投稿

7月, 2017の投稿を表示しています

人間を描くということ

 今日はここ最近の所感を書きたいと思う。ちょっと長くなるかもしれない。  ここ数日の間に何回か、友達が歌ってる店に遊びに行かせてもらった。お酒を出して音楽を楽しむお店。お客さんが歌手を育てる雰囲気のある処。いろんな人が自分の夢を託してる感じがした。お店の人の感謝の気持ちがとても心地いい店。一人でいるとほっといてくれるから、自分としてはとても助かる。行きやすい。お店の人にもほんとに良くしてもらえた。久しぶりに母親以外の女性とコミュニケーションを取った。なによりハウスバンドのレパートリーが60s~80sの曲でどストライクだった。もっと早くに行けばよかったけど、無理だったかな。わたしは自信がなかったのだ。  今年に入ってから映画を頻繁に観に行くようになって、ちょっとずつ外に行く自信がついたように思う。それでようやくそのお店にも行けるようになった。友達がお店から離れてしまうので、最後ってのも踏ん切りをつけるのに良かった。背中を押された。  しゃべれないことの抵抗を低くするのは難しい。お店でも、友達や店員さんは話しかけてくれるのだけど、気を使わせてしまったと思う。筆談することの申し訳無さもあった。チャージを払ってそこにいる立場で、どういう態度をとるべきなのかわからなくなってた部分もあるかな。音楽はとにかく楽しんだけど。お店の人やお客さんとコミュニケーション取れたらもっともっと楽しかったと思う。その萌芽はあった。これから楽しくなるぞって感じの。  3回行って、2回目にボウズにして行ったのだけど、爽やかでイイですねー、と言ってもらえてうれしかった。というかなんでか昔からボウズ頭は褒められる。ずっとボウズでもいいくらいだけど、刈るのが面倒くさい。自分の、見た目についてはそのくらいのことでしかない。服装も含めてね。  特定の人でなくて、さまざまな、人、人間というものを知りたくなった。人間とはどういうものなのか、どういう時にどういう行動をするものなのか、知りたくなった。恋してる人。恋されてる人。音楽を奏でる人。自分の夢を託す人。応援する人。応援されてる人。いろんな人のいろんな気持ちが入り混じってて、お店はとてもいい空間だった。とにかく楽しかった。わたしは絆(ほだ)されていた。最初は音楽の虜になっていたのかと思っていた。でも、たぶん違う。それだけじゃない。わたしは人間というもの

お金を使うことで満たされるなにかを。

 だんだんと活動的になってきたのか、意欲が出てきているのかわからないけど、まさに金に糸目をつけないという感じで、つぎつぎと見境なく手に入れ、行きたいところにも次々と行っている。危うい感じがする。今のところ月の収入は上回っていないつもりだけど、このままいったらそうなる日も近い。欲望がとどまるところを知らない。  欲望ということでいうとあんまりぼくはセッセセしたい方でないと思う。好きな人とはしたいけど、誰とでもいいからなどとは全く思わないし、お金を払って奉仕を受けたいとも思わない。色の欲に限って自分を観察すると、ドライかもしれない。美人だとか、かわいいだとかあんまり関係ないしね。好みはもちろんあるけど、それよりも大事なことがある。  いまはお金を使うこと自体に快感を得ているのかもしれない。物を手に入れるとか、映画を観るとか、ライブに行くとかについて、その、し過ぎることの危うさを日々感じてる。この溺れ具合は、ヤバい。  自分への言い訳として、自分への投資だとか、持っていることにこそ意味があるだとか、満たされない自分を満たしたいとか、あるんだと思う。  お金との付き合い方を考えなくてはならない。使うべき時に充分にないのでは仕方ない。今は刹那的に生きてしまってる。自分の意志を殺してお金を使ってしまう。これは今の自分に本当に必要なものだろうか、という判断が麻痺している。必要でないものにお金を使っているつもりは全然ないのだけど、ちょっと危ういところにいる。  使うことによって学ぶんだよ、その料金だこれは、と言えてしまうかもしれない。なにごとも経験だ、と。それにしては反省もなく先も見ていないし、計画性もないのだが。  本当にしたいことはなんなのかってこと。そこに向かってるのかってこと。そのために自分をコントロールできているのかってこと。色欲をコントロールできなければ、犯罪者となる。わたしが今向かっている先も、似たようなものなのではないか。  欲望を抑えなくてはならない。身の丈にあっていない欲望を行使してる。買えば買うほどわたしは消耗してるし消費している。自分自身で何かをせずに、世界から何かを得ようと「だけ」しているのでは、本当の人生は歩めない。自分の技術をもって自分を満たさなくてはならない。そうしないことには、何も得られないし、発展もない。何も起きないし、感動もない。

なぜいま「あなた」とチャットしたいのか。その3

 自分がチャットしたい理由を喚いたところで、そうできるわけではない。チャットは一人でするものではない。  ひいては会話をしたいということなのだろうけど、それが病気的に適わないので、文明の利器に頼りたいということなのだと思う。わたしは会話を楽しみたいのだ。  なぜこんな表明をするのかというと、チャットしたいという気持ちを考えることは会話したいということを考えることであり、それがしゃべることに直結するからだ。自分の気持ちを噛み砕きたいし、増幅させたい。自分の知っていることを知りたいし、知らせたい。笑いたいし笑わせたい。会話の機微を楽しみたい。  情熱は情熱のあるところにしか花咲かない。簡単にしぼんでしまう。わたしに情熱があるのか自分ではわからないけど、わたしは自分で自分のことを何かある人間だと思ってる。少なくとも薪を持った人間だと。物事に前のめりにのめり込んでいく素養をもった人間だと思う。その準備をずっとしてきたのだと思う。病気で臥せっている頃から、早寝早起きして、ジョグ筋トレをして体力をつけて、文章を書いてきた。それは自分がそうしたいからそうしてきたに過ぎないのだけど。病人は普通そうはしない。客観的に見てそう思う。やや不遜だけど。  もっともっと、と思ってる。わたしはわたしに火をつけてくれる人を待っているのかもしれない。あるいはこの灯火を誰かに渡したいのかも。火を点けてくれる人をただ待つよりも、あるいは渡す相手をただ待つよりも、自分から動いたほうが手っ取り早い。というか自分から動かないことには人と出会うことなんてまずないのだ。どんどん人と会って、トライアンドエラーで凹たれず、この人だ!と叫びたいのだと思う。そうすりゃいつか出会える。もう出会っているかもしれない。  感化するのも感化されるのも、人間の作用として、すばらしいこと。一人では決してできないこと。その相づちが人生を変えるのだ。  わたしは人の反応をずっと怖がっていたのかもしれない。自分が如何様かわかってしまうのが怖かったのだ。しかし晒さなければリトマス紙は反応しない。わたしという人間が存在することによって、会話というコミュニケーションを考えるきっかけになるはず。少なくともわたしは今こうして考えている。この安易で直接的な相互作用について。  今の自分にはチャットでならそれができるのだ。「あなた」でな

