないけど、とにかく、どこかへは向かっているかもしれない。
泊まりがけでどこかへ行く計画したり、
友達のライブに行くつもり。
映画を観にこんなに頻繁に都内に電車に乗って行くのだって、ちょっと前だったら、全然考えられなかったことだ。
 何が変わったのか、自分でも、よくわからないのだけど。去年の年末から毎日のように走り始めたことが功を奏しているのか、でもそれは一端であると思う。薬を減らしてもらったり、両親同士の関係がとてもうまくいっていて家にいて楽しいとか、そういうこともあると思う。なんだかんだと付き合ってくれる友達もいる。筋トレはずっとしていたのだけど、ここ最近になって本格的になってきた。今の悩みは体重がどんどん減っていくのに食欲はそれほどない、ということだ。というか、今だって4食たべているのだけど。
 それから本は人生で一番読んでいると思う。何より買っている。CDも買っている。
 この購入欲を満たしていくためにはどうしても今以上の収入が必要だと思われる。今は持続可能ではなく、発展性もない。少なくとも家族は養えない。
 自分一人の範囲でなら、なんとかなっているのだけど、月々の銀行への貯金額には確実に響いてる。使わない分を貯金するのだから当たり前なのだけど。使えば使うほどに月あたりの貯蓄額は減っていく。今月はちと散財しすぎた。
 幸いにして貯金が底をつくことはたぶん当分ないけれど、何に使うか、というのはとても大事なことだと思う。両親は両親でなんとかするのだろうけど、それがいつ破綻するかなんて、わからないことだ。セーフティネットは多いほうがいい。全てを失って、露頭に迷うことは全くのゼロではない。自分のことばかり考えて生きてきたけれど、それが転換する時期が来ているのかもしれない。自分の力で生きていくことが肝要だし、他人をこそましてをや。
 問題は、何をするか、だと思う。
 例えば、今から大学に通い直すことだって十分にできるだろう。自分の力でそのくらいのことは今のわたしにはできるはず。大学にもよるけれど。大学の仕組みをよく知らないので、よくわからないまま書くけど、たぶん学士編入ということになるだろう。いちおう、四年制大学は卒業しているので、なんらかの仕組みを利用することになるはず。これはあくまで何をするか、という思惑の一例に過ぎないのだけれど。
 件の翻訳の講座も、それなりにお金はかかるが、まぁ自分のプール内でなんとかなる金額ではある。
 自分の何がどう役に立つかなんてわからないものだ。今ある貯金は大学の頃に専門学校に通うためにバイトを掛け持ちして貯めたお金と、今現在の収入を合わせたものだけど、あの頃に頑張っていなかったら、今は、全く違う生活をしていたに違いないと思う。少なくとも、こんな余裕は持てていないはずと思う。
 年齢のことも考える。どうこう言ってられない年齢である。あと2年、と思ってる。本来なら、今すぐに働き出さなくてはならないのだろうけど、いろいろと言い訳をして先延ばしにしてるのが現状だ。かと言って遊んでるという訳でもないし、微妙なところだけど。何を以って遊んでるかは人によって違うので、自己判断でしかないけど。たぶん、両親はわたしが遊んでるとは思っていないと思う。そう思いたいだけなんだけど。いずれにせよ期限は迫ってる。人生、いつだって期限は迫っているのだけど、ちょっとおちおちしてられないゾ、という年齢だと思う。たぶん。
 定時に電車に乗って、上司の言うことに従って、働く、というようなことを想像しても、別に無理ではないな、と思う。それなりに理不尽にも耐えるだろうし、働くのがヤダって訳でもない。そういう意味では無理ではないと思う。今だって、毎日をそのように暮らしてる面もあると思う。問題は、人なのだと思う。良い人にめぐり逢えれば、きっと気持ちよく暮らせるだろうし、そうでなければ、そうではない。それはわたしに限ったことではないが。とにかく、無理はない。しゃべることができないことを除いては。電車に乗るのも工夫すればなんの問題もないし、働くことも厭わない。たぶん。心情としては。
 そうする必要がないというだけだと思う。迫られていない。あってもそんなに強い力ではない。それよりも、将来のためにアパート運営に役立つ芸を身につけたほうが、よほど自分のためになるのではないか、と思う。父はそれで電気工事士の勉強をしていた訳で。そういう芸が何かあると、役に立つかな、とは思ってる。要は自分の芸によって問題を解決するか、人に任せてお金で解決するか、という違いでしかないのだけど。人に頼むのはやたらとお金が嵩むので、その分を補って余りあるほどの収入を得られるのか、自分でやったほうが早く安く済むのかということのせめぎ合いなのだと思う。
 やるのなら、できる限り自分のしたいことをしたい、という、とぼけたことをこの歳になっても言っているあまちゃんであるところのわたくし。やりたいことをやるための努力は惜しまない。不遜だけど、能力だって(障害を除いては)それなりにあるはず。あとは縁だと思う。
 問題は何がしたいか、なのだ。
 翻訳に興味を持ったのは、漫画や小説を読んでいると、気になることがあるからだ。それは、この表現は他言語ではどういう言い回しになっているのだろう、ということ。外国語版を輸入して、調べたことも1冊や2冊ではない。好きなものは他の言語でも読みたいし、理解したい。多言語視点で見ると、表現理解はより深くなる、ということをわたしは識っている。他言語だからする言い回し、というものがわたしにはとても興味深い。それは文化人類学的興味でもあると思う。本を読みながら、他言語で半自動的に言い換える発想になってしまう。
 それならば、それを役立てよう、というのは自然な流れであると思う。英語はそれほど得意でないし、大学では第二外国語は学んでいない。独学で仏語と独語を少し学んだくらい。今はイスラムの文字にとても興味を惹かれている。あの、ヒゲみたいな文字。デザインのことに興味を持っていた頃、この文字のゴシック体を見て、カタカナみたい!と思った興味が、たぶん今も続いてるのだと思う。そもそも、翻訳をやるには日本語が壊滅的なので、その点が問題ではあるけれど。ただ、欲求として、これを外国語ではどう表現するのか、ということにはとてもとても興味関心がある。
 そんな感じです。ある頃から朝の3時に起きていろんなことをやっているのだけど、なぜだかあさ起きるのが苦痛でなくなった。薬を減らしてもらったせいかもしれないけれど、なんだかんだ、モチベーションはある。それは、生きるモチベーションであると思われる。生きているのが楽しい。毎朝起きるのが楽しみである。わたしはいま幸せであると思う。
 こうして文章として表現できることも。

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