人とひとが出会うことの表現の可能性を知りたい

 人とひとが出会って、了解し合う感じ、何かが始まる感じ、存在を許し合う感じ、そういうことを具現化したものを欲してる。
 人とひとが出会うことで起こるさまを表現しようとすると「化学反応」みたいな言葉しか出てこない自分が憎い。なんだか決まった結果しか出ないみたいじゃないか。思うに、その結果は無限にあり得て、仲睦まじくなる可能性だってあれば、その場で喧嘩別れする可能性だってある。なんだって起きるかもしれないし、なんにも起きない可能性だってある。それはいろんな要素によるし、それを科学実験のように単純化した瞬間に壊れる何かがある。
 だから(科学とは違って)面白いのだと思う。
 その、いろんな要素を解剖しようとは思わないけれど、小説や映画ではもっともらしい何かが提示されているのだと思う。そうでなければ、監督や作家はトマトをぶつけられるのだろう。絵や音楽や文字などの表現によって、それらは成されている。みんなそれぞれに危うい橋を渡っているに違いないと思う。それは物語の、というか人とひとが出会って起こったことの、説得力を彩るものであることは間違いない。
 人とひとが出会うことによって起こりうること。そのすべての可能性を網羅することはできない。想像すらできない。その一つの出逢いによって人生が大きく変わることもあるし、奈落の底に落ちていくことだってあるのだろう。事象でしかわたし達はその出会いを感じることができないけれど、出会ったことそのものには本当にはなんにもないのではないか。ただ人が目の前にいるというだけでは、おそらく何も起こり得ず、人間が人間として在って、働きかけ、リアクションし、そして作用するから何かが起きるのだ。なんだか結局「化学反応」に戻ってしまった。どうもわたしは根っからの理系らしい。
 一意的に見た瞬間にこぼれ落ちるもの。こうなるはずだという「野暮」な考え。目論見はいつだって破綻する可能性を帯びている。だから面白い。単純化した瞬間にこぼれ落ちるなにかをつかみたい。それはきっと些細な事で、どう在っても表現に耐えないことなのではないか。こう在ったからこうなった、こう行動したからこうなった、そしてこうリアクションした、そしてこうなった。そのすべての可能性を把握してみたい。
 両親を見ていると、互いに許してるな、という感じがとっても伝わってくる。だからきっとおそらくなんとかかろうじてうまくいっている様に見えるのだろう。人とひとが一緒に生活するのに、許さないわけがない。そうできない人と一緒に暮らすのは不可能である。そんなことないという人はきっと許されているだけの人なのだろう。
 そういう不文律みたいなもの、セオリーみたいなものを人は文化としてたくさん持っている。その違いが面白いし、だから自分たちのことが浮き彫りになるのだろう。まったく何もかも人を許さない人がいたらそれはそれで面白いと思うけど。
 文化だけでなくて、人として存在しているから持っているもの──遺伝子──があるのだと思う。人間としての本質。人はひとに親切にされたらうれしいとか、人に親切にすることは心地いいことだとか、危害を加えられたら怒りが湧くとか、そういう遺伝子に刻まれた基本的なことから、文化的なこと社会的なこと、時代の要請によるもの、いろんな、人間としての本質があるのだと思う。
 そういうことを提示するから物語ることを人はやめないのだと思う。そこには人とひとの出会いがある。必ずある。人が一人しか出ない物語にお目にかかったことがない。必ず何かがいて対象化されているはず。
 人とひとの出会いが面白いと思うのは、わたしが限りなく独りだったからかもしれない。でもその間もずっと、一人のようでいて、そうではなかったのだ。この地球上にいる限り一人だなんてあり得ない。死を選ばない限りは。
 人とひとの相互作用を。化学反応を。その機微を。論理も感情も超えて。
 相互作用によって起こりうることすべての可能性を、わたしは面白いと思ってる。どう在れば、どうなるのか、どう動けば、どうなるのか。そしてその表現はどうなっているのか。
 それを把握することこそが、人間を描くということだと思う。人「間」を描くということだ。

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