なぜ「いま」チャットしたいのか。その2

 「いま」チャットしたい理由はなんなのか。この点を昨日の文章では考えなかったので、今日は考えてみたい。  ここ最近、人と会いたいと思うようになった。しかし、コミュニケーションに難のある自分には齟齬も多いし、人に気を使わせてしまうことも多い。互いにフラストレーションも溜まる。  昨日も書いたように会話の臨機応変力は乏しいと思う。適応力がないって思う。そういうことは元からそんなに得意な方ではなかったかもしれない。言いたいことを言って、言いたくないことは言わないという人間だったと思う。それは自分がガキだったからかもしれないし、そういう性分だったのかもしれない。とにかく学生時代からこっち、そういう能力をわたしは鍛えずにここまで来てしまった。たぶん歳相応のお喋りができない人間になっているのではないか。そう危惧してる。  (文章を書くこととは違って)会話となると反射神経とか瞬発力というのが必要になってくる。いま、このタイミングで言わないと意味がない、ということは往々にしてある。わたしはそういう能力に乏しい。なにも人を笑わせるということだけでなくて、説得したり、情報を伝えるのにも、効果的な言い方やタイミングなどがあるのだと思う。そういうことの乏しさを、ぼくは憂いてる。なにも障害のことを言っているのではない。コミュニケーション能力の向上、適応をしてこなかったということだ。  わたしはずっと逃げていたのだ。緘黙である自分を見て見ぬふりしていたと思う。このままならこのままでいいと思っていたと思う。仕方ないと思ってた。  友だちと会うようになって、それがすこしずつ変わってきた。自分の裡の変化を看過できなくなってきた。ぼくはいままで自分と向き合ってきたと思う。自分以外の人間と向き合うことの面白さを知りつつある。人を認めるということ。人に認められるということ。自分が人を許すこと。自分を許されること。自分ではない人間を楽しむこと。そういうことのマジックをわたしは思い知ったのだ。  いまの自分は人に認められるようなことを何一つしていないかもしれない。過去の遺産や幻によって認められているように見えるだけに過ぎない。いまのぼくを認めてくれなくてもかまわない。会話を通して、わたしは一歩先に進みたいと思ってる。その相づちは、きっとわたしを変えるだろう。チャットでならそれが可能だと思うのだ。会

なぜ、いまチャットしたいのか

 たぶん、人恋しいとかそういうことではないと思う。しゃべることの一足とも思ってない。ただ、今できることのうちで人と関わることの一端としてチャットが一番したいことなのだ、というのは間違いない。  学生のころ父と鈍行で名古屋まで行った時に、父が電車の中で知らない人と話をしていたことを思い出す。たまたま縁あって出逢った人と、取り留めのない会話をして、一期一会に別れてく。その楽しみを父はわたしに伝えようとしていたように思う。これこそが鈍行の楽しみなのだと言わんばかりだった。  わたしには会話の臨機応変力のようなものがもう、ほとんどない。とっさの機転が利かないという不安がずっとある。コミュニケーションにおいて対応できないのではないか、という不安があるのだ。なにか失礼なことや、言ってはいけないことを言ってしまうのではないか。会話するのなら、気の利いたことだって言いたい。そういう力はもうきっとかなり衰えている。  じゃあ、書くことはできているのか、というとたぶんできていないのだけど、会話となるともう絶望的にできない気がしてる。友達とLINEで会話したりするのだけど、それは友達だから許されているというだけで、それは今までの付き合いや知っていること共有してきたことがあるからうまく行っているように見えているだけなのだ。本質的な問題の解決にはなっていない。  書くことは楽しい。とにかく楽しい。毎日やったって飽きないのだけど、それをもう一歩進めたい。会話することは自分にとって、人間にとって、必要なことだと思う。  わたしが日々感じていることを、言葉にしたい。その方法は多い方が良い。いろんな手段でさまざまな感動を表現できるようになりたい。会話はいちばん基本的な手段である。塞がれた自分の口を開く代わりに、いろんな方法を試したい。文明の利器に頼るならチャットは会話の代替となりえる。だからそうしてみたいのだ。  わたしとチャットして得することって何があるんだろうなと思う。わたしが識っていること、感じていることは伝えることができる。現時点でわたしがなにを識っていてなにを感じる人間なのかを知らない人とはうまく会話できないかもしれない。それは不安。あなたがなにを好きで、なにを考え、なにを思い、どうしたいのか、という整理をするお手伝いはできるかもしれない。そんな大袈裟でなくても、ただわたしと話

幸せになるために生きているんだってことを忘れがち。

 幸せな気持ちになるために生きているんだってことを忘れがち。でも自分のする何もかもを自分が幸せな気持ちになるためにやってる人なんて、たぶんいない。幸せになるために人は生きているという命題はきっとなりたつ「はず」。幸せの形は人それぞれ違うし、幸せに向かって生きていく過程もみんな違う。蝶を追いかけているうちに頂上まで登る人もいれば、最初から山の頂上にいる人もある。あるいは道半ばで力尽きる人もあれば、自分から道を降りてしまう人もある。  なにが自分にとっての幸せなのか、ってことにそもそも鈍感かもしれない。そして幸せな気持ちは摩耗するかもしれない。きのう幸せだったことは、今日はもう幸せでないかもしれない。それが幸せなんだと気がつくことなく通り過ぎてく人もいる。誰にとっても幸せなことなんてあり得ず、ある人の幸せは、またある人の親の仇かもしれない。  いまが幸せなんだと、気がつくこと以上の幸せはないのかもしれない。どんな途上にいたとしても、いまが幸せなんだと思えるのなら、それが一番の幸せ。ハッタリでもデマカセでも感じたもん勝ちだと思う。牢獄には牢獄の幸せがあり、天国には天国の幸せがある。なにに幸せを見出すのかが、その人の幸せの感度を決める。幸せは摩耗し過剰になっていく性質がある。いい幸せというのがあるはず。  蝉が鳴いて笑う人もあれば、蜘蛛が動いても五月蝿いと怒るだけの人もある。幸せになるために生きているんだってことを忘れないで欲しい。どの道も幸せの途上にある。怒りを撒き散らす先に幸せがあるのならそうすればいい。することがいつか幸せに向かうのならそうすればいい。  世の中には幸せに向かっていると割り切れることばかりでなく、やらなくてはならないこと、せざるを得ないことも多い。「しかたないこと」をするくらいなら、わたしなんていなかったほうがいいのだと思ってしまう。人のためにすることだって、ひいては自分のためなのだと思う。本当にそう思ってる。人の笑顔はたしかにわたしの心を和ませる。それはわたしの幸せである。そうあるべきだ。  なんで生きてるのかわからない人よ。生かされてしまっている人よ。幸せに敏感たれ。なにをしたら幸せなのか考えよ。広くを知り、深くを知り、よく考えよ。我らは幸せになるために生きているのだ。

