人を肯定するということ

 自分を肯定しようと思うのなら簡単だ。自分と似た考えの人を探してくればいい。この何十億人という人間の中で、同じ考えの人はいくらかはいるのだろう。その人びとと同調すりゃあいい。その人が他人に否定されていようと関係ない。とにかく自分と同じ考えの人を見つけてくればいい。自分がその人をさえ肯定してやればいいのだ。
 しかしわたしはそうしてこなかった。ただ自分が在るというだけで、自分を肯定しようともがいていたのではないか。そこにはたぶん正しさとか、間違っているとかそういうこともなかったのだと思う。ただ無担保に無保証に自分を肯定しようとしていた気がする。そういう肯定って人間に可能なのだろうか。
 そもそも正しさってなんなんだろうな、と思う。間違ってるってなんなんだろうな、と思う。そんなものあるんだろうか。ただこの宇宙の中で同じ意見の人がある、あるいはひとりぼっち、というだけに過ぎないのではないか。
 その心強さにわたしはずっと溺れてこなかったように思う。ただ愛すものを愛し、気に入らないものを見て見ぬふりして過ごしてきたんじゃないだろうか。それだけなんじゃないだろうか。
 人と共にあることの理由って、人を肯定すること以外にあるのだろうか。人と何かを共有するということがわたしにずっと存外だったことは、わたしの何かを示しているに違いないと思う。それは、しゃべれないことも含めて。
 自分を肯定するために、人と人は結び合うのだろうか。それだけじゃないって気がする。きっと慰めあったり、励ましたり励みになったり。いや、それも大まかには肯定するということかもしれない。だけど、「それだけではない」。
 人からの承認なしに自分を肯定することは原理的に不可能なのだろうか。自己肯定とは幻なのだろうか。人に認められて初めて、人は人足りうるのだろうか。
 わたしはどんどん変な人間となっているような気がする。自分一人で調子に乗っている可能性はないのだろうか。あるいは自分ひとりの世界で何かして、それでどんな意味があるのだろうか。この文章群だって人に読まれなければ、「意味がない」。人に読まれるから初めて意味が生まれるんじゃないか。人と触れ合うから意味があるんじゃないか。一人ぼっちでいても、寂しいだけだって、思うんだ。

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