自分に都合よく考える人 その三

 昨日一昨日の続き。
 一刻も早く、自分だけの考えを進めていくことの心地よさから抜け出さなくてはならない。自分にだけ通用する文章を書いていても仕方ない。公開する意味は緊張感を持つというだけでなく、広く人の意見を仰ぐことにこそあるはず。なるべくいろんな人の意見を取り入れて、この文章群をより良いものにしていきたいと思ってる。それに、ただ自分はこうしていきたい、とだけ決意表明を書いたとしても、それはほとんど意味のないことだろう。
 多視点思考をどうやって人は手に入れるのだろう。自分の考えをいかにして精査していったらいいのか。その繋がりは本当に確からしいのか、どうやって判断するのか。それで全てを言い尽くしていると、どうやってわかるんだろう。
 考えに考えているとか、考えを尽くしている、というのは簡単だけど、実際にそれをするのはとてつもない労力を必要とする。一朝一夕にできることではない。試行錯誤の積み重ねでみなさんいろんな文章を書いているのだろうな、というのは想像に難くない。どこまで粘り強くそのことを考えることができるのか、ということなのか。それだけなのか。
 自分の考えを進めていくことは心地がいい。その限りにおいては「正しい」からだ。一方自分の考えを否定されることはしんどい。自分を否定されたような気持ちになるから。自分の愚かさ至らなさを知ることになるからだ。自分の考えから一歩も出ずに考えを進めていくことは簡単だ。だけど、それはおそらく正しくはない。自分の考えに酔うことほど安易なことはない。ましてそれが間違っているのであれば、そんな愚かなことはないだろう。そして、それを否定する人がないことは、真の地獄である。
 自分一人で、正しさを得ることはとてつもなく難しいことなのかもしれない。自分一人の世界観で、多視点を持つことは難しい。私は孤独に慣れてしまったし、それを心地いいとさえ思っている。自分の考えに酔っているのと同じように。いかに自分の中に他者を養うか、自分の考えを矯正する声を持つか、が一人で考えるのなら大事なのかもしれないなぁと思う。翻ってそれは、私の考えに実際に意見を言う人をいかに増やすか、なのではないか、と想像する。実際に現れた人のことを意識するだけで、その文章は変わる。それが的を得たものであれば。
 そうやって、私たちの人生は作られているのではないかと最近つとに思う。
 思い込みをいかに外すか、ってことの答えはないけれど、いろんな視点で忍耐強く考えていくより仕方ないんじゃないかって、いまは思ってる。

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