人を楽しませるということ

 初めて人を笑わせたのは、小さい頃、高島屋を「タカシ『ヤマ』」と言い間違えたってことだと思う。そのとき母は台所で洗い物をしていたのだけど、それをやめてしまうくらいの笑い方だった。今にして思えばなにがそんなに面白かったのかわからないのだけど、なにかが彼女の琴線に触れたのだろう。その時のわたしのRe:リアクション次第では、わたしの人生は全く違ったものになっていたかもしれない。もしかしたらとんでもないお調子者になっていた可能性だってある。  その時のわたしの反応はなんで笑っているのかわからない、という感じだったと思う。間違って言ったことには母の反応によってすぐにわかったのだけど、なににそんなに笑っているのかわからなかった。わからないのはいまと同じだけど、不明な理由は今とは違う。  人を笑わせる、あるいは楽しませるということが、当時のわたしには──とにかくわたしは幼かった──わからなかった。人を笑わせることが快感となっていたら、わたしの人生はずいぶん違っていたかもしれない。もっとお調子者ぶった人間になっていたと思う。  今のわたしは、しゃべっても人を楽しませることができないんじゃないかと思っているに違いない。しゃべる価値のない人間と思っているのかも。  実際には、そんなことはないはずなのだけど。今は母をジェスチャーや筆談で笑わせることは日常になっているし──それは彼女が多分に笑い上戸であるからかもしれないが。というか母は笑いたいのだと思う。当時もそうだったように──わたしがしゃべることが家族の幸福であることは間違いないと思ってる。少なくとも喜びであると。それは家族だけでなくて、友達も心配してくれていることだ。そうと理解してる。そこかしこにそういうことを感じてる。ありがたいことだと思う。  人を楽しませるという自信をつけるためには人を楽しませ続けなくてはならない。そこにしゃべることが絡むのなら、しゃべり続けなくてはならない。自信というワードは危ういので安易に使いたくないが、それは大事なことかもしれない。  結局のところわたしはこれを病気なのだと割り切りたいのだと思う。そうしてまた今晩もクスリを飲むのだ。そうすればまた安眠できるだろう。  わたしに何かがあるのは間違いない。つっかえ棒を取るきっかけをずっと探してるように思う。見つかるといいけど。心のどっかでは人を楽

ありきたりな文章

 「世の中は、アリキタリでできている」と言ってしまうのはある種の逃げなのかもしれない。アリキタリからの逸脱、特に過去の自分の書いたものからの逸脱をずっとできないでいるような気がする。自分の中のアリキタリがあってそれをずっとなぞっているだけのような気になっている。正確な統計はないけれど、たぶん7割くらいは以前書いたことの焼き直しでこの文章群はできていると思う。  それはそれだけそのことを考えているのだとも言える。時のふるいにかけても、こぼれ落ちなかったものなのだと。何度も考えてしまうことこそ、わたしがやめられないことであって、それこそがわたしの核であると言えないこともない。被ってることが、わたしの思考の基本なのだと大見得を切ることも可能かもしれない。  「アリキタリ」を「基本」だと言い換えることもできると思う。基本を知らなければそこからの発展もないのだろう。デタラメは出鱈目なのである。外すから発展なのであって、基本を知らない人間に応用はない。  そういうことでいうと、わたしという人間の基本を知っている人にしか、応用は届かないことになってしまう。基本を示しつつ応用まで語ることができるほど字数に余裕があるわけではない。そういった能力もない。  アリキタリに対する危惧とはなんなのだろう。当たり前すぎて読む気にならないということだろうか。以前読んだことならとてもアリキタリであるといえそう。世間の周知の事実であれば、わたしが書く理由などないのだと思う。わたしが書く理由があって、アリキタリでなく、なおかつ普遍性を持つというのはとても難しいことなのかもしれない。  世の中はアリキタリにまみれてる。だからこそ、普遍性を持てるのだと思う。しかしすべての面でアリキタリなのではなく、だからこそ多くの人の鑑賞に耐えるものができるのではないか。誰にとってもすべての面でアリキタリでないものは誰の目にも止まらないと思われる。ある人が見たときにある面はアリキタリだけど、他の人からみたらアリキタリでない。またある人が見たら別の面がアリキタリで……というように世の中は構築されているのではないのだろうか、というアリキタリな考えでこの文章はおしまい。

