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ブログ移行

これからは 美しい、君に見せなくては。 に書くことにしました。宜しくご贔屓に。

コンピューターゲーム ドント クライ

 ゲームを作る人たちのことを思ってる。特に黎明期にゲームを作っていた人たちのことを。開発者が子供の頃にはなかったコンピューターゲームを作るということ。コンピューターという魅惑的な代物に取り憑かれた人たち。今ある土台をこの人たちは作ったのだ。  僕たち子供はそれに夢中だった。間違いなく、夢中だった。誰もがゲームをしたことがあった。ゲームを話題にしたことがない子を探す方が困難だった。傑作も大傑作も、クソゲーも含めて、みんなゲームの虜だった。  彼らは仕掛け人であり、創造者だった。山師だったし、クリエーターでもあった。ゲームを通しての教育者であり、ゲーム内の法律家であった。彼らは革命家だった。  いちから文化を作るということの興奮を。作ったものを遊んだ人たちが笑顔になるという喜びを。  どうやったら遊びとして成立するのだろうか? どうやったらそれをする人を夢中にできるのだろうか? どうやったら致命的なバグをなくすことができるのか? これを作ることによって、やった人にどんな影響があるのだろうか、と考えない人がいただろうか? 考えていたと思いたい。彼らは自問を繰り返したに違いない。  そして戦っていたはずだ。社会と、会社と、上司と、同僚と、自分自身と。はたまた子供達の親と、あるいは子供たちと。  そういった自問や戦いを、彼らは誰に習うことなく、彼ら流にやったのだ。その戸惑いと楽しさに代わるものはもうない。その時だけのものだった。  とにかく良いものを作るという達成に、にじり寄っていくその過程は、ゲームそのものよりも面白い。僕はゲームに関する逸話を読むのが好きだ。今はゲームそのものよりも、それを作っていた人たちのことが気になってる。それは熱い時代だったんじゃないか。みんな燃えていたんじゃないか。とてつもなく面白かったんじゃないか。文化が燃え上がっていくその過程は、きっと、何よりも美しかったはずだ。  そんな時代を生きたかった。開発者としてその時を生きたかった。それはきっと、文化の初動についての憧れなのだ。

聖ヴァレンタインデーのそわそわについての一考察

 聖2月14日に女の子に連絡を取るのはなんだか気が引けてしまう。その女の子のことは何にも知らないけれど、その周辺の男の子に対して申し訳ない気持ちになる。僕なんかのためにこの女の子の時間を使わせてしまって、という感じ。そう思うくらいにはその相手を意識しているが、そう思うくらいにはどうでもいいということなのだろう。  連絡を取って返事が来なかったら、それはそれでお楽しみなんだな……と薄暗い気持ちにもなるし、そうでなくても時間を使わせてしまう罪悪感と、なんとなく意識してしまわなくもない気持ちが混在するのである。今日連絡を取らなくて済むのなら喜んでそうするが、そうしなければならないのが男のサガであり、それはちょっと気になっている子くらいが一番悩ましい。  男という生き物はヴァレンタインにこそ女の子と話したいのであり、そこには、あわよくば、という疚しい考えもあるのだろう。一説によればこの日にだけ女の子の方から告白してもよいという言い伝えさえあるので、あわよくば、となる男子は多い。  きっと、この罪悪感の正体は、そういうことなのだ。その子のその時間を独占してしまう申し訳なさなのだ。気持ちはどうあろうとも、時間を使わせてしまうということ。その気持ちが醸成されて、あわよくば、という妄想に男は走る。みんな走る。男にとって、ヴァレンタインほどそわそわする日はないのだ。  みんな心の何処かに、あわよくば、という気持ちを抱えている。「義理でしょー?」と言いつつ心の中には、一腹抱えている。そこには蒸留された罪悪感が存在し、それは妄想となって、布団の中を彷徨う。  ヴァレンタインにさえ女子と目の合わない男にも、ふた腹はあるだろう。みんなあわよくばと思っている。「どうせ俺になんて……」と思いつつ、スマホを引っ張り出してLINEのリストを眺めたりする。  女の子の方から誘惑される、かもしれない、という誠に男にとって都合のいいことが起こりうるこの日には、男の妄想は最高潮に達し、そして翌日には萎んでまたいつもの一日が始まる。  聖ヴァレンタインという魔・時空間の日付に女の子に自分のために時間を使わせてしまうことの罪悪感に比べたら、そしてそれを培養する無意義に比べたら、こうしてなんか意味ありげな妄想を連ねることの方が、よっぽど有意義だと私は思うわけです。

