にじんだ自分の輪郭を見つめる

 ぼくにも人並みに劣等感というものがある。たぶん誰にでもあるのだろうと思う。そうと意識してなかったり、可視化されてなかったりするにせよ。
 自分の劣等感と向き合うのってしんどいし、向き合わなくて済むなら、しないのが普通かもしれない。
 でも、ぼくは向き合いたい。
 それは弱めるとか、無くすとか、そういうことでなくて、向き合いたい。劣った部分でさえも自分で好きになりたいし、人に愛されたい。人に迷惑をかける欠陥なら治した方がいいと思うけれど、それでさえもその人をその人足らしめている一部分であるに違いないと思う。治そうとしても治らない、どうしようもないそんな部分を、ぼくは自分で愛したい。そこのところこそが、人の魅力であるとさえ思う。
 自分の劣等とどう向き合うのか。見て見ぬふりするわけでもなくて、きちんと把握して、それでもなお、それが特別でないかのように振る舞う。開き直るわけでもなく、受け入れる。そう生まれて、これまでこの身体、この精神で生きてきた、という誇りを持って生きている人は、とてもうつくしい、と思う。
 ぼくにとっての人間の魅力って、自分の劣等感といかに向き合っているか、なのだと思う。
 ジブリの高畑勲監督の映画『かぐや姫の物語』に、姫が容姿のことを言われて、劣等感を抱く、というシーンがある。もちろん優れているということを言われるのだけど、そのことに耐えられなくなって、姫は荒野に走り出してしまう。映画の中で特別なシーン。映画の創作だと思うのだけど、そのシーンで、わたしの感覚は引っ張り出されたように思う。容姿が優れていることに悩む姫君。その時「劣等感」について考えさせられたのだった。
 自分ときちんと向き合える人は、つよい。そういう人こそ、うつくしいってぼくは思う。
 他ならぬ自分という人間なのに、目を逸らす人は多い。だけど、人生のどこかで、向き合う時はかならず来る。多くは思春期の頃に。人と触れ合っていれば、自然とそういう機会は増える。そして触れ合い過ぎるとだんだんと摩耗してくるものだと思う。平気になってしまう。擦り切れてしまう。それでも自分と向き合っている人こそ、うつくしい。
 自分と向き合い続けることが、わたしをわたしたらしめているのだと思う。人との輪郭に自分はある。人といるとその輪郭はにじむ。いつまでもにじんだ自分と向き合い続けていたい。

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