自分のつくるものでうれしがるということ

 読んだもの、聴いたもの、観たものでうれしがるのでなくて、自分がつくったということでうれしがることができたら、どんなに心地いいだろう。そうすることができないのは、まずもって、わたしにその技術がないからで、技術がないのは意志がないからだ。意思によって研鑽された技術をもってしか、人は何かをつくることはできないだろう。つくったところで自分がうれしがるものなどできない。  つくることで自分がうれしがるのと同様に、人をうれしがらせることができたらどんなによいだろうと、そう本気で思えたらどんなに素敵だろうと思う。人をうれしがらせることが、いまはわたしの喜びとはなっていないのだ。その気分はいろんなことにつながっていて、わたしにとっての社会的障害となっている。わたしにとって、何かをつくることだけが社会との接点ではない。たぶんつくらなくてもわたしは生きていけるだろう。人を喜ばせることはわたしが何かをつくるという意欲を掻き立てることにはならない。  自分ひとりで何かをつくって、そしてうれしがるということ。そこに研鑽はあるのだろうか、琢磨はあるのだろうか、成長はあるのだろうか。  人がいるから切磋しようと思えるのかもしれない。あの人を驚かせたいからつくるということもあるだろう。わたしは自分のつくりたいという欲望にどこまで忠実になれるのだろう。どこまで意思を貫けるのだろう。  自分ひとりの世界で自分をうれしがらせるために何かをつくったとしても、人をうれしがらせることとはまた別なのだと思う。自己満足に何かをしたところで、評価されるわけではない。人から評価されるために何かをつくるわけでないとわたしは強がるかもしれないけれど、そうやってつくられたものには社会的意味は見出しにくい。  自分のことばかり考えて生きてきた。個人的意味と社会的意味の狭間をわたしは行ったり来たりしている。  人の為につくりたいと、どうして人は思うんだろう。わたしの人への愛しさが足りないってことなのか。わたしは本当に自分のことばかり考えて生きていた。このままでは、このままだろう。何かを変えなくてはならない。もっと人間を好きになったほうが良いって思う。人の為に何かしようと思えなければ、自分のために何かしようとも思えないような気がする。人の為に何かすることで、自分を活かすのだ。

「懐かしい」という感情

 「懐かしさ」を感じない人間などいるのだろうか。どんなに冷徹な人間だろうと過去のない人間などいない。AIにだって過去はある、と書こうとしたけれど記録を消してしまったら、懐かしさは感じないかもしれない。とにかくどんな人間にも懐かしいという感情は備わっているはず。いまは忘れてしまっていることでも、子供の頃がどんなにつらい時代だったとしても、かならずや懐かしさはあると思う。痛みの記憶でさえ懐かしいはず。  記憶によって呼び起こされる懐かしい気持ち。時に音楽に染み込んでいたり、文字あるいは手紙だったり、それは映像かもしれないし、一葉の写真かもしれない。喚起される感情はすべてが心地良いものではないかもしれないけど、大抵の昔の、特に小さい頃の記憶って良いものに描き換えられているような気がする。記憶の中でまで苦しむとしたら、さぞつらいだろうと思う。そういう経験がわたしにもないわけではない。できるなら二度と思い出したくもないが。  ひさしぶりの人と会う時、記憶の蓋が開く感触がある。有り体に言ってしまえば懐かしいということなのだろうけど、この感触の心地よさと言ったらない。いろんなことが総動員されて、わたしの前に迫ってくる。それは瞬間的にも訪れるし、じわじわと思い出してくることもある。ふと、降りてくる感じ。そういうことの総体として「懐かしい」と人は言うのかもしれない。  「懐かしさ」の感触をずっと求めてる気がする。あの、感じ。良い思い出も、おもいだしたくない記憶もすべてひっくるめて迫ってくる、あの感じ。「!」と「?」の中間の、心地よさ。引っかかりを手繰り寄せる手触り。  僕は自分の記憶力というものをそもそも当てにしていないのだけど、懐かしさの感触は心地良いし、頼りにしている。出逢った1秒前まですっかり忘れていたのに、逢った瞬間にすべてが眼前に現れる感覚。脳の情報転送能力は一体どうなっているのか不思議。  いまこうしている感触だって、いつか、また、思い出すのだろう。この状況と景色と人と物と、いろんなことの複合として、わたしはいま此処にいて、こうしている。こうして此処に居てこうしていることをきっといつか思い出すだろう。いつだって我々は「懐かしさ」の素を作ってる。その感じって面白くて複雑で、シュールで楽しいって思う。

人を肯定するということ

 自分を肯定しようと思うのなら簡単だ。自分と似た考えの人を探してくればいい。この何十億人という人間の中で、同じ考えの人はいくらかはいるのだろう。その人びとと同調すりゃあいい。その人が他人に否定されていようと関係ない。とにかく自分と同じ考えの人を見つけてくればいい。自分がその人をさえ肯定してやればいいのだ。  しかしわたしはそうしてこなかった。ただ自分が在るというだけで、自分を肯定しようともがいていたのではないか。そこにはたぶん正しさとか、間違っているとかそういうこともなかったのだと思う。ただ無担保に無保証に自分を肯定しようとしていた気がする。そういう肯定って人間に可能なのだろうか。  そもそも正しさってなんなんだろうな、と思う。間違ってるってなんなんだろうな、と思う。そんなものあるんだろうか。ただこの宇宙の中で同じ意見の人がある、あるいはひとりぼっち、というだけに過ぎないのではないか。  その心強さにわたしはずっと溺れてこなかったように思う。ただ愛すものを愛し、気に入らないものを見て見ぬふりして過ごしてきたんじゃないだろうか。それだけなんじゃないだろうか。  人と共にあることの理由って、人を肯定すること以外にあるのだろうか。人と何かを共有するということがわたしにずっと存外だったことは、わたしの何かを示しているに違いないと思う。それは、しゃべれないことも含めて。  自分を肯定するために、人と人は結び合うのだろうか。それだけじゃないって気がする。きっと慰めあったり、励ましたり励みになったり。いや、それも大まかには肯定するということかもしれない。だけど、「それだけではない」。  人からの承認なしに自分を肯定することは原理的に不可能なのだろうか。自己肯定とは幻なのだろうか。人に認められて初めて、人は人足りうるのだろうか。  わたしはどんどん変な人間となっているような気がする。自分一人で調子に乗っている可能性はないのだろうか。あるいは自分ひとりの世界で何かして、それでどんな意味があるのだろうか。この文章群だって人に読まれなければ、「意味がない」。人に読まれるから初めて意味が生まれるんじゃないか。人と触れ合うから意味があるんじゃないか。一人ぼっちでいても、寂しいだけだって、思うんだ。

