なぜ「いま」チャットしたいのか。その2

 「いま」チャットしたい理由はなんなのか。この点を昨日の文章では考えなかったので、今日は考えてみたい。
 ここ最近、人と会いたいと思うようになった。しかし、コミュニケーションに難のある自分には齟齬も多いし、人に気を使わせてしまうことも多い。互いにフラストレーションも溜まる。
 昨日も書いたように会話の臨機応変力は乏しいと思う。適応力がないって思う。そういうことは元からそんなに得意な方ではなかったかもしれない。言いたいことを言って、言いたくないことは言わないという人間だったと思う。それは自分がガキだったからかもしれないし、そういう性分だったのかもしれない。とにかく学生時代からこっち、そういう能力をわたしは鍛えずにここまで来てしまった。たぶん歳相応のお喋りができない人間になっているのではないか。そう危惧してる。
 (文章を書くこととは違って)会話となると反射神経とか瞬発力というのが必要になってくる。いま、このタイミングで言わないと意味がない、ということは往々にしてある。わたしはそういう能力に乏しい。なにも人を笑わせるということだけでなくて、説得したり、情報を伝えるのにも、効果的な言い方やタイミングなどがあるのだと思う。そういうことの乏しさを、ぼくは憂いてる。なにも障害のことを言っているのではない。コミュニケーション能力の向上、適応をしてこなかったということだ。
 わたしはずっと逃げていたのだ。緘黙である自分を見て見ぬふりしていたと思う。このままならこのままでいいと思っていたと思う。仕方ないと思ってた。
 友だちと会うようになって、それがすこしずつ変わってきた。自分の裡の変化を看過できなくなってきた。ぼくはいままで自分と向き合ってきたと思う。自分以外の人間と向き合うことの面白さを知りつつある。人を認めるということ。人に認められるということ。自分が人を許すこと。自分を許されること。自分ではない人間を楽しむこと。そういうことのマジックをわたしは思い知ったのだ。
 いまの自分は人に認められるようなことを何一つしていないかもしれない。過去の遺産や幻によって認められているように見えるだけに過ぎない。いまのぼくを認めてくれなくてもかまわない。会話を通して、わたしは一歩先に進みたいと思ってる。その相づちは、きっとわたしを変えるだろう。チャットでならそれが可能だと思うのだ。会話するという恐怖を葬り去りたいのだ。
 そんな大袈裟でなくても、わたしはいろんな人と会話を楽しみたいってことなんだと思う。

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