どう思われてもいいという開き直りと、その結果としての決別

 人生のある時点で出会った人たちに対して、どう思われてもいいや、と思ったことがあった。そして、どう思われてもいい代わりに、その人たちと関係を保つのは止そうと思ってた。  そういう類の開き直りは結果として自分を焼いた。とても焼いた。誤解が生じているとわかっているのにそれをなんとかしなかったことは、未来の自分=今の自分にものすごく影響を与えてる。簡単にいうと、そのことばかり考えてしまうことがある。誤解は宙に浮いたまま、僕の前を横切って行く。悔いばかりが残った。その齟齬を解いたとしても、あの頃の私たちには戻れず、いまの自分も報われるわけでもない。その時はあらゆる意味で「そのこと」がすべてだったのだから。  その人たちとはありとあらゆる誤解を交わしているような気になっているけど、というか整理することもままならないほど自分は気に病んでしまっていて、そしてそのことごとを了解する気にもなれない。  たぶん彼らは私が彼らの元を去った理由さえも誤解しているだろうし、もしかしたら、彼らの都合の良いように解釈していたかもしれない。  こんな風に考えてしまうことがもう、執着であって、そして悔いなのだ。こんな目に会うくらいなら、きちんと彼らの目を見て、きちんと関係を外すべきだった。結局は 私が自分の都合の良いようにしていただけだった。自分が自分のしたことを自覚するのがつらいから、手を抜いて簡略化して、そして開き直ってしまっただけだ。その結果として悲惨なことになった。  あの時にしっかりと心を開いていたら、全然違った結果になっていたかもしれないなぁとは思うし、そういう悔いも残ってしまった。誤解なんてなかったかもしれない。どう思われても良いことなんて何一つない。解けるなら解いたほうがいい。  もうあれから10年以上立って、僕も変わったし、彼らも変わっただろう。僕がこのことを悔いているのは、たぶん、今の自分がうまくいってないからだと思う。そのことの原因を探ろうとしている節がある。過去に原因を求めても、過去が悪かったというだけで、いまのダメさを強固・固定することにしかならない。そうすることで今の自分を肯定する要素なんてありそうにないのに。  自分に都合の良いように考えてるのだ、僕は、たぶん。そうしているうちは自分だけは正しくいられるから。そのことに気がついてしまったので、悔いているのだ

習慣をいかに手に入れるか

「自分を変える習慣力」という本の一部抜粋およびまとめです。友達との勉強会で作った資料をもとに書きました。  どうやったら習慣を作ることができるのか、ということが発端でこの本を読みました。本には、習慣を作っていく方法と、手に入れるとよい習慣そのものが書いてありますが、ここでは習慣をどうやったら手に入れることができるのか、ということをまとめます。 本当にしたいことはなんなのかを明確にする その習慣を手に入れたら、したいことは何なのか?  →そのしたいことができるようになったら、何をしたいのか?   →そのしたいことができるようになったら、、なんども繰り返し自問自答していく。 例えば、 朝早く起きる習慣を手にしたいとして、  自分の時間を持ちたいから→具体的に何をしたいのか  家族との時間を作るため→具体的に何をしたいのか ダイエットをするとして、  なぜ痩せたいのか→痩せてどうしたいのか? どうなりたいのか?  これを達成したとき、 ・どこにいるのか?  ・誰といるのか?  ・どんなことをしているのか?  ・その場で見えているものは何か?  ・どんな音が聞こえているか?  ・それをしているときどんな気持ちか?  ・そのときの体の感覚は?   など、五感を駆使して具体的にイメージすること。自分と向き合うことが大事。 無理せずひとつずつ習慣化する  意識してやることを無意識化したいので、なるべく意識すべきことは少ない方がいい。複数の習慣を一遍に手に入れようとしないこと。一つずつ習慣化していく方が良い。 知らない(意識していないし、できない) ↓ 知っている(意識しているが、できない) ↓ できる(意識して、できる) ↓ やってる(意識しないで、できる) 「やってる」レベルまで持っていくことを目指す。それが習慣化する、ということ。 潜在意識を変える  意識には、顕在意識と潜在意識とある。顕在意識は認識しやすいが、習慣を司るのは潜在意識の方である。無意識にできるようにする、ということはそういうこと。  例を挙げると、犬が怖い人は、一度犬に対して怖い思いが焼きつくと、どんな犬でも怖くなってしまう。  潜在意識は、安心安全を満たしつつ、徐々に変えていくとよい。 そのためには、 頑張りすぎないこと。  定期的に