し尽しているという感覚

 何かをするとき、全力でやった、手を抜かなかった、という事実だけがわたしを救ってくれる。悔いを残さないためにはそうする以外にない。  全力でやった感触を持ち続けるのはとても難しいことだ思う。休みを取ることはまた別なのではないかと想像してる。気を抜く時間もある。だけど、やる限りはやれることをし尽しているという自負がないと、どこかに後悔が残るのではないか。  わたしはこれまでの人生で出来る限りのことをしてきただろうか。いつも精一杯していただろうか。抜くところは抜き、締めるところは締める、その塩梅が難しい。どこまでやったら、納得がいくのだろう。どこまでやったら、自信を持てるだろう。この世の中で自分以上にやったヤツはいないぞと堂々と言えるだろうか。どんな状況にあるにせよ、いま、目の前にあることを懸命にできているだろうか。あるいはできていただろうか。  病気になったことは悔いようがないし、仕方ないことだと思っているけれど、病気になったことの態度や、そこから快復していく様に思うことはある。しかし、これ以上どうしようもなかったようにも思う。自分なりにうまく乗り切ったのではないか。  それはもしかしたら、これから決まっていくのかもしれない。この先うまくいかなかったとしたら、過去の自分のせいにしてしまうのではないか。そうしてしまうとしたら、うまくいってなかったということなのではないか。過去の自分をうまくいったことにするためにも、いま現在の自分はいつもうまくやっていかないといけない。  過去を悔いる手触りは、いろんなところに残ってる。あの時もこの時も、もっとやれたのではないか。今になってそう思うけれど、その時はそうする以外になかった。だってそうしたのだから。そのときに限界を求めていたか否かに関わらず、そうしていたのだから、どうしようもない。ただ受け入れるしかない。  今わたしにできることは、今の自分を将来に後悔のないようにやっていくだけだ。そのつど全力でやる、手を抜かずにやる、ということでしかないと思う。後悔の手触りを感じないためにはそうする以外にない。  し尽している感覚というのを、わたしは今感じているだろうか。手を抜いていないだろうか。限界を求めているだろうか。出来ることをしているだろうか。その感覚だけが、将来のわたしを救ってくれる。誇り高いものにしてくれるのだと思う

自分の目を曇らせるものを身近に置かないこと

 惑うことなく人生を進めていくためにできることの一つに、自分の目を曇らせるものを身近に置かないというのがある。  つまり、わたしがなにかに集中して実行していくのに障害となる全てのものを目の前、そして頭の中から排除するということ。発想としてそういうものを持ちたくないし、そういう発想になる全ての発端を排除する。  まずは「やらない言い訳」をしないこと。人はなんとなくやりたくないことには簡単に言い訳を作る。本当に簡単に。気が乗らないとか、今日は足が痛む、日取りがよろしくない、時間がなくて忙しい、寝ていない、遊びたい、お金がない、やる気がでない、今日は休養日、など。そういうことを一つひとつ排除することでしか、やりたいことは一生できない。  それから「卑屈な気持ち」を察して自覚し改めること。どうせ自分にはできっこない、わたしなんかがそんなことしていいのだろうか、わたしがそれをしたら人に迷惑になる、など。できないからやるのは時間の無駄と、やるまえから言っているのでは一生できるようになる日は来ないし、やる資格を自分から定めたり、人のこと気にしていたりしても、絶対に先に進むことはない。  あるいは「怒鳴っている人、負の言葉を吐いている人」を傍に置かないこと。怒っている人を見る、それだけでわたしのやる気は何%か落ちる。負の感情が乗り移ってくる。自分が怒られているわけでもないのに不思議なのだけど、きっと何かが自分の中に同調するのだろう。負の言葉だけを吐く人も同じ。憂いている気持ちが乗り移ってくる。できればそういう言葉は目にしたくないし、耳にも入れたくない。  そして「過去の栄光や、わたしを傲慢にさせたり調子に乗らせる人とモノ。謙虚な心持ちを損ねる全てのもの」を排除すること。わたしを安易に褒める人にわたしは心を許さない。トロフィーや賞状や勲章も目と心の毒なので目の届くところに置かずに、どこかに仕舞ってしまった方がいい。それから報酬を得るときに、誰にどのような理由でもらうのかにも敏感になったほうがいい。それはわたしを苦しめる原因となり得るから。わたしをおだてるすべてに、その理由を問え。  人生は曲がりくねった道でしかも平坦なんてことはないかもしれない。人生に無駄なことなんてないなんて人は言うけれど、それでも無駄なことをしているほど人生は長くない。惑うことなく愉しく生きよ。

人の為にするということ。

 人の為に何かする、ということばが最近は目に付くようになった。自分がそういう方へいきたいのかもしれない。なんだかよくわからないけど、見返りを求めるというわけでもなく「ただやるということ」について考えつつある。わたしは今までに、人が人の為にやったその結果に影響されてきたことがあまりに多い。  自己犠牲とか人類の発展とかはよくわからないけど。そもそも、何かするその相手がわたしの周りにはあまりいないのだけど。それはそういう人生を送ってきてしまったからだ。別に知ってる人とか親しい人でないと何かしてはいけないということもないだろう。迷惑でなければだけど。  迷惑にならないことの線引きがわたしはうまくないのかもしれない。気持ちはあっても、うまくいかないことは多い。けっこう歯がゆい。「あなたの力になりたい」という気持ちを、どうやって人に効果的に伝えるか、って気を使うことで、難しい。  あるいは、行動するということを躊躇しがちかもしれない。人と関わることをそもそも躊躇している感じがある。関わりたくない「かもしれない」人種があるのかもしれない。しかし、その考えは損だと思う。何かあれば、はっきりと拒絶することさえできたら、きっと問題にはならないし、うまく人とも渡り合えるのではないか。躊躇するってそこの躊躇なのだと思う、煎じ詰めれば。つまり、人を傷つけてしまうのではないか、という。  人がどういう風に人と接しているのか、わたしにはもうわからないのだ。うまく人と関わる術を、持ってない。傷つけるのを躊躇するのなら、人を傷つけない方法を学んでいくしかないと思う。  その人のためになることを考えて、行動するというのはとてもハードルが高い。その為にはその人を知らなくてはできないし、それはそれは深く知らなくてはならない。いま、なにをその人は求めていて、そして、自分にいまなにができるだろうと。相手を知ること、そして自分を知ることの両輪が回らなくてはならない。こういうことを人間力というのかもしれない。  人のしてきたことに影響されなければ、永久に人は何もできないのではないか。わたしのすべては誰かの影響によって成り立っている。そのことの意味を? わたしが今できること。するべきこと。  人との関わりにこそ、何かがあるのだと思う。こうして際立てて言わないといけないくらい、わたしは一人だったという

