人とひとが出会うという、人生の楽しみ

 昨日の続き的なナニカ。なんで人間のことがそんなに気になるようになったのか書きたいと思う。
 ちょっと前までの自分は、生きていることに半信半疑だったと思う。昔、なんで生きているのかというと生かされているからだ、と書いたことがあったけど、なんで自分が生きているのかもわたしにはわからなかったのだ。
 それはわたしが生きていく過程で人生は素晴らしいものだと言ってくれる人がいなかったからだと思う。生きていることを楽しんでいる人をわたしは見たことがなかった。育ってくる過程で出会った大人たち教師たち、みんなどこか戸惑っているというか、なんとか生きていくことだけを考えているというか、その場しのぎというか、そんな印象で、まったく楽しそうではなかった。 
 わたしにとって憧れた人っていうのはみんなテレビの中とか、本に書かれている人、雑誌に載ってる人、そういう遠い人たちだった。存在を確認された人なんていなかったし、身近には人生を楽しんでいる人は皆無だった。
 とにかく戸惑いながら生きている人たちばかりだった。生きることって楽しいのだろうかと、ずっと疑問だった。
 いろんなことを熱心にすることだって、そうすることが良いことだと思っていたからに過ぎないと思う。何かを愉しもうとか、まして人生を楽しもうとは思ってなかった。人生は暇つぶしだと思ってた。
 結論から書くと、わたしはいま生きてることがとても楽しい。病気だとか、障害だとか、恋してるしてない、友人がいるいない、そんなことぜんぜん全く関係なく、生きていることが楽しい。それは人間に興味を持ったからだと思う。
 人間という不可解さと向き合う準備をずっとしていたと思う。今だってしてる。人間という面白さの真髄は、人とひとの関わりにあると睨んでる。そこにはいろんな関係があってそれを追求するだけで、おそらく一生かかるのだろう。
 考えても考えても、次々となにかが湧いてくる無限の泉だと思う、人間の関係というのは。だから無数の映画が、小説が、音楽が、詩が、絵画が、あらゆる芸術が、そして、あらゆる経済が、あらゆる社会活動が、存在している。
 存在しているから、わたしは生きている。それらによってではなくて、それらを享受するために、愉しむために。わたしはいま寝る時に翌日起きるのが楽しみだ。つまり明日もなにか楽しいことが起きるに違いないと、毎晩思ってる。実際には自己完結の、自慰行為しかしてないわけだけど、そういうことでさえも楽しいのだ。
 わたしは本質的には人を喜ばせることが好きだと思う。嫌いなわけがないと思う。本質的にはと書いたのは、実感としてそれを得ていないし、なにかを人に対して働きかけているというわけでもないからだ。たぶん、好きだろうと思ってる。そしてそれはわたしが人に向かっていく動機と成りうると思ってる。
 わたしが人に興味を持っていく過程は、わたしが人に向き合っていく過程と重なる。だから、このままで良いはず。
***
 あぁ! 願わくばもっと
 人と会話したい。
 人と繋がりたい。
 人を感じたい。
 人をよろこばせたい。
 人を驚かせたい。
 人に認められたい。
 詩を書いていたい。
 文章を書いていたい。
 そういう野心をわたしは持ってる。それで良いんだと思う。

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