幸せになるために生きているんだってことを忘れがち。

 幸せな気持ちになるために生きているんだってことを忘れがち。でも自分のする何もかもを自分が幸せな気持ちになるためにやってる人なんて、たぶんいない。幸せになるために人は生きているという命題はきっとなりたつ「はず」。幸せの形は人それぞれ違うし、幸せに向かって生きていく過程もみんな違う。蝶を追いかけているうちに頂上まで登る人もいれば、最初から山の頂上にいる人もある。あるいは道半ばで力尽きる人もあれば、自分から道を降りてしまう人もある。
 なにが自分にとっての幸せなのか、ってことにそもそも鈍感かもしれない。そして幸せな気持ちは摩耗するかもしれない。きのう幸せだったことは、今日はもう幸せでないかもしれない。それが幸せなんだと気がつくことなく通り過ぎてく人もいる。誰にとっても幸せなことなんてあり得ず、ある人の幸せは、またある人の親の仇かもしれない。
 いまが幸せなんだと、気がつくこと以上の幸せはないのかもしれない。どんな途上にいたとしても、いまが幸せなんだと思えるのなら、それが一番の幸せ。ハッタリでもデマカセでも感じたもん勝ちだと思う。牢獄には牢獄の幸せがあり、天国には天国の幸せがある。なにに幸せを見出すのかが、その人の幸せの感度を決める。幸せは摩耗し過剰になっていく性質がある。いい幸せというのがあるはず。
 蝉が鳴いて笑う人もあれば、蜘蛛が動いても五月蝿いと怒るだけの人もある。幸せになるために生きているんだってことを忘れないで欲しい。どの道も幸せの途上にある。怒りを撒き散らす先に幸せがあるのならそうすればいい。することがいつか幸せに向かうのならそうすればいい。
 世の中には幸せに向かっていると割り切れることばかりでなく、やらなくてはならないこと、せざるを得ないことも多い。「しかたないこと」をするくらいなら、わたしなんていなかったほうがいいのだと思ってしまう。人のためにすることだって、ひいては自分のためなのだと思う。本当にそう思ってる。人の笑顔はたしかにわたしの心を和ませる。それはわたしの幸せである。そうあるべきだ。
 なんで生きてるのかわからない人よ。生かされてしまっている人よ。幸せに敏感たれ。なにをしたら幸せなのか考えよ。広くを知り、深くを知り、よく考えよ。我らは幸せになるために生きているのだ。

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