「ちぇけら」に関する一考察

 なんでこんなに、「ちぇけら」という言葉に惹かれるのかわからんのだけど、とにかく惹かれる。「チェキ」ではだめだし、「チェケラッチョ!」もなんか違う。「チェケラッチョ!ハゲラッチョ!」はもっと違う。  Hip Hop的なノリっていうのが、あるころ以来いっさい受け付けなくなったのだけど、この「ちぇけら」だけはなんとなくずっと気になっている。  英語にすると"Check it out"である。このワードからなぜ「ラ」という音が発生するのか、ぼくにはよくわからない。  とにかく「ちぇけら」と唱えるだけで、テンションがちょっとだけ上がる気がする。バイブス上がるとでもいうのだろうか。まるで呪文のように「ちぇけら」と唱えたくなる。唱えないけど。決して。先にも書いたようにちょっとそのノリはキツイ。  瞑想のマントラが「チェケラ」だったら、ちょっとヤだなと思う。時間が経つに連れて空に浮かんでいきそう。(チェケラチェケラチェケラチェケラ)  なんというか「ちぇけら」に対する憧れみたいなものを拭いきれないでいる。なんとなく目の端において置きたくなる。人が言ってるのを聞くのも恥ずかしいしこそばゆい。自分ではたぶんおそらく絶対に言わないけど、なんか気になる。語感が好きなのかもしれない。泥酔して我を失ったら言ってしまいそう。  なんか、言いたくなるけど、決して発したくない言葉だ。自分の羞恥心がそれをせき止めているのだけど、ムズムズと言いたくなる。明けっぴろげにテレビとかラジオとかで言ってる人がいると、恥ずかしくなると同時に羨ましくもなる。なんというか、英語をしゃべってる感が強いのかもしれない。中学くらいで英語をかっこよくいうのが恥ずかしいみたいな手触り。そしてそれは同時に憧れでもあるのだと思う。  日常に生きていて「ちぇけら」を使うことはまずないと思う。それだけが救いである。そんな人いたら引いてしまう。と同時にちょっと羨ましいのかもしれない。一度でいいからそこまではっちゃけてみたい。

人に興味を持つって、どういうことなんだろう

 最近の傾向としては、いろんなひとに興味を持ちたい、って言うと変なんだけど、興味を持てたらいいなーと思ったりしている。  とにかく会う前から話す前からコミュニケーション取る前から、突っぱねて相手にしない時代が続いたのだけど、それはなんだかもう、感覚として違うな、という感じになってきてる。  とりあえず、人に興味を持てよ、という感じ。そうしないと、始まんないよ、という。埒が明かんというかさ。どうにもなんないよね。  この数年だって、それなりに人に興味を持ってきたと思うけど、もっと開放的になってもいいんじゃないかな、と思う。お? と思う間もなく通り過ぎてく人たちにもっと目を向けてもいいんじゃないかと。  それは、敬意というだけでなくて、好奇心とか興味とかいろんなことが言えると思うけど、そんな感じ。  さて、それで、人に興味を持つって、どういうことなんだろう。  ぼくはきっと、まず、質問をしたいだろう。 ──あなたが今いちばん好きなことはなんですか? ──あなたの好きな天気は? ──あなたが自分を誇りに思ってることはなんですか? まずぼくが知りたいのはたぶんこんなとこかもしれない。人と人がコミュニケーション取っていれば、これらのことはそのうちにわかってくることだ。だから、質問するというよりも、自然と知っていきたい。  人と人が仲良くなるのに、何もやらかいとこをさらけ出す必要なんてないんだと思う。共通のテーマさえ持てたら、それだけで深い関係になれるってぼくは思う。人と人の関係はそれに尽きるんじゃないかと。異論はたくさんあるだろうけど。  つまり、人に興味を持つということは、その人の持ってるモチモノや、それを好きになった経緯や、人格を知りたいってことなんじゃないだろうか。 ちなみに、ぼくの質問に対するぼくの回答。 ──対談本、詩、ジャズ、ジブリ、美人画 ──風のびゅーびゅー吹く天気 ──しゃべれないこと

多くの人がそうであるように。

 どんな事があったにせよ、自分を貶めても、良いことなんてなにもない。みんながぼくのことを「そういう人なんだ」と思うだけだ。自分を卑しめて、人に上げてもらいたいのだろうけど、そうしてくれる人は稀なの。多くの人は障らないようにするのだろう。  自分の中の卑屈さに気がついたとき、とても嫌な気持ちになった。自分の卑しさについて考え始めてもう何年も経つけど、自覚してもどうにかなるってもんでもない。ただ自分の時間を埋めてくことでしか卑屈さから逃れることはできなかった。楽しさでしか自分をごまかすことができないでいる。 ***  ぼくには、できないことが多すぎる。  多くの人がそうであるように。  「ひとには、できないがある」ということをうまく乗り越えられないでいるのかも。なんでもできると思いたいのだ。  でも、できない。  したいこと全部したい。  でも、できない。  多くの人がそうであるように。 ***  わたしの卑屈さの元はきっと、この、できないということだと思う。多くの人ができないことは、わたしにもできなくて当たり前のことである。しかし、できない自分を受け入れられない。この全能感がある限り、わたしは幸せにもなれないし、どこにだって行けないだろう。  この卑屈さを覆すための努力、──充分な努力──をしているのかっていうと、最善を尽くしているとは言えない。要するに卑屈だヒクツだと文句だけ言って、何もしていないのと同じなのだと思う。やることやってないのだ。  このスパイラルから抜け出るためには、やることやる以外にないと思う。できることを増やすこと、そしてできることの範囲を拡げてく以外にない。  何もせずに文句だけ言うことは、魂が腐ってる。やることでしかぼくは救われない。多くの人がそうであるように。  腐った魂では何も楽しめないのだ。そう気がついてから楽しい生活になった。やること一切を、自分のために、大事な人のために使っていける。いろんなことができるようになるかもしれない。  おれはしあわせものだ。

