ありきたりな文章

 「世の中は、アリキタリでできている」と言ってしまうのはある種の逃げなのかもしれない。アリキタリからの逸脱、特に過去の自分の書いたものからの逸脱をずっとできないでいるような気がする。自分の中のアリキタリがあってそれをずっとなぞっているだけのような気になっている。正確な統計はないけれど、たぶん7割くらいは以前書いたことの焼き直しでこの文章群はできていると思う。
 それはそれだけそのことを考えているのだとも言える。時のふるいにかけても、こぼれ落ちなかったものなのだと。何度も考えてしまうことこそ、わたしがやめられないことであって、それこそがわたしの核であると言えないこともない。被ってることが、わたしの思考の基本なのだと大見得を切ることも可能かもしれない。
 「アリキタリ」を「基本」だと言い換えることもできると思う。基本を知らなければそこからの発展もないのだろう。デタラメは出鱈目なのである。外すから発展なのであって、基本を知らない人間に応用はない。
 そういうことでいうと、わたしという人間の基本を知っている人にしか、応用は届かないことになってしまう。基本を示しつつ応用まで語ることができるほど字数に余裕があるわけではない。そういった能力もない。
 アリキタリに対する危惧とはなんなのだろう。当たり前すぎて読む気にならないということだろうか。以前読んだことならとてもアリキタリであるといえそう。世間の周知の事実であれば、わたしが書く理由などないのだと思う。わたしが書く理由があって、アリキタリでなく、なおかつ普遍性を持つというのはとても難しいことなのかもしれない。
 世の中はアリキタリにまみれてる。だからこそ、普遍性を持てるのだと思う。しかしすべての面でアリキタリなのではなく、だからこそ多くの人の鑑賞に耐えるものができるのではないか。誰にとってもすべての面でアリキタリでないものは誰の目にも止まらないと思われる。ある人が見たときにある面はアリキタリだけど、他の人からみたらアリキタリでない。またある人が見たら別の面がアリキタリで……というように世の中は構築されているのではないのだろうか、というアリキタリな考えでこの文章はおしまい。

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