太陽系第三惑星の代表者

 この文章は、宇宙人が来た時に、地球の代表であるかのように振る舞うであろうボクたちヒトという種族の驕りについての一考察である。 ***  宇宙人が来て、笛を吹くとともに起こりうること。昆虫たちは宙に向かって翔び立って行く。植物は意思を持って動きだし、すべての「動物」たちは宇宙語を操って宇宙に還って行く。  ヒトだけが地球に取り残される。  そこで自分たちの驕りに気がつくのだが、すでに生態系は崩れてしまっている。 ***  私たちは自分たちが優れていると決め込んでいるが、本当にそうであろうか。何を以って優れていると言えるだろう。鳥のように自由に自力では飛べず、鯨のように何キロも離れて交信することもできず、獰猛な肉食獣を前にして、素手では何もできない。  人間は道具を使い、火を使い、言葉を使う。これまで知恵を使って様々なものを創ってきた。それは文明と呼ばれうるものだろう。  だが、そのことだけで、ヒトが地球の代表としてふさわしいのだろうか。偉いヒトがいるのではなく、偉そうにしている人がいるというだけなのではないか。ここまで地球を我が物顔に扱ってきたヒトは、地球の代表者として本当にふさわしいのだろうか。  宇宙人にとっての魅力が、知性であるとは限らないのではないか。疾く走ることであったり、空を飛べたり、交配の単純性だったり、はたまた水棲生物であったり、あるいはそのサイズだったり。ヒトはその時、邪魔者扱いされる立場かもしれない。  ヒトほど複雑で扱いにくい種族もないのではないか。意思を持ち、言葉を操り、道具を使い、それぞれに傷つけあい、まとまることもない。自分たちに都合の良いように過ごす者ばかり。私たちは今日も愛がなんなのかを知らない。 ***  すべては、46億年前から、謀られていたのだ。翔び立って行く「ドウブツ」たち。  私たちは宇宙のなにがしかを解明しているわけでもなく、ここにいる「動物」たちについても、我々ヒトについても、そのほとんどを知らないままではないか。 ***  自分たちに都合良く考え、行動するヒトたちよ。  私たちは私たちなりに生きているというだけなのに、こんなところまで来てしまった。  この地球の代表者は、果たしてヒトであろうか? そんな資格をヒトが持っているとは、ボクにはとても思えないのだが。

自分に都合よく考える人 その三

  昨日 、 一昨日 の続き。  一刻も早く、自分だけの考えを進めていくことの心地よさから抜け出さなくてはならない。自分にだけ通用する文章を書いていても仕方ない。公開する意味は緊張感を持つというだけでなく、広く人の意見を仰ぐことにこそあるはず。なるべくいろんな人の意見を取り入れて、この文章群をより良いものにしていきたいと思ってる。それに、ただ自分はこうしていきたい、とだけ決意表明を書いたとしても、それはほとんど意味のないことだろう。  多視点思考をどうやって人は手に入れるのだろう。自分の考えをいかにして精査していったらいいのか。その繋がりは本当に確からしいのか、どうやって判断するのか。それで全てを言い尽くしていると、どうやってわかるんだろう。  考えに考えているとか、考えを尽くしている、というのは簡単だけど、実際にそれをするのはとてつもない労力を必要とする。一朝一夕にできることではない。試行錯誤の積み重ねでみなさんいろんな文章を書いているのだろうな、というのは想像に難くない。どこまで粘り強くそのことを考えることができるのか、ということなのか。それだけなのか。  自分の考えを進めていくことは心地がいい。その限りにおいては「正しい」からだ。一方自分の考えを否定されることはしんどい。自分を否定されたような気持ちになるから。自分の愚かさ至らなさを知ることになるからだ。自分の考えから一歩も出ずに考えを進めていくことは簡単だ。だけど、それはおそらく正しくはない。自分の考えに酔うことほど安易なことはない。ましてそれが間違っているのであれば、そんな愚かなことはないだろう。そして、それを否定する人がないことは、真の地獄である。  自分一人で、正しさを得ることはとてつもなく難しいことなのかもしれない。自分一人の世界観で、多視点を持つことは難しい。私は孤独に慣れてしまったし、それを心地いいとさえ思っている。自分の考えに酔っているのと同じように。いかに自分の中に他者を養うか、自分の考えを矯正する声を持つか、が一人で考えるのなら大事なのかもしれないなぁと思う。翻ってそれは、私の考えに実際に意見を言う人をいかに増やすか、なのではないか、と想像する。実際に現れた人のことを意識するだけで、その文章は変わる。それが的を得たものであれば。  そうやって、私たちの人生は作られているのではない

