自分から魅力を損ねる人

 否定的にモノを表現する人にぼくは魅力を感じない。自分がそうしないように気をつけているけど、つまり魅力的でありたいと思っているわけだけど、自分のことを卑下して卑屈であると評することがある。「自分なんて」というわけである。そこにあるのは謙虚さではなく劣等感の塊としてそういう発言をしている。自分を否定することでその否定を引き出して、自分を肯定したいのかもしれない。そういう心持ちそのものが卑しいし、下品だと思う。
 魅力的である自分を表現する方法ってたぶんいくらでもあって、人に役に立つこともあれば、自分を高めることだったりもするのだろう。否定的なことを言わない、人の嫌がることをしない、ということだってそういう表現の一つだ。そうやってみんな人に気を使ったり、努力したりして、「社会的に」生きている。
 魅力的であり続けるべきだろうか、っていうことの答えはたぶんなくて、その人その人の状況によって、その規模も深さも変わるだろう。結婚して全てを受け入れられるという状況にある人は、そのほとんどの魅力を捨て去っているということだってある。
 社会的に生きるのならば、なるべく魅力的であるべきだと思うわけだけど、何を魅力的であると考えるかも人それぞれ違っている。そうやってみんな自分の思う魅力を押し出して、あるいは押し出さずに生きている。
 「自分なんて」と表現するときにぼくは、自分の魅力そっちのけで考えている。魅力的な自分を演出することさえないのに「自分なんて」と卑下している。そんなこと言う暇があったら魅力を高めることにいろんなリソースを費やして努力すればいいのに、卑下することによって自分の魅力を下げている。そのことの愚かさ。そういうことを薄々感じていて、なんだか卑屈な自分を気に食わなくなっている。
 劣等感は抱いてしまうものだ。人を見て悔しいと思うこともあるだろう。でもそれを表現するかどうかは品性である。否定的にものごとを表現することほど自分の魅力を損ねることはない。魅力あって初めて人は社会的に生きることができるんじゃないか。依頼されるという魅力を備えているから仕事ができるし、そこに暮らし続けることができるだろう。
 魅力のない人間はいないと個人的には思っているけれど、自分からそれを損ねている人はいるし、そんなに勿体無いことはないように思う。自戒を込めて。

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