考えを尽くすことについての不安。

 いつでも知恵を出す努力を怠っているような気がする。もっと考える余地があるんじゃないだろうかと、いつも不安になってる。その場限りで終わってしまうことであると、けっこう引きずったりする。何度も考える余裕があったり、試行錯誤できたり、工夫する余地があるといいのだけど。そういう時にも、ある種の粘りというか、しがみ付く感が乏しかったりする。執着しないというか、あきらめてしまったりする。  なにごとも執着だし、粘りだし、しがみ付きだと思う。どこまで対象に執着できるか、なのではないか。好きなことに人は執着しやすいし、責任が生じれば人は粘るだろう。感情はときに人を何かにしがみ付かせる。  考えを尽くすことに、慣れていない。あらゆる観点から考えるという経験に乏しい。そうする初めの一歩は執着するということなんじゃないか。考え続けるから経験となる。そうなる切っ掛けはいろいろありそうだけど、今の自分の生活には乏しいのだと思う。  考えを尽くすこと、粘り強く考え続けることを自分に課していない。簡単にあきらめてしまうし、あきらめているとさえ思っていないかもしれない。どこで知恵を出すのをやめるか、自分の中に明確な判断基準はない。ただなんとく考えて、ただなんとなくやめてしまう。尽くされるまで考えるというわけでもなく、ただ、やめてしまう。  それではだめなんだ。  足りないことを不安に思うのはまだ良いと思う。また考えを尽くそうとするかもしれない。何の気なしに考えるのを止めてしまうことが、わたしは怖い。  家から出たとき、何かを失っていないだろうかと、よく不安になる。一番怖いのは、失ったことに気が付かない、その存在さえも頭から消えてしまうこと。  考えるべきことを失ったことに気が付かない、存在さえも頭から消えてしまうことが、わたしは怖い。  考えたとしたら、いつか答えは出るかもしれない。でも、考えなければ、一生答えは出ないままだ。土俵にさえ立てない。評価の対象にさえなれない。  知恵を出し続ける努力をすること。知恵を出す発端を手放さないこと、そのための努力を怠らないこと。そう自分に言い聞かせたい。

にじんだ自分の輪郭を見つめる

 ぼくにも人並みに劣等感というものがある。たぶん誰にでもあるのだろうと思う。そうと意識してなかったり、可視化されてなかったりするにせよ。  自分の劣等感と向き合うのってしんどいし、向き合わなくて済むなら、しないのが普通かもしれない。  でも、ぼくは向き合いたい。  それは弱めるとか、無くすとか、そういうことでなくて、向き合いたい。劣った部分でさえも自分で好きになりたいし、人に愛されたい。人に迷惑をかける欠陥なら治した方がいいと思うけれど、それでさえもその人をその人足らしめている一部分であるに違いないと思う。治そうとしても治らない、どうしようもないそんな部分を、ぼくは自分で愛したい。そこのところこそが、人の魅力であるとさえ思う。  自分の劣等とどう向き合うのか。見て見ぬふりするわけでもなくて、きちんと把握して、それでもなお、それが特別でないかのように振る舞う。開き直るわけでもなく、受け入れる。そう生まれて、これまでこの身体、この精神で生きてきた、という誇りを持って生きている人は、とてもうつくしい、と思う。  ぼくにとっての人間の魅力って、自分の劣等感といかに向き合っているか、なのだと思う。  ジブリの高畑勲監督の映画『かぐや姫の物語』に、姫が容姿のことを言われて、劣等感を抱く、というシーンがある。もちろん優れているということを言われるのだけど、そのことに耐えられなくなって、姫は荒野に走り出してしまう。映画の中で特別なシーン。映画の創作だと思うのだけど、そのシーンで、わたしの感覚は引っ張り出されたように思う。容姿が優れていることに悩む姫君。その時「劣等感」について考えさせられたのだった。  自分ときちんと向き合える人は、つよい。そういう人こそ、うつくしいってぼくは思う。  他ならぬ自分という人間なのに、目を逸らす人は多い。だけど、人生のどこかで、向き合う時はかならず来る。多くは思春期の頃に。人と触れ合っていれば、自然とそういう機会は増える。そして触れ合い過ぎるとだんだんと摩耗してくるものだと思う。平気になってしまう。擦り切れてしまう。それでも自分と向き合っている人こそ、うつくしい。  自分と向き合い続けることが、わたしをわたしたらしめているのだと思う。人との輪郭に自分はある。人といるとその輪郭はにじむ。いつまでもにじんだ自分と向き合い続けていたい。

ぼくらはみんな友達になれるはず。

 本当には、わたしはいろんな人と仲良くしたい人間なのだと思う。わたしはこれまでいろんな人を愛し愛され、そしてあるいは拒絶されてきた。  人にはいろんな要素がある。顔や背丈や体格、匂いや、眼差し表情や仕草。いろんなことがその人の"感じ"をとりあえず決めている。そこにもまず許容範囲があって、内面に向かってく。  変なところのない人なんていないんだと、ぼくは思う。そう思ったほうが精神衛生上よい。普通の人だって、それこそが変なのだということ。だから、いつだって人を理解しようという態度は必要なのだ。相手に興味がないのなら尚更だと思う。  誰にでもある「変なところ」を許してくれる人と、わたしは一緒にいたい。それはある種の甘えであるし、誰もが許してくれるわけじゃない。許しを請うつもりもないし、一人なら一人でも良いとさえ思ってる。でも、いろんな人と仲良くできる人が羨ましくもある。そこらへんに人生の矛盾や問題が潜んでる。  人と、仲良くしたいって気持ち、なんなんだろうな、と思う。夫婦の関係ってそういうことを超越しているように見える。ぼくにはよく分からない。  友達と仲良くしたいって、思う。うまくいかない人とも、うまくやれたらいいのにと思う。それは人間の許容範囲なのか、なんなのか。人としての余裕、なのかなんなのか。  人間らしさ、みたいなものをそこに嗅ぐのだ、わたしは。人はどうにもできないことをどうにかしたいと思うし、だからこそ足掻き、苦しむ。後ろ髪引かれ、後悔する。あの人と仲良くしたい、と。  超えてはいけないラインみたいなのが人にはそれぞれあって、それを興味と利益と優しさと妥協でバランスをとってる。理屈で遠ざけることほど簡単なことはなくて、でも感情はその度に置いてきぼりにされてて。  この、何十億もいる人間の中で、縁あって出逢った二人なのに。仲良くするかどうかを無意識に決めるのはなんだか変。かといって理屈で離れることを決めるのもなんか変。ぼくらは互いに惹かれあい、そして、いつか。  ぼくらは、みんなで友達になれるはず。興味も、利益も、優しさも、妥協も全部打っ棄って、ぼくらはうまくやれるはず。  甘え合い、許し合い、愛し合い、憎しみ合って、ぼくらは今日も生きてる。「人間らしさ」という輝きが、ぼくにはとても愛おしいのだ。

