人の為にするということ。

 人の為に何かする、ということばが最近は目に付くようになった。自分がそういう方へいきたいのかもしれない。なんだかよくわからないけど、見返りを求めるというわけでもなく「ただやるということ」について考えつつある。わたしは今までに、人が人の為にやったその結果に影響されてきたことがあまりに多い。
 自己犠牲とか人類の発展とかはよくわからないけど。そもそも、何かするその相手がわたしの周りにはあまりいないのだけど。それはそういう人生を送ってきてしまったからだ。別に知ってる人とか親しい人でないと何かしてはいけないということもないだろう。迷惑でなければだけど。
 迷惑にならないことの線引きがわたしはうまくないのかもしれない。気持ちはあっても、うまくいかないことは多い。けっこう歯がゆい。「あなたの力になりたい」という気持ちを、どうやって人に効果的に伝えるか、って気を使うことで、難しい。
 あるいは、行動するということを躊躇しがちかもしれない。人と関わることをそもそも躊躇している感じがある。関わりたくない「かもしれない」人種があるのかもしれない。しかし、その考えは損だと思う。何かあれば、はっきりと拒絶することさえできたら、きっと問題にはならないし、うまく人とも渡り合えるのではないか。躊躇するってそこの躊躇なのだと思う、煎じ詰めれば。つまり、人を傷つけてしまうのではないか、という。
 人がどういう風に人と接しているのか、わたしにはもうわからないのだ。うまく人と関わる術を、持ってない。傷つけるのを躊躇するのなら、人を傷つけない方法を学んでいくしかないと思う。
 その人のためになることを考えて、行動するというのはとてもハードルが高い。その為にはその人を知らなくてはできないし、それはそれは深く知らなくてはならない。いま、なにをその人は求めていて、そして、自分にいまなにができるだろうと。相手を知ること、そして自分を知ることの両輪が回らなくてはならない。こういうことを人間力というのかもしれない。
 人のしてきたことに影響されなければ、永久に人は何もできないのではないか。わたしのすべては誰かの影響によって成り立っている。そのことの意味を? わたしが今できること。するべきこと。
 人との関わりにこそ、何かがあるのだと思う。こうして際立てて言わないといけないくらい、わたしは一人だったというわけなのだ。これからは違う。

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