ぼくらはみんな友達になれるはず。
本当には、わたしはいろんな人と仲良くしたい人間なのだと思う。わたしはこれまでいろんな人を愛し愛され、そしてあるいは拒絶されてきた。
人にはいろんな要素がある。顔や背丈や体格、匂いや、眼差し表情や仕草。いろんなことがその人の"感じ"をとりあえず決めている。そこにもまず許容範囲があって、内面に向かってく。
変なところのない人なんていないんだと、ぼくは思う。そう思ったほうが精神衛生上よい。普通の人だって、それこそが変なのだということ。だから、いつだって人を理解しようという態度は必要なのだ。相手に興味がないのなら尚更だと思う。
誰にでもある「変なところ」を許してくれる人と、わたしは一緒にいたい。それはある種の甘えであるし、誰もが許してくれるわけじゃない。許しを請うつもりもないし、一人なら一人でも良いとさえ思ってる。でも、いろんな人と仲良くできる人が羨ましくもある。そこらへんに人生の矛盾や問題が潜んでる。
人と、仲良くしたいって気持ち、なんなんだろうな、と思う。夫婦の関係ってそういうことを超越しているように見える。ぼくにはよく分からない。
友達と仲良くしたいって、思う。うまくいかない人とも、うまくやれたらいいのにと思う。それは人間の許容範囲なのか、なんなのか。人としての余裕、なのかなんなのか。
人間らしさ、みたいなものをそこに嗅ぐのだ、わたしは。人はどうにもできないことをどうにかしたいと思うし、だからこそ足掻き、苦しむ。後ろ髪引かれ、後悔する。あの人と仲良くしたい、と。
超えてはいけないラインみたいなのが人にはそれぞれあって、それを興味と利益と優しさと妥協でバランスをとってる。理屈で遠ざけることほど簡単なことはなくて、でも感情はその度に置いてきぼりにされてて。
この、何十億もいる人間の中で、縁あって出逢った二人なのに。仲良くするかどうかを無意識に決めるのはなんだか変。かといって理屈で離れることを決めるのもなんか変。ぼくらは互いに惹かれあい、そして、いつか。
ぼくらは、みんなで友達になれるはず。興味も、利益も、優しさも、妥協も全部打っ棄って、ぼくらはうまくやれるはず。
甘え合い、許し合い、愛し合い、憎しみ合って、ぼくらは今日も生きてる。「人間らしさ」という輝きが、ぼくにはとても愛おしいのだ。
人にはいろんな要素がある。顔や背丈や体格、匂いや、眼差し表情や仕草。いろんなことがその人の"感じ"をとりあえず決めている。そこにもまず許容範囲があって、内面に向かってく。
変なところのない人なんていないんだと、ぼくは思う。そう思ったほうが精神衛生上よい。普通の人だって、それこそが変なのだということ。だから、いつだって人を理解しようという態度は必要なのだ。相手に興味がないのなら尚更だと思う。
誰にでもある「変なところ」を許してくれる人と、わたしは一緒にいたい。それはある種の甘えであるし、誰もが許してくれるわけじゃない。許しを請うつもりもないし、一人なら一人でも良いとさえ思ってる。でも、いろんな人と仲良くできる人が羨ましくもある。そこらへんに人生の矛盾や問題が潜んでる。
人と、仲良くしたいって気持ち、なんなんだろうな、と思う。夫婦の関係ってそういうことを超越しているように見える。ぼくにはよく分からない。
友達と仲良くしたいって、思う。うまくいかない人とも、うまくやれたらいいのにと思う。それは人間の許容範囲なのか、なんなのか。人としての余裕、なのかなんなのか。
人間らしさ、みたいなものをそこに嗅ぐのだ、わたしは。人はどうにもできないことをどうにかしたいと思うし、だからこそ足掻き、苦しむ。後ろ髪引かれ、後悔する。あの人と仲良くしたい、と。
超えてはいけないラインみたいなのが人にはそれぞれあって、それを興味と利益と優しさと妥協でバランスをとってる。理屈で遠ざけることほど簡単なことはなくて、でも感情はその度に置いてきぼりにされてて。
この、何十億もいる人間の中で、縁あって出逢った二人なのに。仲良くするかどうかを無意識に決めるのはなんだか変。かといって理屈で離れることを決めるのもなんか変。ぼくらは互いに惹かれあい、そして、いつか。
ぼくらは、みんなで友達になれるはず。興味も、利益も、優しさも、妥協も全部打っ棄って、ぼくらはうまくやれるはず。
甘え合い、許し合い、愛し合い、憎しみ合って、ぼくらは今日も生きてる。「人間らしさ」という輝きが、ぼくにはとても愛おしいのだ。
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