書くことを極めたい

 やっぱり、書きたいんだと思う。書き続けたい。書くという表現を手放したくない。  書くことを極めたい。極めてどうしたいのかって、どうしたいのだろう。  おそらく、自分の思ってること考えてることを正確に伝えるためには、書くという方法が良いと思っているからだろう。唄を歌えるなら歌うし、指揮棒を振れるならそうするだろう。映画を撮れるならそうするし、写真を撮れるならそうする。詩を書けるならそうするし、文章を書けるのならそうする。そのくらいの理由なのだと思う。大して深い意味はない。  今のわたしが文章をどれだけ正確に書けるのかわからない。そう大して厳密でもないって気がする。今までどうにでも解釈できることしか書いてこなかった。  自分の思ってること考えてることを人に伝えるっておそらく、ここぞ!という時のためなのだと思う。それは渾身のラブレターかもしれないし、お礼状かもしれない。人を説得することがあるかも。感謝を伝えることがあるのかも。一つの文章で自分や大切な人の人生を変えることがあるかもしれない。  そう思うのは、きっと自分がそういう目にあってきたからだ。文章によっていくたびもわたしの人生は変わってきた。小さな変化もあったし、大きな変化もあった。人生の節目に手紙はあったし、本はあったし、そこには文章があった。  そういうものを書く日がいずれ必ず来るのだと思う。それは赤の他人を揺るがすほどのものでなくても、大切な人の、大切な時期の、大切な気持ちをほんの少し良い方に向かわせるものかもしれない。  その時のために、ぼくは日々、文章を書いているのかも。これは予行練習だったんだ。きっと。  核となる気持ちさえあれば、おそらく誰にだって文章は書ける。それを効果的に伝えられるかどうかは修練が必要だと思うけど、書くことはとりあえずできる。今のわたしがそうしているように。  華やかな時には華やかな言葉、厳かな時には厳かな言葉、悼む時には悼む言葉、励ましの言葉には、相応の言葉があるように思う。  書くことを極めたら、人に伝わるのだろうか、わたしの気持ちは。精密なる言葉は、精緻なまま人に伝わるのだろうか。銀のような熱伝導率で効果的に人に伝わる方法を会得したら、わたしは書くことを極めたといえるかもしれない。  書き続ける。そして、読まれ続ける。そのような文章書きになる。

ひとりであること、あるいは。

 ずっとずっと、自分の弱さと向き合わずに生きてきた。いろんな意味でいま、自分の弱さと向き合わなければならない時が来ている。様々な意味で瀬戸際に立っている。人生いつだって分岐点だけど、こんなにはっきりとした分岐点はそうそうないのだと思う。いくらでもぼくは変われるし、良くも悪くもなっていく。  このまま生きていけば、たぶん生きていける。そんなに困ることもない。低く暮らして、高く思うこともできるだろう。だけど、それは、たぶん、死ぬまで独りで生きるってことを意味する。  独りなのは構わないけど、しかし、このまま生きていくことはわたしの本望ではない。このまま生きている自分でいたくない。  ぼくはこれまでいろんなことに接してきた。そのどれをとっても、人が独りで形造ったものなどないのだと思う。この世にある、いかなるものも誰かが誰かと造ったか、誰かが誰かの影響を受けて造ったものだ。人は真に独りになることはできない。  ぼくはいま、人と何かする、ってことに、憧れてるのかもしれない。そうしたいって、強く想ってる。人と何かするから、自分の持ってる以上のちからや能力を出せるのだと思う。人のちからを引き出すこともできるかもしれない。  そう思えるのは、一人でいたからだと思う。ぼくは、「一人」ということをたぶん知っている。  このまま生きるということは、誰かの助けを借りないという体をとって、強く誰かに支えられながら生きるということだと思う。その卑怯さに、その矛盾に、ぼくは耐えられそうにない。頼るのなら、寄りかかるべきだし、頼らないのなら、そうするべきじゃない。なんだか中途半端で、未来のないところに居てしまっている。この先にあるのは、本当に独りの世界なのだと思う。  障害はあるにせよ、ぼくは独りでなく生きていくことができると思う。その扉が開きつつあると思う。それは、ゆっくりと開いてきた。自分で開けた部分もあるし、人によって開かれた部分も、もちろんあると思う。  この先を開くのかどうかが、今の自分にとって、大事なこと。そのために、自分の弱さと向き合わなくてはならないと思う。お金の自由、時間の自由、人としての自由、いろんな自由を天秤に掛ける。  このままいれば、自由だし、不自由なのだ。人生を開けば、不自由で、自由なのだ。どの自由を選択して、どの不自由を享受するのか。上手くいかないこ

人を好きになること、自分を好きであること。

 自分のことを好いてくれる人もいる、そうでない人もいる。誰かに好かれるために生きてるわけではないし、そうでなくなるために生きてるわけでもない。ただ、自分は、自分だけは、いつまでも自分を好きでありたい。それがわたしの幸せだと思う。   だから、自分で自分を好きでなくなる行動はなるべくしたくない。自分を惨めに思うのは厭だし、惨めに思うことから避けているかもしれない。自分を困らせることから避け続けて生きることは可能かもしれないけれど、でもそれはなんだか窮屈だと思う。   困るから、工夫するし対処するし、大きくなるのだと思う。困ることから逃げていると、何も変わらないし、成長もしない。小さくなっていくばかり、窮屈になるばかり。  この世界には自分のことを好いてくれる人もあれば、そうでない人もある。それは当たり前のこと。きっと何かのきっかけで、人は人を好きになるし、そうでなくなったりする。そして、何かのきっかけで好いてない人を好くようになったり、あるいはもっと深くそうでなくなったりする。それはたぶん人にとっては些細なことで、しかしわたしにとっては重大なことかもしれない。   全体として、あなたのことが好きよ、なんだかよくわからないけど、ということもあって、余計に話はややこしくなる。ただ顔が好き、ということだってあるだろうし、縁があって好き、ということも、もちろんあると思う。   人を好き、という呪縛みたいなものがある。この人から離れたいのに離れられない、その理由──たぶん離れる理由と離れられない理由を天秤にかける人は少ない──はいつだってよくわからない。人と接している時にこの人といることは得だろうかと思うことは、なんだか不人情に感じる。でもそれは往往にしてあることかもしれない。   ただ友達だから、ただ恋人だから、ただ夫婦だから、そういう理由を作って、一緒に居ようとする人は多い。ただ好きだから、ってだけでいいのだと思う。それを説明しようとすると、よくわからなくなる。   あなたのここは不満だけど、でもこういうところが好き、だから一緒に居る、ということ。人のことを全て総じて好きということはたぶんおそらくきっとめったに天地が裂けても有り得なくて、でも、好きがないとやってられない。好きなところが見つからない人とはうまくやっていけないって思う。それは、好きなら好きで、それだ