自分に都合よく考える人 その二

  昨日 の続き。  「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」というコピペが流行ったことがあったけど(余談だけど、このコピペの元はコミック『少女ファイト』である)、いま僕が不安に思っていることはまさにこういうことを読んだ人に思われているんじゃないか、ということだ。自分の考える正しさの範囲では正しいけれど、それだけで正しいとは必ずしも言えない。それは僕が愚かだからだ。そして、愚かでない人間などいないのだけど。  言葉の繋がりや意味の繋がり、あるいは論理の繋がり、接合性について僕の文章には曖昧な点が散見される。それは僕が心地良いように書いているからで、自分の中では成り立っているつもりで書いているが、実は接合できないところを無理やり繋げていることがあるのだと思う。それはつまり昨日の文章でいうところの、自分に都合のいい考えなのだと思う。  そういうことは自分の視野狭窄から来るかもしれないし、私の知っていることに限りがあることから来ているかもしれないし、例外を考慮しない愚かさが表れているのかもしれない。自分の考えの範囲でしか物事を考えておらず、そこから出ることもない。  何かの考えを書いたとして、そこにある条件で考える限りでは正しいっぽいけれど例外はいくらでもある場合、それを読んだ人は欲求不満になるだろう。都合がいいだけの文章であると思うかもしれない。そういう例外を網羅しないことには何か考えを書いたところで、私の中だけでしか通用しないものになる。  僕にとっては書くこと考えることは心地良いことだ。自分にとっては自分の考えは「常に」正しい。自分の中にある限りは。だけどそれがひとたび外に出ると、その正しさは途端に怪しいものとなる。自分の中で十分に咀嚼されていないからだと想像しているけど、どうなのだろう。一つひとつの言葉のつながりを精査していくことは結構しんどいことだ。自分の考えに酔っている場合は特に。自分の考えを揺るがす全てを除外したくなる。それが「正しい」としても。だけど、その除外したい気持ちを退けない限り、正しさにはたどり着けないだろう。  自分の考えに酔うことは簡単である。こんな風に文章にしたためて、表現する必要などなく、ただ自分の正しさに酔っていればいい。だ、け、ど、その考えはおそらくなんの役にも立たない。私は自分の考えや、文章を、きちんと社会の

自分に都合よく考える人

 自分に都合よく考える人、っていうのが身近にいて。自分にもそういう傾向があるので、今日はそのことについて考えたい。  それってたぶん、自分が全てだと思っているってことだ。大げさに言ったら自分が世界の中心にいるという感覚があるのかもしれない。自分で全てが完結すると思っていて、人の力を借りようともしないし、自分でなんとかしようとする傾向にある。自分でできると思っている。自分のことしか考えていないし、それはつまり自信過剰なのかもしれない。自分に自信を持っていると、自分に都合よく考えがちだ。自分の力でなんとかなると思い込んでいるのだ。本当に実行可能であれば、それは「都合のいい」というような言い方はしない。  しかし、これは当たり前のことだと断言したいけど、自分の力だけで生きていくことなんてできない。誰からも手を借りずに生きることなんてできやしない。自分のことだけを考えていると、とんでもないしっぺ返しを食らうことはわかりきっている。その生き方はどこかで破綻するだろう。  自分に都合よく考えてしまうことで、自分にはできないことも、できると思い込んでしまう。できることとできないことの区別がつかない。なんとかなるだろーと思い込んでいる。自分に都合がいい思考をするから、なんとなくというブラックボックスに物事を放り込んでおいて、なんとかなるだろうと思っているのかもしれない。でも、自分を把握せず努力なしになんとかなることなんてない。そういう思考の歪みや認知の歪みは、自分に自信があればあるほど増殖培養されてしまう。尊大な人はどんどん謙虚さを失っていく。そうやって、自分に都合のいい考えはその人の中でどんどん増大していき、周りの人が手をつけられなくなる。  自分の都合のいいように考えるとき、そこには欲望が働いている。健康でいたい、恋人ができるはずだ、結婚できるはずだ、子供ができるはずだ、住む家はいつも安泰にあるはずだ、したい仕事に就けるはずだ。そういう根も葉もない願望、欲望が働いて、自分の都合の良いように考えてしまうんだろう。夢見がちといってしまったらおしまいだけど、できもしないことをできるだろうと判断してしまうことほど無謀なことはなく、なんの努力もしないで自分の欲望を叶えようだなんて、ただ虫のいい話というだけなのだ。  いろんな人の立場に立って考えたり、行動できなければ、社会的生活

