なぜいま「あなた」とチャットしたいのか。その3

 自分がチャットしたい理由を喚いたところで、そうできるわけではない。チャットは一人でするものではない。
 ひいては会話をしたいということなのだろうけど、それが病気的に適わないので、文明の利器に頼りたいということなのだと思う。わたしは会話を楽しみたいのだ。
 なぜこんな表明をするのかというと、チャットしたいという気持ちを考えることは会話したいということを考えることであり、それがしゃべることに直結するからだ。自分の気持ちを噛み砕きたいし、増幅させたい。自分の知っていることを知りたいし、知らせたい。笑いたいし笑わせたい。会話の機微を楽しみたい。
 情熱は情熱のあるところにしか花咲かない。簡単にしぼんでしまう。わたしに情熱があるのか自分ではわからないけど、わたしは自分で自分のことを何かある人間だと思ってる。少なくとも薪を持った人間だと。物事に前のめりにのめり込んでいく素養をもった人間だと思う。その準備をずっとしてきたのだと思う。病気で臥せっている頃から、早寝早起きして、ジョグ筋トレをして体力をつけて、文章を書いてきた。それは自分がそうしたいからそうしてきたに過ぎないのだけど。病人は普通そうはしない。客観的に見てそう思う。やや不遜だけど。
 もっともっと、と思ってる。わたしはわたしに火をつけてくれる人を待っているのかもしれない。あるいはこの灯火を誰かに渡したいのかも。火を点けてくれる人をただ待つよりも、あるいは渡す相手をただ待つよりも、自分から動いたほうが手っ取り早い。というか自分から動かないことには人と出会うことなんてまずないのだ。どんどん人と会って、トライアンドエラーで凹たれず、この人だ!と叫びたいのだと思う。そうすりゃいつか出会える。もう出会っているかもしれない。
 感化するのも感化されるのも、人間の作用として、すばらしいこと。一人では決してできないこと。その相づちが人生を変えるのだ。
 わたしは人の反応をずっと怖がっていたのかもしれない。自分が如何様かわかってしまうのが怖かったのだ。しかし晒さなければリトマス紙は反応しない。わたしという人間が存在することによって、会話というコミュニケーションを考えるきっかけになるはず。少なくともわたしは今こうして考えている。この安易で直接的な相互作用について。
 今の自分にはチャットでならそれができるのだ。「あなた」でなければならないのだ。わたしは会話したい。強くそう思っている。

 昨日までの文章も合わせてどうぞ。→
なぜ、いまチャットしたいのか
https://otona-to-kodomo.blogspot.com/2017/07/blog-post_27.html
なぜ「いま」チャットしたいのか。その2
https://otona-to-kodomo.blogspot.com/2017/07/blog-post_28.html

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