書くことを極めたい

 やっぱり、書きたいんだと思う。書き続けたい。書くという表現を手放したくない。
 書くことを極めたい。極めてどうしたいのかって、どうしたいのだろう。
 おそらく、自分の思ってること考えてることを正確に伝えるためには、書くという方法が良いと思っているからだろう。唄を歌えるなら歌うし、指揮棒を振れるならそうするだろう。映画を撮れるならそうするし、写真を撮れるならそうする。詩を書けるならそうするし、文章を書けるのならそうする。そのくらいの理由なのだと思う。大して深い意味はない。
 今のわたしが文章をどれだけ正確に書けるのかわからない。そう大して厳密でもないって気がする。今までどうにでも解釈できることしか書いてこなかった。
 自分の思ってること考えてることを人に伝えるっておそらく、ここぞ!という時のためなのだと思う。それは渾身のラブレターかもしれないし、お礼状かもしれない。人を説得することがあるかも。感謝を伝えることがあるのかも。一つの文章で自分や大切な人の人生を変えることがあるかもしれない。
 そう思うのは、きっと自分がそういう目にあってきたからだ。文章によっていくたびもわたしの人生は変わってきた。小さな変化もあったし、大きな変化もあった。人生の節目に手紙はあったし、本はあったし、そこには文章があった。
 そういうものを書く日がいずれ必ず来るのだと思う。それは赤の他人を揺るがすほどのものでなくても、大切な人の、大切な時期の、大切な気持ちをほんの少し良い方に向かわせるものかもしれない。
 その時のために、ぼくは日々、文章を書いているのかも。これは予行練習だったんだ。きっと。
 核となる気持ちさえあれば、おそらく誰にだって文章は書ける。それを効果的に伝えられるかどうかは修練が必要だと思うけど、書くことはとりあえずできる。今のわたしがそうしているように。
 華やかな時には華やかな言葉、厳かな時には厳かな言葉、悼む時には悼む言葉、励ましの言葉には、相応の言葉があるように思う。
 書くことを極めたら、人に伝わるのだろうか、わたしの気持ちは。精密なる言葉は、精緻なまま人に伝わるのだろうか。銀のような熱伝導率で効果的に人に伝わる方法を会得したら、わたしは書くことを極めたといえるかもしれない。
 書き続ける。そして、読まれ続ける。そのような文章書きになる。

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