自分から魅力を損ねる人

 否定的にモノを表現する人にぼくは魅力を感じない。自分がそうしないように気をつけているけど、つまり魅力的でありたいと思っているわけだけど、自分のことを卑下して卑屈であると評することがある。「自分なんて」というわけである。そこにあるのは謙虚さではなく劣等感の塊としてそういう発言をしている。自分を否定することでその否定を引き出して、自分を肯定したいのかもしれない。そういう心持ちそのものが卑しいし、下品だと思う。  魅力的である自分を表現する方法ってたぶんいくらでもあって、人に役に立つこともあれば、自分を高めることだったりもするのだろう。否定的なことを言わない、人の嫌がることをしない、ということだってそういう表現の一つだ。そうやってみんな人に気を使ったり、努力したりして、「社会的に」生きている。  魅力的であり続けるべきだろうか、っていうことの答えはたぶんなくて、その人その人の状況によって、その規模も深さも変わるだろう。結婚して全てを受け入れられるという状況にある人は、そのほとんどの魅力を捨て去っているということだってある。  社会的に生きるのならば、なるべく魅力的であるべきだと思うわけだけど、何を魅力的であると考えるかも人それぞれ違っている。そうやってみんな自分の思う魅力を押し出して、あるいは押し出さずに生きている。  「自分なんて」と表現するときにぼくは、自分の魅力そっちのけで考えている。魅力的な自分を演出することさえないのに「自分なんて」と卑下している。そんなこと言う暇があったら魅力を高めることにいろんなリソースを費やして努力すればいいのに、卑下することによって自分の魅力を下げている。そのことの愚かさ。そういうことを薄々感じていて、なんだか卑屈な自分を気に食わなくなっている。  劣等感は抱いてしまうものだ。人を見て悔しいと思うこともあるだろう。でもそれを表現するかどうかは品性である。否定的にものごとを表現することほど自分の魅力を損ねることはない。魅力あって初めて人は社会的に生きることができるんじゃないか。依頼されるという魅力を備えているから仕事ができるし、そこに暮らし続けることができるだろう。  魅力のない人間はいないと個人的には思っているけれど、自分からそれを損ねている人はいるし、そんなに勿体無いことはないように思う。自戒を込めて。

沈黙と「君」

 僕は、病気でしゃべることができなかった。しゃべらないということを、どのくらい自分の理性を以ってできるのか僕にはわからないけれど、とにかく僕はしゃべることができなかった。僕にはしゃべりたい人もなかったし、まったく孤独だった。ほとんど笑うこともなく、ただ生きているだけだった。簡潔に言ってしまえば、いろんなことに絶望していた。 ***  でも、しゃべれるようになった。それはいろんなことを許せるようになったからだと思う。認めることができたからだ。受け入れることができたから。しゃべれなかったことが嘘みたいに当たり前のようにわたしはしゃべり、笑っている。 ***  君にしゃべりかけるということを、どのくらい理性でこらえることができるだろう。  君を抱きしめるということを、どのくらい理性でこらえることができるだろう。  君にキスすることを、どのくらい理性でこらえることができるだろう。  君に恋することを、どのくらい理性でこらえることができるだろう。  それらをこらえることはどれもわたしにはたぶん不可能だ。  もしそうしたいのだとしたら、それは病いだろう。 *** 「君」というブラックボックスを用意したなら。恋に恋い焦がれている高校生みたいなことを考えたなら。恋は素敵。こらえることのできないその厚かましさを、僕は愛する。「君」が許してくれるなら、しゃべりかけ、抱きしめて、キスする。 ***  病いのわけはきっと様々で。きっといろんな理由で人は口を閉ざしてしまうのだろう。  僕の絶望が病いだったように、わたしのいつかの恋も病いなのだ。  僕たちは恋してく。  わたしたちは病んでいく。  家族はできても、孤独はきっと癒えはしないだろう。  今日も独りの夜を、「君」とふたりで。