自分のつくるものでうれしがるということ

 読んだもの、聴いたもの、観たものでうれしがるのでなくて、自分がつくったということでうれしがることができたら、どんなに心地いいだろう。そうすることができないのは、まずもって、わたしにその技術がないからで、技術がないのは意志がないからだ。意思によって研鑽された技術をもってしか、人は何かをつくることはできないだろう。つくったところで自分がうれしがるものなどできない。
 つくることで自分がうれしがるのと同様に、人をうれしがらせることができたらどんなによいだろうと、そう本気で思えたらどんなに素敵だろうと思う。人をうれしがらせることが、いまはわたしの喜びとはなっていないのだ。その気分はいろんなことにつながっていて、わたしにとっての社会的障害となっている。わたしにとって、何かをつくることだけが社会との接点ではない。たぶんつくらなくてもわたしは生きていけるだろう。人を喜ばせることはわたしが何かをつくるという意欲を掻き立てることにはならない。
 自分ひとりで何かをつくって、そしてうれしがるということ。そこに研鑽はあるのだろうか、琢磨はあるのだろうか、成長はあるのだろうか。
 人がいるから切磋しようと思えるのかもしれない。あの人を驚かせたいからつくるということもあるだろう。わたしは自分のつくりたいという欲望にどこまで忠実になれるのだろう。どこまで意思を貫けるのだろう。
 自分ひとりの世界で自分をうれしがらせるために何かをつくったとしても、人をうれしがらせることとはまた別なのだと思う。自己満足に何かをしたところで、評価されるわけではない。人から評価されるために何かをつくるわけでないとわたしは強がるかもしれないけれど、そうやってつくられたものには社会的意味は見出しにくい。
 自分のことばかり考えて生きてきた。個人的意味と社会的意味の狭間をわたしは行ったり来たりしている。
 人の為につくりたいと、どうして人は思うんだろう。わたしの人への愛しさが足りないってことなのか。わたしは本当に自分のことばかり考えて生きていた。このままでは、このままだろう。何かを変えなくてはならない。もっと人間を好きになったほうが良いって思う。人の為に何かしようと思えなければ、自分のために何かしようとも思えないような気がする。人の為に何かすることで、自分を活かすのだ。

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