し尽しているという感覚

 何かをするとき、全力でやった、手を抜かなかった、という事実だけがわたしを救ってくれる。悔いを残さないためにはそうする以外にない。
 全力でやった感触を持ち続けるのはとても難しいことだ思う。休みを取ることはまた別なのではないかと想像してる。気を抜く時間もある。だけど、やる限りはやれることをし尽しているという自負がないと、どこかに後悔が残るのではないか。
 わたしはこれまでの人生で出来る限りのことをしてきただろうか。いつも精一杯していただろうか。抜くところは抜き、締めるところは締める、その塩梅が難しい。どこまでやったら、納得がいくのだろう。どこまでやったら、自信を持てるだろう。この世の中で自分以上にやったヤツはいないぞと堂々と言えるだろうか。どんな状況にあるにせよ、いま、目の前にあることを懸命にできているだろうか。あるいはできていただろうか。
 病気になったことは悔いようがないし、仕方ないことだと思っているけれど、病気になったことの態度や、そこから快復していく様に思うことはある。しかし、これ以上どうしようもなかったようにも思う。自分なりにうまく乗り切ったのではないか。
 それはもしかしたら、これから決まっていくのかもしれない。この先うまくいかなかったとしたら、過去の自分のせいにしてしまうのではないか。そうしてしまうとしたら、うまくいってなかったということなのではないか。過去の自分をうまくいったことにするためにも、いま現在の自分はいつもうまくやっていかないといけない。
 過去を悔いる手触りは、いろんなところに残ってる。あの時もこの時も、もっとやれたのではないか。今になってそう思うけれど、その時はそうする以外になかった。だってそうしたのだから。そのときに限界を求めていたか否かに関わらず、そうしていたのだから、どうしようもない。ただ受け入れるしかない。
 今わたしにできることは、今の自分を将来に後悔のないようにやっていくだけだ。そのつど全力でやる、手を抜かずにやる、ということでしかないと思う。後悔の手触りを感じないためにはそうする以外にない。
 し尽している感覚というのを、わたしは今感じているだろうか。手を抜いていないだろうか。限界を求めているだろうか。出来ることをしているだろうか。その感覚だけが、将来のわたしを救ってくれる。誇り高いものにしてくれるのだと思う。

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